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第四章 変化
6 買い出し
しおりを挟むエリア二にあるエレベーターで地上へ出ると、建物から出た途端にむわっとした熱気が肌を撫でた。橙色の暖かな光が建物を照らし、日暮れが近いことが窺える。
「あっついな。上着脱ごうか」
地下にいた時は空調が効いていたので平気だったが、ガイドとセンチネルを見分けるためのジャンパーは地上では暑くて着ていられない。この暑さだと気休めにしかならないが、二人は上着を脱いで邪魔にならないように腰に巻きつけた。
人の多い通りからは外れているため、辺りにはこれといって見応えのある店もない。羅深思は傍らにいる楊福安の顔が強張っていることに気付き、そっと声をかけた。
「外に出るの久しぶりだろ? 手、繋ごうか?」
彼は子どもの頃、北京の街中で誘拐されそうになったのだ。この辺りは昔ながらの低い建物が多いとはいえ、恐怖を感じても無理はない。
楊福安は期待と不安の入り混じった目で羅深思を見つめると、囁くように小さな声で言った。
「お願いします」
彼の手をしっかりと握り締め、羅深思はゆっくりとした足取りで歩き出す。指先は少し冷たくなっているが、手を繋いだお陰か楊福安の様子は落ち着いていた。
人通りは少ないものの、車はそこそこ通るようだ。いいタイミングでタクシーが通りかかったので、二人は大きな通りのある場所まで乗せてもらうことにした。
窓の外には汗を拭きながら歩くサラリーマンや、冷たい飲み物を買っている学生たちがいて、いかにも夏といった光景だ。流れる景色を目で追っていた楊福安に、羅深思はこっそり耳打ちした。
「なあ、ジェラート食べたくない?」
日が落ち始めても、外はまだうんざりするほど蒸し暑い。久しぶりに夏の暑さに晒され、口は冷たいものを求めていた。
不安そうにしていた楊福安は、彼の言葉にたちまち目を輝かせる。
「いいんですか?」
彼の表情が明るくなったのを見て、羅深思は悪戯っぽく微笑んだ。
「みんなには内緒ね」
しばらくすると、二人を乗せたタクシーは人通りの多い中心部へと到着した。さすがに通りを歩く人は多く、あちこちから賑やかな笑い声が聞こえてくる。
車を降りると、ちょうど近くにジェラートの幟が立っていた。
二人の話を聞いていた運転手が気を利かせてくれたのかもしれない。最近できたようで、真新しい外観はカフェ風でお洒落だ。
「お気に入りのお店とかあった?」
地元なら馴染みの店があるかもしれないと尋ねると、楊福安は首を横に振った。
「俺、ジェラート屋さんは初めてです」
「そっか。じゃあ、そこの店に入ってみよう」
じっとりと蒸した暑さから逃れるように小走りで店へ駆け込むと、中は程よくクーラーが効いてひんやりしていた。女性客が多いようで、クスクスと楽しげに笑う声が聞こえてくる。
「何にするか決まったら言ってね」
メニュー看板の前でそう言うと、楊福安はすでに心を決めていた。
「ピスタチオとチョコにします」
即答され、何も決めていなかった羅深思は慌ててメニュー表に目を通す。種類は豊富だが、迷った人のために定番の組み合わせやおすすめが載っていた。
「ええと……じゃあ、俺はゴルゴンゾーラと苺にしようかな」
せっかく来たので少し冒険して変わり種に決めると、カウンターで注文を終える。二人でジェラートが盛り付けられていく様子を見学していると、女性店員がサービスで砕いたナッツをトッピングしてくれた。
店内を見渡した羅深思は、端の方にある二人掛けの席に腰を下ろした。遮光カーテンのお陰で日差しが遮られ、ジェラートを食べるのにちょうどいい室温になっている。
早速ピンクと白が混ざり合う部分にスプーンを入れ、甘酸っぱい苺の酸味とまろやかなミルク、そして仄かに感じるゴルゴンゾーラの塩味に舌鼓を打つ。さっぱりとして、少し大人っぽい味だ。
彼は向かいで満足そうにジェラートを食べていた楊福安に声をかけた。
「決めるの早かったね。お気に入り?」
「父がよく、ピスタチオのムースにチョコレートがかかったケーキを買って来てくれたんです。昔の話ですけど……」
さすが政治家の息子、お洒落なものを食べている。ただ、思い出話をする彼の表情はどこか寂しげだった。
家族と引き離されて二年も経てば、寂しくもなるだろう。羅深思はスプーンをジェラートに刺し、優しい声音で尋ねた。
「それじゃあ、思い出の味なんだね。お父さんが恋しい?」
「少しだけ。でも、父にとって俺はいらない子だから」
楊福安は悲しそうに瞳を伏せ、僅かに震える声でそう言った。羅深思はその時になって初めて、彼ら親子の間に誤解があることに気付く。
「それは違うよ!」
思わず大きな声が出て、楊福安が驚いたように顔を上げる。
研究については話せないので、羅深思は慎重に言葉を選んで口を開いた。
「君のお父さんは施設の支援者の一人だよ。だから、絶対にそんな風に思ってない」
「それ……本当ですか?」
ずっと親に疎まれていたと思っていたのだろう。まだ事実が飲み込めないのか、楊福安は目を潤ませて羅深思を見つめる。
「うん。詳細は明かせないけど、俺も施設長から聞いたんだ」
確かな情報源に、楊福安の表情がようやく和らいだ。彼はその事実を噛み締めるように、小さな声で「父さんが……」と呟く。
目尻には涙が滲んでいて、羅深思は指先でそっと拭ってあげた。
「そうだよ、元気出して。ほら、俺のジェラートちょっとあげるから」
苺とチーズのジェラートをスプーンでたっぷりすくって彼の口元に持っていくと、楊福安はぽっと頬を赤く染め、戸惑いながら羅深思の顔を見つめた。いいの?と聞きたいのに、恥ずかしくて言い出せないようだ。
羅深思が視線で促すと、彼は思い切ってぱくりと食べた。
「どう? 美味しい?」
「甘酸っぱくて美味しいです。ゴルゴンゾーラもジェラートに合うんですね」
嬉しそうに顔を綻ばせ、楊福安は小さく笑みを漏らす。
「なんだかデートしてるみたいですね」
甘やかなその言葉は、嫌でもあの日の告白を思い起こさせる。そわそわしながら窺い見てくる彼に、羅深思は笑みを返した。
「また二人で出かけようか?」
彼が楽しい気持ちで外出できるなら、もう何度か二人きりで出かけるのも悪くない。すると、それをデートのお誘いと思ったのか、楊福安は嬉しそうに目を輝かせた。
「良いんですか⁉︎」
「もちろん! 外の世界にも慣れないとだからね」
先ほどまで喜びに満ち溢れていた顔は、その言葉にたちまちしょんぼりと陰ってしまう。少し可哀想だが、今の羅深思は彼の気持ちに応えられない。
「福安、ちょっと聞いてくれる?」
「……はい」
振られると思ったのか、楊福安はすっかり意気消沈している。初めて会った頃を思うと、ずいぶん表情豊かになった。
落ち込む彼を見て、羅深思はどう話を切り出そうか頭を悩ませた。未だに楊福安の気持ちを受け入れるかどうか、決心がつかないのだ。
しばらく考え、彼は静かに口を開いた。
「前に好きって言ってくれただろ?」
まず確かめるべきはその件だろう。最近はレクリエーションの準備に忙しくて有耶無耶になっていた部分だ。
ひょっとすると心変わりしているかもと期待したが、楊福安は真剣な表情で頷いた。
「俺の気持ちは変わってません」
「分かった。ありがとう、気持ちは嬉しいよ」
好意を打ち明けられ、唇を奪われても不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。とはいえ、それが頭を悩ませる原因なのだが。
「俺、今まで男と付き合ったことないから、気持ちに応えられるか分からないんだ。それに、君は可愛い教え子でもあるだろ?」
羅深思の目から見ると、楊福安はまだまだ半人前で危なっかしい。彼の将来を思うと、迂闊に受け入れることもできないのだ。
「そう……ですよね」
悲しそうに俯く姿は、まるで不合格通知を見た受験生みたいだ。見ていると切なくてぎゅっと胸が締め付けられる。
「うん。だから、もう少しだけ考える時間を貰えないかな?」
そう言うと、楊福安はハッとして顔を上げた。そして、羅深思に疑いと希望の入り混じった目を向ける。
「そ、それって……」
「周りにも目を向けて、それでも俺がいいって言うなら真剣に考えるから」
甘いと言われようとも、彼のことはつい甘やかしたくなってしまう。恋愛の『好き』とは少し違うものの、その嬉しそうな笑顔を見ていると羅深思の口元も緩む。
「分かりました!」と大きな返事をした楊福安の瞳は、夏の日差しよりも輝いていた。
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