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第一章 異端
2 コードイエロー
しおりを挟む「それでは、道すがら施設を少し案内しますね」
踵を返し、王永雄がゆっくりと歩き出す。羅深思は彼の少し後ろを歩きながら、さり気なく横の白い壁に視線を向けた。
真新しいその壁は特殊な素材でできているのか、ガラスのように廊下の景色を反射している。うっすらと映った自分の顔が少し強張っていることに気付いた羅深思は、緊張をほぐそうと大きく息を吸い込んだ。
ところが、彼が息を吐き出す前に王永雄が肩越しに振り返った。
「着いたばかりで不安でしょう。質問があれば今のうちにどうぞ」
まるで心を見透かしたかのような言葉に、鼓動がどきりと跳ねる。羅深思はゆっくりと息を吐き出しながら心を落ち着かせると、少し考えてから「あの……」と躊躇いがちに口を開いた。
「頂いた資料が少なかったのですが……」
手元に送られてきたのは、センチネルとガイドの顔と名前、能力が記載された資料だけだ。これから両者の不和を解消するために動かなければならないのに、あまりにも情報が少なすぎる。
すると、王永雄は穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「ああ、君を試そうと思いまして」
驚きのあまり、羅深思は声も出せずに固まった。遠路はるばる呼び出されてきて、早々に実力を試される事態になるとは思ってもみなかったのだ。
緊張が顔に出ていたのか、王永雄がくすりと笑みを漏らす。
「そんなに構えないでください。まだ事態はそこまで深刻ではありませんよ」
どこか冗談めかした口調に、羅深思はあはは、と空笑いした。王永雄の胡散臭い笑顔は、何が本当で何が冗談なのか分からなくさせる。
「一つ、私からお願いが……あなたがセンチネルだということは内密にお願いします」
「……それって大丈夫なんですか? ただでさえガイドに対して警戒しているのに。それに、バレた時に騒ぎになるんじゃ……」
「だからこそ、ですよ。彼らには、なるべくガイドに良い印象を持っていただきたいので。情報は機密扱いにしますのでご安心を」
騙しているようで腑に落ちないものの、羅深思は彼に意見するだけの権限を持ち合わせていない。
どうすべきか考えたものの、彼は結局ぐっと不満を飲み込み、黙って頷いた。ここへ来た目的は、不幸な目に遭うセンチネルを減らすためだ。初日から上層部と揉めている場合ではない。
「ところで羅深思、君は国内のガイドとセンチネルの割合を知っていますか?」
「ガイドが三にセンチネルが七ですよね。ただ、自己申告していない潜在ガイドはもっといると聞きますけど」
「よくご存知ですね! その通りです。調律を必要とするセンチネルと違って、ガイドは一般人とそう変わりません。なので、見つけるのが難しく、数も少ないんです。特に上海であった事件の後からは、よりガイドの自己申告数が減ってしまって……」
王永雄の何気ない言葉が、羅深思の心に暗い影を落とす。
「あれは嫌な事件でしたね」
今から三年前、上海にある大型ショッピングモールで暴走したセンチネルによる大事故が発生したのだ。大勢が亡くなり、未だ歴史に名を残す大事件として語り継がれている。
「そうですね。うちみたいな機関には特に……君もあの動画を?」
「はい。話題になっていましたから」
メディアの規制があったにも拘らず、事故当時の動画がネット上に拡散されたのだ。人々が逃げ惑う広いフードコート、巨大な渦の中心にいた赤い目をした青年──。羅深思は、溢れ出す力の渦に飲まれ、恐怖に引き攣った青年の顔が今でも忘れられないでいた。
件のセンチネルは顔見知りだったのだ。センチネル犯罪に対抗する隊員として故郷を旅立った彼とは、家も近かったので何度か言葉を交わしたこともある。
「あんな大事故、こまめな調律さえしていれば滅多に起こるものではないんですけどね。ガイドは死の危険がある仕事として認識されてしまって、集まりが悪いんです」
王永雄の言葉は表面上は悲しげだったが、終始白々しく聞こえた。まるで何かを隠しているような──。
「不和の原因はそれですか?」
「まあ、大まかな原因ではありますね。ガイドとセンチネルの扱いの差は、ここでもありますから」
羅深思がいた上海の研究所でも、やはりセンチネルよりもガイドを重要視していたのだ。そしてセンチネルの中から、当然扱いの差に不満を抱く声が出てくる。
「大まかな、と言うと?」
「ほら、ガイドによるゆすりやたかりの話を聞いたことありませんか? それと、ちょっと厄介な子がいまして……ここに来てから、まだ一度も調律を受けていないんですよ」
ガイドの調律を拒否するセンチネルは存在しないわけではないが、大抵は止むを得ず受けている。そうしなければ、自分自身の命が危ないと分かっているからだ。
話を聞いた羅深思はどこか腑に落ちない気持ちになる。普通は、そうなる前に施設側で何か対策をするものではないだろうか。
「その子、大丈夫なんですか?」
「だから君を呼んだんですよ」
笑い事ではないはずなのに、王永雄の唇は緩く弧を描いていた。のらりくらりと確信を避けるような物言いも相まって、羅深思の中で不信感は一層強くなった。
やはり、この施設長を名乗る男はどこか怪しい。赴任初日だというのに、羅深思はどうにも嫌な予感がした。
二人がちょうど曲がり角に差し掛かったそのとき、不意に廊下の静寂を破り、けたたましい警報が鳴り響いた。
「コードイエローが発令しました。ガイドは至急、センチネル訓練場へ向かってください」
廊下に響くアナウンスの声に、羅深思はハッとする。ガイドが必要ということは、センチネルの誰かが暴走状態にあるに違いない。
「王施設長、訓練場はどこですか?」
「角を曲がってすぐです。急ぎましょう」
けたたましく響く警報の中、二人は走り出した。真っ白い廊下を駆けていくと、今までどこにいたのだろうか、次第に人の数が増えてくる。
そのほとんどは白衣を着た研究員らしき人たちだったが、中には迷彩柄の軍服を着た男たちの姿もあった。彼らは一様に不安そうな顔をしながら訓練場と書かれた大きな扉の前に屯していて、中に入るのを躊躇っているようだ。
その時、遠くから施設長の姿を見つけた白衣の男が駆け寄ってくる。
「王施設長! ちょうどいい所に……」
「道を開けてください! ガイドを連れて来ました」
そのガイドとは、もちろん羅深思のことだろう。周囲の人間が一斉に自分へと集まり、彼はごくりと唾を呑んだ。
ガイドの代わりとして場数を踏んではいるものの、やはり新しい場所での仕事は緊張してしまう。
先行した王永雄が大きな扉を押し開けると、まるで宇宙空間のような光景が飛び込んできた。
ふわふわと宙に浮く白衣を着た人々の中に、白いジャンパーを着た年若い男女が混ざっている。悲鳴は警報に掻き消され、彼らは恐怖に顔を強張らせながらも両手をじたばたさせていた。
念能力を持つセンチネルの仕業なのは間違いない。しかし、羅深思はここまで力のあるセンチネルには出会ったことがなかった。
王永雄が中へ入ろうとしたので、羅深思は慌てて彼の腕を掴んだ。
「施設長はここで待っていてください。能力が解除されるまで、誰も入らないようにお願いします」
センチネルの能力が及ぶ範囲というのは、実はある程度決まっている。大抵は自分の認識できる範囲までだ。現に、念能力が及んでいるのは扉の向こう側だけだった。
「それから、今すぐこのうるさい警報を止めてください。この音が不安を煽っている可能性があります」
鳴り続ける警報は緊急事態を広く伝えるには効果的だろう。しかし、それは同時に聞く者へ恐怖心を植え付ける事態にもなりかねない。
「分かりました。くれぐれもお気を付けて」
野次馬たちが固唾を呑んで見守る中、羅深思は訓練所の中に一歩足を踏み入れた。すると、その場に滞留していた膨大なエネルギーが体を包み込む。
重くのしかかるような空気を肌で感じながら、羅深思は足を進める。能力を打ち消す力がなければ、とっくに彼らの仲間入りをしているだろう。
警報の音が切れ、浮遊する人々が羅深思に気付く。彼らは一人だけ能力の影響を受けていない彼の正体を察し、一斉に助けを求め始めた。
「皆さん落ち着いてください! すぐに能力を解除させます。受け身を取る準備を!」
羅深思は一息にそう言うと、部屋の中をざっと見渡した。
下り階段の向こうは天井がかなり高く、巨大な空間が広がっている。そこにはいくつもの四角いガラスの部屋が立ち並び、中では一部屋に一人、訓練生らしき白いジャンパーを着た若者たちが浮かんでいた。
その中に一つだけ、地に足を着けた青年がいる部屋があった。きっと彼が暴走したセンチネルだ。
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