三鍵の奏者

春澄蒼

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第六章 追憶の海に花束を浮かべて

96 未来へ向かって※

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「つまり、鍵は純血でなければ使えないということです。『ドワーフの鍵』は純血のドワーフであるアスカだけが、そして『人魚の鍵』は」ユエは内心のドキドキを隠して、堂々として見えるように態度と口調に気をつけて「純血の人魚である、私にしか使えません」──はったりをかます。


 今日一番の動揺が東の一族を揺らす。

(う……ご、ごめんなさい……)
 嘘やごまかしが苦手なユエは、思わず心の中で謝ってしまう。といっても、これは全くの嘘ではない。状況証拠はそろっているが物証がない、というのが正直なところだ。


 だから東の一族から物証を求められないように、こちらが主導権を握り続けなければならない。


「どうぞ、確かめてみてください」
「た、確かめるといっても……」

 ユエが鍵を手のひらに乗せて突き出すと、先ほどとは違い、族長はそれを簡単に受け取ろうとはしない。鍵とユエを見比べながら、からだが逃げている。


「まず、私がやってみせましょう」
 ここまで東の一族とカイト一行の間を取り持つように待機していたメイが、すっと中央へと進み出た。
 これは予定通りの行動だったから、ユエもすんなりその手に鍵を託す。

「お、おい、待ちなさい──」
 族長から静止される前に、メイはあっさりと自分の胸に鍵を突き当てる。その時点で、ユエとの差は明確だった。鍵先と肌が触れた瞬間に光があふれたユエとは違い、鍵をぐいっと回してもメイには何も起こらない。

 鍵は、ただ肌の上を滑るだけ。


 すでにここへ来る前に何度か試していたメイにとって、この結果は想定通りだったし、何も起こらないことを見せることが目的ではあったのだが、それでも、冷たいだけの鍵を少しだけ憎らしく思うのは止められなかった。

「メイ……」
 未練を断ち切るように、自分には何も与えてくれなかった鍵を持ち主へと返すと、その手で夫の手を握りにいく。

 鍵の冷たい感触は、すぐに温かな人肌に塗り替えられる。

「……私の他に、試してみる者はいないのかしら?」
 メイが挑戦的に問いかけると、血気盛んな若者が我先にと名乗りをあげる。「慎重に」と呼びかける年長者を無視して先陣をきった一人が、ユエの手から奪うように鍵を手にすると、勢いそのまま胸に突き立てた。

 きゃっ、わっ、と悲鳴のような声が周囲から上がる。が、すぐにそれは安堵と落胆が混じったため息に変わる。
「なんだ。やっぱり何も起こらないじゃないか」

「次、わたしに貸してっ」
「わたしが先よ!」
「順番よ、順番!その次はわたしだからね、早くしてっ」

 鍵の争奪戦が始まったが、五人目になるころには肝試しのような興奮はすぐに薄れた。
 その後も鍵は人魚の手を転々としていくが、もはや誰も何かが起こるとは思っておらず、ただの『人魚の鍵』鑑賞会へと成り果てている。


 それを確認した一行は、仲間うちだけで分かるように小さくうなずき合うが、メイの気持ちを考えて誰も神妙な顔を崩さない。


『ユエは人魚の純血である』『鍵は純血だけが使うことができる』──この二つの仮説がカイトの口から語られたのは、東の一族との会談に出発する前のこと。
 そして今、多くの人魚たちの結果を受けて、状況証拠がもう一つ積み上がった。

 しかしこれでもまだ物証にはならない。──ならないけれど、この場はこれでいい。なぜならこの会談の最終目標は、東の一族に歴史を信じてもらうことでも純血を認めさせることでもなく──『人魚の鍵』の所有権をユエに渡してもらうためなのだから。


******




 ──「ユエも純血って……」
 ユエとカイトの間では幾度か議題にあがった仮説だが、仲間たちに語られるのはこれが初めてのことだった。

 だがカイトを──三百年以上生きている人間すら受け入れた頼もしい仲間たちは、驚きはしても「まさか」とは言わない。それどころかアイビスやヘイレンにいたっては、その可能性に自力で気づけたはずだと反省しているくらいだ。

「そうか、クウェイルの館での……」
 ヘイレンがこぼした言葉に、同じ場面を思い浮かべていたフェザントが先を引き取る。
「俺が『ドワーフの鍵』を試した時のこったろ?あの時は何も起こらなくて当然としか思わなかったが……もっとまじめに考えときゃよかったな」


「そう、だったわ。『ドワーフの鍵』がアスカには使えてフェザントには使えないっていう構図は、そのままユエと私にも当てはまることだったのね」
 自分の発言で周囲が気遣わしげな雰囲気になったことに気づいたメイは、それを吹き飛ばすようにもっとはっきり言ってしまう。

「だから私には『人魚の鍵』を使うことができなかったのね」


 メイとしては鍵を使えない、つまり人間になれないという結果は、もちろん辛いものだ。しかしメイとクウェイルは落胆を見せずにすでに前を向いている。

 特にメイは、自分でも意外に思うほどすっきりした気分だった。

(あれだけ何も……そう、何かが起こるような予感すらないのだもの。諦めるしかないわ)


 この話し合いが始まる前に、メイとクウェイルはユエとカイトに別室へ呼び出され、『人魚の鍵』を試す時間があった。
 目の前でユエにお手本を見せてもらい、メイの胸が期待で高鳴ったことは否定できない。

 しかしその高鳴りは、鍵を手にした瞬間にすっと胸の奥へと逃げてしまった。

 ユエから手渡された『人魚の鍵』は、メイに特別な何かを伝えてくれることはなく、拒絶とまではいかなくともただ沈黙していた。

 そしてその沈黙は何度試したところで変わることはなく、鍵はメイよりもよほど辛そうな顔をしたユエの元へと戻っていった。
 その時ユエから例の仮説を聞かされたのだ。


 メイとしては自分が鍵を使えなかった理由として、その仮説はよく納得できるものであった。いや、むしろ今は、そうであってほしいとさえ思っている。


「純血だからユエには使えて、私は純血じゃないから使えない──そういうはっきりした理由があってくれたほうが、私は納得できるわ」

 気遣いは無用というメイを尊重して、いつも通りの態度を貫こうとアイビスは議論を進めることにする。

「可能性が高いとは俺も思うけど……それ、もっとはっきりした目に見える証拠、みたいなものはないのか?」


「う……」羞恥心で顔を赤らめるのはユエ。
「うん、まあ……」と歯切れの悪い返事をするのはカイト。


 二人に代わって「それがね」と説明を始めるのはメイ。みんなより一足先に仮説を聞かされていたから、考える時間はたっぷりあったのだ。

「私も考えてみたんだけど……純血の人魚って見た目には、普通の男性の人魚と変わらないんじゃないかしら……?」


 純血であることを証明するもっとも簡単な方法は、無性であることを明示することだ。
 しかし人魚はドワーフとは違い、外見から見分けることは難しい。なぜなら人魚は生殖器が露出しておらず、男女であっても下半身はほとんど見た目に同じなのだ。


「男女なら上半身──胸の有無でわかるけれど、男性と無性って……胸がないことは同じだから上半身は変わらないでしょう?」
 簡単に同意が返ってくると思っていたメイは、話についてきていない周囲に気がついて、そこで人魚の常識と人間の常識が違うことを思い出す。


「その……」アイビスが言いよどんだのは、これからしなければならない性的な質問を、果たしてメイにぶつけてもいいのだろうかと迷ったからだ。
 だからなるべく特定の一人ではなく、全体に対するように質問する。

「その、俺は勝手に、普段は鱗の間に隠れているだけで、人魚も人間のような男女特有の器官が存在するのだと考えていたんだが……そうではないのか?」

「もちろん」カイトが回答者として名乗りを上げてくれたことに、アイビスだけでなく全員がこっそりホッとする。「人魚にも生殖器官が存在しない訳ではない。ただ人魚の場合はそれがぱっと見てわかるように露出していないんだ」


 カイトはまだ顔の熱が引かないユエのことは放置することにしたらしく、メイの後を引き取り、人魚の体の構造と生殖活動について教授してくれる。


「人魚の生殖は魚のそれに近い。人間のように女性の胎内に男性が射精するのではなく、男が女性の腹部に精子をふりかけるだけでいい。すると精子が自力で女性の胎内へと入っていく」
「自力で?」
「海水と一緒に吸収される、といってもいい。女性のお腹側の鱗と鱗の間に、生殖孔──わかりやすく言えば『あな』が開いていて、そこから精子が浸入して……あー、つまりまとめれば、人魚の生殖方法は人間とは違い、男性器と女性器の直接的な接触がないから、外性器を必要としないということだ」


 アイビスはここでカイトが言いたいことを理解できたのだが、ちんぷんかんぷんという顔をしているヘロンのために、あえて確認をする。

「つまり人魚の男性には……陰茎が、ない?」
「そうだ」

「ええぇーーー?!」
 そこでやっと話に追いついたヘロンが驚きの声をあげる。
「人魚ってちんこねぇのかよ?!」

 ここまで大きな声であけすけな単語を言われると、それまでの堅苦しい空気はどこかへ行ってしまう。
 さらに「うわー、人魚ってかわいそー」となぜか同情するヘロンが面白くて、一気にくだけた雰囲気になる。


「かわいそうかどうかはわからんが、まあ、利点も多いしそう悪いことではない」
「えー、そう?」
「というより、男女比が偏っている人魚はそのほうが効率がいいんだろう。一対多数での子作りには向いているし、女性の身体への負担も少なくなる」
「へぇー」


 カイトはヘロンが納得したことを確認してから、話を先へ進める。

「だから一見して、下半身に男女差はないように見える。が、それは一見しただけでは見分けられないだけで、本人の協力があれば目視で確認することもできる」
「あ、なーんだ。確認できるんじゃん」

 万事解決と油断するヘロンに、カイトは「男女なら、だ」と渋面を作った。

「女性ならば腹部側に精子を受け入れる『あな』があるが、男性にはそれがない。『あな』は鱗と鱗の間に隠れているため本人の自己申告なしではとうてい見つけられないがな。問題なのは──」
「問題なのは?」
「男性にも精子を放出するための『あな』がある──にはあるんだが、男性の場合それが排泄器官と一緒になっていることだ。人間の男とおなじように」


 そこでユエの様子をうかがうカイトだったが、小さく拒否を示しながら視線から逃げられてしまう。
 ここを追及するのはやめておいたほうがよい、と誰もが察したから、まとめに入ったカイトにおとなしく耳を傾ける。

「よって今の時点ではっきりしていることは、ユエが女性ではないという否定だけで、男性なのかはたまた無性なのかは、見た目だけでは判断できないということだ」


「見た目じゃわからない──でも、どっかに違いは出るはずだろ」ヘイレンはユエ本人に聞くよりも早いと、初めからカイトに質問を向ける。「精通、とか?」

「人魚の男は人間と違って、不定期な発情期ってものがあって、その時にしか性衝動は起こらない。だいたい十代始めに精通があるらしいんだが……」

 カイトもユエに確認してもラチがあかないことを分かっているから、同意を求める相手はメイだ。

「ユエは十九になるのか、だが、人魚の姿ではなかった、らしい。今までなかったというのは……?」
「う~ん……遅すぎる、とは思うけれどあり得ないとまでは……私には断言できないわ」
「まあ、そうだな。人魚の状態のユエに精通がきていないからと言って、それが純血だからなのか、ただたんに『まだ』なのかは、現時点で確認しようがない」


「つーか、ユエ、お前よお」そこでとうとう、ヘイレンの呆れ声がこの場の大多数が持っていた疑問を代弁する。
「自分で分かんねぇもんなのかよ、純血かどうか。なんかおかしいなとか、周りと違うなとか、自覚なかったのか?」

「……だって、誰もそんなこと教えてくれなかったもの」
 ユエの幼少期を知るのはカイトだけだから、ふてくされたような物言いの中に寂しさが混じっていることに他のみんなは気づかない。

「教えてくれなかったって……親は?だって純血ってことは……」
 クレインが語尾を濁したのは、ユエと親、家族、そして一族との関係の歪さを察してしまったから。

「父は……」それを証明するようにユエは言い直す。「中央の族長なら俺が生まれた時のことを証言できるかもしれない。でも……あの人は純血なんて存在、認めようとしない気がする」

 ユエは弱気に眉を下げると、カイトに語った時よりもかなり省略した自分の過去を──故郷での自分の立場や一族との確執を語った。

「あの人が俺の出生の秘密を隠したのは、たぶん俺に対する気遣いとか、一族を混乱させないためとか、そういう理由じゃないと思うんだ。ただ……自分の常識外のことを認めたくないだけな気がする」

 なかなか辛らつなユエの人物評に、中央の族長に会ったこともない他の面々が反論できるはずもなく、ここで手詰まりかという空気が流れ始める。──が、そもそもの目的を純血の証明においていなかったカイトは、飄々とこんなことを言い出した。

「まあ、ユエが純血かどうかの証明は、別に今すぐに必要なわけではないからな」
「え?」
「正直に言えば、東の族長に『ユエが純血だ』と信じてもらえれば、今はそれでいい」
「はあ?」
「そして『鍵は純血にしか使えない』ということも。そうすれば、鍵はユエが持つべきだと東の一族に思わせられるだろう?」
「んん?!」

 にやっと笑うカイトの顔は、悪巧みをたくらむ盗人にしか見えなかった。



******



 こうして作戦通りに進んだ会談だったが、鍵の鑑賞会で盛り上がって収拾がつかなくなった時点で一時中断となった。東の族長から「審議する時間をくれ」と頼まれたため、一行はその間、船に戻って待機している。

「……これ以上混乱させるのはさすがに気の毒、か」
 百年前に伝えそびれたユランの最期を、カイトはこの機会に伝えておきたいと思っていた。しかし、カイトの正体をどの程度まで明かすかは、族長の人柄を見極めてから決めるつもりだったのだ。

 信頼に足る人物ならば、真実──ユランの最期を看取ったのがカイト自身であること──を明かし、できることなら味方になってもらおう、と。
 真実を受け入れるだけの度量がない人物と判断した場合は、例えば、カイトはユランの仲間だった人間の子孫で、話を聞いたのだとかなんだか──という嘘をつこう、と。


 しかし先ほどの会談を思い出すと、信頼うんぬんではなく、純血という爆弾の後に不老の人間というさらに大きな爆弾を落として東の族長を混乱させるのは、申し訳ない気分になるカイトだ。


 どうしかものかと思案していると、「カイト!」呼ぶ声は海から。船の上から見下ろすと、いつの間にかユエの周りに人だかりができている。

 ユエは族長からの「もう一度鍵を使うところを見せて欲しい」という要望に応えたことで、今は人魚の姿だ。
 そして鍵は検証を続けるという族長に預けてきたので、待機中にぜひ話したいという人魚たちから人間になって逃げることができず、他の仲間たちが船に上がってもユエだけ海に留められていた。


 話し相手は最初、一行の案内役、兼見張り役でもあるだろう数人だけだったはずだが、会議に飽きた何人かが抜け出してきたようで、今やユエの周りには人垣ができている。

 注目の的となることに慣れていないユエからの救助要請だと思ってカイトが船を降りると、かけられたのは思いがけない言葉。

「カイト、お墓参りに行こう」
「墓……?ユランの、か?」
「そう!ユラン姫のお墓があっちをぐるっとまわったところにあるんだって」

 カイトの素性を知らない人魚たちは、ユエが人間を誘う理由がわからずに反対の声を上げているが、ユエはそれをまるっと無視する。
「泳いだほうが早いって」とぐいぐい海へ引っ張られて、心構えをする前にカイトは出発させられていた。


 ユエは案内人を置き去りにするくらい一直線に、カイトの手を引っ張って海を進んで行く。そして船の停泊場所から海岸線に沿って島をぐるりとまわると、移動方向は前向きから下向きへと変わる。

 島の壁に沿うように潜っていくと、ちょうど太陽の光が届くか届かないかくらいの深度に、ぽっかりと大きな洞窟が口を開けていた。


 そこへ入る前にもう一度、案内役の人魚たちからカイトを伴うことに対して異議が唱えられたが、ユエは一歩も引かず、さらにここから先は案内はいらないと言って人魚たちを困らせる。

「それはさすがに……ここは大切な陵墓ですから」
「大丈夫です、変なことはしないから」
「しかし……」
「……おれのこと、疑ってるんですか?」

 ユエはずるい言い方で人魚たちを黙らせると、それ以上何かを言われる前に強引に洞窟へと向かう。カイトはそんなユエに手を引かれるままに穴の中へと流されていく。

 洞窟は十分に二人が並んで泳げるくらいの広さがある。少し行くとだんだんと穴が上向いていき、最後はほとんど縦穴になる。水の道は海ほたるのすみかになっているのか、二人が揺らす波で幻想的な青い光が灯っていく。

「きれい……」
 ユエはその光に包まれて泳ぎ止まると、誰もついて来ていないことを確認するために後ろを振り返る。強引だったという自覚があったのか申し訳なさそうだ。

「でも……カイトが行かないと意味がないから」
 ユエは進みを再開しながら独り言のように言う。
「百年前はお葬式にも出られなかったんでしょう?やっとユラン姫に会えるね。鍵のことを報告するのも、おれじゃなくてやっぱりカイトの口から伝えるべきだよ」

 カイトの心情に呼応するように、その時、太陽の光が二人の目に届いて、それに導かれるようにひらけた場所に出る。

「ここが……」
 どうやら洞窟の全体像としては、漏斗ろうとの先っぽが少し折れたような形になっていたらしく、二人は本来の漏斗ろうとの使い方とは逆流したような形で円錐の根元にたどり着いたところだった。

 息継ぎが必要だったわけではないが一度海面から顔を出してみると、逆円錐状の壁は上へ行くにつれて反り返っていて、ここから地上へあがるのはかなり難しいことがわかる。人魚の陵墓らしく、人間の訪れはまったく想定されていない場所だ。

 自分は間違いなくここを訪れた一番最初の人間だろうなと、カイトは感慨深く見渡した。


 人魚の墓には、実は遺体は安置されていない。ドワーフのように火葬して遺灰を埋葬するのでもない。
 そもそも、一般の人魚は墓を作ることもない。

 人魚は遺体を海へと還す。
 葬流そうりゅうと呼ばれる海流に乗せて、死後の世界へと送り出すのだ。葬流そうりゅうに乗せた遺体は、二度との世界には戻って来ないと言われている。

 そのためこの陵墓に納められているのも、遺体そのものではなく、故人の遺髪と鱗の一部である。大きな二枚貝の貝がらの中に納めて、それをひつぎとするのだ。


 壁に等間隔で並んでいるのは、貝がらを加工して作った、両手のひらほどの大きさの扉──いや、もう一度開けられることを前提に作られてはいないから、扉とは呼べないかもしれないが──その中に歴代の東の族長やその血縁が祀られていた。


「カイト」
 カイトに代わって扉をひとつひとつ確かめていたユエが、目的の名前を見つけて静かな声を出した。

 ユランの名前が彫られた扉は他に比べると海面近くにあって、空からの光が文字を照らしている。それを指でなぞった時、カイトはやっと──それこそ百年かけてやっと──ユランとの別れを済ますことができたような気がした。

(遅くなったが……全部終わったぞ)
 鍵のこと、ジャン・ノーのこと、そしてカイト自身のことも、まとめてそのひと言に込めた。

 隣では目を閉じたユエが指を組んで祈り、カイトよりもよほど長く、詳しく報告をしてくれている。
 その静ひつな横顔を見ていると、墓参りという行為にあまり乗り気でなかったカイトも、区切りをつけるという意味では必要だったかもしれないと思えてくる。


 蒼の瞳がこちらを向くのを待って海面へと上がると、カイトは「ありがとうな」と色んな意味を込めてお礼を言った。
 ユエは感謝されるようなことをした自覚がなかったようで首をかしげたが、すぐに深く考えることをやめて、ふわっと笑ってカイトに寄り添ってくる。


 しばらくの間、話すでもなくただ手を握りあっていた二人だったが、夕日が射し込み始めた海面と水底に漂う青い光の対比コントラストがカイトにある着想イメージをもたらした。

「もしかしたら……お前が生まれたのはこんな場所だったかもしれないな」
「え……?」

 自分でも何を唐突にと思うカイトだが、一度浮かんだ想像はあたかも自分の目で見たようにはっきり細部まで脳裏に残って消えない。


 ──深い海の底、闇の中からひとつの光の塊が浮かび上がってくる。点滅を繰り返すのは、赤児ほどの大きさの青い泡沫ほうまつ。やがてそれを幾人かの人魚が見つける。そして好奇心に満ちたひとりが、おそるおそる指で触れる。と、ぱちんと泡が弾けて、まばゆい光とともに──。


 アスカの誕生の話を参考にドワーフから人魚に主役を置き換えれば、この想像に行き着くことはそう難しくない。
 そしてユエから聞かされた故郷の話を思えば、その先の孤独も容易に想像できる。


 ──事の顛末を報告された族長が、海から生まれた子に向けるのは奇異の目。発見者たちに口止めをし、表向きは自分の子として扱いながらも、一度も腕の中に抱くことはない。
 族長はその子を、異物として恐怖したのだ。
 出生の秘密を知らない者たちにも族長のその態度は影響し、仲間から排除する空気が確立していく──。


 ドワーフとは違い純血の伝説を失くしてしまっていた人魚にとって、ユエの存在は恐怖すら感じるものだったのかもしれない。


 もし、アスカにとってのラサージェのように純血を受け入れてくれる存在がいたら、ユエの人生は全く違ったものになっていただろう。

 もしかしたらユエは、何の憂いもなく、一度も海を出ることなく一生を終えたかもしれない。
 もしくは、アスカがドワーフ王国の王弟に担ぎ上げられたように、権力争いに巻き込まれることがあったかもしれない。


 しかしそうであったならば、ユエは今のユエになることもなく、海を出ることもなく、そしてカイトと出会うこともなかったはず──らしくもなく変えられない過去に心を囚われていたカイトだったが、それをすくい上げるのはユエの無邪気なつぶやき。

「ほんとに、こんなきれいなところだったら、いいな」
「……ん?」
「おれが生まれた場所。……そっか、海から生まれたってことは、おれのお母さんは海、ぜーんぶ、なんだよね」

 ユエは手のひらをうつわにして海をすくうと、指の間から流れ落ちる一滴、一滴を愛おしげに見つめて、最後に胴上げするよう宙に放った。光を反射した水滴が、キラキラと二人に降り注ぐ。

 純血であることを親がいないと嘆くのではなく、こうして好意的に、前向きに変換できるユエのことが愛おしくて、カイトは自然と抱き寄せて──口づけていた。

「ん……」
 唇を軽く合わせた後、濡れた髪に指を絡めながら首を支えると、もう一度。いきなりで少し驚いていたユエも、すぐにうっとりと目を閉じる。


 そういえばここは墓地だった、と思い出すころには、互いの口内の温度が馴染むまでになっていた。
 それと同時にカイトは、もうひとつずっと確認しようと思っていた「そういえば」を思い出した。


「人魚の姿で初めて口づけをした時──」
「う、ん?」
「なにか気づいたことがあるようなことを言っていたよな、ユエ?」
「んん?」
「ちゃんと確認してから話すから、とかなんとか……あの時自覚したってことか、自分が純血だってことを」
「ああ、うん、そう」

 思い出すように目を細めたユエは、ふふと笑って「やっぱりちがう」と自分のお腹あたりをさする。

「ちがうって、なにが?」
「カイトとね、こうやって──」濡れて張りついた服の中に手を入れて熱い素肌に触れながら、ユエは口づけを再現すると、「口づけしたとき、人魚の姿と人間の姿だと感覚がちがうんだ」

「……体温がちがうからだろう」
「ううん、もちろんそれもあるけど、そうじゃなくてね」

 ユエは今度はカイトの手を取って、自分の下腹部へと触れさせる。

──」「お、い、ユエ……」「人間だとここがきゅうってなるんだ。カイトと繋がってるときみたいに、きゅうって。でもね、人魚だとその場所がないんだ。これってつまり、人魚のときには生殖器官?がなくなってるってことだよね?」

 これは……誘われているのだろうか、と一瞬悩んだカイトだったが、ユエの顔は新発見に得意げになっているようにしか見えない。

 どうやらユエには、接吻キスだけで感じていることを公言したという恥じらいはないらしい。

はよくて、は恥ずかしいのか……)
 カイトがいう『あれ』とは、二人の間で今現在、厳禁タブーとなっているある確認のことだ。

 男性の人魚と無性の人魚を見分けることは難しいという結論は間違っていないが、カイトは一応、見るだけ見せてくれないか、とユエに頼んだことがある。

 確認しておきたいのは、人間でいうところの尿道口にあたる部分。
 精子を排出するための精管が尿道に合流して、見た目にはひとつのにしか見えないはずだが、もしかしたら男性と無性でなにかちがいがあるかもしれないから、と。


 そこを人に見せることに抵抗があることは、確かにカイトも理解できる。カイトが不思議に思うのは、同じ箇所であるのに、人間の時には平気で人魚の姿になるとあれだけ恥ずかしがることなのだ。


 ユエの羞恥心をはかりかねて難しい顔になっていたカイトのことを、ユエはなにか勘違いしたらしく、慌ててこんなことを付け加える。

「あ、でもね、胸のあたりがきゅんってなるのは、人魚でも人間でもおんなじだよ」
「……そう、か」
「そう、だから」ぎゅっと抱きついて、上目遣いに誘惑される。「この姿のときも、いっぱい口づけキスしてね」

 無性で性欲などないはずの今のユエ──それでも口づけを求めるのは、愛情を伝え合うため。
 族長との会談の行方も、純血の証明も、これからのことも──難しいことは今は忘れて、カイトはユエの誘いに喜んで乗る。

 夕日はすでに、明日に備えて家路を急いでいる。
 この腕の中にある温もりだけを頼りに、カイトは今日という一日に別れを告げた。




******



 同日、同刻。

「世界がひび割れる……」
 少しずつ広がっていた目に見えない亀裂が、とうとう後戻りできないほどになっていた。
 それを知るたったひとりは、その背にある薄く透き通ったを羽ばたかせて、木の枝にそっと降り立つ。

「はやく、鍵を……」

 はかない祈りは風の音にかき消された。


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王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。 嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。 だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。 嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。 混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。 琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う―― 「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」 知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。 耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。

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