三鍵の奏者

春澄蒼

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第六章 追憶の海に花束を浮かべて

94 これから※

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 未来を口にした瞬間、視界がパッと開けた。
 狭窄的になっていた視野が広がって、目の前にあった薄布が取り払われたように、世界がくっきりと見えるようになる。


 カイトは生まれ変わったような新鮮な気分で、世界の美しさに触れる。


 海は青く澄んで、砂浜は白い。
 空も突き抜けるように高く、太陽が眩しい。
 岩壁はゴツゴツと逞しく、木々の緑は深い。

 そして何よりも、蒼い瞳に蒼い髪、虹色の鱗──ユエの美しさを再認識する。



 視覚が明瞭になったのをきっかけに、他の感覚も研ぎ澄まされて敏感になっていく。

 肌に触れるユエの肌の温かさ。
 髪をなびかせる風の気持ちよさ。
 波の音や鳥の声。
 潮の香り。


 取り払われた薄布は、世界とカイトを隔てるものだった。それがなくなって、カイトは初めて、世界に直接触れたような気がする。


 初めて、この世界に受け入れられたような、この世界の一員になれたような、この世界に参加できたような、そんな感覚──(いや、違うな)

 カイトは己の認識を改める。

 世界がカイトを受け入れたのではなく、世界を受け入れたのだ。

 ずっと世界から拒絶されていたように感じていたが、それは大きな間違いだった。
 拒絶していたのは、カイト。
 変わったのは世界ではなく、カイト。


 どうして自分だけがこんな目に──物分かりのいい顔で受け入れたつもりで、その実、運命を怨んでいたことを、今やっと素直に認めることができる。

 そして怨みを認めて初めて、感謝も湧いてくる。

 カイトは生まれて初めて、運命に感謝した。
 別れという試練の前には、必ず出会いという祝福がある。奪われることばかりに目が行きがちだったが、運命はちゃんと与えもしていたのだ。



 怨みと感謝──二つの相反する感情が、カイトの顔を泣き笑いというせめぎ合いに誘う。
 せめぎ合いの結果、勝ったのは、涙だった。



「カイト……大丈夫だよ、カイト」
 さっきは笑っていたと思ったら、今度は泣いたりと不安定なカイトを、ユエは穏やかな声で慰めてくれる。「泣かないで」ではなく「泣いていいんだよ」と肩をさする手に導かれて、カイトも止める努力を放棄する。



 涙など、三百五十年の記憶にも終ぞ見当たらないものだったのに、一度緩んだ涙腺は次々と雫を送り出してくる。

 昨夜の涙は、カイト自身にもよく分からない様々な感情が混じり合ったものだったが、今溢れてくるのは、間違いなく負の感情に由来するものだ。


 孤児院時代、鉱山生活、実験の日々、そして、たくさんの別れの瞬間──過去三百五十年分の、泣けなかった涙たち。
 その涙たちは、どこかへ消えてしまったのではなく、ずっとカイトの中に溜まり続けていた。

 溜まりに溜まった涙と共に、押し込めていた負の感情が、身体の中から外へと押し流されていく。


(ああ、これは、必要なことだったんだな)
 運命や世界に対して恨み言を言っても仕方がない、負の感情を露わにすることは自分も周りも不快になるだけだと、カイトは自制してきたが、それも間違いだったのだと気づく。

 泣くという行為は、己のために必要だった。
 悲しくて泣く、楽しくて笑う──感情と連動した表情を浮かべることで、心だけでなく身体もその感情を実感する。そうすることで、感情はより深く浸透していく。


 壁を乗り越えるためには、まず、その壁をよく知らなければならない。
 悲しみや苦しみを乗り越えるためにも、まず知ること。知って、理解して、分析した先に解決法はある。


 カイトは過去のひとつひとつの出来事を、これは悲しかったのだ、この時は苦しかったのだ、と思い出していく。
 みっともなくわめき散らして、子どものように駄々をこねて、声が枯れるまで泣いて──そうしたくて、でもできなかった過去の自分を、労わり、慰める。


 悲しみや憎しみ、悔しさ、恐怖……ドロドロとした負の感情そのものが流れ出るように、目から流れるものが黒く粘っこく感じられて、カイトはそれを確かめるために指で頰を拭ってみる。

「……あたた、かい」

 指に乗った涙は、当然のように透明でさらさらしている。そして、予想よりも温かく肌に馴染んだ。


 浄化されている──カイトに不思議とその言葉が浮かんだ。


 身体の中にあった時はドロドロとしていた負の感情が、涙として外に出ることで透明に浄化されていく。
 溜まっていたおりがなくなると、こんなに綺麗な感情があったのかと自分で驚くほど、純粋な愛情だけが残っていた。


「……本来は単純なことを、俺は自分で勝手に複雑にしていたのかもしれない」
「カイト……?」
「俺はただ、泣けなくて苦しかっただけなのかもしれない」


 涙が自然に止まるまで、ユエは肩や背中をさすって見守っていてくれた。その仕草や瞳からは、包み込むような大きな愛情が伝わってくる。
 カイトはそれに、思い切り甘えた。


 遥かに年下のユエに甘えるなんて情けない──などとは思わない。ユエが持つ強い心を、カイトは認めていたからだ。

 子どものようだと侮っていたユエの素直さは、強さだった。素直に笑って、泣いて、感情を表すことで、自分の心を整理する方法を知っていて、だから立ち直りも早い。

 溜め込んで動けなくなってしまったカイトよりも、泣き方を知っているユエの方が、しなやかで折れない強さを持っている。


 三百五十年生きていても、カイトは涙を流す意味も、涙の温度も知らなかった。
 こんなことも知らなかったのか、と自分の無知を突きつけられると同時に、教えられることばかりだ、とユエに対する感謝が沸き起こる。


(そうだ、感謝すべきは世界や運命じゃない。──ユエに、だ)


 生まれてきてくれてありがとう、出会ってくれてありがとう、好きになってくれてありがとう、希望を示してくれてありがとう──。

 カイトの心を占める愛情に、敬意が混じり合うことで、ますます純度が高まっていく。


 昨日よりも今日、さっきよりも今──もうこれ以上はないと思っていたのに、愛おしさは底も天井もなくどこまでも広がっていく。


 ユエの素直さが乗り移ったように、カイトの口は勝手に言葉を紡いでいく。


「……ユエ」
「うん」
「ありがとう」
「ううん」


「ユエ」
「うん」
「好きだ」
「俺も、大好き……!」


「ユエ」
「うん」
「……俺と一緒に、生きてくれるか」
「っ、うん……!」
「手伝ってくれるか?助けて、ほしい……俺は、本当は──」


 懇願しながらカイトは、ユエが与えてくれた希望がさらに大きな光となっていくのを感じていた。


 これもまた、ユエが教えてくれたこと。

 カイトが誰よりも時間をかけて、誰よりも知識を集め、そして誰よりも切実に望んで、そうして出した『別れ』という結論が、ユエにひっくり返された。
 それはつまり、カイトひとりでは辿り着けない場所にも、誰かの力を借りれば到達できるという事実を示している。


 カイトの、不死や不老という問題を解決するために必要なのは、知識だけではないことに気づかされたのだ。

 知識から、知恵へ繋げること。
 積み重ねた事実から、新しい発見に導くこと。


 同じ知識を持っていても、カイトには思いつかないことを、ユエなら思いつくことができる──その証明は、カイトの目を覚まさせた。

 迷路の袋小路に迷い込んだカイトは、そこで諦めた。しかしユエは発想の転換でもって、壁に穴を開けてしまった。
 規則ルール違反でも、正しいルートでなくても、壁の先にも世界が続いていることを、ユエは教えてくれたのだ。



 カイトが腐らせて倒れてしまった大木の後に、ユエが新たな種を蒔く。大木は消えてなくなったのではなく、形を変えて養分となり、希望の芽を育ててくれる。
 ──そうしてカイトの中に、新たな希望が芽生えた。


 死を先送りにするだけではない。
 共に生きるだけでは足りない。
 死後の約束だけでは満足できない。


「──奇跡が、ほしい」


 絶対に叶わないと最初から諦めていた望みが、口をついて出る。

「世界のどこかに魔法使いが待っていて、呪いを解いてくれる──『そんなことあるはずがない』と言っておきながら……俺が一番、奇跡を望んでいるんだ。『普通』という、奇跡を」


 他の人にとっては何もせずとも当たり前に待っている未来を、カイトはのたうち回った末にやっと求めることができる。


「ユエ、俺は──お前と一緒に年を取りたい。共に生きて、共に老いて……普通に生きて、自然な死を……」
「カイト……」
「……荒唐無稽だと、思うか?」

 自分がどれだけの無茶を言っているのか、自覚があるカイトは、最後に弱気になって付け足した。
 それに対してユエは、ぶわっと頰を上気させて「思わないよ!」と即座に否定する。

「荒唐無稽なんかじゃないよ!奇跡は起きるもの!俺は知ってるよ!!」
『人魚の鍵』を掲げて、ユエはもう一度、今度は自分にも言い聞かせるように言う。
「奇跡は、起こるよ」

「……お前が言うと、不思議と大丈夫な気になるな」
 カイトもユエもどちらも、それがどれだけ淡い希望か分かっている。分かった上で、カイトはユエに言い切って欲しかった。

 カイトの心のどこかには、これは過ぎた望みだという引け目がある。
 本人にとっては呪いにしかならない不老も、道半ばで命を落とした人たちからすれば『祝福』と羨まれても仕方がないこと。

 永遠の若さを与えられ、さらに愛する者を手に入れて、それでもまだ満足しないのか、とカイトの中で響く強欲をなじる声を、外からかき消して欲しかったのだ。


「どこにもそんな方法はないかもしれない。それでも、俺は探したい。……ユエ、一緒に探してくれるか?」
「っもちろん、一緒に探そう!」

 カイトが慣れない調子で頼むのを、ユエは意気込んで頷いた。頼ってもらえるのが嬉しいという気持ちが、その表情からありありと伝わってくる。

「俺ね、カイトと一緒なら、なんだってできる気がするんだ」
「……俺も今、同じことを思っていたところだ」

 楽天的で根拠のない自信が湧いてくるのは、互いの存在こそが奇跡だということを知っているから。
 二人が出会い、惹かれ合い、愛し合う──ユエが言うように、奇跡は確かに起きている。

 何よりカイトが確信したのは、ユエと一緒ならばどんなに険しい道でも楽しんで進むことができるということ。
 進んだ先に望むものがもし無くても、その道中を後悔することはないという確信が、カイトを楽にしていく。


「これから……」ふと呟いたその言葉が、曖昧だった未来に形や色や匂いを与えて、カイトはその多様性に衝撃を受ける。
 これから何をすべきか、ではなく、何がしたいか、と己に問いかければ、未来は果てのないほどに広がっていく。


 故郷を訪ねてみたい、とカイトは初めて思った。
 スミュルナの景色をもう一度見たい、とも。

 それはどちらも、ひとりではとても行く気になれなかった場所だが、ユエが一緒なら怖くないと思えた。

 あの場所をユエと一緒に訪ねたい。
 あの美しい景色をユエに見せたい。
 美味いものを食べさせて、知らない花を教えて、その土地の衣装を着せて──喜ぶユエの顔を見たい。


 一度は諦めてしまった未来を、カイトが完全に取り戻した瞬間だった。


「これから──どう、すればいいのか」
 そしてやりたいことは選べないほどあるのに、最終目的地である不老の解消については、どの方向に足を向けていいのかすら見えてこない。

 頭を悩ませかけたカイトは、「う~ん……」と一緒になって首をひねるユエを見て、学んだばかりのことを忘れそうになっていた自分を反省する。

 ひとりで悩む前に、相談を──と、さらにその前に、カイトは自分の要求ばかりでユエの意見を聞いていなかったことに気づいて、聞きかけた言葉を変えた。

「ユエ、お前はこれからどうしたい?」
「えっ、おれ?」
「俺はさっき言ったように、不老をどうにかする方法を探したい。だが……そのためにどう動けばいいのかはさっぱり分からん。だから、お前の意見を聞かせてほしい」
「ん~……どうしたいかって訊かれたら、俺は──」

 ユエの答えは明確だった。
「──『妖精の鍵』を見つけたい」


「そこに、なにか手がかりヒントが隠されている、と?」
「ん~……ただたんに、『鍵』ならなんかすごいことができそうって思うだけなんだけど……」
「……『妖精の鍵』を探すことは、『妖精の国』を見つけることにも繋がる、か。俺としては『鍵』そのものよりも、『妖精の国』に残る歴史や知識の方に手がかりがありそうな気がするな」

「それにね、カイトのことに直接関係なくても、『妖精の鍵』を探す意味はあると思うんだ」
「と、言うと?」
「もっと『人魚の鍵』について知るためだよ。ほら、俺がいつか不死になる時のために、詳しいやり方が分かってた方が安心だし」


 ユエがあまりに気楽な調子で「不死になる」と言うものだから、カイトもついつい「そうだな」と簡単に相槌を打ってしまう。


「そうなると結局、最初の予定と変わらないってことだね」
 これだけ心情の変化を経たのに、最終的には元いた場所に戻ったことがおかしいのか、ユエは脱力したように笑う。

 それを見ていると、またグダグダと考え込みそうだったカイトも、何とかなるかと力が抜けていく。
 ずっと長期的な展望ばかりを見てきたカイトだったが、それで動けなくなるくらいならばいっそのこと、今はもっと近くだけを見ていようと、気楽に構えることにして。



「ああ、そうだな。当座の目標は変わらず、『妖精の鍵』と『妖精の国』の探索として……と、その前に東の人魚のところへ行かなくてはな。それまでにやることといえば──」

 次に行く場所、明日やること、これからすること──と予定を近づけていくと、はっきりとした道筋が見えてきて、カイトの口調も自信に満ちていく。


 この時、ユエが一瞬泣きそうな顔をしたことに、カイトは気づかなかった。


「まずは、みんなにもきちんと話をしなくてはな」
 カイトが同意を求めた時には、ユエの顔に安堵の笑みだけが残っていた。

「ん、そだね。みんなも心配してたみたいだし、安心させてあげなくちゃ」
「……それから、選んでもらおう」
「選ぶって?」
「ここでか、これからも俺たちの旅に付き合ってくれるか──これから先は、完全に俺の……俺たちの私的な目的の旅になる」


 目的地は変わらずとも、求める意味は大きく変わっている。

 これまでは世界のため──というと大げさだが、もう少し公共性の高い目的のために、カイトは『妖精の鍵』を探していたつもりだ。
 カイト自身の謎を解き明かすということはすなわち、世界の謎を解き明かす、だとか、人類の起源を辿るため、という大義名分に繋がることでもあったから、危険な旅にも仲間たちを巻き込めた。

 しかしこれが、己の幸せを求めるという個人的な目的のためになってしまうとなると、彼らを連れて行くことをカイトは躊躇せざるを得ない。


「うん……うん、俺たちだけで勝手に決めちゃだめだよね。みんなとも相談しなくちゃ」


 ふたりきりで閉じこもった優しい世界から、外へと目が向けられ始める。


「相談……そうだな、一人より二人、二人より、もっと大勢で知恵を出し合えば、俺たちだけでは出てこない意見も出てくるかもしれん。……うん、一度みんなの所へ戻って、話してこよう。ついでに真水で身体を洗った方がいい。服も洗って、着替えもして……」

 心が定まると、カイトの行動は早い。
 さっそく今からと立ち上がろうとしたカイトだったが──「え、や……!ま、まって!」くんっと引き止められる。

 ユエはこの展開の早さについて行けていなくて、はやる馬をなだめるようにカイトの腕を引っ張る。


「ユエ?」
「……まって、カイト!あとひとつ、ちゃんと確かめておきたいことがあるの……っ」

 焦ったような、思い詰めたような様子に、カイトに再び緊張が蘇る。

「どう、した?」
「あの、ね……」
「ああ」
「あの、おれたちって」
「うん?」
「俺たちって、その、こっ──」


 そうしてカイトは、またユエに教えられる。
 雨が降った後には、太陽が待っていることを。
 希望の芽が育つためには、雨も太陽も──涙も笑顔も必要だということを。


「──こっ、恋人になったって……!」「……あ?」「お、思っていいんだよねっ?!」


 間抜けな声を出したカイトと、至極真剣なユエは、対照的な瞳で見つめ合う。

「……」「………」の後に、「は、ははっ」カイトは笑顔を弾けさせた。

「ふ、ははっ、今さらそんなこと……!こんな改まって訊くことかっ……?!」
「う……だ、だって」
「好きだって言ったろう?」
「そ、ぉだけど……!でも、でも!お互いが好きでも、ちゃんと『恋人になりましょう』って言わなきゃなれないんじゃないかって思って……!」

「……ふむ、それは確かに真理かもな」
 察しろというのは自分勝手だったかと、カイトはユエの言い分を認めた。
 そして照れ臭さを誤魔化すように、「あー……」と勢いをつけてから──


「ユエ、俺の恋人になってくれる、か?」
「っ、うん!もちろん……!か、カイトは?俺の恋人になってくれる?」
「ああ、もちろん。……ふっ、なんだこれ、ガキみたいだな」

 そう言いながらも、カイトは楽しそうにユエの頰をくすぐる。

「でもユエ、本当にいいのか?」
「ふ、え?」
「俺は本当は三百五十才の年寄りで、色々と面倒なことばかりで、さっきまで情けない姿を見せてばかりだったのに……幻滅したんじゃないか」

 冗談めかしたカイトだったが、一抹の不安はあった。それを否定してもらうためにあえて尋ねたようなもの。

 ユエはここでも、期待を軽々と超えてみせる。

「年齢はあんまり……う~ん、本当は四十才だとか、六十才だったら、なんか現実的リアルで気になったかもだけど、三百五十才って言われると、もういいかなって」
「……そういうものか」
「あとね俺はむしろ、カイトの弱いところを見るの、好きなんだ」

「なんだ、それ」
「あ、好きって言うとなんか変かな。弱音も言ってほしいっていうか、弱みも見せてほしいっていうか……俺だけにそういう顔を見せてくれると、なんか嬉しくなるし、胸がぎゅーっとなるし、もっとそばにいたいって思うんだ」


 そのはにかんだ笑顔に、外へと大きく開いた扉をカイトは無視したくなる。
 あと少しだけ、二人きりの時間を堪能したい。


「……そばに、いてくれ。俺はお前がいないと……泣くことも笑うことも忘れてしまう」
「カイト……」
「そばにいて、こうして笑わせてくれ」

 口角が上がったままの唇を、ゆったりと押しつける。それは神聖な気持ちからくるもので、微塵も情欲が湧いてこない口づけだった。

 ──しかしユエのこの台詞で、そんな厳かな雰囲気は吹き飛ぶ。
「ん、ふふ。恋人になって、初めての口づけだね。カイト、ね、もっと──恋人の口づけキス、して」



 膝に横抱きにしたユエに、要望通りの口づけを贈る。じわじわと顔を出そうとする情欲は抑え、愛情だけを込めて。

 ちゅっ、ちゅっと軽い音が何度も続いて──先に舌を伸ばしたのは、ユエだった。

「く、ふ……んん……ん、ふ」
 舌先だけを絡ませて、唾液が溢れる前に唇を離す。このまま続けていると唇がくっついてしまうのではないかと、そんなおかしな想像が浮かぶほどに、二人の身体も心も蕩けている。


 仲間たちの元へ報告に行くのではなかったのか、と戒める声を、カイトは都合よく聞こえなかったフリを決め込む。
 潤んだ瞳で見つめられ、熱い吐息とともにこの誘いを向けられては、そうする他なかったのだ。


「カイト、ね、ぇ……恋人の交尾セックス、しよ」


 欲望にも素直なユエが、カイトは可愛くて仕方がないのだから。


******



 開放的な浜辺で、人魚の姿のユエを思う存分昂ぶらせてから、コテージへ戻り、人間の姿になったユエと繋がる。

 ユエの身体は、昨夜から蓄積された愛撫でとろとろに弛んでいて、そこへさらにカイトの熱源を突き立てられて、境目がなくなるほどに融けていく。


「あっ、カイト、ぉ……っ、あつい……!も、ぜんぶ、きもちい……っ」
 挿入だけで、ユエは感極まって涙を流す。

 ユエの中はぞわぞわと妖しくうごめいて、一時たりとも油断できないくらいにカイトを追い立てる。
 その衝動に唇を噛んで耐えたカイトは、こちらは全く我慢する気のないユエを見下ろして、上気する肢体を視線でなぞっていく。


 肩にかかるかかからないかの蒼い髪が、白いシーツに広がって、いつもより鮮やかに見える。
 つかみどころのない水のように、指の間に挟んでさらさらと流すと、毛先が首をくすぐって「んっ」ユエの顔が横を向く。

 露わになった耳に、舌をまとわせる。
 耳殻を甘噛みし、中まで唾液で濡らして水音を鳴らすと、ユエは切なそうに目を閉じて震える。

「は、ン……ぐちゅぐちゅ、って、あたまのなかに響く……っ」
 そう言ってユエが止めるころには、耳の周りの髪まで唾液でべとべとに濡れていた。

 濡れてまとまった髪を、カイトはそのまま舌を使って耳へとかけてやると、すぐさま次の標的へと向かう。


「んやっ……!」
 尖らせた舌先で、閉じていたまぶたを持ち上げるように舐め上げる。ぱっと開いたまぶたの中に、蒼玉が艶めく。

「綺麗だ」
 言葉が先に出て、それから感情が追いついてくる。
「本当に、きれいだな。それ以上の感想が浮かばない。ずっと思ってた。どうしてこんなに綺麗なんだって」

「っ、カイト……!」
「甘そうだ……」

 身をよじるユエを押さえつけ、指で無理やり開かせて──べろん、と眼球を舐める。

「うっ……や、ぁ……っ」
 その倒錯的な行為に、ユエは反射的に身をすくめる。連動して、カイトを含んだままの後ろもきゅっと反応した。


「あ、あっ……」
「くっ……」
 二人してその波をやり過ごすと、ユエから「もう……!」とお叱りが飛ぶ。

「カイト、ちょっと怖かったよ……」
「そう、か?悪い」
「そんなとこ、舐めちゃだめ」
「それじゃあ……どこなら舐めていいんだ?」
「っ、そ、れは……っ」
「ここは?」


 カイトが指差すのは、まだ触れられていない胸の粒。

「そ、こは……い、いよ」
 お許しをもらって、カイトはさっそく唇を寄せる。

「んっ」
 ちゅっと軽く口づけてから、唇で挟んでやわやわと揉み込む。芯を持ち始めたところで、ぢゅっぢゅっと強めに吸うと、薄桃の突起は美味しそうに膨らんだ。

「ユエ、こっちは?」
「ん、え?」

 これから、という時に肩透かしをくらって、ユエはぼんやりと聞き返す。

「反対も、舐めていいのか?」
 カイトは色づいた右側の実を放置して、今度は左の乳首をつつく。

「んんっ!いい、よ、いいからっ……うあっ!」
 さっきみたいに優しく始まるのかと思いきや、初手からギリっと歯を食い込まされて、ユエは胸を突き出すように跳ねた。

「やあ……!いたいっ、カイト、やだ……っ!あっん!」

 しかし抗議が終わらないうちに、ヒリヒリするそこはカイトの舌に包まれて、熱い粘膜の中で癒されていた。

「んーっ、ンんっ、あう……ン」
 ねっとりと口の中で転がされて、左の乳首はぽってりと水分を含んでいく。


「あっ、ねえ、ね、カイト?」
 しばらく左ばかりを可愛がっていると、放置されていた右側が空気に触れて疼いたのか、ユエの指がおずおずとしこりにかかる。
「カイト、こっち……んっ、こっちもなめて……!」

 ユエの導きに従って右に移動すると、ちゅぱっ、ちゅっ、とわざと音を立てて弾くように吸い上げる。
「は、ふぁ……っ、ンふっ、うっんん……!」

 そしてすぐに、「やだぁ……っ、ど、しようっ」ユエの口から助けを求める声が上がる。
「こっちも……!んっ、両方、舐めてほしいのに……」

 究極の選択だとでも言うように、ユエは泣きそうな顔をして、自分の胸のふたつの粒と、カイトの顔にあるひとつだけの唇を交互に見やる。

 本気で悩んでいるのがおかしくて、カイトは相好を崩して簡単な解決法を提案する。

「ユエ」カイトは自分の指に唾液をまとわせると、「こうすればいい」
 左をその指に任せて、ユエの目を見ながら舌を出すと、「あっ」見せつけるようにしこりを舌に押しつける。

「あっんん!」
 ぴんっと舌で弾くと同時に、指でも弾く。
 次は指と舌を交代して、同時にぐりっと押しつぶす。

「あ、すごぉい……、どっちも気持ちいいっ」
 お気に召したユエのために、カイトは何度も指と舌を交換しては、左右の果実を平等に喰らっていく。


 胸への愛撫の合間に、カイトは腰の律動も始める。
 ギリギリまで追い立てては、絶頂の寸前で動きを止めることを繰り返していると、風船が膨張するようにユエの中に快楽が詰まっていく。

「ああ……っ、あぁ……あ、はァ……っ」
 次第にユエは息をすることしかできなくなって、意味のある言葉も紡げなくなっていた。

 涙を溜めた蒼い瞳が、限界を訴える。

「う……っ、あっん!」
 ここだという瞬間に、カイトは一番の快楽を注ぐ。
 風船はもうパンパンに膨らんでいて、いつ破れても不思議ではない状態だ。

「あっ、あっ!ふ、あっん!!」
 前立腺を押しつぶす勢いで抉ると、ユエは腰を浮かせて奔放に喘ぐ。

「ンっ、んんっ、んーーっ!!」
 一番奥にぐりぐりと突き立てると、ユエはカイトの首に巻きついて声を殺して耐える。


 たらん、と力を失っているユエの前には、触れないことに決めていた。
 二人が繋がった場所だけで、達してほしい。


「ユエ、ユエ……っ」
「っカイト、ぉ……」
 名前を呼ぶだけで、通じ合う。


 ここから先は、本能の赴くままだ。


 手も足も絡み合って、どこでもいいから肌を擦りつけて、粘膜と粘膜を混ぜ合って──パンっ!と、風船は予備動作なくいきなり弾けた。

「っ!!……っ!」
 吐精することなく極めたユエは、声も出せずにびくんっびくんっと腰だけを大きく震わせる。
 その最高の瞬間に、カイトも一緒に達していた。

 ユエの中はびくびくと跳ねる陰茎に喜び勇んでまとわりつき、内壁に叩きつけられた精液が、腹の中をじわっと熱く濡らしていく様を、じっくりと堪能している。
 今なら、カイトから与えられるもの全て──例え痛みや不快感であっても──を、ユエの身体は快楽と認識してしまうのかもしれない。


 射精後の気だるい感覚の最中、カイトはゆっくりと己を引き抜いていく。
「ん、ふぁ……あ……」
 まだいかないで、とユエの中は引き止めてくるから、忍耐を最大限に発揮しなければならない。

 このままとどまれば、際限なく抱きつぶしてしまいそうだという予感が、カイトにあった。


「ユエ、ユエ?大丈夫か?」
 焦点が合っていないような瞳を覗き込む。

「ん、ぁ……あっ、んアっ」
 皮膚感覚が麻痺しているのか、頰を撫でられただけで小刻みに達しているようだ。


 カイトは髪に口づけを繰り返し、なだめるように肌をさすって、ユエが戻ってくるのを待った。


「かい、と……いままでで、いちばん、きもちよかった」
 ほう、と惚けた表情はドキッとするほど色っぽいのに、口調は言葉を覚えたばかりの子どものようにたどたどしくて、その二面性ギャップがカイトの胸をトスッと貫く。

「そ、うか。それは……よかった」
「もう、どうにかなっちゃうんじゃないかって、こわいくらい。こんなにきもちよくって、いいのって」
「そ……うか」

 横臥したカイトの胸に、はぁ、という熱い吐息がかかる。見上げてくるユエから壮絶な色香が漂ってきて、カイトの鼻の奥が重たくなる。

「ね、カイト」
「うん、どうした」

 ユエの身体に対する気づかいを忘れて、滑らかな背中を勝手に撫で上げようとするカイトの手。

「カイトも、きもちよかった?」

 手がピタリと止まる。


「俺ばっかりじゃなくって……カイトもちゃんと、一緒に気持ちよくなれた……?」
「ユエ、お前……」

 カイトの胸を満たしていくのは、春の陽射しのような心地いい温かさ。


 以前、陸の旅を始めたばかりのユエに、男同士の性行為の意味を問われて、こう答えたことがあった。
 ──『一般的には愛情を確かめ合うんじゃないか?それ以外なら快楽を追う。または支配欲を満たす』


 快楽のためでも、現実逃避のためでもなく、愛情だけを追求した性行為というものを、カイトは今初めて体験したような気がする。
 カイトは自分の快楽よりも、ユエを満たすことを考えていて、そしてユエも、自分よりカイトのことを考えていた。


「誰でもいいなら色欲かもしれないが、『その人しかだめ』なら、それは愛情──」
「え?」
「偉そうに言っておいて……知らなかったのは俺の方だったんだな」

 まだぼんやりとしているユエには、カイトの独り言のような反省は頭まで届かなかったらしい。

「カイト?」
 きょとんと聞き返されて、カイトは「いや、」と照れくさく笑う。そしてもっと直球な言い方に変えて、溢れんばかりのこの想いを伝えることにした。


「好きだと思って」
「……う、え?」
「ユエのことが好きだ。ユエだけだ。お前じゃないと、俺はこんなに抱きたいと思わない。お前とじゃないと、俺はこんなに深い快楽を味わえない」


「カイ、ト……っ」
 引きかけていた頰の紅潮が、じわじわと再び範囲を広げ、ユエが言葉の意味を理解したことを告げている。

「おっ、俺もだよっ、カイトのこと大好き!カイトじゃなきゃだめなんだ!自分でもほんとに分かんないくらい、どうしても好きなの……!ううん、好きだけじゃたりなくって──愛してる」


 そのたった五つの音が、カイトの心臓をぎゅんっと鷲掴みにした。その痛みは砂糖菓子より甘く、麻薬のように中毒性があって、一度知ってしまったら、もうとりこになるしか道はない。


「お、まえ……本当に可愛いな」
「……え、ええ?!カイト、今なんて──」
「なんでこんなに可愛いんだ……?顔だけじゃなくて、性格も……おまけに言うこともいちいち可愛い──くそっ」
「な、なんでちょっと怒ってるの」
「お前が!腹立つくらい可愛いからだろう……!」


 放っておいたら、自分でも何を言い出すのかか分からなくて、カイトは自分の口を塞ぐために、ユエの顔を引き寄せる。
「いっ……!」「ぐ……っ」

 勢い余って、ぶつけるような口づけになってしまう。二人は痛みに顔をしかめてから、自分と同じ表情になっている相手の顔を見る。

 間の抜けた沈黙の後、「ぷっ……!」「はっ、」二人は同時に吹き出した。

「ふ、ふふふっ」
「ははっ、はーぁ、ったく」


 ユエと一緒にいると、自分も知らなかった自分が次々と顔を出して、翻弄される。しかしカイトは、そうやって振り回されるのが嫌ではなくて、むしろ、楽しいばかり。


「大丈夫か?唇、切らなかったか?」
「うん、へいき」

 カイトの指がユエの唇を撫でると、ユエの指もカイトの唇に触れる。
 昨日と今日とで、数え切れない接吻を交わしたその表面は、熱を持って腫れている。

 さっきの失敗を繰り返さないように、今度は慎重に合わせにいく。
「ん……」うっとりとユエが目を閉じたのを確認してから、カイトもそっと視界を遮断する。


 飽きることなく、口づけに溺れる。


 素直になることの心地よさを知ったカイトに、身体も心も求めてやまないユエを我慢することなど、とてもできそうにない。

 あと少し、あと少し……とこの時間を引き延ばした結果──心配する仲間たちへの報告は、翌日に持ち越されることとなるのだった。


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