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昔の話
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普段はシャワーで済ませてしまうことが多いけれど、隆文がお湯をためたと言うので久しぶりにお風呂につかった。
湯気のたつお湯に胸までつかると、秋彦に叩かれたお尻はちりちりと痛んだが、息をつくと身体の力が一気に抜けていく。
透明なお湯に窓から差しこむ夕日の橙色の光がわずかに反射している。たぶんまだ、秋彦はこの屋敷に居るはずだ。
昼間の揉め事はなかったような顔をして、いつものように可愛い自分を演じるか。
それとも開き直って、ちゃんと言われたように練習したと報告に行くか。
秋彦はどんな僕でいれば、ずっと捨てずにいてくれる?
今よりもっと稼げるようになったら、秋彦は他の男娼なんて気にかけず僕だけを見てくれる?
……いやきっと、そんな日は一生訪れない。秋彦はいつでも誰か一人を特別扱いなんてしない。
僕がいつも勝手にワガママで引っ付いているだけだ。
浴槽に頭をのせて目をつむると、疲れきった全身が軽く感じる。
十年前は、秋彦がお風呂に入れてくれたんだ。
汚れていた僕に頭からお湯をかけて身体中を泡まみれされたあと、浴槽に突っ込まれた。
あれから十年……これからあと十年後には、僕はどうなってる?
もし今みたいに稼げなくなったら?
もう何度も繰り返し見た悪夢の光景が、瞼の裏にくっきりと浮かび上がる。いつも秋彦がいない。秋彦を探して歩き回るけれど、見つかるのはいつも秋彦の背中だけ。どんなに頑張って追いかけても、追いつけない。
「………さん、憐さん…ッ?」
がらり、と音をたてて勢いよく風呂の扉が開いて、お湯を跳ね上げて上半身を起こす。
扉を押さえたまま隆文が立っていて、珍しく狼狽えた表情をしている。
「すみません。お風呂に入られてからもう随分たつので、なにかあったのかと。声はかけたのですが、お返事がなくて」
考え事をしながらいつの間にか微睡んでいたのか。窓の外の日がすっかり暮れている。
「もうあがる」
すっくと立ち上がったつもりだったが、流石にのぼせ気味で足元がふらつく。
隆文の差し出したバスタオルを受けとって、身体を包む。
水が飲みたい、と言うより早くマグカップを手渡された。
僕が水を飲んでいる間に、隆文はタオルで髪の毛を拭き始める。
今日は体力を消費しすぎて、シャワーで頭を洗うために両腕をあげるだけでも怠かったので、乾かしてもらえるならと好きに触らせておいた。
洗面所の鏡に映った隆文は、風呂に駆け込んできたときの名残は欠片もなく、いつものように感情などないかのような手堅い表情をしている。
「あのさ……」
なんでしょう、と隆文が手を止めずに返事をする。
「秋彦は、まだ…?」
尋ねるか迷っていたことを結局、ストレートに切り出してしまう。
「まだいらっしゃいますよ」
隆文が頭を拭いていたタオルを腕にかけ、床に置かれた籠から畳まれた僕の浴衣を手にとって広げる。
そう、と僕は独り言のように呟いて、身体に巻いたバスタオルをとって浴衣に腕をとおす。
僕の前に片膝をついて腰紐を結ぶ隆文の指先をじっと眺める。
「会いには、行かないのですか。今日の夜には帰ってしまわれるかも」
「分かってる、けど……」
乾かしてもらった髪の毛を指でいじっていると、隆文が僕の背中を軽くおして浴室の外へと促す。
寝室は綺麗に片付けられていて布団は部屋の隅に畳んで置かれ、一人分のご飯ののった食膳がひとつ用意されていた。
座布団に足を崩して座って箸を手に取る。
いつもならお客の相手を始めるくらいの時間で、夜ご飯をこんなにしっかり食べることはあまりない。お客があげたがるおかずを横からつまむ程度だ。
「なにか別のものを用意しますか」
身体の怠さを感じながらのろのろと箸を動かしていたら、そう声をかけられる。いや、と言いかけたときに、きゅうっとお腹がなる音がして隆文がお腹をおさえる。
「すみません」
隆文がわずかに顔をふせて呟く。
「お腹空いてんの?」
隆文だって普通の人間でお腹が空くのは普通のことなのに、すっかり驚いて調子外れの声をあげてしまい、急に恥ずかしくなる。
「あの僕……食欲ないから、これ代わりに隆文が食べていいよ」
「いえ、私のご飯は別にあるので」
「いいから。どうせ残そうと思ってたし。そうだ、せっかくだからお酌、してあげよっか?」
お酌、と言っても用意されているのは緑茶の入った急須と湯のみだったが、食膳を隆文の前に運んでいって、自分は隆文の左隣ににじり寄り、急須を両手で持って手前の湯のみに注ぐ。
「どうぞ」
隣に座っていることで、隆文が戸惑っているのが伝わってくる。まるで店に初めてきたお客と同じ反応。
「ご飯、食べないの?」
するりと隆文の左腕に手を通し、手首を持って手のひらを自分の太ももの上に乗っけて触れさせる。
「憐さん」
咎めるような声で名前を呼ばれたが構わず、隆文の手の甲から五本指の間を指先でなぞる。
「憐さん。本当に…」
そう言って隆文が腕をひいて、遠慮がちに僕の手をほどく。隆文の顔を見上げるが、もういつもと変わらない平然とした表情でがっかりする。
「なんだ、ドキドキしなかった?」
足を投げ出し、隆文に寄りかかるように肩の力を抜いて座る。
「いいから、それ食べなよ。僕、本当にもういらないから。隆文が食べないなら捨てるだけなんでしょ」
僕が片手をふって促すと、「では、いただきます」と、隆文は手をあわせてやっと箸を手にとった。
「龍也からはね、いつも、もっとちゃんと真面目にお酌をしろって言われる。安い店じゃなくて、お食事代だって沢山もらってるんだから作法通りに対応しないとお客に失礼だって。秋彦にも……最初に教えられたのはお客への礼儀作法だったし。扉の開け方とか、座り方とか、毎日練習させられて、毎日怒られて…」
「もしかして以前オーナーはいつもこの牡丹茶寮で生活されていたのですか」
「ううん。違う。今と同じで基本的には自分の家だし、お店もあちこち回ってたけど…」
「ではどうして毎日一緒に…?」
まさかそこを突っこんで尋ねられるとは思わなかった。
『あの事』は他の男娼には言うなと秋彦に口止めされているが、隆文には喋っても構わないだろうか。
「……秋彦に買われて最初の三年間は僕、秋彦の家で一緒に暮らしてたから」
僕がしばらく考え込んで黙ったあとやっと答えると、隆文は驚いた様子もなく、「そうだったんですか」と、納得したように相槌をうつ。
「一緒にって言っても、椿もいて二人きりじゃないけど。秋彦の家はここよりももっと広い洋風のお屋敷で、下働きの人は何人かしかいなくて、使ってない部屋ばっかりで空っぽなの」
秋彦の家は迂闊に歩き回っていると、迷子になってしまうほど広かった。
まだ幼くて小さかったのもあるけれど、家具も窓も全部が高くて大きくて下から見上げている記憶しかない。
それは秋彦も同じで、昔は秋彦の顔が全然見えなくて声だけが頼りだった。
隆文がご飯を食べている間も、そのあと隆文が「お尻の手当をしましょう」と言って僕を布団に横にならせたあとも、延々と秋彦との思い出話ばかり話し続けていた。
隆文はお客の話し相手をしている時の僕より聞き上手で、相槌と一緒に時折問いかけてくるので、質問に答えているうちにとまらなくなってしまった。
「ねえ。僕はたくさん話したから、隆文の話もなんか聞かせてよ」
布団に横向きに寝て、となりに座った隆文の顔を見上げてねだる。
「私は、面白い話はなにもありませんよ」
「なんで。ここに来る前の話は?」
料理屋で働いていた、というのは覚えているがそれ以上の話は聞いたことがなかった。僕が黙って見つめていると、隆文が渋々といった様子で口を開く。
「十八の時に家を出て、それから十四年間ずっと同じお店で働いていました。料理は全くの未経験だったので、初めは掃除や皿洗いから始めて六年経ってやっと本格的に調理を任されるようになりました」
「家を出てなんで急に料理人?」
「それは…、他に選びようがなくて。仕事がなくてどうしようかと思っていた時に、たまたま店長と出会って働かせてもらえることになったんです。その恩人の店長に頼まれて、この店に」
隆文は言葉を慎重に選んでいるかのようなゆっくりとした口調で答えた。話の流れは自然だが、それでも一つ気になることがある。
「あのさ……」
皺のよったシーツを右手でいじりつつ、横目で隆文の様子を伺い口を開く。
「隆文はその…なんでそんなに慣れてるの?」
なにがですか、と隆文は尋ねたが、聞きながら自分で分かっているような声だった。
「初めて会った日も、秋彦に言われて後ろだけでって…今日も、ローションとかあんな玩具を使って…。あと」
口でやるのだって…後ろにディルドを突っ込まれていたとは言っても、口でやってちゃんと気持ちよくさせるのが大変なのは、僕ら男娼一番わかっている。
絶対、未経験なはずがない。
「たしかに初めてではない、というそれだけの話です」
隆文がそう言ってわずかに腰を浮かせ、まだ話は終わってないのに立ち上がろうとしたので、手首を握って引き止める。
「待って。なんで、誰と? 前の料理屋? もしかして店長とか? それともお金を払って僕みたいな男娼と?」
まくしたてるように尋ねた僕に、隆文はわずかに笑顔をつくった。
「前の料理屋は本当にお食事を提供するだけのお店でした。店長とも同僚とも、全くそういう関係はありませんでしたし、牡丹茶寮のようなお店に来たこともありませんでした。さあ、憐さん。そろそろ電気を消して寝ましょうか」
「やだやだ。ねえ、誰と?」
隆文は僕の手を引き剥がして、足元に畳まれていた掛け布団を引っ張り上げようとしたが、僕が上半身を起こして両手で阻止する。
前のお店でも、男娼でもないとすればさらに気になって仕方がない。見つめる僕から目を逸らして隆文は膝立ちのまましばらく固まっていた。
「隆文、ねえ。誰としたことあるのか教えて。僕からのお願い。僕の言うことならなんでも聞くんでしょ?」
僕が腕を組んで尋ねると、隆文は観念したように軽く息を吐き出して肩をおとす。
「弟とです。血は半分しか繋がっていませんが」
全く予想しなかった答えに、今度は僕が固まる。頭の中はぐるぐると色んな疑問が駆けめぐった。
「なん、で…? なんで、どうして?」
「もう昔の話です。十八で家を出た時に全部捨てた過去です。さあ、もう寝ましょう」
隆文がことさら優しい声でそう言って、なんで、と繰り返す僕を布団にそっと押し戻す。
胸まで掛け布団を引き上げる隆文の手首をまた捕まえたが、
「憐さん」
と今度は有無を言わせない硬い声で名前を呼ばれて手を離す。
「おやすみなさい」
と、隆文は立ち上がり、電気を消して部屋の中が真っ暗になる。僕は両手で掛け布団を掴んで口元まで引き上げる。
隆文の言葉が頭の中を駆けめぐって離れない。
隆文が、弟と?本当に、なにが?
勢いあまって、問い詰めすぎてしまった。無遠慮でワガママすぎたかもしれない。
隆文は僕が秋彦に拾われる前の話には触れないでいてくれたのに。
隆文の弟ってどんな人?
弟となんで、どういうことまでしたの?
胸にちくんとトゲが刺さって、そこからじわっとなにかが広がっていくような感覚を覚える。
両手を握ったり開いたりして、その胸の痛みから気を紛らわせる。
けれど目は冴えて、暗い部屋にすっかり目が慣れてしまうまで眠りにつくことはできなかった。
湯気のたつお湯に胸までつかると、秋彦に叩かれたお尻はちりちりと痛んだが、息をつくと身体の力が一気に抜けていく。
透明なお湯に窓から差しこむ夕日の橙色の光がわずかに反射している。たぶんまだ、秋彦はこの屋敷に居るはずだ。
昼間の揉め事はなかったような顔をして、いつものように可愛い自分を演じるか。
それとも開き直って、ちゃんと言われたように練習したと報告に行くか。
秋彦はどんな僕でいれば、ずっと捨てずにいてくれる?
今よりもっと稼げるようになったら、秋彦は他の男娼なんて気にかけず僕だけを見てくれる?
……いやきっと、そんな日は一生訪れない。秋彦はいつでも誰か一人を特別扱いなんてしない。
僕がいつも勝手にワガママで引っ付いているだけだ。
浴槽に頭をのせて目をつむると、疲れきった全身が軽く感じる。
十年前は、秋彦がお風呂に入れてくれたんだ。
汚れていた僕に頭からお湯をかけて身体中を泡まみれされたあと、浴槽に突っ込まれた。
あれから十年……これからあと十年後には、僕はどうなってる?
もし今みたいに稼げなくなったら?
もう何度も繰り返し見た悪夢の光景が、瞼の裏にくっきりと浮かび上がる。いつも秋彦がいない。秋彦を探して歩き回るけれど、見つかるのはいつも秋彦の背中だけ。どんなに頑張って追いかけても、追いつけない。
「………さん、憐さん…ッ?」
がらり、と音をたてて勢いよく風呂の扉が開いて、お湯を跳ね上げて上半身を起こす。
扉を押さえたまま隆文が立っていて、珍しく狼狽えた表情をしている。
「すみません。お風呂に入られてからもう随分たつので、なにかあったのかと。声はかけたのですが、お返事がなくて」
考え事をしながらいつの間にか微睡んでいたのか。窓の外の日がすっかり暮れている。
「もうあがる」
すっくと立ち上がったつもりだったが、流石にのぼせ気味で足元がふらつく。
隆文の差し出したバスタオルを受けとって、身体を包む。
水が飲みたい、と言うより早くマグカップを手渡された。
僕が水を飲んでいる間に、隆文はタオルで髪の毛を拭き始める。
今日は体力を消費しすぎて、シャワーで頭を洗うために両腕をあげるだけでも怠かったので、乾かしてもらえるならと好きに触らせておいた。
洗面所の鏡に映った隆文は、風呂に駆け込んできたときの名残は欠片もなく、いつものように感情などないかのような手堅い表情をしている。
「あのさ……」
なんでしょう、と隆文が手を止めずに返事をする。
「秋彦は、まだ…?」
尋ねるか迷っていたことを結局、ストレートに切り出してしまう。
「まだいらっしゃいますよ」
隆文が頭を拭いていたタオルを腕にかけ、床に置かれた籠から畳まれた僕の浴衣を手にとって広げる。
そう、と僕は独り言のように呟いて、身体に巻いたバスタオルをとって浴衣に腕をとおす。
僕の前に片膝をついて腰紐を結ぶ隆文の指先をじっと眺める。
「会いには、行かないのですか。今日の夜には帰ってしまわれるかも」
「分かってる、けど……」
乾かしてもらった髪の毛を指でいじっていると、隆文が僕の背中を軽くおして浴室の外へと促す。
寝室は綺麗に片付けられていて布団は部屋の隅に畳んで置かれ、一人分のご飯ののった食膳がひとつ用意されていた。
座布団に足を崩して座って箸を手に取る。
いつもならお客の相手を始めるくらいの時間で、夜ご飯をこんなにしっかり食べることはあまりない。お客があげたがるおかずを横からつまむ程度だ。
「なにか別のものを用意しますか」
身体の怠さを感じながらのろのろと箸を動かしていたら、そう声をかけられる。いや、と言いかけたときに、きゅうっとお腹がなる音がして隆文がお腹をおさえる。
「すみません」
隆文がわずかに顔をふせて呟く。
「お腹空いてんの?」
隆文だって普通の人間でお腹が空くのは普通のことなのに、すっかり驚いて調子外れの声をあげてしまい、急に恥ずかしくなる。
「あの僕……食欲ないから、これ代わりに隆文が食べていいよ」
「いえ、私のご飯は別にあるので」
「いいから。どうせ残そうと思ってたし。そうだ、せっかくだからお酌、してあげよっか?」
お酌、と言っても用意されているのは緑茶の入った急須と湯のみだったが、食膳を隆文の前に運んでいって、自分は隆文の左隣ににじり寄り、急須を両手で持って手前の湯のみに注ぐ。
「どうぞ」
隣に座っていることで、隆文が戸惑っているのが伝わってくる。まるで店に初めてきたお客と同じ反応。
「ご飯、食べないの?」
するりと隆文の左腕に手を通し、手首を持って手のひらを自分の太ももの上に乗っけて触れさせる。
「憐さん」
咎めるような声で名前を呼ばれたが構わず、隆文の手の甲から五本指の間を指先でなぞる。
「憐さん。本当に…」
そう言って隆文が腕をひいて、遠慮がちに僕の手をほどく。隆文の顔を見上げるが、もういつもと変わらない平然とした表情でがっかりする。
「なんだ、ドキドキしなかった?」
足を投げ出し、隆文に寄りかかるように肩の力を抜いて座る。
「いいから、それ食べなよ。僕、本当にもういらないから。隆文が食べないなら捨てるだけなんでしょ」
僕が片手をふって促すと、「では、いただきます」と、隆文は手をあわせてやっと箸を手にとった。
「龍也からはね、いつも、もっとちゃんと真面目にお酌をしろって言われる。安い店じゃなくて、お食事代だって沢山もらってるんだから作法通りに対応しないとお客に失礼だって。秋彦にも……最初に教えられたのはお客への礼儀作法だったし。扉の開け方とか、座り方とか、毎日練習させられて、毎日怒られて…」
「もしかして以前オーナーはいつもこの牡丹茶寮で生活されていたのですか」
「ううん。違う。今と同じで基本的には自分の家だし、お店もあちこち回ってたけど…」
「ではどうして毎日一緒に…?」
まさかそこを突っこんで尋ねられるとは思わなかった。
『あの事』は他の男娼には言うなと秋彦に口止めされているが、隆文には喋っても構わないだろうか。
「……秋彦に買われて最初の三年間は僕、秋彦の家で一緒に暮らしてたから」
僕がしばらく考え込んで黙ったあとやっと答えると、隆文は驚いた様子もなく、「そうだったんですか」と、納得したように相槌をうつ。
「一緒にって言っても、椿もいて二人きりじゃないけど。秋彦の家はここよりももっと広い洋風のお屋敷で、下働きの人は何人かしかいなくて、使ってない部屋ばっかりで空っぽなの」
秋彦の家は迂闊に歩き回っていると、迷子になってしまうほど広かった。
まだ幼くて小さかったのもあるけれど、家具も窓も全部が高くて大きくて下から見上げている記憶しかない。
それは秋彦も同じで、昔は秋彦の顔が全然見えなくて声だけが頼りだった。
隆文がご飯を食べている間も、そのあと隆文が「お尻の手当をしましょう」と言って僕を布団に横にならせたあとも、延々と秋彦との思い出話ばかり話し続けていた。
隆文はお客の話し相手をしている時の僕より聞き上手で、相槌と一緒に時折問いかけてくるので、質問に答えているうちにとまらなくなってしまった。
「ねえ。僕はたくさん話したから、隆文の話もなんか聞かせてよ」
布団に横向きに寝て、となりに座った隆文の顔を見上げてねだる。
「私は、面白い話はなにもありませんよ」
「なんで。ここに来る前の話は?」
料理屋で働いていた、というのは覚えているがそれ以上の話は聞いたことがなかった。僕が黙って見つめていると、隆文が渋々といった様子で口を開く。
「十八の時に家を出て、それから十四年間ずっと同じお店で働いていました。料理は全くの未経験だったので、初めは掃除や皿洗いから始めて六年経ってやっと本格的に調理を任されるようになりました」
「家を出てなんで急に料理人?」
「それは…、他に選びようがなくて。仕事がなくてどうしようかと思っていた時に、たまたま店長と出会って働かせてもらえることになったんです。その恩人の店長に頼まれて、この店に」
隆文は言葉を慎重に選んでいるかのようなゆっくりとした口調で答えた。話の流れは自然だが、それでも一つ気になることがある。
「あのさ……」
皺のよったシーツを右手でいじりつつ、横目で隆文の様子を伺い口を開く。
「隆文はその…なんでそんなに慣れてるの?」
なにがですか、と隆文は尋ねたが、聞きながら自分で分かっているような声だった。
「初めて会った日も、秋彦に言われて後ろだけでって…今日も、ローションとかあんな玩具を使って…。あと」
口でやるのだって…後ろにディルドを突っ込まれていたとは言っても、口でやってちゃんと気持ちよくさせるのが大変なのは、僕ら男娼一番わかっている。
絶対、未経験なはずがない。
「たしかに初めてではない、というそれだけの話です」
隆文がそう言ってわずかに腰を浮かせ、まだ話は終わってないのに立ち上がろうとしたので、手首を握って引き止める。
「待って。なんで、誰と? 前の料理屋? もしかして店長とか? それともお金を払って僕みたいな男娼と?」
まくしたてるように尋ねた僕に、隆文はわずかに笑顔をつくった。
「前の料理屋は本当にお食事を提供するだけのお店でした。店長とも同僚とも、全くそういう関係はありませんでしたし、牡丹茶寮のようなお店に来たこともありませんでした。さあ、憐さん。そろそろ電気を消して寝ましょうか」
「やだやだ。ねえ、誰と?」
隆文は僕の手を引き剥がして、足元に畳まれていた掛け布団を引っ張り上げようとしたが、僕が上半身を起こして両手で阻止する。
前のお店でも、男娼でもないとすればさらに気になって仕方がない。見つめる僕から目を逸らして隆文は膝立ちのまましばらく固まっていた。
「隆文、ねえ。誰としたことあるのか教えて。僕からのお願い。僕の言うことならなんでも聞くんでしょ?」
僕が腕を組んで尋ねると、隆文は観念したように軽く息を吐き出して肩をおとす。
「弟とです。血は半分しか繋がっていませんが」
全く予想しなかった答えに、今度は僕が固まる。頭の中はぐるぐると色んな疑問が駆けめぐった。
「なん、で…? なんで、どうして?」
「もう昔の話です。十八で家を出た時に全部捨てた過去です。さあ、もう寝ましょう」
隆文がことさら優しい声でそう言って、なんで、と繰り返す僕を布団にそっと押し戻す。
胸まで掛け布団を引き上げる隆文の手首をまた捕まえたが、
「憐さん」
と今度は有無を言わせない硬い声で名前を呼ばれて手を離す。
「おやすみなさい」
と、隆文は立ち上がり、電気を消して部屋の中が真っ暗になる。僕は両手で掛け布団を掴んで口元まで引き上げる。
隆文の言葉が頭の中を駆けめぐって離れない。
隆文が、弟と?本当に、なにが?
勢いあまって、問い詰めすぎてしまった。無遠慮でワガママすぎたかもしれない。
隆文は僕が秋彦に拾われる前の話には触れないでいてくれたのに。
隆文の弟ってどんな人?
弟となんで、どういうことまでしたの?
胸にちくんとトゲが刺さって、そこからじわっとなにかが広がっていくような感覚を覚える。
両手を握ったり開いたりして、その胸の痛みから気を紛らわせる。
けれど目は冴えて、暗い部屋にすっかり目が慣れてしまうまで眠りにつくことはできなかった。
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