三鍵の奏者

春澄蒼

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第七章 孤独な鳶は月に抱かれて眠る

107 決戦※

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 ベレン卿とウィノの歴史的な顔合わせについては、立ち会ったアイビスをして「思い出したくない」と言わしめるほどの狂乱だった。
 副官にすべてを押しつけて逃げたカイトは、自分の判断は間違っていなかったと安堵した。

 ヘイレンに妖精を引き合わせる役目もついでに譲られて、この数日の功労者は文句なくアイビスだ。
 カイトだけでなく、面倒を察した仲間たちはほとんど逃げ出していたため、心優しいラークと面倒見のいいフェザント、そして怖いもの見たさのヘロンが一緒に狂乱を見守るハメになった。



 ウィノという協力者を得て、メーディセイン解放作戦はとんとん拍子に進むことになった。
 ベレン卿自らが交渉役となり、現法王と対峙した時点で、勝ち負けは見えていたようなもの。

 聖軍がメーディセインを占拠している証拠、聖軍が奴隷商人に渡した『再生の水』、そして奴隷商人を証人として、ベレン卿は聖会の責任を問うた。
 しかし法王は、これは聖会内部のことで他国に干渉されることではない、とベレン卿の介入を拒否した。

 そこで妖精の登場だ。

 我らは妖精の要請に基づいて、聖軍が不法に占拠した『妖精の谷』を解放するために進軍する、とベレン卿は宣言し、反対に聖会の介入を拒んだ。

 そして幻の妖精の登場に混乱する聖会を完全に手玉に取って、自分たちに優位な条約を結ぶことに成功する。

 ひとつ、メーディセイン及び『妖精の谷』を、妖精の国としてその独立性を認めること。
 ひとつ、解放にあたり、聖会は一切の手出し無用。そのための進軍を認めること。
 ひとつ、占拠している者たちの処遇はベレン卿に一任すること。
 ひとつ、解放後のメーディセイン及び『妖精の谷』の土地、所有物等は、そのすべてが妖精に帰すること。

 ──などなど。


 そして文字にしない裏取引として、この条約を結ぶ代わりに、メーディセインでの不法行為に聖会の一部が関わっていたことは公表しない、という温情を見せておく。

 つまり体裁としては、犯罪者に不法占拠された妖精の国を、妖精に頼まれてベレン卿が解放する、という形に整ったのだ。



 こうして堂々と乗り込む口実ができて、戦力はベレン卿の軍とヘイレンが用意した傭兵で十二分。ではあるが、カイトたち一行もただ待っているのは性に合わないため、一緒に乗り込むために準備は怠らない。


******


 作戦前日。
 ユエとカイトは一足先に、ウィノとの出会いの場になった幻の北の海に来ていた。地下通路と水路を通ることができる二人で、大山脈側から回り込んで聖軍の背後を取り、挟み撃ちするためだ。

 バットの案内で通った水路ならば普通の人間でも通ることができるが、彼はおそらく協力してくれないだろうし、それどころか妨害する恐れすらあるから、接触しないことが一番だという結論に達し、使わないことに決めた。


 そのため二人──いや、ウィノも合わせて三人きりの配置だが、それでもないよりはマシという程度の作戦だ。予想外の背後から矢を射られれば、少しは敵を混乱させることはできるだろう。


「驚いた」
 濡れネズミの二人を出迎えたウィノは、セリフとは裏腹な無表情でカイトを見る。
「本当に、ドワーフと同等の能力と人魚と同等の能力を持ち合わせているとは」

 しかしカイトはそれどころではない。
 水路の水は凍えるほどの冷たさで、さらに今、痛いほどの冷たい風が吹きつけて、ガタガタと身体の震えが止まらない。

 ユエが荷物を取りに水路を戻っている間に、岩場に上がったカイトはウィノの助けを借りて火を起こし、濡れないように密封して持ってきた服に着替え、やっと人心地がした。


「荷物、ありがとな」
 明日のためのたくさんの矢を運んでくれたことを労うと、ユエは褒めてと言わんばかりに手を伸ばしてくる。
 濡らさないように持ってきた服を守るため、ご褒美は頭を撫でるにとどめる。と、それだけでは不満だったのか、ユエはわざわざ人間の姿に戻ってカイトのひざに乗ろうとして──寒さに震えることになった。

「人魚の姿で水の中にいれば寒くないだろうに」カイトの苦笑いにも、「いいの」とユエは懐に潜り込んでご満悦だ。


 そんな二人を見て、ウィノはこてんと首を傾げた。
「君たちは、恋人?」

「そう」なぜか自慢げに胸を張るユエ。
「そう、とても興味深い」ウィノの首の角度がさらに深くなる。
「興味深い?」
「君が選んだ性は男性なのに、恋人に男性を選んでいることが、とても興味深い」


「……ウィノが鍵を使った場合、『彼』になるのか、それとも『彼女』になるのか?」
 この機に気になっていたことをカイトが聞いてみると、ウィノの首は今度は反対側にこてんとなる。

「不思議なことに、我ら妖精は性の認識が薄い者が多い」
「それは……人間で時々いるような、両性具有とか?」
「それともまたちがう。相手次第、といったところか。添い遂げたい相手が男性ならば、女性に。女性ならば男性に、といった具合に」
「鍵を使うたびに、コロコロ性が変わることがあるってことか?」
「そういうこともある。しかし──我らは人魚やドワーフとはちがい、鍵を使って人間になることはそう簡単ではない」


 ウィノはひらりと舞い上がって、その小さな体躯を披露する。
「この小さな身体を人間の大きさにまで成長させることは、大きな負担になる。そのためよほどの理由がなければ、一度鍵を使って人間になった者が再び妖精の姿に戻ることはない」

「そういえば、トリエンテの手記にもそんなようなことが書かれていたな」
「妖精のほとんどにとっては、鍵を使うのは生涯ただ一度きり。空を捨てることができる、それほどの相手に出会えた時だけ。その時になって、初めて自分の性を知ることになる」

「それじゃあ、ウィノはまだそういう相手に出会えてない?」
 ともすると無神経なユエの発言だったが、ウィノは気にせず「それどころではなかった」と淡々としたもの。

「……ただでさえ絶滅しそうな純血を、自ら減らすことはできなかった、ということか」
「そう、だから延命すると決めてからは、鍵を使うことを禁止した。人間になるだけでも負担がかかるのに、出産ともなれば──」


 いきなり、カチッと時計の針が止まってしまったように、ウィノの時間だけが凍りつく。

「ウィノ……?」ユエが目の前で手を振るとぼんやりと焦点が戻ってきて、それから何事もなかったかのように、「──出産ともなれば母体にかかる負担は計り知れない」と続けた。

 明らかに様子がおかしかったが、ごまかし方もあからさま過ぎて、カイトもユエも聞くに聞けない。


「……身体も温まったことだし、移動するか」
 ごまかされることを選んだカイトは、荷物を持って崖を登る準備に入った。


***


 崖の中腹にある小さな洞窟が、今夜の寝床だ。以前は鳥の住処になっていたらしく、散らばっている羽や卵の殻を端に寄せてユエを置くと、もう一往復してカイトは荷物を取ってくる。

 吹き寄せる風に外套がバタバタとなびき、(これは、落ちたらまずいな)と波立つ水面が凶器に見えて、カイトはいつも以上に慎重に足を運んだ。


「このあたりは、ほとんど雪は降らない。けれど寒さだけなら他の地域にも負けない。もう少ししたら、山の上の池が凍り始める」
 妖精は寒さに強いのか、ひとり平気な顔で寒風を浴びるウィノ。

「……意外だ」
「うん?」
「妖精ってのはもっと、花畑やらキラキラした湖やら、そういうところで暮しているのかと」

 おとぎ話の中の空想とかけ離れた現実に、カイトは少し調子が狂う。

「ここにも花は咲くし、きれいな水もある」
「まあ、そうだろうが……想像していた『妖精の国』とはちがったな、と」

 急峻な崖に、激しく打ちつける荒波、そして渦を巻く疾風──そのすべてが作られた妖精像には似つかわしくない。
 それが悪いわけではないが、やはり調子は狂う。


「……あれを」
 ウィノが指差したのは、くるくると水を巻き上げて踊る、小さな風の渦巻き。
「昔はあそこから妖精が生まれた」

「えっ?」
 突然の告白に、ユエも身を乗り出して水面を見下ろす。

「ここは空と海と大地が交わる場所。妖精が生まれ、そして帰る場所。だからここ以外に、我らの国はない」

「海……どう聞いていいのか難しいが、この北にあるのは、海、なんだよな?」
 カイトの今さらな確認に、ウィノは慎重に「そう、海」と肯定する。

「普通の海、なのか?」
「……どういう意味?」
「なにか……特別な海なのか?地図にも載っていないし、人間の間には知られていない──なにか理由があって隠されてきたのか?」
「……人間が知らないのは、ただ単にここへたどり着けないから、という理由。人魚もドワーフも、君たちがいう純血の時代には当たり前に知っていた」


 ウソではないが、すべてを話してもいない──そういう印象を持ったカイトだが、ここで追及することは無意味だということも明白で、もやもやはそのままひと晩持ち越すことにした。

 もやもやがどれだけ溜まっても、なんとかそれを収めることができたのは、目的地ゴールが目の前に見えていたからだ。


 明日になれば、すべては明らかになる──カイトたちにとって、メーディセインの解放は前哨戦。
 本番は、その後にやってくる。


 知らないうちに、小さな竜巻は消えていた。


***


 決戦前夜。

 頑なに寝姿を見せないウィノは自分の寝床に帰り、カイトとユエは小さな洞窟で身を寄せ合う。
 明日に備えて早めに寝たはずなのに、なかなか寝つけないのはお互い様のよう。諦めが早かったのはユエで、「なんか話、して」寝物語を要求してくる。

「はなし……どんなのがいい?」
「おれの知らない、カイトのはなし」
「知らないことなんてほとんどないだろう。あと話してないことなんて──」
「アイビスとの出会いは?」
「話したことなかったか?」
「カイトからは聞いたことない」

「そう、面白い話でもないが……そうだな、あいつの国に行くきっかけは、ヘイレンから無茶な仕事をふられたせいだった。とある危ない盗品が巡り巡って、アイビスの国の大貴族の館へと持ち込まれ、それをなんとか穏便に取り返してほしい、と」
「それで、どうしたの?」
「その貴族の館に上がり込むために、つなぎをつけてもらおうと目をつけたのが、アイビスだ」
「そういえば、アイビスって貴族なんだっけ」
「貴族の中では変わり者だったがな。まあ、だからこそ、素性の知れない男の話にも聞く耳を持ってくれるかと思って……結局なんだかんだと、ブツを盗み出すところまで手伝ってくれた」
「ふふ、そのときからもう、アイビスの面倒を背負い込む性格はできあがってたんだね」
「ははっ、そうだな。面倒を丸投げしてる俺に言われたくはないだろうが、そのうちやっかいなことにでも巻き込まれないかと心配になる。最近では、ベレン卿にもヘイレンにも便利に使われているし」


「ね、それから?アイビスはよく家を出られたね」
 逆効果で目が冴えてきてしまって、ユエは枕にしていたたくましい腕から身体を起こして、寝転がるカイトの上に乗り上がる。カイトの身体を敷布団にして、うつ伏せになる格好だ。

 子どもが原っぱで寝そべるような多幸感に包まれて、ユエは話の続きをせがむ。


「アイビスの家族はなんというか……すごくおっとりとしていたというか、おおらかというか、のんきというか。あいつが家を出て俺についてくるとなったときも、最後まで冗談だと思って笑っていたし」
「本気だって気づいたときは?」
「……下手したら、いまだに冗談だと思っていそうなんだが」
「……それが、冗談、なんだよね?」
「残念ながら」
「……そう、それはちょっと、アイビスの性格とは合わなそうだね」
「そうだな。家族仲は険悪ではないだろうが、合わなかったということだろうな」


「んん~」小さく伸びをしたユエは、ぺったりとカイトの胸に耳をくっつけて、心臓の音を聴く。ドクン、ドクン、と力強く、ゆったりとした鼓動は、カイトそのもの。

「ラークは?どうやって見つけたの?」
「風の音がしたんだ」
「風の音?」
「妖精の笛の音に似た音。それがラークの助けを呼ぶ声だった」

 カイトに耳をくっつけていると、声の振動が直接ユエの耳をくすぐる。それが心地よくて、ユエはもっとぴったりとくっついた。

「……地下室に閉じ込められてたんだっけ?」
「ああ。ラークの家に近づくと、妖精の笛が共鳴して場所を教えてくれた」
「それじゃあ、ラークは笛がなくても、妖精の笛の音を出せたってこと?」
「あれは火事場の馬鹿力ってやつだ。自覚してやったもんじゃない。家を出て以来それを発揮する機会がなかったことは、むしろいいことだ」
「……うん、そうだね」


 もしかしたら、妖精なら笛なしで音を出せるのかもしれないな、そしたら、ウィノと一緒に練習すれば、ラークもできるようになったりして──そんなことを考えたユエだが、口に出すことはやめた。

 今は未来のことは考えない。考えたくない。
 だから、せがむのは過去の話。


「ヘロンはどうやって仲間になったの?」
「あいつは……あいつがアイビスの財布をスろうとして、俺が捕まえたんだったな。それで『弟子入りしたい』とか言ってついて回るようになって」
「弟子入り?なにそれ」
「いつのまにかラークと仲良くなってて、どれだけ撒いてもついてくるもんだから、こっちが根負けした」


「あれ?マイナと会ったのはその後だっけ?それともヘロンより前?」
「面識は元々あった。ギルドに出入りしていたからな。何度か仕事で組んで……正式に一緒に旅をするようになったのは、ラークの後でヘロンよりは少し前、ぐらいか」
「フェザントと交代するまで、マイナが係だったんだね」
「あいつがいてくれて助かった。俺とアイビスだけじゃあ、とてもじゃないがあの二人に太刀打ちできなかっただろう」
「ふふ、二人で組んだらなにするかわからないものね」
「ひとりひとりならラークもヘロンも同年代よりしっかりしてるのに、なぜか不思議と、二人一緒になると年相応に子どもらしくなって騒がしくなるんだからな」
「今なんかアスカも一緒だから、騒がしさも三倍……どころじゃないよね。フェザントは大変だ」
「ふっ……だが、アスカという妹分ができたおかげで、ラークとヘロンはずいぶんと成長して──る、よな?」
「えぇー?どうかなぁ。ウィノを質問攻めにしたときなんて、いつにも増して騒々しいくらいだったよ」
「……確かに。まだまだフェザントの苦労は絶えそうにないな」



 ユエはまったく想像していなかった。

 こんなに穏やかにこの体温を享受できる夜が、どれだけ貴重であったことか──それを知っていたら、もっとこの時間を大切にできたのに。

 いつも通りの朝、日常の光景、平凡な日々──そんなものがいとも簡単に崩れてしまうことを、ユエは想像すらしていなかったのだ。


 ミシィィ……ッ!


 またひとつ、世界に亀裂が走る音がした。


******



 決戦当日。
 メーディセイン及び妖精の谷近郊は、朝から冷たい風に包まれていた。
 皮膚が痛くなるほどの寒風はピュウピュウと落ち葉を巻き上げ、どこかへさらっていく。


 カイトとユエとウィノがメーディセインを見下ろす位置で待機するころには、湖から立ち登る毛嵐は薄くなっていたが、その代わりのように空からポツポツと細かい雨粒が落ちてきた。


 戦いに相応しい天候とは言えないが、延期するほどでもない。
 そう判断して、三人は湖の向こうからの合図を待った。


***


 事前の調べで、首謀者と目される聖軍の元帥は現地には滞在しておらず、メーディセインを取り仕切っているのは元帥の息子であると判明していた。
 そのためまずは別地点にいる元帥の身柄を確保し、それから突入するという筋書きになっている。

 さすがに元帥を部外者が処分することはできないため、聖会側が確保し、それをベレン卿の手の者が見張るという構図だ。


 メーディセインから少し離れた村で待機していた一軍にその報せが届いたのは、昼近くになってから。
 総大将であるベレン卿の号令で、全軍は一気に湖を包囲した。

 事前に気づかれないようにこれだけの人数を潜ませておくことには苦労したが、一応の聖会の協力と、周囲の村々の協力があって成功に至った。村人たちは聖軍の横暴さにうんざりしていたため、こちらに迷惑をかけないなら、と傍観してくれたのだ。


 用意していた船を次々と湖面に送り出し、前線は静かに進んでいく。
 雨は止んでいたが、水上はまだ煙っていて、敵はこちらの姿をすぐに見つけることはできないだろう。万が一敵を取りこぼした時のために、湖畔にそれなりの人員を残しておく。
 ベレン卿もまだ船には乗らない。彼がメーディセインに足を踏み入れるのは、制圧が完了した時だ。

 カイト一行の中では、アスカとフローラ、そしてガレノス医師が湖畔に残っている。他はヘイレン率いる傭兵部隊に組み込まれ、普段は波ひとつない湖に船で白い線を描いていく。


 敵はよほど油断していたのだろう。
 惰性で立っていた見張りが気づいた時には、すでに船団はくっきりと姿を見せて、対岸に上陸する寸前に迫っていた。

 慌てふためいて警笛を鳴らす見張りを、ベレン領の兵士が弓で射抜く。
 それを皮切りに、乗員は船を降りてメーディセインの土へと足跡をつけた。

 足跡が次々と重なって輪郭を失ってから、ラークも上陸する。もっとも後方の船だったため、今や湖畔には人影よりも船の方が数が多い。この場に残り船を守ることが仕事のラークは、正面にそびえる大迫力の崖を見上げて、あのどこかにいるはずの仲間三人を探そうと目を凝らした。


 ラークは戦いが始まるより前に、すでにひと仕事終えていた。
 船で出発する時に、小さな銀の筒に息を吹き込んで、作戦開始を三人に伝えたのだ。


***


 妖精の笛の音が聞こえて、三人は待機場所から弓で狙える位置まで移動した。
 崖のギリギリ、藪で姿が隠れる場所に身を潜めると、静かにその時を待つ。

 戦闘の様子を目で確認するより前に、カイトとウィノの耳には喧騒が届いてきた。
 もう姿を隠し続ける必要はないと、カイトは伏せていた身を起こして藪の中から出る。

 カイトとユエは矢をつがえた状態で、崖から身を乗り出すようにして敵の姿が見えてくるのを待つ。ウィノは二人の頭の上でふわふわと浮かんでいるが、緊張して息を詰めているのは伝わってきた。


 敵は侵入者を排除しようと、最初は湖の方角へ向かっていったため、なかなか二人の弓の出番は訪れなかった。
 しかし侵入者が自分たちの何倍もの人員をそろえた軍だと知るにつれて、敵の中に逃亡しようと崖へ向かって来る者が出てきた。
 すかさず、二本の矢が射抜く。

 まさかの方向から襲ってきた攻撃に、敵は目を丸くしたままばたりと倒れ、それを見た周りの者も目を丸くしたまま呆然と立ち尽くす。
 立ち尽くした的に、矢は容赦なく浴びせられた。


 メーディセインという土地は湖と急峻な崖に挟まれ、密事をするには確かに適した場所だった。
 しかしそれも、こうして前後を挟まれれば途端に逃げ場のない檻へと変わってしまう。


 奇襲によって追い込まれ、逃げ道も断たれた敵たちは、死力を尽くすことなく戦意を失った。


***


 武器を手放して両手をさらす聖軍の軍人たちを、ベレン領の兵士たちが次々に拘束していく。
 しかしまだ油断はできない。
 この場の責任者であるはずの元帥の息子を捕らえるまでは。

 剣の音が数えられるほどにまで減ると、傭兵を先頭に、建物の中を端から順に改めていく作業に入った。

 その時点で、対岸で待機しているベレン卿へ向けて狼煙が上げられ、総大将を筆頭にアスカやフローラ、ガレノス医師らが船に乗って出発する。

 それとほぼ同時に、挟撃の役目を終えたカイトとユエも崖を降り始める。ウィノは二人について行くことを一瞬ためらったが、カイトに抱えられたユエが自分のフードの中に入るよう誘導すると、その中へと潜って姿を隠した。


 建物の中で震えてうずくまっていたのは、そのほとんどが非戦闘員の研究者たちだった。
 彼らも拘束し、残る最後の建物の前にヘイレンを中心として集まる。ここがこの場でもっとも大きな建物で、まだ見つかっていない元帥の息子や人質の妖精たちも中にいるだろうと予想できたため、扉を開ける手も慎重になる。


「武器を捨てて投降しろ!ならば命までは取らない!!」
 扉を開け放つと同時にヘイレンの声が響いた。
 二列になった傭兵たちがダッと素早く侵入し、左右に分かれて全方向へと弓を向ける。

 それでも建物内からの反応はない。
 ヘイレンの横に控えていたアイビスは、侵入した傭兵たちから戸惑いの空気が流れてくるのを感じ取っていた。


 ヘイレンとアイビスは顔を見合わせて、剣を構えたまま中へと進む。
 そして傭兵たちと同じように、そこにあった異様な光景に言葉を失った。


「触るな……!」
 停滞した時間を動かしたのは、中央に鎮座していた巨大なガラス板の前に立ち塞がった男。事前に人相書きが配られ『最重要人物』として周知されていたため、それが元帥の息子であることはアイビスにもすぐにわかった。

 しかしその男が背にかばっているの異様さで、ヘイレンですら即座に「拘束しろ」という命令を発せない。

 そのガラス板は箱型になっていて、中を薄赤色の液体が満たしている。そしてなにかされたものが浮かんでいる。

「……っ!!」
 液体に浸されたツギハギと、アイビスの



「ぅ、わぁぁぁーーーー!!」
 ひっくり返った奇声を上げたのは、顔色の悪い痩せこけた男。「触るな!触るなっ!触るなーーーっ!」
 研究者然とした白衣姿でブンブンとイスを振り回して、侵入者を遠ざけようとガラス板との間に割り込んできた。

 それを避けて後ろに下がったアイビスは、背後に備え付けられていた棚に思わず手をかけてしまって、ずらっと並べられた瓶のひとつを床に落としてしまう。
 ガシャン、と割れた破片の中に、奇妙な物体が混じって床に転がった。

 それに既視感を覚えたアイビスは、妙に冷静に(ああ、ベレン領の事件の時だ)と記憶を整理していた。液体に浸されていた、人の臓器──目の前のコレは、おそらく心臓だ、と思ったところで、ゾワッと背中に怖気が走る。

 無意識のうちに、棚についた方の手で自分の心臓あたりをさする。

 この棚に置かれた瓶、そのひとつひとつに臓器が保存されているとしたら──犠牲者は百人、二百人では足りないかもしれない。
 パッとは数えられない量の瓶に、さすがのアイビスも吐き気を催して口許をおさえる。


 その間もイスを振りまわし続けていた白衣の男を、傭兵たちがやっとのことで拘束したが、手を縛られてもなお、「触るな……触るな……」口に泡を吐きながら狂ったように同じ言葉を繰り返していた。




 カイトとユエとウィノが建物の前に到着したのが、ちょうどその時だ。
 外の制圧が粗方済んで、ベレン領の兵士が拘束した敵を一か所に集める間を抜けて、周囲を傭兵が囲んだ建物へとたどり着いた。

 入り口には何重かの人垣ができていて、中の様子をうかがい知ることはできない。
 人垣の中にフェザントが押し込まれていることに気づいて、カイトが名前を呼ぶと、波をかき分けるようにやってきて状況を教えてくれる。

「──んで、あとはここだけだ。アイビスとヘイレンは先頭にいたようだが、首根っこ捕まえてたヘロンがいつのまにかいなくなってて、たぶんあいつも中にいる。クレインとジェイはまだ来てないと思うが……」


 そこで入り口の人垣が崩れて、拘束された研究者が引きずられるようにして運び出されてきた。
 それを見送って、カイトは目線を入り口に戻す。人を割った道が一直線にできていて、まるでカイトと元帥の息子を繋ぐように光が通った。


 カイトがその男の人相を確認すると同じく、その男もカイトの顔を認識し──その時その男の顔に浮かんだのは、恍惚の笑み。


「……『カイト』」


 初対面の壮年の男に、うっとりと名前を呼ばれて、カイトは戦慄する。

「ああ……ほんとうに、ほんものか?あぁ、私では判断できない……お願いします、あなたが確かめてください──

 男は振り返ると、ガラス板の中のツギハギへと呼びかけた。

「法王様、アレが、『カイト』ですか?不老不死の『ノクス』ですか?あれこそが、我らが目標とする人類の最終到達点なのですか……?」


 ツギハギは目を大きく見開いてから、ちゃぷん、と薄赤色の液体を揺らして、カイトへ向けて手を伸ばす。


 ──「……カイト」


 全身を液体に浸かりながら、ツギハギの口から発せられた音は確かにカイトの耳に届いた。



 は概ね、ヒトの形をしていた。
 腕が二本、足が二本、首があって顔があって、目があって鼻があって口があって──けれどやはり、『ヒト』とはどうしても呼べない。


 そこにいたのは、人の形をした化物だった。


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