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第一部・一章
目がぁぁああ目がぁぁああ!
しおりを挟むこれはまずいヤツだ。
空間を漂う霧。その中心に、この世の全ての不幸でも背負いこんだかのような、なんともおぞましい表情の顔があった。性別は分からない。
確か記録ではアンノウンナンバーの一つ。
この霧の化物は百年以上前に一度だけ、国外で確認されている。
その時に霧に包まれた街が一つ消えた。
なにがどうしてそうなったのかは一切不明。
霧は街の中心に現れ、その不幸な顔から涙を流したら、街は消えていた。
残っているのは、そんな意味の分からない記録のみ。
だが、理の外からの災害の記録なんて得てしてそんなもので、誰もくわしくは把握していない。そして厄介なのは、だいたいの場合は記録は事実だという点だ。
――このまま放置すれば、王都の一部が霧に消えることになるか。
唯一の救いといえば、感じられるマナの量だ。これまで白鉄騎士団が相手にしてきた理の外の中では、特別大きい訳ではない。
すぐに騎士団を連れていけば――。
そう思って<小さい目>を切ろうとした時、
きぃぃぃいいいいいいいいいいいいい――。
再びあの音がライヤを襲った。
さっきからなんだ、この音は……?
そう思って、改めて霧の化物に目を向けた。
異変だと分かった。元より意味が分からないのが理の外の存在だとはいえ、今ここで想定外の何かが起きていることは確かだ。
確実に死んでいた食人鬼が起き上がり、その拳が霧の顔面に炸裂した。
ライヤの頭に真っ先に思い浮かんだのは、死霊術だった。理の外に最も近い禁忌の力。人間でもその領域に踏み込んだ者はいる。
「ならば術者はどこだ?」
霧がその食人鬼にからみついた。
すると食人鬼の体から一切の力が抜けたように崩れ落ちた。
一瞬で力を奪う。それがこの霧の力なのか――とライヤがそう思った時、別の食人鬼が起き上がり、死角から霧に殴りかかった。
「……なんだ? なにが起きている?」
霧は巨人の振るう拳に霧散する。元の姿に戻る前に、立っていた食人鬼が倒れた。
終わったのか?
だとしたら、なぜこの食人鬼が死んでいたというのに起き上がったのかも、この霧がどんな攻撃をして食人鬼が倒れたのかも分からない。
これは厄介だ。
きぃぃぃいいいいいいいいいいいいい――。
またこの音かッ。
この音は霧の化物の声だった。それはおそらく悲鳴なのだと理解した。
その幸の薄そうな顔が苦痛に歪んだため。
今、明らかにこの霧は見えない何者かに何かをされている。
ライヤはここで見たことは、自分が思っていることとはまるで違うという、その事実にだけ思い至った。
ただの直感でしかないが、食人鬼は霧から攻撃を受けて倒れたのではない。だが、死霊術でもない。
なにかがいる――。
<小さい目小さい目、よぉくよぉく見せて見せて>。
ライヤはそう<古い言葉>にマナを込めた。
これまでは暗い中を見れるだけの視界だが、マナの細かい流れまで詳しく見なければならない。
霧の化物に何かが憑りつこうとしていた。
いや、信じられない光景だったが、それはまず間違いなく人間の魂だった。
つい先ほど見たあの死体の魂なのか?
あの少年がこれをしているというのか?
霧にまとわりつき、手のような何かを伸ばして中に入ろうとしている。
その度に化物がさっきのような声をあげて嫌がっている。
「これが人間のできることなのか……?」
思わずライヤがそうつぶやいた時、その魂が化物の中に完全に入り込んだ。
きぃぃぃやぁぁああああああぃぃぃぃいいいい――。
これまで以上の悲鳴。
至近距離で見ていたとはいえ、一瞬<小さい目>がホワイトアウトする程のマナの波動だ。
再び視界が戻った時に見たのは、その霧が力をなくし、汚れた水分としてぼたぼたと地面に落ちていく姿だった。
体から追い出された魂――あまりに巨大な塊が自らの体が崩れ落ちるのを見て、絶望の悲鳴をあげた。
追い出されたら戻れないのか。それとも体との何らかのつながりが断たれたのか。情報が少なすぎて分からない。
そして、そうなった魂がどうなるのか。
今初めてその事実の一例を見た。あまりに巨大な魂が空気に溶けてゆく。霧散してゆく。
その代わりのように、床に落ちた水分の中から人間の魂が出てきた。先ほどと違い、人型をしていた。
やはりあの少年だ。
放置されていた死体と同じ姿の魂が、拳を握りしめて天井に向かって大きく口をあけた。
ここでは聞こえないが、それは勝利の雄たけびだった。
「規模は小さいとはいえ、あの霧は理の外の災害だぞ……」
ライヤは呆気に取られてしまった。
自分達、白鉄騎士団が派遣されるはずの理の外の災害を、たった一人の少年が人知れずに退治してしまった。
これを見ていない人間では、同じ団内の騎士達でも信じないだろう。
この少年は何者だ?
そう思った時、その魂の少年と目があった。
まさか<小さい目>が見えている……?
不思議そうな顔が近づいてくる。ライヤの視界いっぱいにひどいドアップとなって映る。
少年が少し離れた。
手が伸びる。
そして室内にはライヤの悲鳴が響いた。
反射的に目をおさえてもんどりうつ。赤い髪を振り乱してもだえ苦しんだ。
あの少年の魂に<小さい目>を叩き落とされた。これまでこんなことは一度もなかったので、まさか自分の目にこれほどの被害が出るとは知らなかった。
しばらく机に突っ伏して苦しんでいたが、痛みも落ち着いてきたころに<遠い耳>から部下の騎士の声が届いた。
「……団長。あれはなんです? あの少年は?」
同じ視界を共有していた騎士だ。ということは、この部下も目をやられて、やっと落ち着いたに違いない。
「……あれは間違いなく禁忌だよ」
「禁忌……。教会の敵ですか」
「ああ。とんでもないものを見つけたぞ」
まだ涙で前が見えないままだったが、ライヤはあの少年の姿をまるで今見ているかのように思い浮かた。
あの力は一言で言えば憑依。
魂を体から出し、それこそ何にでも憑りつく。
あまりに巨大なものでなければ、石ころからダンジョンの天井、誰かの持ち物、そして敵対するモンスターにまで憑りついてのっとれる力だ。
しかも、理の外の化け物さえ仕留める程の。
だが、憑依は重大な禁忌だ。
魂とは創造主たる神から、言葉の祝福を受けているもの。
その魂を直接どうこうできるような力は、教会の決まりで禁忌となっている。
忌むべき力、悪魔の能力、生まれてきてはならない存在。
教会の武力集団である聖堂騎士団や、異端審問に関わる人間に知られたら、それこそ殺される程度ではすまない未来が待っている。
それでもライヤにはそんな教会の都合なんて関係なかった。
「あの少年こそ死なない才能だ。教会にだけは渡すわけにはいかない」
~ ↑ ↑ ↓ ↓ ← → ← → B A ~
「というか、お前誰かにバレてない?」
「ううん。誰にもバレてない」
「絶対に?」
「絶対に」
テーブルにさしむかい、そんな押し問答をしているのは、アレクセイと神父だった。
この神父、さっきアレクセイをもう一回泣かせてやろうとひどいことを言ったのはいいが、思い通りにいかなかった。孤児院を出てからのこの五年で、この息子は思ったよりも強く成長してしまったようだ。まったく悔しい限りである。
「じゃあ、この先一年の礼拝堂の掃除を賭けられるか?」
「いいよ。バレてたら俺がやる。絶対に誰にもバレてないし」
神職が賭けを持ちかけるのはどうかと思うことだが、その上、これでは一方的にアレクセイに不利益があるだけの賭けというひどさである。
この問答の「なにがバレてないか」と言えば、もちろんアレクセイの能力のことだ。
「だから、絶対にバレてないって」
この時点では、あの騎士団長にバレているとは気づいていなかった。ましてやライヤの目が血走っていたのが自分のせいだなんて、気づくはずもなかった。
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