ことりの台所

如月 凜

文字の大きさ
上 下
9 / 22

第八話 月子と西郷さん

しおりを挟む
十一月も半ばになり、朝晩はかなり冷え込むようになった。
 
朝陽も、夏に比べて随分と柔らかく透明感を抱くようになった津久茂島・風の丘地区。
 
まだ布団が恋しい。

今日は店の定休日だ。ゆっくり寝ていたって良いだろう。

いつもならそう思うが、今朝は駄目なのだ。

物がすっかり無くなった部屋を視線だけでぐるりと見渡し、気合いを入れて布団を捲り上げ、勢いのままに結露で濡れたカーテンと窓を全開にした。 

「ん?」
 
一階の屋根にあたる部分に、黒いシルエットがぽつんと。

絶妙に部屋の明かりが届かない所にいてよく見えないが、形からして猫だろうか。

あんなに高い所にいるのだ。犬というより、猫の方がしっくりくる。

「にゃーん」

試しに私が鳴いてみた。

だが相手はじっと動かず、私の渾身の猫の鳴き真似にも反応しない。

何か照らせるものは無いか。

引っ越し準備で荷物は昨日運び出してしまったので、部屋は見事に空っぽだ。

それにスマホを持たない私はライトすらも点けられない。

 もういいや。
 
諦めて窓を閉めようとしたときだった。影から、ぬらり、とそれが現れた。

「あ、やっぱり猫だ」
 
猫は気にもしていないのか表情一つ変えず、ひょいと部屋に飛び込んできたではないか。

「ちょっと、なに勝手に――」
 
猫はさっきまで私が寝ていた布団の真ん中に行儀よく座ると、今度はじっと私を見つめてきた。

しかし、だ。
なんて、なんて……。

「険しい顔の猫」

耐えきれず、頬の筋肉が緩んで吹き出した。

やや黒っぽい色も所々に交じったこげ茶色のその体は、よくイラストで見るしなやかな猫の身体というよりもでっぷりしている。

そして何よりあの顔。

なんて目つきの悪い猫だろう。

私だって愛嬌のある顔をしているとは言えないが、なんだろう。

あの悟りきった目というか、この世の中を達観したような、貫禄のある目。

それと、あの眉。

実際に猫に眉があるのか知らない。

ただの模様にも思えるが、黒くて太い筋がびしっと、半月型の目の上に乗っかっている。

あの顔どこかで見た事がある。何だっけ。

「って、こんな事してる場合じゃないのよ。もう行かなくちゃ」
 
ほら、おうちに帰りなさい。窓の向こうを指しながら猫に近寄るも、微動だにしないおでぶな猫。

私、これから店に行って荷解きしたりやる事があるの。言っても「へえ、そうかい」とでも言っているような目。目。目。なんてふてぶてしい。

「ああもう」
 
相手にしているだけ時間が勿体ない。

とりあえず布団を片付けるのは後にして、出かける準備を先に済ませることにした。
 
母はまだ寝ているようだ。

足音を立てないようにそっと階段を降り、洗面と歯磨きを済ませ、朝食用の卵焼きと味噌汁、昨日の残りの炊き込みご飯を解凍した。
 
朝食を済ませ、母に書置きを残した。
 
行ってきます。また家にも戻るから。店にもいつでも電話してね。
 
私がこの家で朝食をとるのは、一応最後になる。

時々は帰ってくることもあるだろうから、一応、だ。

母には今日は荷解きをする事は伝えてあるので、その辺の説明は無くても平気だ。
 
洗面所で髪をポニーテールにして(不器用な私はこれくらいしかできない)もう一度二階に戻る。

部屋のドアを開けて、声に出して肩を落とした。
 
猫が私の布団の上でくつろいでいる。
 
ダメダメ。とりあえず布団を片付けないと。

「んよいしょお」
 
重い。見た目通り、やっぱり重い。でっぷりしたぜい肉たっぷりの体で、私の腕にでれんと身を任せてくる。

部屋の隅に巨体を移動させてから布団を畳み、再び外に出るよう促すが全く動く気は無いらしい。
 
仕方なく、そのこげ茶色の塊を抱き上げて、家を出ることにした。

「はい。またね。ちゃんと飼い主さんの所に帰るのよ」
 
不満なのか、元々こんな顔なのか判別がつかない。ぶすっとした表情のその猫に別れを告げた。

寒い。
 
林道を抜け、遮るものの無い田園風景が広がる通りに出ると、吹き抜けた風が乾いた冷気を運んでくる。

もういつ買ったのかも覚えていない黒いコートに首まで埋めて、小さくなって歩く。

今何時くらいだろう。

薄い藍色の空が広がり、ぽつぽつと星が散らばっている。

星野地区はもっと凄いらしい。

小さな島なのだから行こうと思えば行けるが、ひとりでは行く気になれない。

隼人は起きてるかな。
 
流石に開店初日のように道端に寝転がって夜明けを待っているなんて姿は見なくなったが(こっそりやっているかもしれないが)隼人は意外と早起きらしい。

今日はちょっと早かったかな、なんて思いながら店に行っても、必ず隼人は着替えも済ませた状態で出迎えてくれる。

そういえば今日から裏山の麓にある小屋で寝るそうだが、大丈夫なのだろうか。
 
森を抜けて、店が見えた。

葉が落ちてすっかり冬の装いとなったケヤキが、朝焼けの空を透かして佇んでいた。

ガラガラガラ
 
そっと開けたはずなのに、必要以上に音が鳴る玄関の引き戸を開けると同時に、居間へのガラス戸が開いた。

「おっ、おはよーさん。休みなんだからゆっくり来たら良かったのに」

「もう起きてたの。私は荷解きしないと――なに?」
 
隼人がじっと見てくる。

「お客さん?」

「え?」
 
どうやら隼人の視線は私の顔ではなく、肩の更に向こう。

私の背中側を指さすので、振り返ったが誰もいない――が、よく見ると玄関前の庭にでっぷりとした姿が。

「あれっ、ちょっといつの間に」
 
さっきのおでぶ猫だ。相変わらずの険しく厳つい顔で私たちを見ている。

 ぶにゃあ。
 
おおあくび。

なんだろう、顔つきに対して緊張感の無さすぎる空気感は。

「今朝、私の部屋に入って来たの。外に出したんだけど、着いてきちゃったみたい。どこの猫だろ」

「野良猫じゃね?首輪してないじゃん」
 
本当に?この体系はどう見ても誰かに餌を貰っているようにしか見えないけれど。
 
隼人はサンダルを履いて玄関を出ると「おーい、おいで。ほら、こっちこっち」と呼び寄せる。

警戒心のまるでない猫はのそりのそりと隼人の膝に身体をこすり付けると、気持ちよさそうに撫でられている。

伏せの状態から、更に身体を伸ばして――ああ、へそまで見せちゃって。完全に手なずけられている。

「あ、隼人」
 
猫の様子に気を取られている間に、店を囲っている柵の傍に誰か立っているではないか。

白いロングコートのおかっぱの女性は、頭にも白い毛糸の帽子を乗せている。

「おはようございます」
 
隼人が挨拶したのに続いて、私も会釈をする。

だが女性はじっと猫を見つめたまま、手袋をはめた人差し指をすうっと向けてきた。

「見つけた」

かろうじて聞こえるような小さい声。

「ん?」

隼人が聞き返すと、女性は伸ばした手を胸の前に戻して小さな拳を作った。

まるで勇気でも振り絞るみたいに。

「西郷さん」

西郷さん?
 
心の中で復唱して、ハッとした。

そうだ、この顔。社会の教科書で見た。西郷隆盛だ。

え、西郷さんってもしかして猫の名前?この猫が、西郷さん。西郷さん――。

 
思わず笑いがこみ上げそうになって、咄嗟に口元を隠して誤魔化す。
驚いただけです、という感じで。

「この猫、西郷さんって言うんだ。君が飼い主?」

隼人がおでぶ猫――西郷さんの背中を撫でながら訊ねたが、立ち止まった女性はしばらく黙ったまま返事をしない。

ぼんやりと西郷さんを見下ろし、隼人に、そして私、店の外観を見上げて、ようやく口を開いた。

「朝ごはん、食べれる?」



女性は私たちと同じ歳くらいだろうか。

この島は高齢者ばかりだと思っていたが、意外と年齢の近い人もいるようだ。

同級生の浩二君や、30代の戸波さん――といっても戸波さんは母曰く移住者らしいが。

まだ若い人がいたなんて知らなかった。

「お茶、ここに置いておきますね。湯呑み、熱いので気を付けてくださいね」
 
縁側に近いテーブルにお茶とお絞りを置く私をちらりと横目で見て小さく頷いた彼女は、隼人に促されるままコートと帽子を脱いだ。

「あ――」
 
声を上げた私に、二人の視線が注がれる。

「どした?」
 
隼人に合わせるように、女性も小首を傾げる。

「い、いえ、すみません。えっと……以前、というか春頃、私がこの島に来た時の船でお会いしたかなと思いまして」
 
そうだ。彼女は多分、甲板で戸波さんに付き添われていた女性だ。

船酔いしていたのか、項垂れていた人。あのおかっぱに見覚えがある。
 
女性は、そうだっけ、ともう一度首を傾げた。

「久しぶりに船に乗って気持ち悪かったから。覚えてない」

「そうですよね。だいぶ辛そうでしたから」
 
あはは、と笑ってその場を誤魔化して台所にひっこんだ。

上手く会話が繋げられない私と物静かな彼女は、ものすごく相性は悪そうだ。

土鍋はまだまだ温かい。恐らく隼人が朝食用にでも炊いていたものだろう。

今日は定休日なのだ。

私はもちろん断るつもりだったが、隼人はあまりにも軽い口調で「良いですよ。中もストーブ点けたばっかりで暖まってないですけど、どうぞ」と招き入れてしまったのだ。

通常でも開店時間ですらない。

「このテーブル、こたつの機能あるんで使えるようにしたいんですよねえ。近いうちにこたつ布団を買いに行かないと」
 
居間から隼人の軽口が聞こえてきて、ため息が漏れた。どうするつもりなのだ。

メニューも何も決まってないのに。

「実は今日休みで、メニューも何も決まってないんですよね」
 
そうだ。その通りだ。

それに対する女性の声は聞こえてこない。

私は流しの前に突っ立ったまま二人のやりとり――女性は全然喋る様子が無いので、主に隼人の言葉に聞き耳を立てる。

「ネギ丼」
 
女性がぽつりと呟いた。

ネギ丼?ネギ丼って、ご飯にネギ乗せたやつってこと?

「ネギ丼って、刻んだネギが乗ったやつって事ですか?他の具とか味付けとかは?」

うまい具合に、隼人が私の心の声を代弁する。

「ネギだけ。それを山盛りにして欲しいの。味付けは醤油。できたら真ん中に卵黄を乗せて欲しい。あと……」
 
少し間が空いて、ゆっくりと言葉を続けた。

「ネギと豆腐のお味噌汁。ここのお味噌汁、美味しいって聞いたから」
 
味噌汁ならすぐできる。本当にそれだけで良いのだろうか。
裏の畑は、まだ野菜たちが芽を出して間もない。

もちろん仕入れなんて無いし、冷蔵庫の中身は昨日の残り物しかない。
 
いけない、そんなことを考えている場合じゃなかった。

在庫のネギをかき集め、無心に小口切りにしていく。

目が痛い。

こんなにもネギを切る事なんて、そうあることじゃない。

ツネさんのお弁当屋以来だろうか。

まな板に山盛りになっていくネギ。ああ、楽しい。
 
鰹節で出汁を取り、豆腐をサイコロ状に切り分け、麦味噌を溶く。

もくもくと雲のように味噌が溶けていくと、ふわりと麦の良い香りが沸き立つ。

山盛りネギの一部を味噌汁に入れて完成だ。

あとは、残りの大量ネギを丼のご飯の上にどさりと。

まんなかを丸く開けて、ぷるん、と艶のある卵黄を乗せた。

醤油は好きな量をかけてもらった方が良いだろう。

お絞りとお箸を添えて、気持ち程度ではあるが、たくあんも小鉢に入れておいた。

「お待たせしました」
 
女性の前にネギ丼と醤油さし、味噌汁と小鉢を並べていく。

「いただきます」
 
ずっと無表情だった女性の頬が僅かに緩んで、目元の力が抜けたように見えた。

「ごゆっくりどうぞ」
 
お盆を手に台所に戻ると、いつの間にか隼人が洗い物に取りかかっていた。

「ありがとう」

「良いの、良いの。ほら、縁側で休んでたら?俺も終わったら行くから」

居間に戻ると女性は丼を抱えこみ、小さな口を大きく限界だと思われるところまで広げてネギまみれのご飯を頬張った。

白い頬が丸く膨らみ、もぐもぐ、もぐもぐ。なんて美味しそうに食べる人だろう。

「ぶにゃあ」

もうずっとここに住んでいましたけど、とでも言うような堂々としたくつろぎっぷりで大あくびをする西郷さんが、隣に腰を下ろす私をめんどくさそうに見上げた。

前足に顎を乗せたその顔は、顎周りのぜい肉に押されて、目元が横線になっている。

「お、良いねえ。くつろいでんじゃん」
 
台所の暖簾を潜って出てきた隼人がもまた、西郷さんを挟んで隣に座った。

肘までまくり上げた袖から、筋張った筋肉質な腕が見えて、私はそっと視線を背中側に逸らす。

今日も相変わらず妙なシャツだ。

 能天気男

有名な書道家が書いたのかと思うくらい力強い達筆な文字の、気の抜けた言葉。

能天気男。自分の事をよくわかっていらっしゃるようで。

「ん、なに?」
 
笑ってんじゃん。隼人に顔を指をさされて、咄嗟に頬を抑えた。

「いや、えっと、相変わらず変わったシャツだなあって」

「だろ?良いセンスしてるわ。あ、ことりも欲しい?あげようか」
 
あはは、大丈夫。
 
食い気味に言ったのに「大丈夫」を「欲しい」に変換してしまうのだから、この男は困ったものだ。

改めて「大丈夫、貰わなくて」と断ったら、えー、そっかあ、とちょっと口を尖らさせたのは不満という事か。

ことりの台所。おかしなシャツを着た男女が出迎えてきたら、いよいよ本当に島中の人から変な若者だと思われるかもしれない。

そうなれば、チョーさんやその周辺の人たちどころじゃなくなってしまう。

「それ、好きなの?」
 
振り返ると、ちょうど食事を終えたらしい女性が、手を合わせて「ごちそうさまでした」と小さくお辞儀をした。

「そう、めっちゃ気に入ってるんですよ。良くないですか?しかもこの店、新作が頻繁に出るんで、店に行くたびに面白いのが入ってるんすよ」
 
興味を持ってもらって嬉しいのか、興奮しすぎて「~すよ」が出ている。

見ると、鼻の穴まで膨らんで、無邪気な子供そのものだ。

私は一度台所にお盆を取りに行き、女性の食器を下げた。

隼人はちょっと待っててくださいと廊下に出ると、正面の部屋の襖を勢いよく開ける。

「見てください、ほら。こういうのもあるんっす。俺的には、こっちも良いんすよね。のんびりしてるって言うか、俺の人生観にぴったりって言うか。いや、違うなあ。俺の人生観っていうか、俺の憧れる人生観にぴったりって感じっすね」
 
床一面にシャツを並べられ、一方的にマシンガントークを繰り広げる隼人の話を、女性は長いまつ毛の目をぱちくりさせながら静かに聞いている。

いや、聞いているのか?ひいてない?大丈夫?

「嬉しい」
 
隼人の熱弁の僅かな隙間で、ぽつりと呟いた。

「この店の服、デザインは私が考えてるから」

「まじで!」
 
隼人の素っ頓狂な声が、古民家中に響き渡った。



「いやあ、色々話を聞けて楽しかったです。月子さん、ゆっくりしてってください」
 
クーラーボックスと釣り竿、大きなショルダーバッグの紐に頭を通した隼人が家を出て行ったのは、十時を過ぎた頃だった。
 
まさか休みの日にお客さんが来るとは思わなかったので、戸波さん親子と田所さんと釣りの約束をしていたらしい。

女性――月子さんは、縁側で西郷さんを膝に乗せて、貫禄のあるこげ茶の背中を撫でている。
 
帰る様子の無い月子さんと取り残されてしまった。

最初こそ不安と焦りに襲われたものの、月子さんは会話が無くても気にしていないようだ。

大抵はこうなるとお互いが気まずさを紛らわす為に、意味も無い天気の話をしてみては、また妙な沈黙が生まれて、愛想笑いをしながら特に興味も無いことを延々と話したりするものだ。

彼女にはそれが無い。

隣に黙って座っていても、ぼんやり好きな事をしていても、彼女自身が周囲に興味が無いみたいに気にする様子も無い。

その証拠に、私が足元に生えていた雑草を抜いていても、恐る恐る穴の開いた靴下を不器用なりに縫っていても、ちらりとも見てこない。

「あったかい」
 
遠くを走る微かな電車の音が聞こえる静かな空間に、のんびりした口調で呟いた。

「そうですね。今日は十一月にしては暖かいかも。ここは日当たりも良いですし」
 
私が答えると、西郷さんを撫でていた手が止まり、眠たそうに目を細めた。

西郷さんはというと、さっきからずっと丸々とした大きなお尻をこちらに向けている。

垂れた尻尾が、時折、ご機嫌に左右に揺れている。

「太陽も暖かいけど、ちがう」
 
月子の目がゆっくり開いて、こちらを向いいたかと思うと、その視線は天井、縁側、居間、台所、廊下。また居間を通って私で止まった。

「この場所が温かいの。家の雰囲気が凄く落ち着く」

「あ、ありがとうございます」

「良い場所見つけられて良かった。西郷さんも幸せになれると思う」

 え?
 
月子は、よいしょ、と膝から西郷さんを下ろすと立ち上がった。

壁に掛けていたアンティーク風のショルダーバッグを斜めに掛け、入り口の長押に掛けていたハンガーから白いロングコートと帽子を手に取ると、丁寧過ぎるほど深々とお辞儀した。

「ごちそうさまでした」

「あの、西郷さんは……」

「あの子は野良猫なの。島中のみんなに可愛がって貰ってるけど。いつもどこにいるのかわからない風来坊で」
 
玄関で靴を履いた月子さんが、縁側で寝そべる西郷さんを見て薄く笑う。

「飽きたらどこかに行くと思う。あ――」
 
何かに気付いたように、月子さんが玄関を出た。

バイクだ。大型バイクのエンジン音が森を抜けて迫って来る。

道の向こうからやって来たバイクが庭の前で停まった。

平穏な空気を一瞬で破るような、身長も二メートル近くある大男だ。

黒いフルフェイスのヘルメットを被ったまま、大股で闊歩してきたではないか。

咄嗟に月子さんの腕を引っ張って玄関に戻そうとして、空を掴んだ。

月子が大男に向かって駆け出したのだ。

「マリーさん、この店知ってたの?」
 
マリーさん?マリーさんって、あの人、男じゃないの。
 
月子さんがマリーさんと呼んだその人が、私の頭をも鷲掴みできそうな大きな手でヘルメットを持ち上げた。

「ま、まりーさん」
 
思わず声がひっくり返った。

「どうもお、マリーですぅ。やぁだ、良い店じゃなあい。よそ者だとかうだうだ言ってる噂を小耳に挟んでたから、どんな所かと思ったら~」
 
いちいち間延びしたような口調で大男――マリーさんが私と店を交互に見やる。

チョーさんよりも更に大きい人が、この島にいたなんて。

「この人は星崎真里央。まりおだから、マリーさん。見ての通りの人」

「やだ月ちゃん。本名で紹介しちゃ駄目よ。ほんと、正直者なんだから。迎えに来てあげたってのに、ひどい仕打ちねえ」

「迎えに来てくれたの?」

「そうよぉ。あんたが昨日の夜から見当たらないって、父親が怒鳴り込みに来たの。過保護な親は困ったもんよ。相変わらず、うるさいったらありゃしない。あんたも二十六歳だっての、わかってないのねえ」

「あれ、同じ歳なんだ」
 
うっかり話に割って入った私に、二人の視線が集まる。

「あ、ご、ごめんなさい。私、中学はこっちだったの」
 
まあ同じクラスにいたって、たとえ女子の名前でも覚えていないかもしれないけれど。

浩二君の事も、文化祭で一緒の舞台に立っても記憶に無かったのだ。
 
月子さんは「あぁ」と、ぼんやりした表情のまま首を傾げた。

「私、引きこもりだったから」
 
気にもしていないように言うと、マリーさんが

「せっかく島を出たのにまた帰ってきちゃうんだから。そんなにあたしに会いたいなんて、可愛い子よねえ」

と分厚い真っ赤な唇を尖らせ、瞬きをするたびに風が起きそうな付けまつげの瞼を上下させた。

「とまあ、月ちゃんを迎えに来たのもあるんだけど。これ」
 
マリーさんが背負っていたらしいリュックから(体の横幅が大きすぎてリュックの存在に気付かなかった)瓶入りの牛乳を取り出した。

「営業に来たのよ」



座布団に正座し、グラスに牛乳を注ぎ入れる。

マリーさんの視線が、私の緊張をより強くさせる。

一挙手一投足を監視されているようで気が気じゃない。

勘弁してほしい。隼人がいてくれたら、どれほど気楽だっただろう。

「い、ただきます」

「どうぞ」
 
うふん、と語尾に付きそうなマリーさんに、一度軽く会釈してから、グラスの縁に口を付けて、傾けた。

「お……」

「お?」
マリーさんがテーブルに身を乗り出す。

「おぉ?」
その隣で足を崩して座っていた月子さんが首を傾げると、さらり、とおかっぱが彼女の細い肩を撫でる。

「美味しいですっ」

「あら、おっほぉ」
 
変な声を出しながら、マリーさんが両手で口元を抑えて飛び上がった。
 
濃厚な牛乳は甘みがあり、それでいて後味はすっきりしている。

私は牛乳を飲んだ後、口の中に残るのが苦手で、牛乳そのものを飲み物として飲むことは少なかった。

だから少し躊躇する部分もあったのだが、これはそんな私の中の価値観をがらっと変えてしまうようなものだった。

「じつはもう一本持ってんのよ。ここ、もう一人働いてるんでしょ?その子にも飲ませてあげてよ」
 
どすん、と効果音が出そうな、大きな牛乳瓶がリュックから出てきた。

「その子も気に入ってくれたら、うちから牛乳買わない?もちろん、宅配もするからさ。その代わり、この子と仲良くしてやって欲しいのよぉ」

「マリーさん、そんな事のために来たの?」
 
太い丸太みたいな腕を肩に回された月子さんが、呆れた目で見上げる。

「違うわよぉ。それは、ついでの話。メインは商売に決まってんじゃない」

月子さんが先に玄関を出ると、私に顔を寄せ「よろしくね」と耳打ちした。

頷くと、マリーさんは上機嫌で「今度はお客さんとして遊びに来るわあ」と月子さんと帰って行った。



「うんまっ」
 
釣りから帰った隼人が、牛乳を一気飲みした第一声。

口の周りに、漫画みたいに白い髭を作って目を見張った。

「うちで使おうぜ。断る理由は無いじゃん」

「そうだね。変な人だったけど」
 
台所でクーラーボックスを開け「俺も会いたかったなあ」と釣って来たイワシをまな板に乗せた。

「あんな美味い牛乳を出す牛を育てる人なんだぜ。すげえ良い人だと思うよ」
 
会ったことも無いのに自信満々で言う。
でも隼人が言うと、そうなのかも、と思ってしまうのだから不思議だ。

「そういえば荷解き終わった?」

しまった。

「まだだった……」

時刻は四時。

あんなに澄んだ青い秋空だったが、今はもうすっかり赤みを帯びた黄金色に染まっている。

「夕飯は俺が作るから、今のうちにやってきたら?」

「できるの?」

隼人は背を向けたまま、包丁を持った右腕でガッツポーズを作り、左手にメモ用紙をひらひらさせている。

「戸波さんちで田所さんに教えてもらったから任せろ」

妙に頼もしい言いっぷりに「じゃあお願いします」と台所を出た。

 ふすん。ふすん。
 
さっきから庭を飛び回るトンボでも見ながら眠くなったのだろうか。

西郷さんの気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。

「もしかして、ここに住むつもりじゃないよね」

無防備すぎる背中に問いかけてみたが、返って来るのは寝息のみ。

まあ、いっか。

 リリリ リリリ

庭のどこかでコオロギが鳴いていた。
 
頬が緩むのを感じながら、廊下の向こうにある和室の襖を開けた。

しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

危険な森で目指せ快適異世界生活!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7,724pt お気に入り:4,142

異世界バーテンダー。冒険者が副業で、バーテンダーが本業ですので、お間違いなく。

Gai
ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:9,982pt お気に入り:357

日本酒バー「はなやぎ」のおみちびき

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:484pt お気に入り:16

異種族キャンプで全力スローライフを執行する……予定!

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:2,989pt お気に入り:4,747

処理中です...