26 / 41
第四章 変化
6 買い出し
しおりを挟むエリア二にあるエレベーターで地上へ出ると、建物から出た途端にむわっとした熱気が肌を撫でた。橙色の暖かな光が建物を照らし、日暮れが近いことが窺える。
「あっついな。上着脱ごうか」
地下にいた時は空調が効いていたので平気だったが、ガイドとセンチネルを見分けるためのジャンパーは地上では暑くて着ていられない。この暑さだと気休めにしかならないが、二人は上着を脱いで邪魔にならないように腰に巻きつけた。
人の多い通りからは外れているため、辺りにはこれといって見応えのある店もない。羅深思は傍らにいる楊福安の顔が強張っていることに気付き、そっと声をかけた。
「外に出るの久しぶりだろ? 手、繋ごうか?」
彼は子どもの頃、北京の街中で誘拐されそうになったのだ。この辺りは昔ながらの低い建物が多いとはいえ、恐怖を感じても無理はない。
楊福安は期待と不安の入り混じった目で羅深思を見つめると、囁くように小さな声で言った。
「お願いします」
彼の手をしっかりと握り締め、羅深思はゆっくりとした足取りで歩き出す。指先は少し冷たくなっているが、手を繋いだお陰か楊福安の様子は落ち着いていた。
人通りは少ないものの、車はそこそこ通るようだ。いいタイミングでタクシーが通りかかったので、二人は大きな通りのある場所まで乗せてもらうことにした。
窓の外には汗を拭きながら歩くサラリーマンや、冷たい飲み物を買っている学生たちがいて、いかにも夏といった光景だ。流れる景色を目で追っていた楊福安に、羅深思はこっそり耳打ちした。
「なあ、ジェラート食べたくない?」
日が落ち始めても、外はまだうんざりするほど蒸し暑い。久しぶりに夏の暑さに晒され、口は冷たいものを求めていた。
不安そうにしていた楊福安は、彼の言葉にたちまち目を輝かせる。
「いいんですか?」
彼の表情が明るくなったのを見て、羅深思は悪戯っぽく微笑んだ。
「みんなには内緒ね」
しばらくすると、二人を乗せたタクシーは人通りの多い中心部へと到着した。さすがに通りを歩く人は多く、あちこちから賑やかな笑い声が聞こえてくる。
車を降りると、ちょうど近くにジェラートの幟が立っていた。
二人の話を聞いていた運転手が気を利かせてくれたのかもしれない。最近できたようで、真新しい外観はカフェ風でお洒落だ。
「お気に入りのお店とかあった?」
地元なら馴染みの店があるかもしれないと尋ねると、楊福安は首を横に振った。
「俺、ジェラート屋さんは初めてです」
「そっか。じゃあ、そこの店に入ってみよう」
じっとりと蒸した暑さから逃れるように小走りで店へ駆け込むと、中は程よくクーラーが効いてひんやりしていた。女性客が多いようで、クスクスと楽しげに笑う声が聞こえてくる。
「何にするか決まったら言ってね」
メニュー看板の前でそう言うと、楊福安はすでに心を決めていた。
「ピスタチオとチョコにします」
即答され、何も決めていなかった羅深思は慌ててメニュー表に目を通す。種類は豊富だが、迷った人のために定番の組み合わせやおすすめが載っていた。
「ええと……じゃあ、俺はゴルゴンゾーラと苺にしようかな」
せっかく来たので少し冒険して変わり種に決めると、カウンターで注文を終える。二人でジェラートが盛り付けられていく様子を見学していると、女性店員がサービスで砕いたナッツをトッピングしてくれた。
店内を見渡した羅深思は、端の方にある二人掛けの席に腰を下ろした。遮光カーテンのお陰で日差しが遮られ、ジェラートを食べるのにちょうどいい室温になっている。
早速ピンクと白が混ざり合う部分にスプーンを入れ、甘酸っぱい苺の酸味とまろやかなミルク、そして仄かに感じるゴルゴンゾーラの塩味に舌鼓を打つ。さっぱりとして、少し大人っぽい味だ。
彼は向かいで満足そうにジェラートを食べていた楊福安に声をかけた。
「決めるの早かったね。お気に入り?」
「父がよく、ピスタチオのムースにチョコレートがかかったケーキを買って来てくれたんです。昔の話ですけど……」
さすが政治家の息子、お洒落なものを食べている。ただ、思い出話をする彼の表情はどこか寂しげだった。
家族と引き離されて二年も経てば、寂しくもなるだろう。羅深思はスプーンをジェラートに刺し、優しい声音で尋ねた。
「それじゃあ、思い出の味なんだね。お父さんが恋しい?」
「少しだけ。でも、父にとって俺はいらない子だから」
楊福安は悲しそうに瞳を伏せ、僅かに震える声でそう言った。羅深思はその時になって初めて、彼ら親子の間に誤解があることに気付く。
「それは違うよ!」
思わず大きな声が出て、楊福安が驚いたように顔を上げる。
研究については話せないので、羅深思は慎重に言葉を選んで口を開いた。
「君のお父さんは施設の支援者の一人だよ。だから、絶対にそんな風に思ってない」
「それ……本当ですか?」
ずっと親に疎まれていたと思っていたのだろう。まだ事実が飲み込めないのか、楊福安は目を潤ませて羅深思を見つめる。
「うん。詳細は明かせないけど、俺も施設長から聞いたんだ」
確かな情報源に、楊福安の表情がようやく和らいだ。彼はその事実を噛み締めるように、小さな声で「父さんが……」と呟く。
目尻には涙が滲んでいて、羅深思は指先でそっと拭ってあげた。
「そうだよ、元気出して。ほら、俺のジェラートちょっとあげるから」
苺とチーズのジェラートをスプーンでたっぷりすくって彼の口元に持っていくと、楊福安はぽっと頬を赤く染め、戸惑いながら羅深思の顔を見つめた。いいの?と聞きたいのに、恥ずかしくて言い出せないようだ。
羅深思が視線で促すと、彼は思い切ってぱくりと食べた。
「どう? 美味しい?」
「甘酸っぱくて美味しいです。ゴルゴンゾーラもジェラートに合うんですね」
嬉しそうに顔を綻ばせ、楊福安は小さく笑みを漏らす。
「なんだかデートしてるみたいですね」
甘やかなその言葉は、嫌でもあの日の告白を思い起こさせる。そわそわしながら窺い見てくる彼に、羅深思は笑みを返した。
「また二人で出かけようか?」
彼が楽しい気持ちで外出できるなら、もう何度か二人きりで出かけるのも悪くない。すると、それをデートのお誘いと思ったのか、楊福安は嬉しそうに目を輝かせた。
「良いんですか⁉︎」
「もちろん! 外の世界にも慣れないとだからね」
先ほどまで喜びに満ち溢れていた顔は、その言葉にたちまちしょんぼりと陰ってしまう。少し可哀想だが、今の羅深思は彼の気持ちに応えられない。
「福安、ちょっと聞いてくれる?」
「……はい」
振られると思ったのか、楊福安はすっかり意気消沈している。初めて会った頃を思うと、ずいぶん表情豊かになった。
落ち込む彼を見て、羅深思はどう話を切り出そうか頭を悩ませた。未だに楊福安の気持ちを受け入れるかどうか、決心がつかないのだ。
しばらく考え、彼は静かに口を開いた。
「前に好きって言ってくれただろ?」
まず確かめるべきはその件だろう。最近はレクリエーションの準備に忙しくて有耶無耶になっていた部分だ。
ひょっとすると心変わりしているかもと期待したが、楊福安は真剣な表情で頷いた。
「俺の気持ちは変わってません」
「分かった。ありがとう、気持ちは嬉しいよ」
好意を打ち明けられ、唇を奪われても不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。とはいえ、それが頭を悩ませる原因なのだが。
「俺、今まで男と付き合ったことないから、気持ちに応えられるか分からないんだ。それに、君は可愛い教え子でもあるだろ?」
羅深思の目から見ると、楊福安はまだまだ半人前で危なっかしい。彼の将来を思うと、迂闊に受け入れることもできないのだ。
「そう……ですよね」
悲しそうに俯く姿は、まるで不合格通知を見た受験生みたいだ。見ていると切なくてぎゅっと胸が締め付けられる。
「うん。だから、もう少しだけ考える時間を貰えないかな?」
そう言うと、楊福安はハッとして顔を上げた。そして、羅深思に疑いと希望の入り混じった目を向ける。
「そ、それって……」
「周りにも目を向けて、それでも俺がいいって言うなら真剣に考えるから」
甘いと言われようとも、彼のことはつい甘やかしたくなってしまう。恋愛の『好き』とは少し違うものの、その嬉しそうな笑顔を見ていると羅深思の口元も緩む。
「分かりました!」と大きな返事をした楊福安の瞳は、夏の日差しよりも輝いていた。
2
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
記憶を失くしたはずの元夫が、どうか自分と結婚してくれと求婚してくるのですが。
鷲井戸リミカ
BL
メルヴィンは夫レスターと結婚し幸せの絶頂にいた。しかしレスターが勇者に選ばれ、魔王討伐の旅に出る。やがて勇者レスターが魔王を討ち取ったものの、メルヴィンは夫が自分と離婚し、聖女との再婚を望んでいると知らされる。
死を望まれたメルヴィンだったが、不思議な魔石の力により脱出に成功する。国境を越え、小さな町で暮らし始めたメルヴィン。ある日、ならず者に絡まれたメルヴィンを助けてくれたのは、元夫だった。なんと彼は記憶を失くしているらしい。
君を幸せにしたいと求婚され、メルヴィンの心は揺れる。しかし、メルヴィンは元夫がとある目的のために自分に近づいたのだと知り、慌てて逃げ出そうとするが……。
ハッピーエンドです。
この作品は他サイトにも投稿しております。
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
悪役令息(Ω)に転生したので、破滅を避けてスローライフを目指します。だけどなぜか最強騎士団長(α)の運命の番に認定され、溺愛ルートに突入!
水凪しおん
BL
貧乏男爵家の三男リヒトには秘密があった。
それは、自分が乙女ゲームの「悪役令息」であり、現代日本から転生してきたという記憶だ。
家は没落寸前、自身の立場は断罪エンドへまっしぐら。
そんな破滅フラグを回避するため、前世の知識を活かして領地改革に奮闘するリヒトだったが、彼が生まれ持った「Ω」という性は、否応なく運命の渦へと彼を巻き込んでいく。
ある夜会で出会ったのは、氷のように冷徹で、王国最強と謳われる騎士団長のカイ。
誰もが恐れるαの彼に、なぜかリヒトは興味を持たれてしまう。
「関わってはいけない」――そう思えば思うほど、抗いがたいフェロモンと、カイの不器用な優しさがリヒトの心を揺さぶる。
これは、運命に翻弄される悪役令息が、最強騎士団長の激重な愛に包まれ、やがて国をも動かす存在へと成り上がっていく、甘くて刺激的な溺愛ラブストーリー。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
ビジネス婚は甘い、甘い、甘い!
ユーリ
BL
幼馴染のモデル兼俳優にビジネス婚を申し込まれた湊は承諾するけれど、結婚生活は思ったより甘くて…しかもなぜか同僚にも迫られて!?
「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??
過労死転生した悪役令息Ωは、冷徹な隣国皇帝陛下の運命の番でした~婚約破棄と断罪からのざまぁ、そして始まる激甘な溺愛生活~
水凪しおん
BL
過労死した平凡な会社員が目を覚ますと、そこは愛読していたBL小説の世界。よりにもよって、義理の家族に虐げられ、最後は婚約者に断罪される「悪役令息」リオンに転生してしまった!
「出来損ないのΩ」と罵られ、食事もろくに与えられない絶望的な日々。破滅フラグしかない運命に抗うため、前世の知識を頼りに生き延びる決意をするリオン。
そんな彼の前に現れたのは、隣国から訪れた「冷徹皇帝」カイゼル。誰もが恐れる圧倒的カリスマを持つ彼に、なぜかリオンは助けられてしまう。カイゼルに触れられた瞬間、走る甘い痺れ。それは、αとΩを引き合わせる「運命の番」の兆しだった。
「お前がいいんだ、リオン」――まっすぐな求婚、惜しみない溺愛。
孤独だった悪役令息が、運命の番である皇帝に見出され、破滅の運命を覆していく。巧妙な罠、仕組まれた断罪劇、そして華麗なるざまぁ。絶望の淵から始まる、極上の逆転シンデレラストーリー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる