三鍵の奏者

春澄蒼

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第三章 交点に降るは紅の雨

29 ベレン館の夜

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 旅では一つの天幕にぎゅうぎゅう詰めで寝ていた一行だが、ベレン卿の私邸においては、一人一部屋が当然として割り振られていた。

 部屋自体はそれほど広くはないが、中央にフェザントでも三人は転がれる大きなベッドが、存在感たっぷりに鎮座している。

 窓際には華奢な机と、どっしりとした椅子、床には絨毯。そして壁にはベレン卿が集めたコレクションの絵画やタペストリー、棚の上には陶器が飾られていて、少しも気が休まらない部屋だ。

 ユエにももちろん、一つの部屋があてがわれた。
 すでに季節は冬の気配が濃くなり、隙間風がないこの部屋でも、夜は身を縮める。
 そのため暖炉には火が絶やされないように、使用人が薪を足しに来るのだが、ユエにとっては、使用人と一人で対峙することの方が、寒さよりも大変だった。

「寒くはありませんか?」
「…………いえ」
「熱くはありませんか?」
「…………いえ」

 微笑みをたたえた女性が部屋を出て行くまで、ユエはベッドの布団に顔の半分まで隠れていた。

(……すっごく緊張、した……)
 目にも鮮やかな銀髪と、それにも負けない美貌の女性が扉を音もなく閉じるのを、まだ警戒したまま首だけ伸ばして見送った。

(……薪が燃え尽きる前に、また来るって、言ってた……)

 まさか寝ている間にもやって来るのだろうか……?と不安がこみ上げたユエは、カイトのところへ逃げ込みたくなっていた。

 だがそれはできない。

『そんな子どものようなこと恥ずかしい』『せっかく部屋を用意してくれたのに申し訳ない』などという理由では、ない。

 カイトの部屋がどこか、分からないのだ。

 ベレン卿の私邸は、まるで迷路のようだった。廊下が真っ直ぐではなく、円を描いているため、方向感覚が狂わされるのだ。
 その上、どういう基準なのか、部屋割りが非常に分かりにくい。隣同士ならユエでも、自分の右隣に誰がいて、左に何番目の扉が誰なのか覚えることもできたのだが──。
 正直に言ってユエには、一度出たら二度と、この部屋にも自力で戻ることはできないという自覚がある。

 そのため二の足を踏んでいた。

 だが──コンコン。「ひっ」「失礼します」「寒くはありませんか?」ブンブンッ!「暑くはありませんか?」ブンブンッ!!「失礼いたしました」

 二回目があった後に、扉に手を伸ばした。


******
 廊下には点々とランタンが灯りを残している。
 あれだけ多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が全くしないことが、ユエには不気味だった。

 とりあえず部屋を出てから右手へ歩き、最初に出会った角を左に曲がってみたが、「あれ……?」すでに自分がどこから来たのか分からなくなっている。

 そのうち誰かに会うかもしれないと、そのまま前(ユエにとっての『前』)に突き進む。

 しばらくすると、前方から人の声が聞こえ、それがはっきりするにつれて、大きな灯りに近づいていく。

「……いい」
「そんなに邪険になさらなくても……」
「必要ない。薪も自分でやると言っておいただろう。構うな」
「せめて──」

 そこで二人はユエに気づいた。

 盆に水差しとグラスを乗せた女性の方が、すかさず『にこっ』と口角を上げる。

「──どうぞ。寝酒にこちらを、と。一緒にお楽しみください」
 ユエがその部屋を訪ねて来たと勘違いして、そのまま潔く引き下がった。

「……?」
「……必要な時はこちらから呼ぶ。それ以外は構うな」

 その後ろ姿に辛辣な声をかけるジェイに、女性は、
「かしこまりました。ではわたくしにお声を──」
 一枚上手だと思わせる、完璧な笑みとお辞儀を残して、去って行った。

 残されたジェイは気まずくため息をついたが、自分からユエに声をかけることはない。

「……そうか」
「……は?」
 ジェイと女性を交互に見て、ユエは変なところに感心する。
「断ればよかったのか」

 自分もジェイのように、女性の訪問を断ってしまえば、部屋で怯えることもなかったのではないか、と。

 だが今さら気づいたところで、後の祭りだ。
 もう部屋へは戻れそうにない。

「ジェイ、」
 部屋から溢れる灯りをその大きな体で遮っている仲間に、(そう言えば、ジェイの名前、呼ぶの初めてかも)心の隅に浮かびながらも、あまり気にせず、
「俺の部屋、どこか分かるか?」
 少しだけ恥ずかしそうに、聞いた。

「…………は?!」
 思ってもみなかった言葉にジェイは、己の視線の下にある顔をまじまじと見つめる。

(ああ……やはり……)
 これまで、認めないように沈めてきた想いが、思わず浮かび上がった。

(クレインとは、

 顔立ちや体型や立ち振る舞いは、とてもよくクレインと似ているのに──ユエの瞳、表情、雰囲気──それには『陰』がない。

 ユエにも人魚独特の雰囲気はあるのだが、その根本にあるのは『光』だ。純粋で無垢な魂それ自体が、淡く光を放っているような──。

 そのユエと比べてしまうと余計に──クレインにまとわりつく『陰』が濃く見える気がするのだ。
 ジェイにはそれが、とても哀しく、口惜しく、そして──怖ろしい。

 だがその『陰』を生んだ出来事こそが、自分とクレインを出会わせてくれたのだ。
 いや──ジェイ自身にもその『陰』を生んだ責任がある。

 ──欲望渦巻く闘技場に響くは、剣と命を削る音。淫猥な視線と嘲笑が、たった一人に集まる。全てを諦めた、己の渇いた目。それが赤に埋まる。悲鳴と血の匂い────。

『……お前、ばかだな』
 血の気のない無表情でそう言われた時、ジェイは悟った。
 これから先、己の全ては彼の──彼だけのために捧げることになることを。

 だが最近、ユエが加わってからだろうか──ユエの『光』に負けるように、『陰』がクレインの魂をどんどんと呑み込んでいく夢を、ジェイはよく見るようになった。

 それはクレインのせいでも、ましてユエのせいでもないと、ジェイにも分かってはいるのだが──己の罪を突きつけられているようで、ジェイは直視できないでいる。

 黙ったままのジェイを、(呆れているのだろうか?)と覗き込んで、「分からない、よな……」一人で結論を出して、質問を変えた。

「……それじゃあ、カイトの部屋は?分かるか?」
「……カイト、なら……そこを折れて──」
「ありがとう」

 ジェイの複雑な気持ちなど全く気づかず、ユエは素直にお礼を言って、その場を離れる。

 クレインとよく似た後ろ姿を断ち切るように、ジェイは扉を閉めた。


******
 一方ユエは、教えてもらった部屋の前に立ち、扉を叩──きはしないで、するりと中へ入る。
 彼にはノックをする常識も習慣もなかった。

 カイトはすでに、布団を被ってベッドに横になっていた。
 そろり、と近づいて顔を覗き込むと、彼にしては珍しく熟睡しているのか、ピクリともしない。

 道中の夜の様子では、ヘロンがいびきをかいたり、フェザントが歯ぎしりをしたり、ジェイが寝返りをうったり──その中でカイトは、寝ている時も泰然自若としている。

 初めて見た人は、(生きているのか?!)と口元に手を当てて、息をしていることを確かめたくなるほどだろう。

 そんなカイトの傍に佇んで、少し考えてから、ユエは静かにその横に潜り込んだ。
 いつもなら、近くで人の気配を感じたり、まして触られたりすれば、カイトは起きるのだが──ベレン卿の館内だということで、少し気を緩めていたようだ。

 カイトが起きないのをいいことに、ユエはそのまま腕に擦り寄った。

(わざわざ起こして、俺の部屋まで連れて行ってもらうのも、悪いし……)
 心の中で言い訳しながら、心地いい体温を享受して、ユエは眠りについた。


******
 翌朝──暖炉の火が消えても暖かい左側に、部屋の主は困惑して目を覚ますことになる。
「……お前、なんで、いる?」
「ン……自分の部屋、分からなくなって……」
 眼を擦りながら、カイトに対しては恥ずかしいとは感じずに素直に答える。

「……自分の部屋も分からないのに、何で俺の部屋が分かったんだ?」
「……ジェイが教えてくれた」
「ジェイ?」

 訳が分からないカイトだが、そこまで尋ねたところで、まぁいいか、とあくびをする。

 何だかんだで、カイトもユエが隣に寝ていることに慣れてしまっていた。

 ちなみに────薪の管理は最初に『自分でやる』と言っておけば、使用人は入っては来ない。
 ジェイは言っておいたのだが、彼に気がある使用人が、寝酒を理由に突撃して来たのだった。と言っても彼女も、一度断ればそれ以上しつこくすることはない。

 実はユエのところに薪を持って来ていた女性も、ベレン卿が『ユエが気に入れば』と手を回して、『子作り相手候補』として送り込まれた者だったのだが……ユエがそれに気づくことはなかった。

 ジェイとユエ以外に、クレインの部屋にも『子作り相手候補』が現れていたのだが──「絶対に誰も入って来ないで」と扉も開けずに突っぱねている。

 この複雑な部屋割りは、この訪問のためであったのだ。他の部屋に、女性たちの訪れが気づかれないように──という。

 ベレン卿のお貴族様らしいこの『お遊び』は、残念ながら一行の誰にも受け入れられることはなかった。それどころか、ベレン卿に対するクレインの心証を、より一層悪くする原因となるだけであった。


******
 捜査二日目。
「決して一人にはなるな。俺たちが被害者になっては洒落にならん」
 というカイトの忠告で送り出され、今日は四組に分かれて情報を集めることになった。

 ヘロンとフェザントは、人身売買を想定して、町の裏の人間たちに近づく組。
 どれほど大きく豊かで法の整った町であっても、必ず表があれば裏ができる。そういう者たちは、表の人間より秘密主義で団結力がある。

 だがヘロンは、その中にもするりと入り込んではかき回し、そして情報とついでにお小遣いも掠め取って来るのだ。
 それをフェザントは、ハラハラしながら見守って、まずい!!と感じたらすぐに、ヘロンを小脇に抱えて一目散に逃げるという役割分担だ。

 クレインとジェイは、再びギルドへ。ワグナーが調べてくれている被害者以外にも、ギルドの傭兵の中に行方不明者がいないか、ギルドの職員や傭兵たちの間のうわさ話を集めている。

 アイビスとラークは、領民の中の情報通、つまり奥様方から話を聞く役割だ。商家や宿屋が並ぶ中央を離れ、民家や農家、牧場がある郊外へと足を向けた。

 そしてカイトとユエは、酒場巡りをしている。
「二週間ほど前に、こんな男が酒を呑みに来なかったか?」

 宿屋の女将の記憶から起こされた似顔絵を手掛かりに、一軒一軒訪ね歩いているのだが──

「さあねぇ~?」
「覚えてねぇよ」
「う~ん……悪いねえ……」

 時間が経っている上に、さすがはベレン領、どこも客は多く、一見客など覚えている店はない。

 それも、その男が本当に酒場に行ったかどうかも定かではないのだ。酒場に辿り着く前に──そういう事態も考えられる。

「……見つからない、な……?」
「まぁ、あまり期待はしていなかったがな」
 肩を上げるカイトは、言葉通り、そう上手くいくとは考えていない。
 カイトたち以前にも、似顔絵はなかったが、タヴァレスが探し回ったのだ。それでも糸口さえ見つからなかったのだから。

 歩き回った二人は、ちょうど昼時に入ったその店で、そのまま休憩を取ることにした。

 ベレン領の酒場は、昼間は食事を出すところも多い。この店でも多くの客が、ベレン領ならではの、味も見た目も凝った料理を味わっている。

「カイト……」
 料理を食べ始めてから、ユエがふと声をかける。

「何だ?」
「……この人、も、あそこで……俺みたいに、売られ、るのか……?」
 カイトは料理から目を上げて、ユエが指した似顔絵にちらっと目を向けた。

「いや、」
 少し言葉を選んで続ける。
「……こんな言い方は悪いが、普通の男は、オークションに出されることもない」
「……?どういうこと?」
「オークションにかけられるのは、お前のような……貴重、というか希少というか、とにかく大金を払って貴族やらが欲しがるモノだけだ。この男はおそらく──人身売買なら、だが──そのままどこかの戦場に送られるか、労働にでも回されるのか……」

「そ、う……」
 目の前の料理に目を落とし、(俺みたいに、この人のこともカイトが助けてくれたら──)そう考えてから、(いや、)と思い直す。
(カイトが俺を助けてくれたみたいに、今度は俺が──……カイトだけに頼るんじゃなくって、俺もできることをがんばろう)

 そのためにまずは──と、力を貯めるためにも、食事に手を伸ばした。

 だがそのユエの決意も、各々の努力も虚しく、この日も手掛かりを得ることはできなかった。
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