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第七章 孤独な鳶は月に抱かれて眠る
108 完璧の追求※
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警告※地震の表現、残酷な描写があります。ネタバレになりますが警告を優先しました。ご了承ください。
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ツギハギの化物がカイトの名前を呼んだ瞬間、ユエは恐怖に駆られてカイトの腕に縋った。怖い──一色の感情に支配されかけたユエだったが、自分の身体が震え出す前に、縋った先のカイトの身体がぶるっと戦慄したのを感じて、自分がしっかりしなければと踏み止まる。
ツギハギはガラスの箱の中でもどかしげに手を伸ばし、カイトに少しでも近づこうとしているようだった。
「カイト……必ずここに帰ってきてくれると思ってたよ。待ってた……ずっと待っていたんだよ」
その口からはたどたどしい幼児のようなセリフが発せられた。見た目とのチグハグさがさらに異様を際立たせて、気温だけでない寒々しさがキリキリとこの場の空気を引き絞る。
「お前はまさか……『エル』──マスティマ法王と呼ばれた男、か?」
カイトの語尾は揺らいでいた。
ガラス板の前の男から『法王様』と呼びかけられていたことで、その可能性にたどり着くことは容易だったが、何より最短で正解を導き出せることがカイトのカイトたる所以だろう。
情報を共有していた仲間だけが、ハッとツギハギを凝視した。
「カイト……!ぼくのこと、覚えててくれたんだね」
その顔に浮かんだのは、歓喜。それも、憧れの英雄を前にした子どものような、無邪気な。
そして肯定が返ったことで、再び戦慄に襲われる。
幼名『エル』、洗礼名『マスティマ』と呼称された元法王は、すでに死亡していたはず。その情報が間違っていただけだとしても、アディーン大司教と幼馴染であった『エル』ならば、年齢はとうに九十を超えているはず。
しかし水中のツギハギはどこからどう見ても、青年然としている。
肌はツギハギされた繋ぎ目がぼろぼろと剥がれているが、中に覗く筋肉は引き締まっているし、顔にはシワひとつなく、短いザンバラの神は黒々と光っているのだから。
マスティマ元法王を自称するツギハギは水中にいるにも関わらず、呼吸ができていて、会話も問題なくできている。しかしそれ以上に不可解な点が多すぎて、それを指摘する者はいない。
「そ……れ、そのからだ……肌は……?」
カイトの質問は義務感から発せられている。聞きたくないけれど、自分が聞かなければならない、という義務感から。
「ああ……恥ずかしいな。これはまだ途中なんだ。せっかくならカイトには、完成してから見てもらいたかったな」
「完成……?」
「脳を移すことには成功したけど、肌がぽろぽろと剥がれてしまって……応急処置で他のものを繋ぎ合わせているけど、この体はやっぱり合わなかったみたい」
「このからだ……?合わなかった……?」
「大丈夫、もうだいたい要領はわかったから。次は完璧にできる」
からだを乗り換えたのだ──ユエはもう何度目か分からない震えを背中に感じた。
水槽の中を満たしているのは、再生の水。その中でマスティマ元法王は、自前の老人のからだから脳を取り出し、誰かの若い肉体にそれを移した。
若返りに成功したかに見えたが、その後に拒絶反応が起こって肌の剥離が起こったため、それを修復するために他の人間の肌を奪い、貼りつけることを繰り返した。そのためツギハギ状態になってしまった──。
決して察しがいいとは言えないユエが、この結論にすぐにたどり着けたのには、前振りがあってこそ。
───『俺の中身を全て別の人間の中に移し替えたとして、それは俺か?それとも──』
カイトがずっと前に、再生の水の可能性──寿命を伸ばすことや臓器の移し替え──について言及していたからだ。
おそらく誰よりも早く真実に気づいていたカイトは、しかしこの現実を理解したくないというように、目を閉じて力なく首を振った。
しかし元法王はカイトの心情を汲み取ってはくれず、自らの蛮行を語る口調は誇らしげですらある。
見た目以上に、怪物なのは中身──次の台詞がそれを証明する決定打だった。
「これでぼくも、カイトに──完璧な人間に近づけた」
そう、これはまだ成功ではないのだ。
この怪物が目指しているのは、寿命を伸ばすとか若返りたいとか、そんな一過性のものではなかった。
老いた肉体を捨てて若いからだへと移り、そしてそのからだが老いたら、また次のからだへと移って──そうして次々とからだを乗り換えることができれば、それはもう、不死。
「ぼくはずっと、カイトになりたかったんだ」
愛の告白をするような照れをにじませた顔に、ユエは自分のからだから力が抜けていくのを感じた。
無理だ、と思ったのだ。
この存在を理解するのは、無理だ。
そして彼に理解させることも、無理だ。自分たちがどれだけ言葉を尽くしても、彼に自分の罪を認めさせることなどできない。
「もう、いい」
カイトも同じ気持ちだったのだろう。虚無感と諦めを携えて、顔を背ける。
「もう、なにも話すな」
しかし静かな声とは裏腹に、拳を血が滴るほどに握りしめていた。
カイトの感情は最後に怒りへとたどり着いたのだ。
静かな、烈しい怒り──それはこの地獄を作り出した当事者たちだけでなく、きっかけを作ることになった自分自身へも向けられているように見えた。
「カイト……っ」
ユエは血を止めるように、拳を両手で包み込む。怒りに軋んだカイトの身体から震えが伝わってきた。自傷するほどにギリギリと込められた力は、行き場をなくしてぐるぐるとカイトの身体の中を駆け巡っている。
だからユエは最初、その揺れを作り出したのはカイトなのではないかと思ったほど。
ぐらっ……!!
カイトの怒りにあてられて目眩がしたかと思った、次の瞬間、そんな精神的なものではなく物理的な現象が足元を揺らがせた。
「地震……っ!」
誰かしらの声に教えられて、足を踏ん張る。
支えようとした手を、同じく支えようとしてくれた手が捕まえて、四本の足でふたつの体を支え合う。
ドンッ!!!
地面の存在が不確かになるほどの、衝撃。
身体が一瞬浮いたと錯覚するほどの縦揺れは、壁際の棚に並べてあった瓶を一つ残らず床に叩き落として、ガッシャーン!ガシャッ!ガッシャン!!と耳をつんざく狂想曲を奏で続ける。
ユエの目はその瞬間の周囲の様子を静止画のように焼きつけていた。
とっさに身体を低くするアイビスとヘイレン。
フェザントはいつの間に捕まえたのか、ヘロンの上に覆いかぶさっている。
壁際の傭兵たちは落ちてくる瓶から身を守り、兵士たちは動揺しながらも捕らえた敵を離さない。
そんな中、背の高いガラスの水槽は揺れの影響を大きく受け、再生の水がバシャンと激しく波打った。天井がガラ空きの水槽から血涙に似た飛沫が降り注ぎ、門番のように元法王を守っていた男の頭上に襲いかかる。
「ひ、ひぃ~!!」
腰を抜かしてうずくまる元帥の息子。頭を抱え身体を丸めるその様は、生きることだけで必死な胎児に似ていて、いい大人が見せるにはあまりに滑稽な姿だ。
揺れていた時間はそう長くはなかった。
しかし、この巨大な水槽満杯の水が凶器になるには充分すぎる振動。
直接水槽の土台が傾いだだけでなく、揺れ続ける再生の水が後押しし、さらに──中にいたマスティマ元法王が動揺したのか助けを求めようとしたのかガラス板の前面にへばりついて体重をかけたことが、最大の原因となった。
「ひっ……!!」
グラっ……と水槽が土台を離れ、ゆっくりと前へ倒れていく。もしかしたらこの時、水槽の中のマスティマ元法王と水槽の前の元帥の息子が冷静に行動できていれば、この後の惨劇は防ぐことができたのかもしれない。
しかし二人は、その機会を逸した。
敗因は、どちらも自分の身の安全しか頭になかったことだ。
頭上からのしかかってくる巨大で頑丈で重たいガラスの水槽から、元帥の息子は一目散に逃げ出し、元法王は自分を受け止めろとばかりに手を伸ばした。
その結果、水とヒト一人分の体重が一緒に前へと滑り、水槽の傾斜はもう止められない角度になっていく。
「た、たすけ──」「逃げろ!!」
元法王の哀れな声を、ヘイレンの鋭い声が遮った。
ヘイレンの指示が向かう先は、逃げた元帥の息子に代わって水槽を支えようと一歩踏み出していた傭兵たち。
もう間に合わないという司令官の判断に従って、歴戦の傭兵たちはさっと飛び退ると、砕け飛び散るガラスに備えて自分の身を守る体勢を取った。
コマ送りのようにゆっくりと、透明な揺籠が倒れていく。
雷が落ちたような衝撃音に、ユエは思わず目をつむっていた。
おそるおそる開けた目に映ったのは、粉々に散乱したガラス片と、血を薄めたような色の再生の水がじわじわと広がっていく様子、そして水の中から投げ出されたツギハギのからだ。
マスティマ元法王は水槽が砕ける前にうまく滑り出たようで、尖ったガラスの中に飛び込まずに済んだため、見たところ切り傷から血が出るくらいのケガだけ──と誰もが判断しかけたが、「ひぃ……っ!」本人が悲鳴を上げると同時に、不可思議なことが起こり始めた。
「なっ……?!」
拘束しようと近づいた傭兵も、信じられないと目を見開く。
溶けた──それが一番相応しい表現だろう。
皮膚がどろりと溶けたのだ。ツギハギされた継ぎ目からなにか液体が漏れ出し、それに同化するように皮膚自体も形を失っていく。
それはまるで、本来の持ち主から奪われ囚われた肌が、再生の水から出たことで解放されたかのよう。
それは瞬く間の出来事。
皮膚の次は筋肉が、血管が、そして最後には骨までも、酸に溶かされているようにどろどろと爛れていった。
「──、──……」
眼球がずるりと抜け、歯も失った顔で、マスティマ元法王は最期にカイトを見た。
そして口を動かそうとしたが、もう舌も溶けた今となってはなにを言ったのかは誰にも分からない。
「たすけて」だったのか、「死にたくない」だったのか、それとも──「カイト」だったのか。
粘液は再生の水と一体化して床に広がった。
最初からなにも存在しなかったかのように、歯の一本、骨の一欠片も残さずに。
******
「……被害の状況を確認しろ!」
最初に動き出したのは、ヘイレン。「怪我人の手当を急げ!」と傭兵たちに強い口調で命令を飛ばす。
「崖の近くや湖のそばにいる者たちを移動させろ」
冷静な声が続いた。地震の少し前に到着していたベレン卿だ。
「まだ揺れが続くかもしれない。注意して作業せよ」と自分を守っていた兵士たちを仕事に戻らせる。
ベレン卿を中心とした一団には、ラークやアスカ、フローラにガレノス医師もいる。子どもたちは兵士に守られたようで、放心状態ではあるが怪我をした様子はなかった。
その後ろからクレインとジェイが近づいてくる。二人にも目立った怪我は見当たらない。
仲間たちの無事を確認し、ユエはひと息つく。
傭兵たちが外に出ていくのと交代に、仲間たちがカイトとユエの周りに集まってくる。
血色に染まったガラス片と床を取り囲んで、凄惨な事件の終焉がこれほどあっけなくていいのかと、誰もが不完全燃焼を感じていた。
「……聖会の連中だったら、この結果を『天罰』だとでも言うんだろうな」
皮肉満々のヘイレンの言葉に、「……こんなもの」カイトの掠れた声が反論する。
「こんなもの、ただの『逃げ』だ。なんの責任も取らず、ただ逃げただけだろう」
「ま、確かに。都合のいい時ばっかり自分のせいにされちゃあ、天だっていい迷惑だよな」
ヘイレンは鼻で笑うと、さっさと背を向けて自分のやるべきことへと戻っていった。
「カイト……」
この光景を刻みつけるように目を逸らさないカイトを、ユエがそっと呼び戻す。
カイトはぐっと一度強く目をつむってから、頭を切り替えるようにユエと目を合わせ、それからはたと視線を左にずらした。
カイトが見たのはユエの耳ではなく、肩に乗っていたウィノ。
そういえば揺れの間、耳や髪が引っ張られた感触があったっけ、とユエもウィノがフードの中に隠れていたことを思い出す。揺れのはずみでフードは取れてしまっていたが、もう隠れる必要もなくなったため、妖精はふわりと羽根を広げて浮かび上がる。
その姿を見るや否や、カイトは機敏に踵を返すと、ほとんど走るような大股で今にも傭兵たちの手で外へ連れていかれそうだった元帥の息子へ詰め寄る。
「ひっ!」
らしくなく乱暴に胸ぐらをつかんだカイトは、ぐらぐらと容赦なく揺すり「妖精たちはどこだ?」と地を這うような声で尋問する。
「ひぃ……!」
「喚いていないでさっさと答えろ。どこだ……!」
全ての事情を知らされていない傭兵たちは、再生の水と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔と射殺さんばかりの鋭い眼を、戸惑いながら見比べている。
「この建物内にいるはずだ。さっさと言え……!」
「あっ……あっち!」
「どこだ?!」
「お、おく……い、一番奥のゆ、床に……」
「床?床がどうしたと?」
続きを聞き出そうとするカイトだったが、ウィノは先に動き出していた。一直線に建物の端まで飛ぶと、暗がりから「ここに、なにかある」と応援を呼ぶ。
すぐさま仲間たちが続く。すばしっこいヘロンともっとも近くにいたアイビスが最初に着き、しゃがみ込んで床を検分すると「扉、か?」「これ、取手だろ。持ち上げるんじゃね?」「そう、みたいだ。……開くぞ──」
キシ、と木の扉のような蓋のようなものを持ち上げる。中を覗いた三人は、示し合わせたように絶句した。
「──なん、だ……これ……?」
三人の後ろから伸び上がって覗き込んだフェザント、クレイン、ジェイも同じように固まる。
「なに?なにがあるの?」「妖精さんは、無事?」
大人たちに目隠しされて見えないラークとアスカが背伸びしながら尋ねると、衝撃から立ち直ったフェザントが「見るな!」と二人を自分の胸に抱え込んで視界を塞ぐ。
「い、医者……」ゆらっと立ち上がったアイビスが口走る。「ガレノス先生!来てくれ……!」
「待て!触るな!!」初めて聞くウィノの大きな声に、固まっていた者たちはびくん、と殴られたように頭を揺らす。
「絶対にその水から出すな!さっきの男を見ただろう?おそらく水から出せば、まだ死んでいなくても、死んでしまう」
そのやり取りを元帥の息子の胸ぐらをつかんだまま聞いていたカイトは、ゆらりと緩慢な動きで手を離すと、まだ足元が揺れているかのようなおぼつかない足取りで暗がりへと向かう。
「カイト……」
途中で差し出されたユエの手を、まるで命綱のように握る。
「じゃ、じゃあどうすれば……」「ひとまずこの容器ごと──」「……悪魔の所業だ」「ひでぇ……」「これはもう……」「こんな状態で本当にまだ生きているのか……?」
恐慌状態の仲間たちの隙間から、カイトとユエも惨劇を目撃する。
床に備え付けられた木の扉を開けると床下収納庫になっていて、二種類のモノが仕舞われていた。
ひとつは透明な鉱物。
手のひら大の、見るからに切り出したままというゴツゴツした形のものがいくつも無造作に置かれている。いくつかは内包物を含んでいるが、床下は暗くてはっきりと見えない。
もうひとつは、ガラスの瓶。
薄赤色の液体に満たされ、こちらにもなにか固形物が浮いている。
ここまでの経験から(臓器……?)と身構えたユエだったが、すぐに違うと気づく。
それは臓器のような見慣れないグロテスクな形ではない。もっとはっきりした輪郭と、よく見慣れた形──そのはずなのに、パッとその部位の名前が出てこない。
五つの長さの違う棒、それが平たい丸い部分につながって、反対側に円形の筒のようなものが伸びていて──。
たぶんユエはそれがなにかもう分かっている。
けれど見慣れたそれが、身体と繋がっていないというだけでとてつもなく異様に見えるのだ。
アイビスの手が慎重に、ガラス瓶のひとつを持ち上げる。
(……腕、だ)
液体に漬けられているのは、小さな、小さな腕。
腕、だけ。
肩から先は見当たらない。まるで力任せに千切られたような断面から、骨と肉がのぞいている。
他のガラス瓶にも、妖精の身体の一部だけがバラバラに入っていた。
足だけ。腕だけ。
それと対にはならない、足や腕が欠けた胴体。
頭部だけのガラス瓶を見つけて、ユエはへたり込んだ。
ウィノと同じ緑の髪が、瓶の中に浮いて広がっている。眠っているような穏やかな表情が、むしろ恐ろしい。
血の気が一気に引いて、後頭部がじんと痺れる。
脳貧血による耳鳴り、目眩、そして一瞬の意識の空白。
ミシッ……!!
鋭く、亀裂が走る音。
ひび割れたのは、ユエの心か、カイトの心か、それとも──世界か。
ドンッ!!と地面そのものを持ち上げるような振動。
不意打ちだった初撃とは違い、今度はまだ心構えできていた。
二度目の揺れ。
自分の頭を守りつつ、妖精たちを守るために皆で覆いかぶさる。
ガラス瓶の蓋を押さえ、決して再生の水から出さないように。ガラスを割らないようにと抑える手が方々から伸びる。そして上から落ちてくる障害物が当たらないようにと、身体でバリケードを作って。
ずず……と山が動く音がした。
ぐわん、ぐわん、と永遠に続くような横揺れ。
破壊音以外が耳に届くまで、かなりの時間がかかった。
「──エ!ユエ!」「……カイト?」「大丈夫か?!」
切迫した声に揺り起こされ、ユエは凝り固まった背中を起こしていく。
ユエの下にはラークがいて、その下に無事に守り切れた妖精たちがいた。
ユエの上にはカイトがいたようで、落ちてきたほこりを代わりにかぶってくれている。ざっと見た限りは大きなケガもなく、互いにそれを確認してやっと息ができるようになる。
「フェザント!頭!!血、出てるっ」
ヘロンの狼狽した声にギョッとした仲間たちだったが、「ちょっと切れただけだ」と本人はフラつきもなく立ち上がる。
他の仲間たちのケガも落下物で切ったりぶつけたりで済んでいたが、まだ上からはパラパラと木材の破片が落ちてきていて、「早く外に出たほうがいい」というウィノの忠告ももっともだった。
「でも……」
残してはおけない、と無惨な姿の妖精たちに目をやるユエを、ウィノは静かに諭した。
「守ってくれて、ありがとう。でも、生きているかどうかわからない仲間たちを守るために、君たちが犠牲になっては意味がない」
二度の揺れに耐えて、この建物がもう限界だろうことは誰の目にも明らかだった。
それでもこれくらいは、と瓶と瓶の間の隙間を布で埋め、しっかり蓋をして、さらにその上に丈夫そうな机を運んで乗せて、それから大人組は外へ出た。
そして否応なく見せつけられる。
──崩れかけた世界を。
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驚くほど人的な被害は少なかった。
それはベレン卿による事前の対応とヘイレンによる的確な指示あってのことだ。
しかしそれでも、メーディセインの景色は一変していた。
建物はカイトたちがいた中央のものを除いて、全て全壊していた。あそこ以外はほとんど小屋と呼んでもいいような簡単な作りだったという理由が大きいが、ここまで跡形もなくペシャンコになっていると、周囲の村々の家は大丈夫だろうかと心配が膨らむ。
巻き込まれた人はいなかったが、所々崖が崩れていたり、船着場が崩れていたり、係留していた船は壊れているもののほうが多いくらい。
まずはケガ人の手当てが先決だと、カイト一行も敵味方関係なく手当てをして回って、しばらくの間はなにも考えずにひたすら手を動かした。いや、なにも考えないために動き続けたと言ってもいい。
しかしその作業に目処がつくととたん、不安が否応なく襲ってくる。
ここ以外の場所はどうなっているのだろう、と。
「……かなりでかかったからな。どこまで被害が広がったことやら」
頭に包帯を巻いたフェザントはどっこいしょと座り込んだ。
目線の先には難しい顔をしたベレン卿。
まだ余震が続いていることもあって、しばらくはメーディセイン内に留まることを決めていたが、湖の向こうに残してきた部下たちと鳥を使って手紙のやり取りをしていたのだ。
しかしその表情を見るに、あまり楽観的な予想はできそうにない。
ちょうど通りかかったヘイレンが「どうだ?」と訊いてくれたから、一緒になって周りの人々も耳をそばだてる。
「……かなり、ひどい」
「……そんなにか?」
「ほとんどの家はどこかしら壊れているらしい。これからの季節を考えると、寒さとの戦いになるな。部下たちには人命救助に当たるよう言ったが、近隣の村全てがそんな状況では……」
「正直、俺たちも他人に構っている余裕はないかもしれねぇぞ。ここをすぐに出られない以上、とにかく食糧が必要になる。長居するつもりはなかったから、持ってきてないだろう?」
「食べ物ならここに保存されているものがあるだろう」
「全然足りねぇさ。そりゃ二、三日ならそんだけでもなんとかしのげるが」
「……それ以上かかる、と?」
「わっかんねぇよ。湖を戻るにしても、この近隣全てが壊滅的なら食糧を分けてもらうことも難しいだろうし、道が通れなくなってたら、帰るにも帰れねぇぜ?」
帰れない、という言葉に、ベレン卿は眉間のシワを深くした。この距離ならばベレン領に大きな被害はないだろうが、それでも何らかの影響は出てくるはず。今この時に領地に不在であることを、領主として後悔しているのだ。
「いざとなったら、山に入って狩りでもすればいい」
夜風のように冷静な声が、二人の間に割って入った。カイトは淡々と、「まず、今日を生き延びることだけ考えろ」と火打ち石を打つ。
壊れた建物の木材を薪にし、火種はゆっくりと、だが確実に大きくなっていく。
揺らめく火を見て空が暮れていたことに気づいた兵士たちが、灯台の光に導かれる船のように、自然と火の周りに集まってくる。
いつの間に集めたのか、焚き火の周囲には掘り起こした鍋や食糧、無事だった器やワインの瓶までも並んでいる。
「明日の心配をするより先に、今日の晩飯を確保したほうがいいんじゃないか。それに夜は冷えるぞ。全員そろって野宿は確定なんだから、毛布の数も数えといたほうがいい」
「おっま……っちゃっかり自分の分だけ確保してんじゃねぇよ」
戯けた口調で揶揄したヘイレンだったが、装っている訳ではない冷静なカイトを見て、自分が自分で思っていた以上に平静でなかったことに気づく。
それはベレン卿も同じだったようで、密かに深呼吸をすると「暗くなる前に、食糧や使えるものを発掘しなければならぬな」と新たな指示を出す。
「捕虜から食糧の場所を聞き出せ。調理道具もだ」
「ついでに」ヘイレンは傭兵たちへ向けて「薪にできそうな木材も集めてくれ。それと毛布や防寒具。無事な衣服を片っ端から集めろ」
ベレン領の兵士も、傭兵たちも、粛々と命令に従う。
それを見て指揮官二人は、今は混乱を招かないことが大事だと確認し合い、捕虜たちの扱いに注意するよう厳命を出した。この逃げられない状況下で暴れられでもしたら、無秩序な暴動を招きかねない。
パン一欠片とチーズ一欠片という夕食が捕虜を含めた全員に行き渡るころには、いくつも灯した焚き火がメーディセインを染めていた。
十人前後で円になって取り囲み、明かりと温かさを享受する。
ひと口で終わってしまった食事の空虚を紛らわすために、ユエは隣のカイトの肩に頭を預ける。
仲間たちもそれぞれ、寒さと不安と空腹を埋めるために人肌を求めて寄り添った。
いつもなら人目を気にするクレインも、今夜はジェイの上着の中にすっぽりと包まる。
アスカを膝に乗せた上に、両脇をヘロンとラークに固められたフェザントは少し窮屈そうだ。
フローラとガレノス医師は遠慮がちにひとつの毛布を分け合い、アイビスは嫌々ながらヘイレンと肩を寄せ合っている。
百人以上が集まっているにも関わらず、メーディセインはすでに寝静まったように静かだ。
「邪魔するぞ」
カイト一行の焚き火に、ベレン卿が加わってきた。「あちらにいると部下たちが気を使う」そう言ってユエとは反対側のカイトの隣に座る。
「……もしかしてカイトは、これまでにも何度かこのような大災害を経験しているのか?」
ベレン卿は正面の火を見つめたまま、ひそひそと問いかけた。
「……長く生きているだけ、な。だがこれだけの規模の災害の現場に居合わせたのは、実は初めてだ」
「そう、なのか。それにしては随分と落ち着いて見えるが」
「人の行動はそれほど変わらないからな、規模の大きさに関わらず」
「なるほど……」
ちらっと視線を寄越したベレン卿は、こちらが本題と「……ウィノはまだ戻らぬか?」いっそう声を潜める。
妖精はひとり、空から状況を探りに行ってくれた。夜目は効かないからとまだ明るいうちに密かに飛び立ったのだが、暗くなってもまだ戻って来ない。
「……人質になっていた妖精たちは、酷い有様だったらしいな」
直接見ていないベレン卿はもっと具体的に聞きたそうだったが、カイトはうなずいただけで口を開かない。珍しく空気を読んだ卿は、すぐさま話の方向性を変える。
「明日、明るくなったらすぐに救出作業に当たりたいところだが……まずは建物の安全性を確かめねば、な。中で作業中に崩れでもしたら──」
「むしろ建物は解体したほうがいい」
「解体?」
「どうせもう建物としての役割はなくなってるんだから、崩れる前に崩してしまったほうが安全だ」
「確かにそうだな」
ユエは目をつむったまま、二人の会話を聞いていた。
頭や肩に伝わる体温からも、握った手の強さからも、そして声の調子からも、カイトのいつも通りが伝わってくる。
まるで──あの時の怒りなど忘れてしまったかのように。
それがユエには不安だった。
「っ……ウィノ!」
羽ばたきの音に最初に気づいたラークが、小さいけれど鋭い声で名前を呼んだ。
目を閉じていたユエやヘイレンも、寝ていると思っていたクレインやアイビスも、パッと空を注視する。誰もが帰りを待ちわびていた。
ウィノは焚き火の煙を避けるために大きく迂回してから、カイトの前に到着した。ユエが手を広げると、その上に静かに降り立つ。
「いい報告と悪い報告がある」
ウィノはどちらから聞きたい?などとは焦らさずに、すぐに「いい報告は──」と続けた。「この場所は震源の西端に近いようだ。ここから西の地域では、もちろん被害が全くないとは言えないが、生活基盤が壊れるほどではないから助けが期待できる」
「つまり……助力を求めるなら西に向かえ、ということだな」
「南ではなく西ならば、最悪、大山脈を抜ければ、なんとか……」
ベレン卿とヘイレンは早速、明日からの対応を頭の中で巡らせている。
「それで……悪い報告は?」
カイトが促すと、呼吸音さえ聴こえない静寂が落ちる。
「震源の中心を確かめてきた」
「それで?」
「『赤の大聖堂』……だったか、あの交渉に行った、聖会の本拠地」
「……っ!」
「あそこは壊滅的だった」
ウィノはとても簡潔に結論を述べた。
そこには恨みつらみもなく、かと言って同情の響きもなく、ただ事実を事実としてのみ並べる。
「地盤沈下したのか、建物ごと地下に沈んでいた。火も出ていて、もう消火できるような段階は過ぎていたから、自然鎮火するまで外からは近づけないだろう」
「……あそこは聖石の採掘のために地下を穴だらけにしてきたからな。地盤が脆くなっているのは当然だ。四六時中、聖石を燃やし続けていたから、火元は腐るほどあっただろうし」
呼応するカイトも、ウィノと同じように自分の感情を交えず話す。
想定以上の『悪い報告』だったようで、ベレン卿とヘイレンはそろって唸りを上げた。
最盛期より影響力が落ちているとは言え、聖会はこの西方地域をまとめることのできる最大の組織だった。それが突然機能不全に陥ったとなると、まず被害の全容を把握するのに時間がかかるし、治安の悪化は避けられないし、各国間で協力体制を敷くにしても揉め事が増えることだろう。
本来ならばベレン卿もヘイレンも、立場としては被害地域に対しての責任はない。他国の一領主であるベレン卿もただの商人であるヘイレンも、もしこの場にいなかったならば、外からの支援者としてできることだけを考えればよかった。
しかし二人は当事者だ。
惨状を目の当たりにしてしまってはもう、部外者だと逃げることはできそうになかった。
本来負わなくてもいい責任まで背負ってしまって、二人は重くなった背中を丸めて頭を抱える。
しかし、時は待ってくれない。
悩む時間も、迷う時間も与えられず、ウィノからさらなる重責が課せられる。
「……君たちにお願いがある」
「お願い……?」
「明日は兄弟たちの救出を最優先にしてほしい」
「それは──」
人命救助を優先するのは当然だと、もちろん、と続けるつもりだったベレン卿だが、ウィノは有無を言わせぬ瞳でそれを黙らせる。
「その結果如何で、わたしは君たちにとても理不尽な選択を迫ることになるだろう。不確かな未来のために、目の前の苦しんでいる人を見捨ててもらうような──」
可愛らしい妖精の姿、それに似つかわしくない感情が表れない表情、そして抑揚のない声──その全てが合わさって、ウィノはまるで天から遣わされた預言者のような風格があった。
「──けれど、信じてほしい。全ては、これ以上のさらなる災厄を招かないためだということを」
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ツギハギの化物がカイトの名前を呼んだ瞬間、ユエは恐怖に駆られてカイトの腕に縋った。怖い──一色の感情に支配されかけたユエだったが、自分の身体が震え出す前に、縋った先のカイトの身体がぶるっと戦慄したのを感じて、自分がしっかりしなければと踏み止まる。
ツギハギはガラスの箱の中でもどかしげに手を伸ばし、カイトに少しでも近づこうとしているようだった。
「カイト……必ずここに帰ってきてくれると思ってたよ。待ってた……ずっと待っていたんだよ」
その口からはたどたどしい幼児のようなセリフが発せられた。見た目とのチグハグさがさらに異様を際立たせて、気温だけでない寒々しさがキリキリとこの場の空気を引き絞る。
「お前はまさか……『エル』──マスティマ法王と呼ばれた男、か?」
カイトの語尾は揺らいでいた。
ガラス板の前の男から『法王様』と呼びかけられていたことで、その可能性にたどり着くことは容易だったが、何より最短で正解を導き出せることがカイトのカイトたる所以だろう。
情報を共有していた仲間だけが、ハッとツギハギを凝視した。
「カイト……!ぼくのこと、覚えててくれたんだね」
その顔に浮かんだのは、歓喜。それも、憧れの英雄を前にした子どものような、無邪気な。
そして肯定が返ったことで、再び戦慄に襲われる。
幼名『エル』、洗礼名『マスティマ』と呼称された元法王は、すでに死亡していたはず。その情報が間違っていただけだとしても、アディーン大司教と幼馴染であった『エル』ならば、年齢はとうに九十を超えているはず。
しかし水中のツギハギはどこからどう見ても、青年然としている。
肌はツギハギされた繋ぎ目がぼろぼろと剥がれているが、中に覗く筋肉は引き締まっているし、顔にはシワひとつなく、短いザンバラの神は黒々と光っているのだから。
マスティマ元法王を自称するツギハギは水中にいるにも関わらず、呼吸ができていて、会話も問題なくできている。しかしそれ以上に不可解な点が多すぎて、それを指摘する者はいない。
「そ……れ、そのからだ……肌は……?」
カイトの質問は義務感から発せられている。聞きたくないけれど、自分が聞かなければならない、という義務感から。
「ああ……恥ずかしいな。これはまだ途中なんだ。せっかくならカイトには、完成してから見てもらいたかったな」
「完成……?」
「脳を移すことには成功したけど、肌がぽろぽろと剥がれてしまって……応急処置で他のものを繋ぎ合わせているけど、この体はやっぱり合わなかったみたい」
「このからだ……?合わなかった……?」
「大丈夫、もうだいたい要領はわかったから。次は完璧にできる」
からだを乗り換えたのだ──ユエはもう何度目か分からない震えを背中に感じた。
水槽の中を満たしているのは、再生の水。その中でマスティマ元法王は、自前の老人のからだから脳を取り出し、誰かの若い肉体にそれを移した。
若返りに成功したかに見えたが、その後に拒絶反応が起こって肌の剥離が起こったため、それを修復するために他の人間の肌を奪い、貼りつけることを繰り返した。そのためツギハギ状態になってしまった──。
決して察しがいいとは言えないユエが、この結論にすぐにたどり着けたのには、前振りがあってこそ。
───『俺の中身を全て別の人間の中に移し替えたとして、それは俺か?それとも──』
カイトがずっと前に、再生の水の可能性──寿命を伸ばすことや臓器の移し替え──について言及していたからだ。
おそらく誰よりも早く真実に気づいていたカイトは、しかしこの現実を理解したくないというように、目を閉じて力なく首を振った。
しかし元法王はカイトの心情を汲み取ってはくれず、自らの蛮行を語る口調は誇らしげですらある。
見た目以上に、怪物なのは中身──次の台詞がそれを証明する決定打だった。
「これでぼくも、カイトに──完璧な人間に近づけた」
そう、これはまだ成功ではないのだ。
この怪物が目指しているのは、寿命を伸ばすとか若返りたいとか、そんな一過性のものではなかった。
老いた肉体を捨てて若いからだへと移り、そしてそのからだが老いたら、また次のからだへと移って──そうして次々とからだを乗り換えることができれば、それはもう、不死。
「ぼくはずっと、カイトになりたかったんだ」
愛の告白をするような照れをにじませた顔に、ユエは自分のからだから力が抜けていくのを感じた。
無理だ、と思ったのだ。
この存在を理解するのは、無理だ。
そして彼に理解させることも、無理だ。自分たちがどれだけ言葉を尽くしても、彼に自分の罪を認めさせることなどできない。
「もう、いい」
カイトも同じ気持ちだったのだろう。虚無感と諦めを携えて、顔を背ける。
「もう、なにも話すな」
しかし静かな声とは裏腹に、拳を血が滴るほどに握りしめていた。
カイトの感情は最後に怒りへとたどり着いたのだ。
静かな、烈しい怒り──それはこの地獄を作り出した当事者たちだけでなく、きっかけを作ることになった自分自身へも向けられているように見えた。
「カイト……っ」
ユエは血を止めるように、拳を両手で包み込む。怒りに軋んだカイトの身体から震えが伝わってきた。自傷するほどにギリギリと込められた力は、行き場をなくしてぐるぐるとカイトの身体の中を駆け巡っている。
だからユエは最初、その揺れを作り出したのはカイトなのではないかと思ったほど。
ぐらっ……!!
カイトの怒りにあてられて目眩がしたかと思った、次の瞬間、そんな精神的なものではなく物理的な現象が足元を揺らがせた。
「地震……っ!」
誰かしらの声に教えられて、足を踏ん張る。
支えようとした手を、同じく支えようとしてくれた手が捕まえて、四本の足でふたつの体を支え合う。
ドンッ!!!
地面の存在が不確かになるほどの、衝撃。
身体が一瞬浮いたと錯覚するほどの縦揺れは、壁際の棚に並べてあった瓶を一つ残らず床に叩き落として、ガッシャーン!ガシャッ!ガッシャン!!と耳をつんざく狂想曲を奏で続ける。
ユエの目はその瞬間の周囲の様子を静止画のように焼きつけていた。
とっさに身体を低くするアイビスとヘイレン。
フェザントはいつの間に捕まえたのか、ヘロンの上に覆いかぶさっている。
壁際の傭兵たちは落ちてくる瓶から身を守り、兵士たちは動揺しながらも捕らえた敵を離さない。
そんな中、背の高いガラスの水槽は揺れの影響を大きく受け、再生の水がバシャンと激しく波打った。天井がガラ空きの水槽から血涙に似た飛沫が降り注ぎ、門番のように元法王を守っていた男の頭上に襲いかかる。
「ひ、ひぃ~!!」
腰を抜かしてうずくまる元帥の息子。頭を抱え身体を丸めるその様は、生きることだけで必死な胎児に似ていて、いい大人が見せるにはあまりに滑稽な姿だ。
揺れていた時間はそう長くはなかった。
しかし、この巨大な水槽満杯の水が凶器になるには充分すぎる振動。
直接水槽の土台が傾いだだけでなく、揺れ続ける再生の水が後押しし、さらに──中にいたマスティマ元法王が動揺したのか助けを求めようとしたのかガラス板の前面にへばりついて体重をかけたことが、最大の原因となった。
「ひっ……!!」
グラっ……と水槽が土台を離れ、ゆっくりと前へ倒れていく。もしかしたらこの時、水槽の中のマスティマ元法王と水槽の前の元帥の息子が冷静に行動できていれば、この後の惨劇は防ぐことができたのかもしれない。
しかし二人は、その機会を逸した。
敗因は、どちらも自分の身の安全しか頭になかったことだ。
頭上からのしかかってくる巨大で頑丈で重たいガラスの水槽から、元帥の息子は一目散に逃げ出し、元法王は自分を受け止めろとばかりに手を伸ばした。
その結果、水とヒト一人分の体重が一緒に前へと滑り、水槽の傾斜はもう止められない角度になっていく。
「た、たすけ──」「逃げろ!!」
元法王の哀れな声を、ヘイレンの鋭い声が遮った。
ヘイレンの指示が向かう先は、逃げた元帥の息子に代わって水槽を支えようと一歩踏み出していた傭兵たち。
もう間に合わないという司令官の判断に従って、歴戦の傭兵たちはさっと飛び退ると、砕け飛び散るガラスに備えて自分の身を守る体勢を取った。
コマ送りのようにゆっくりと、透明な揺籠が倒れていく。
雷が落ちたような衝撃音に、ユエは思わず目をつむっていた。
おそるおそる開けた目に映ったのは、粉々に散乱したガラス片と、血を薄めたような色の再生の水がじわじわと広がっていく様子、そして水の中から投げ出されたツギハギのからだ。
マスティマ元法王は水槽が砕ける前にうまく滑り出たようで、尖ったガラスの中に飛び込まずに済んだため、見たところ切り傷から血が出るくらいのケガだけ──と誰もが判断しかけたが、「ひぃ……っ!」本人が悲鳴を上げると同時に、不可思議なことが起こり始めた。
「なっ……?!」
拘束しようと近づいた傭兵も、信じられないと目を見開く。
溶けた──それが一番相応しい表現だろう。
皮膚がどろりと溶けたのだ。ツギハギされた継ぎ目からなにか液体が漏れ出し、それに同化するように皮膚自体も形を失っていく。
それはまるで、本来の持ち主から奪われ囚われた肌が、再生の水から出たことで解放されたかのよう。
それは瞬く間の出来事。
皮膚の次は筋肉が、血管が、そして最後には骨までも、酸に溶かされているようにどろどろと爛れていった。
「──、──……」
眼球がずるりと抜け、歯も失った顔で、マスティマ元法王は最期にカイトを見た。
そして口を動かそうとしたが、もう舌も溶けた今となってはなにを言ったのかは誰にも分からない。
「たすけて」だったのか、「死にたくない」だったのか、それとも──「カイト」だったのか。
粘液は再生の水と一体化して床に広がった。
最初からなにも存在しなかったかのように、歯の一本、骨の一欠片も残さずに。
******
「……被害の状況を確認しろ!」
最初に動き出したのは、ヘイレン。「怪我人の手当を急げ!」と傭兵たちに強い口調で命令を飛ばす。
「崖の近くや湖のそばにいる者たちを移動させろ」
冷静な声が続いた。地震の少し前に到着していたベレン卿だ。
「まだ揺れが続くかもしれない。注意して作業せよ」と自分を守っていた兵士たちを仕事に戻らせる。
ベレン卿を中心とした一団には、ラークやアスカ、フローラにガレノス医師もいる。子どもたちは兵士に守られたようで、放心状態ではあるが怪我をした様子はなかった。
その後ろからクレインとジェイが近づいてくる。二人にも目立った怪我は見当たらない。
仲間たちの無事を確認し、ユエはひと息つく。
傭兵たちが外に出ていくのと交代に、仲間たちがカイトとユエの周りに集まってくる。
血色に染まったガラス片と床を取り囲んで、凄惨な事件の終焉がこれほどあっけなくていいのかと、誰もが不完全燃焼を感じていた。
「……聖会の連中だったら、この結果を『天罰』だとでも言うんだろうな」
皮肉満々のヘイレンの言葉に、「……こんなもの」カイトの掠れた声が反論する。
「こんなもの、ただの『逃げ』だ。なんの責任も取らず、ただ逃げただけだろう」
「ま、確かに。都合のいい時ばっかり自分のせいにされちゃあ、天だっていい迷惑だよな」
ヘイレンは鼻で笑うと、さっさと背を向けて自分のやるべきことへと戻っていった。
「カイト……」
この光景を刻みつけるように目を逸らさないカイトを、ユエがそっと呼び戻す。
カイトはぐっと一度強く目をつむってから、頭を切り替えるようにユエと目を合わせ、それからはたと視線を左にずらした。
カイトが見たのはユエの耳ではなく、肩に乗っていたウィノ。
そういえば揺れの間、耳や髪が引っ張られた感触があったっけ、とユエもウィノがフードの中に隠れていたことを思い出す。揺れのはずみでフードは取れてしまっていたが、もう隠れる必要もなくなったため、妖精はふわりと羽根を広げて浮かび上がる。
その姿を見るや否や、カイトは機敏に踵を返すと、ほとんど走るような大股で今にも傭兵たちの手で外へ連れていかれそうだった元帥の息子へ詰め寄る。
「ひっ!」
らしくなく乱暴に胸ぐらをつかんだカイトは、ぐらぐらと容赦なく揺すり「妖精たちはどこだ?」と地を這うような声で尋問する。
「ひぃ……!」
「喚いていないでさっさと答えろ。どこだ……!」
全ての事情を知らされていない傭兵たちは、再生の水と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔と射殺さんばかりの鋭い眼を、戸惑いながら見比べている。
「この建物内にいるはずだ。さっさと言え……!」
「あっ……あっち!」
「どこだ?!」
「お、おく……い、一番奥のゆ、床に……」
「床?床がどうしたと?」
続きを聞き出そうとするカイトだったが、ウィノは先に動き出していた。一直線に建物の端まで飛ぶと、暗がりから「ここに、なにかある」と応援を呼ぶ。
すぐさま仲間たちが続く。すばしっこいヘロンともっとも近くにいたアイビスが最初に着き、しゃがみ込んで床を検分すると「扉、か?」「これ、取手だろ。持ち上げるんじゃね?」「そう、みたいだ。……開くぞ──」
キシ、と木の扉のような蓋のようなものを持ち上げる。中を覗いた三人は、示し合わせたように絶句した。
「──なん、だ……これ……?」
三人の後ろから伸び上がって覗き込んだフェザント、クレイン、ジェイも同じように固まる。
「なに?なにがあるの?」「妖精さんは、無事?」
大人たちに目隠しされて見えないラークとアスカが背伸びしながら尋ねると、衝撃から立ち直ったフェザントが「見るな!」と二人を自分の胸に抱え込んで視界を塞ぐ。
「い、医者……」ゆらっと立ち上がったアイビスが口走る。「ガレノス先生!来てくれ……!」
「待て!触るな!!」初めて聞くウィノの大きな声に、固まっていた者たちはびくん、と殴られたように頭を揺らす。
「絶対にその水から出すな!さっきの男を見ただろう?おそらく水から出せば、まだ死んでいなくても、死んでしまう」
そのやり取りを元帥の息子の胸ぐらをつかんだまま聞いていたカイトは、ゆらりと緩慢な動きで手を離すと、まだ足元が揺れているかのようなおぼつかない足取りで暗がりへと向かう。
「カイト……」
途中で差し出されたユエの手を、まるで命綱のように握る。
「じゃ、じゃあどうすれば……」「ひとまずこの容器ごと──」「……悪魔の所業だ」「ひでぇ……」「これはもう……」「こんな状態で本当にまだ生きているのか……?」
恐慌状態の仲間たちの隙間から、カイトとユエも惨劇を目撃する。
床に備え付けられた木の扉を開けると床下収納庫になっていて、二種類のモノが仕舞われていた。
ひとつは透明な鉱物。
手のひら大の、見るからに切り出したままというゴツゴツした形のものがいくつも無造作に置かれている。いくつかは内包物を含んでいるが、床下は暗くてはっきりと見えない。
もうひとつは、ガラスの瓶。
薄赤色の液体に満たされ、こちらにもなにか固形物が浮いている。
ここまでの経験から(臓器……?)と身構えたユエだったが、すぐに違うと気づく。
それは臓器のような見慣れないグロテスクな形ではない。もっとはっきりした輪郭と、よく見慣れた形──そのはずなのに、パッとその部位の名前が出てこない。
五つの長さの違う棒、それが平たい丸い部分につながって、反対側に円形の筒のようなものが伸びていて──。
たぶんユエはそれがなにかもう分かっている。
けれど見慣れたそれが、身体と繋がっていないというだけでとてつもなく異様に見えるのだ。
アイビスの手が慎重に、ガラス瓶のひとつを持ち上げる。
(……腕、だ)
液体に漬けられているのは、小さな、小さな腕。
腕、だけ。
肩から先は見当たらない。まるで力任せに千切られたような断面から、骨と肉がのぞいている。
他のガラス瓶にも、妖精の身体の一部だけがバラバラに入っていた。
足だけ。腕だけ。
それと対にはならない、足や腕が欠けた胴体。
頭部だけのガラス瓶を見つけて、ユエはへたり込んだ。
ウィノと同じ緑の髪が、瓶の中に浮いて広がっている。眠っているような穏やかな表情が、むしろ恐ろしい。
血の気が一気に引いて、後頭部がじんと痺れる。
脳貧血による耳鳴り、目眩、そして一瞬の意識の空白。
ミシッ……!!
鋭く、亀裂が走る音。
ひび割れたのは、ユエの心か、カイトの心か、それとも──世界か。
ドンッ!!と地面そのものを持ち上げるような振動。
不意打ちだった初撃とは違い、今度はまだ心構えできていた。
二度目の揺れ。
自分の頭を守りつつ、妖精たちを守るために皆で覆いかぶさる。
ガラス瓶の蓋を押さえ、決して再生の水から出さないように。ガラスを割らないようにと抑える手が方々から伸びる。そして上から落ちてくる障害物が当たらないようにと、身体でバリケードを作って。
ずず……と山が動く音がした。
ぐわん、ぐわん、と永遠に続くような横揺れ。
破壊音以外が耳に届くまで、かなりの時間がかかった。
「──エ!ユエ!」「……カイト?」「大丈夫か?!」
切迫した声に揺り起こされ、ユエは凝り固まった背中を起こしていく。
ユエの下にはラークがいて、その下に無事に守り切れた妖精たちがいた。
ユエの上にはカイトがいたようで、落ちてきたほこりを代わりにかぶってくれている。ざっと見た限りは大きなケガもなく、互いにそれを確認してやっと息ができるようになる。
「フェザント!頭!!血、出てるっ」
ヘロンの狼狽した声にギョッとした仲間たちだったが、「ちょっと切れただけだ」と本人はフラつきもなく立ち上がる。
他の仲間たちのケガも落下物で切ったりぶつけたりで済んでいたが、まだ上からはパラパラと木材の破片が落ちてきていて、「早く外に出たほうがいい」というウィノの忠告ももっともだった。
「でも……」
残してはおけない、と無惨な姿の妖精たちに目をやるユエを、ウィノは静かに諭した。
「守ってくれて、ありがとう。でも、生きているかどうかわからない仲間たちを守るために、君たちが犠牲になっては意味がない」
二度の揺れに耐えて、この建物がもう限界だろうことは誰の目にも明らかだった。
それでもこれくらいは、と瓶と瓶の間の隙間を布で埋め、しっかり蓋をして、さらにその上に丈夫そうな机を運んで乗せて、それから大人組は外へ出た。
そして否応なく見せつけられる。
──崩れかけた世界を。
******
驚くほど人的な被害は少なかった。
それはベレン卿による事前の対応とヘイレンによる的確な指示あってのことだ。
しかしそれでも、メーディセインの景色は一変していた。
建物はカイトたちがいた中央のものを除いて、全て全壊していた。あそこ以外はほとんど小屋と呼んでもいいような簡単な作りだったという理由が大きいが、ここまで跡形もなくペシャンコになっていると、周囲の村々の家は大丈夫だろうかと心配が膨らむ。
巻き込まれた人はいなかったが、所々崖が崩れていたり、船着場が崩れていたり、係留していた船は壊れているもののほうが多いくらい。
まずはケガ人の手当てが先決だと、カイト一行も敵味方関係なく手当てをして回って、しばらくの間はなにも考えずにひたすら手を動かした。いや、なにも考えないために動き続けたと言ってもいい。
しかしその作業に目処がつくととたん、不安が否応なく襲ってくる。
ここ以外の場所はどうなっているのだろう、と。
「……かなりでかかったからな。どこまで被害が広がったことやら」
頭に包帯を巻いたフェザントはどっこいしょと座り込んだ。
目線の先には難しい顔をしたベレン卿。
まだ余震が続いていることもあって、しばらくはメーディセイン内に留まることを決めていたが、湖の向こうに残してきた部下たちと鳥を使って手紙のやり取りをしていたのだ。
しかしその表情を見るに、あまり楽観的な予想はできそうにない。
ちょうど通りかかったヘイレンが「どうだ?」と訊いてくれたから、一緒になって周りの人々も耳をそばだてる。
「……かなり、ひどい」
「……そんなにか?」
「ほとんどの家はどこかしら壊れているらしい。これからの季節を考えると、寒さとの戦いになるな。部下たちには人命救助に当たるよう言ったが、近隣の村全てがそんな状況では……」
「正直、俺たちも他人に構っている余裕はないかもしれねぇぞ。ここをすぐに出られない以上、とにかく食糧が必要になる。長居するつもりはなかったから、持ってきてないだろう?」
「食べ物ならここに保存されているものがあるだろう」
「全然足りねぇさ。そりゃ二、三日ならそんだけでもなんとかしのげるが」
「……それ以上かかる、と?」
「わっかんねぇよ。湖を戻るにしても、この近隣全てが壊滅的なら食糧を分けてもらうことも難しいだろうし、道が通れなくなってたら、帰るにも帰れねぇぜ?」
帰れない、という言葉に、ベレン卿は眉間のシワを深くした。この距離ならばベレン領に大きな被害はないだろうが、それでも何らかの影響は出てくるはず。今この時に領地に不在であることを、領主として後悔しているのだ。
「いざとなったら、山に入って狩りでもすればいい」
夜風のように冷静な声が、二人の間に割って入った。カイトは淡々と、「まず、今日を生き延びることだけ考えろ」と火打ち石を打つ。
壊れた建物の木材を薪にし、火種はゆっくりと、だが確実に大きくなっていく。
揺らめく火を見て空が暮れていたことに気づいた兵士たちが、灯台の光に導かれる船のように、自然と火の周りに集まってくる。
いつの間に集めたのか、焚き火の周囲には掘り起こした鍋や食糧、無事だった器やワインの瓶までも並んでいる。
「明日の心配をするより先に、今日の晩飯を確保したほうがいいんじゃないか。それに夜は冷えるぞ。全員そろって野宿は確定なんだから、毛布の数も数えといたほうがいい」
「おっま……っちゃっかり自分の分だけ確保してんじゃねぇよ」
戯けた口調で揶揄したヘイレンだったが、装っている訳ではない冷静なカイトを見て、自分が自分で思っていた以上に平静でなかったことに気づく。
それはベレン卿も同じだったようで、密かに深呼吸をすると「暗くなる前に、食糧や使えるものを発掘しなければならぬな」と新たな指示を出す。
「捕虜から食糧の場所を聞き出せ。調理道具もだ」
「ついでに」ヘイレンは傭兵たちへ向けて「薪にできそうな木材も集めてくれ。それと毛布や防寒具。無事な衣服を片っ端から集めろ」
ベレン領の兵士も、傭兵たちも、粛々と命令に従う。
それを見て指揮官二人は、今は混乱を招かないことが大事だと確認し合い、捕虜たちの扱いに注意するよう厳命を出した。この逃げられない状況下で暴れられでもしたら、無秩序な暴動を招きかねない。
パン一欠片とチーズ一欠片という夕食が捕虜を含めた全員に行き渡るころには、いくつも灯した焚き火がメーディセインを染めていた。
十人前後で円になって取り囲み、明かりと温かさを享受する。
ひと口で終わってしまった食事の空虚を紛らわすために、ユエは隣のカイトの肩に頭を預ける。
仲間たちもそれぞれ、寒さと不安と空腹を埋めるために人肌を求めて寄り添った。
いつもなら人目を気にするクレインも、今夜はジェイの上着の中にすっぽりと包まる。
アスカを膝に乗せた上に、両脇をヘロンとラークに固められたフェザントは少し窮屈そうだ。
フローラとガレノス医師は遠慮がちにひとつの毛布を分け合い、アイビスは嫌々ながらヘイレンと肩を寄せ合っている。
百人以上が集まっているにも関わらず、メーディセインはすでに寝静まったように静かだ。
「邪魔するぞ」
カイト一行の焚き火に、ベレン卿が加わってきた。「あちらにいると部下たちが気を使う」そう言ってユエとは反対側のカイトの隣に座る。
「……もしかしてカイトは、これまでにも何度かこのような大災害を経験しているのか?」
ベレン卿は正面の火を見つめたまま、ひそひそと問いかけた。
「……長く生きているだけ、な。だがこれだけの規模の災害の現場に居合わせたのは、実は初めてだ」
「そう、なのか。それにしては随分と落ち着いて見えるが」
「人の行動はそれほど変わらないからな、規模の大きさに関わらず」
「なるほど……」
ちらっと視線を寄越したベレン卿は、こちらが本題と「……ウィノはまだ戻らぬか?」いっそう声を潜める。
妖精はひとり、空から状況を探りに行ってくれた。夜目は効かないからとまだ明るいうちに密かに飛び立ったのだが、暗くなってもまだ戻って来ない。
「……人質になっていた妖精たちは、酷い有様だったらしいな」
直接見ていないベレン卿はもっと具体的に聞きたそうだったが、カイトはうなずいただけで口を開かない。珍しく空気を読んだ卿は、すぐさま話の方向性を変える。
「明日、明るくなったらすぐに救出作業に当たりたいところだが……まずは建物の安全性を確かめねば、な。中で作業中に崩れでもしたら──」
「むしろ建物は解体したほうがいい」
「解体?」
「どうせもう建物としての役割はなくなってるんだから、崩れる前に崩してしまったほうが安全だ」
「確かにそうだな」
ユエは目をつむったまま、二人の会話を聞いていた。
頭や肩に伝わる体温からも、握った手の強さからも、そして声の調子からも、カイトのいつも通りが伝わってくる。
まるで──あの時の怒りなど忘れてしまったかのように。
それがユエには不安だった。
「っ……ウィノ!」
羽ばたきの音に最初に気づいたラークが、小さいけれど鋭い声で名前を呼んだ。
目を閉じていたユエやヘイレンも、寝ていると思っていたクレインやアイビスも、パッと空を注視する。誰もが帰りを待ちわびていた。
ウィノは焚き火の煙を避けるために大きく迂回してから、カイトの前に到着した。ユエが手を広げると、その上に静かに降り立つ。
「いい報告と悪い報告がある」
ウィノはどちらから聞きたい?などとは焦らさずに、すぐに「いい報告は──」と続けた。「この場所は震源の西端に近いようだ。ここから西の地域では、もちろん被害が全くないとは言えないが、生活基盤が壊れるほどではないから助けが期待できる」
「つまり……助力を求めるなら西に向かえ、ということだな」
「南ではなく西ならば、最悪、大山脈を抜ければ、なんとか……」
ベレン卿とヘイレンは早速、明日からの対応を頭の中で巡らせている。
「それで……悪い報告は?」
カイトが促すと、呼吸音さえ聴こえない静寂が落ちる。
「震源の中心を確かめてきた」
「それで?」
「『赤の大聖堂』……だったか、あの交渉に行った、聖会の本拠地」
「……っ!」
「あそこは壊滅的だった」
ウィノはとても簡潔に結論を述べた。
そこには恨みつらみもなく、かと言って同情の響きもなく、ただ事実を事実としてのみ並べる。
「地盤沈下したのか、建物ごと地下に沈んでいた。火も出ていて、もう消火できるような段階は過ぎていたから、自然鎮火するまで外からは近づけないだろう」
「……あそこは聖石の採掘のために地下を穴だらけにしてきたからな。地盤が脆くなっているのは当然だ。四六時中、聖石を燃やし続けていたから、火元は腐るほどあっただろうし」
呼応するカイトも、ウィノと同じように自分の感情を交えず話す。
想定以上の『悪い報告』だったようで、ベレン卿とヘイレンはそろって唸りを上げた。
最盛期より影響力が落ちているとは言え、聖会はこの西方地域をまとめることのできる最大の組織だった。それが突然機能不全に陥ったとなると、まず被害の全容を把握するのに時間がかかるし、治安の悪化は避けられないし、各国間で協力体制を敷くにしても揉め事が増えることだろう。
本来ならばベレン卿もヘイレンも、立場としては被害地域に対しての責任はない。他国の一領主であるベレン卿もただの商人であるヘイレンも、もしこの場にいなかったならば、外からの支援者としてできることだけを考えればよかった。
しかし二人は当事者だ。
惨状を目の当たりにしてしまってはもう、部外者だと逃げることはできそうになかった。
本来負わなくてもいい責任まで背負ってしまって、二人は重くなった背中を丸めて頭を抱える。
しかし、時は待ってくれない。
悩む時間も、迷う時間も与えられず、ウィノからさらなる重責が課せられる。
「……君たちにお願いがある」
「お願い……?」
「明日は兄弟たちの救出を最優先にしてほしい」
「それは──」
人命救助を優先するのは当然だと、もちろん、と続けるつもりだったベレン卿だが、ウィノは有無を言わせぬ瞳でそれを黙らせる。
「その結果如何で、わたしは君たちにとても理不尽な選択を迫ることになるだろう。不確かな未来のために、目の前の苦しんでいる人を見捨ててもらうような──」
可愛らしい妖精の姿、それに似つかわしくない感情が表れない表情、そして抑揚のない声──その全てが合わさって、ウィノはまるで天から遣わされた預言者のような風格があった。
「──けれど、信じてほしい。全ては、これ以上のさらなる災厄を招かないためだということを」
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だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
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