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第一章 人魚の鱗は海へ還る
4 東の海へ
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東の海は、小さな島が点在していて、船で進むには技術と知識がいった。アイビスが地図を見て指示を出し、ラークが風を読み、クレインが波を読んで、慎重に進んでいく。
目指す海域は近い。
ここまで辿り着く間に、ユエにもこの船の船員の関係性が見えてきていた。
船長はカイト。といっても彼は命令を出すことは少ない。全体の方針は彼の意見に従っているが、細かい指示を出すのは、アイビスだった。
このアイビスが副官で、いつもカイトの傍に控えている。寄港を決めることや、財布の紐を握っているのも彼だ。
この一行の資金がどこから捻出されているのか、もちろんユエには知るべくもなかったが、ひっ迫している、というほどではないが、なかなかに厳しいらしく、よく財布とにらめっこしている。
ラークとヘロンは仲がよく、ちょこちょこと動き回っては、フェザントに叱られるのが日常だ。
よく分からないのは、クレインとジェイの関係だった。
この二人は、だいたいいつも一緒にはいるが、何を話すでもない。まるでジェイがクレインの護衛のような立ち回りで、一歩後ろに付き従っている。
クレインは当初からの態度を変えることはなく、今でも、ユエにはあまり近づかない。そんなクレインを察してか、ジェイもあまり関わろうとはしなかったから、二人のことはよく分からないまま、目的地に近づいていた。
******
「ここだ」
カイトが示したのは、何の変哲もない海面。目印もなく、見える範囲に人の住めそうな島もない。
だが覗き込んだヘロンとラークは、何かを感じ取ったのか、
「……なんか暗っ」
「静かすぎる……」
いつもの騒がしさが鳴りを潜め、静かに身を震わせる。
「さてと……」
集めた全員を見回して、カイトが切り出す。
「この下に、船が沈んでいる。大きく、古い、海賊船だ。そこに、目的の物はある」
最後に目を移したユエを見つめて、「お前に取ってきてもらうものだ」と笑う。
「……鍵なんて小さなもの、見つかるわけない」
「大丈夫だ」
ここに来てまだ迷いの消えないユエを、一蹴する。
「一番大きな船、船首に人魚の像が目印だ。その人魚の首に、鍵はかかっている」
まるで見て来たような断定的な物言いに、ユエの逃げ道は断たれる。
「どんな……鍵?」
「……蒼く、美しい鍵だ。まるで海の化身のような、な。持ち手は三つの輪が重なり合って、大きさは、そうだな……」
おもむろにユエの手を取って、「お前の手の半分くらいか」となぞる。人間にしては低く、それでもユエにとっては熱いその体温に、ぞくっと痺れが走り、慌てて手を取り戻す。
そんなユエを気にもしないで、今度は一行に向き合う。
「この辺りは一見穏やかに見えるが、海の中は荒れている。気づかないうちに流されないよう、しっかり見張れ」
そして再びユエに向かい、
「気をつけろ」
その一言を合図に、ユエは久しぶりの海へ身を躍らせた。
******
「……遅くないか……?」
誰もが思っていることを、最初に口に出したのは、アイビスだった。
ユエの姿が見えなくなって、すでに一時間は経った。船を安定させながら、海面を見守っていたが、いくらなんでも遅い。人魚の遊泳速度を考えると、遅すぎると言ってもいい。
「……逃げたんじゃない?」
まるでその方がいいと言うようなクレイン。
「そんな!ユエはそんなことしないよ!」
反発の声は、もっとも世話を焼いたラーク。
「今さらか?これまでにも、さんざん逃げる機会はあったろ」
冷静なのはフェザントだ。
誰が正しいかを問う前に、ユエが行ってからずっと、目をつむって座っていたカイトが、いきなり動きだした。
海面を覗き、上着に手をかける。
「どうし」「しっ!」
どうしたと問いかけたアイビスを制したのは、ラーク。口に人差し指を立てて、耳を澄ませる。
「なんか、変な音が……」
「俺が見てくる」
上半身の肌をさらしたカイトが、服をアイビスに押しつけ、矢継ぎ早に指示を出す。
「少しここから離れろ。すぐに動ける準備をして待機。縄梯子を垂らしておけ」
言い終わるか否かで、派手な水音があがる。
呆気にとられた一行だったが、すぐに全員が指示通りに動きだす。カイトに間違いはないことは、これまでの付き合いでよく知っていた。
二人が潜っていった場所が、ぎりぎり見える位置まで船を動かし、並んで海を見守る。
すると幾分もしないうちに、海がいきなりとぐろを巻き始めた。
「なっなんだこれ?!」
「まずい!!」
普段物静かなクレインが、声を荒げる。
「あそこ!カイトのいるところ!あそこから、海が!!」
クレインの指差した海が、黒々と濁り、徐々に渦巻きができ始める。それは例え人魚でも逃れられないほどの流れ。
ましてカイトは……!!
「カイトーー!!」
口々に叫ぶ声。しかし大渦はその激しさに引きずられるように、勢力を増すばかり。もしカイトの忠告がなく船を遠ざけなかったら、間違いなく海に引きずり込まれていただろう。
渦はすでに、この船の五倍のも大きさに膨れ上がっていた。
もはや……と思われたその時──
「あっ!あそこ!」
ラークの指の方角に、一斉に視線が移動する。
大渦から外れた海面に、二つの頭。
波に引きずり込まれないよう、力強く、船に近づいてくる。
「カイトーー!」
姿が確認できる距離まで近づくと、カイトがユエを抱えるようにして泳いでくるのが、船からでもよく見えた。
「俺っ迎えに行く」
人魚の亜種であるクレインが、慌てて縄梯子を降りる。
そのクレインと協力して、ユエを船に上げる。海が故郷であるはずの人魚がぐったりしている様に、クレインも恐怖した。
甲板に上がった三人を、他が取り囲んで輪ができる。
どちらにも目に見えるけがや変化はなく、やっと安堵が広がった。
カイトは大渦が船に届かないことを確認してから、力なく自分の腕にすがるユエに、
「何があった?」
と尋ねる。
その、他人事のような言葉にユエは、
「『何があった?』じゃない!全然聞いていた話と違った!」
激昂を吐きだすように、海の中での出来事を話し始めた。
「船はたくさん沈んでいてどれだか分からないし、海はおかしいし……」──
******
ユエが久しぶりに大海に身を沈めた瞬間、懐かしさや心地よさよりも、底知れぬ不安を感じた。
(この海は、なんだかおかしい)
自分がこれから向かわなければならない底の方から、体にまとわりつくような嫌な気配が漂っていた。
故郷とは違う、暗く冷たい海。
だがそれだけではない。もっと陰湿な、なにか──。
(……別に絶対に行かなければいけないわけじゃない。このまま逃げたって……)
だがユエには、カイトが指摘したように、『人間に借りを作りたくない』という矜持もあったし、それに何より、『鍵』に対する興味を引き出されていた。『鍵』を見てみたい。本当に存在するのなら。
故郷で聞いたおとぎ話が浮かぶ。
海の果て──人間はもちろん人魚でさえ、まだ見たことのない海がある。陸から遠ざかるように泳いで泳いで泳いで──どれだけ泳いでも、その先を見た者はいなかった。もしそこに辿り着けたなら、そこは人魚だけの楽園が広がっている。人間もドワーフも妖精もいない、安らかな世界。
ユエが聞いた話には『鍵』のことは出てこなかったが、誰も行ったことがない場所へ行くには、確かに何か『特別なもの』が必要なのかもしれないとは思った。それが『鍵』なのかもしれない。
(人間に渡してはいけない。もし本当に『鍵』が『海の楽園』へ行くためのものなら、それは人魚のものだ)
チラリと、楽しそうなカイトの顔が浮かんだ。悪い人間ではないのかもしれない。でも……やっぱり人間には奪われたくない。
それは人魚のためというより、ユエ個人の固執ではあったが、利己的な自分には目をつむり、決意を新たに、海の底へ向き合った。
水が冷たくなるにつれて、暗い気配も濃くなる。まるで悪魔が手招きしているかのように、気持ちは萎えるのに、身体は引きずられる。
どれだけ潜ったのか、時間の感覚がないまま、底に辿り着いた。
いや、底、と言っても、海底は見えない。
船らしき残骸で、砂は埋まっていた。
大小様々な船が、ほとんど原形を留めずに沈んでいる。
(『大丈夫』なんて、嘘ばっかりだ)
怨みがましくカイトの自信満々な顔を思い出すが、後の祭りだ。もう来てしまった。
仕方なしに、『人魚の像』を探して、木の破片の周りをぐるぐる何度も泳ぐ。そうして見てみると、沈没船たちはずいぶんと年代にばらつきがあるようだった。
すでに朽ちかけ、触れれば崩れてしまいそうなものから、まだ木の艶を残したものまで。
だが不思議と人骨は見当たらないことに、ユエは安堵した。
しばらく一定の距離を取って、積み重なった船の墓場を見ていたが、ふと思い立って、全体が見える位置まで下がる。
すると──
「……あった」
『一番大きな船』は、一番下にあった。
最初に沈んだそれに、後から沈んだ船たちが折り重なり、姿を隠していたのだ。
「……大きい」
確かにその船は、周りより一回りも二回りも巨体だった。
圧倒されつつも船首に回ると、『人魚の像』も確かにある。
だが、早くここを離れたいと気が急くユエは気づかなかった。その船の異常さに。
なぜその船だけが、形を保っているのか。
なぜその船は、上に乗っている後から沈んだ船よりも、朽ちていないのか。
早く!早く!と焦るユエだが、人魚の像を調べて、再びカイトを呪った。
(どこにもないじゃないか!!)
『人魚の像』はまるで時が止まっているかのように、美しさを残したまま、しかしどこか悲しげな表情が印象的であった。
だがその首には、『鍵』はない。
(もう!なんで俺がこんな苦労……!)と身を翻そうとしたユエの目に、「ひっ!」恐ろしいものが映る。
骸骨だ。
祈りに手を組んだ『人魚の像』の背後に、人骨が引っかかっている。
(もういやだ!)と後退るか、背を向ける前に、キラッと光が反射した。いや、この深海に光は届かない。それそのものが光を発したのか。
人骨の首に、『鍵』はかかっていた。
だがユエにしてみれば、やっと見つかったという安堵よりも、人骨に近づかなければならない嫌悪の方が勝った。
しかし、目の前にして……とさすがに諦めることはできず、オロオロと手を伸ばしかけては戻す、といった行動を繰り返すこと十数分。
やっと決心をつけて、体はなるべく遠ざけて、手だけを伸ばす。そして一息に引き寄せた。
チリッと鍵に通してあった鎖が切れて、思いがけず簡単に、手の中にそれは収まった。
「……きれい……」
カイトが言っていた通り、海の化身のような蒼。思わず見入ってしまって、海の変化に気づくのに一瞬遅れる。
「なっ……!」
先ほどまで時が止まったかの様相を見せていた船が、鍵によって時間が早回しされたように、ボロボロと崩れていく。
ゴゴゴゴ……!と砂が巻き上げられ、塞がれた視界。
そこにいきなり、窪んだ目が……!
「いやだ……っ!!」
鍵を持っていたあの骸骨が、ユエに向かって突進してくる。それは朽ちる船による反動ではない、まるで糸で引っ張ったような早さで……。
恐慌状態のユエは、とにかく海面を目指して泳いだ。
怖くて振り返れない。
背後からはまだゴゴゴゴ……という音と、そしてユエを底に連れ戻すように水が沈んでいく。
骸骨の暗い眼窩を振り払うように、光を目指した。
そこに一つの影。
その影に腕を取られて、ユエは光の世界に帰還した。
******
「それじゃあ、鍵はあったんだな」
ユエの冒険譚を聞いて、カイトが発したのはそれだった。
まだ怒りと恐怖が収まらないユエは、憮然としながらも、掌を広げて見せる。
「「おぉーー!!」」
いくつもの歓声が重なる。
しかし次の瞬間──
「うわっ」「なんだ?!」
注視していた鍵から、光が溢れた。
宙に浮かび上がった光は、徐々に輝きを増しながら、ユエの胸に吸い込まれる。そして次はそのユエの体から光が──
光に眩んだ目を開けた一行は、ただただ、立ち尽くした。
「……え……?」
鍵が吸い込まれた自分の胸から、ユエはだんだんと下に目を移す。
さっきまで鱗があった場所に、見慣れない肌色。
二本の足が、生えていた。
目指す海域は近い。
ここまで辿り着く間に、ユエにもこの船の船員の関係性が見えてきていた。
船長はカイト。といっても彼は命令を出すことは少ない。全体の方針は彼の意見に従っているが、細かい指示を出すのは、アイビスだった。
このアイビスが副官で、いつもカイトの傍に控えている。寄港を決めることや、財布の紐を握っているのも彼だ。
この一行の資金がどこから捻出されているのか、もちろんユエには知るべくもなかったが、ひっ迫している、というほどではないが、なかなかに厳しいらしく、よく財布とにらめっこしている。
ラークとヘロンは仲がよく、ちょこちょこと動き回っては、フェザントに叱られるのが日常だ。
よく分からないのは、クレインとジェイの関係だった。
この二人は、だいたいいつも一緒にはいるが、何を話すでもない。まるでジェイがクレインの護衛のような立ち回りで、一歩後ろに付き従っている。
クレインは当初からの態度を変えることはなく、今でも、ユエにはあまり近づかない。そんなクレインを察してか、ジェイもあまり関わろうとはしなかったから、二人のことはよく分からないまま、目的地に近づいていた。
******
「ここだ」
カイトが示したのは、何の変哲もない海面。目印もなく、見える範囲に人の住めそうな島もない。
だが覗き込んだヘロンとラークは、何かを感じ取ったのか、
「……なんか暗っ」
「静かすぎる……」
いつもの騒がしさが鳴りを潜め、静かに身を震わせる。
「さてと……」
集めた全員を見回して、カイトが切り出す。
「この下に、船が沈んでいる。大きく、古い、海賊船だ。そこに、目的の物はある」
最後に目を移したユエを見つめて、「お前に取ってきてもらうものだ」と笑う。
「……鍵なんて小さなもの、見つかるわけない」
「大丈夫だ」
ここに来てまだ迷いの消えないユエを、一蹴する。
「一番大きな船、船首に人魚の像が目印だ。その人魚の首に、鍵はかかっている」
まるで見て来たような断定的な物言いに、ユエの逃げ道は断たれる。
「どんな……鍵?」
「……蒼く、美しい鍵だ。まるで海の化身のような、な。持ち手は三つの輪が重なり合って、大きさは、そうだな……」
おもむろにユエの手を取って、「お前の手の半分くらいか」となぞる。人間にしては低く、それでもユエにとっては熱いその体温に、ぞくっと痺れが走り、慌てて手を取り戻す。
そんなユエを気にもしないで、今度は一行に向き合う。
「この辺りは一見穏やかに見えるが、海の中は荒れている。気づかないうちに流されないよう、しっかり見張れ」
そして再びユエに向かい、
「気をつけろ」
その一言を合図に、ユエは久しぶりの海へ身を躍らせた。
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「……遅くないか……?」
誰もが思っていることを、最初に口に出したのは、アイビスだった。
ユエの姿が見えなくなって、すでに一時間は経った。船を安定させながら、海面を見守っていたが、いくらなんでも遅い。人魚の遊泳速度を考えると、遅すぎると言ってもいい。
「……逃げたんじゃない?」
まるでその方がいいと言うようなクレイン。
「そんな!ユエはそんなことしないよ!」
反発の声は、もっとも世話を焼いたラーク。
「今さらか?これまでにも、さんざん逃げる機会はあったろ」
冷静なのはフェザントだ。
誰が正しいかを問う前に、ユエが行ってからずっと、目をつむって座っていたカイトが、いきなり動きだした。
海面を覗き、上着に手をかける。
「どうし」「しっ!」
どうしたと問いかけたアイビスを制したのは、ラーク。口に人差し指を立てて、耳を澄ませる。
「なんか、変な音が……」
「俺が見てくる」
上半身の肌をさらしたカイトが、服をアイビスに押しつけ、矢継ぎ早に指示を出す。
「少しここから離れろ。すぐに動ける準備をして待機。縄梯子を垂らしておけ」
言い終わるか否かで、派手な水音があがる。
呆気にとられた一行だったが、すぐに全員が指示通りに動きだす。カイトに間違いはないことは、これまでの付き合いでよく知っていた。
二人が潜っていった場所が、ぎりぎり見える位置まで船を動かし、並んで海を見守る。
すると幾分もしないうちに、海がいきなりとぐろを巻き始めた。
「なっなんだこれ?!」
「まずい!!」
普段物静かなクレインが、声を荒げる。
「あそこ!カイトのいるところ!あそこから、海が!!」
クレインの指差した海が、黒々と濁り、徐々に渦巻きができ始める。それは例え人魚でも逃れられないほどの流れ。
ましてカイトは……!!
「カイトーー!!」
口々に叫ぶ声。しかし大渦はその激しさに引きずられるように、勢力を増すばかり。もしカイトの忠告がなく船を遠ざけなかったら、間違いなく海に引きずり込まれていただろう。
渦はすでに、この船の五倍のも大きさに膨れ上がっていた。
もはや……と思われたその時──
「あっ!あそこ!」
ラークの指の方角に、一斉に視線が移動する。
大渦から外れた海面に、二つの頭。
波に引きずり込まれないよう、力強く、船に近づいてくる。
「カイトーー!」
姿が確認できる距離まで近づくと、カイトがユエを抱えるようにして泳いでくるのが、船からでもよく見えた。
「俺っ迎えに行く」
人魚の亜種であるクレインが、慌てて縄梯子を降りる。
そのクレインと協力して、ユエを船に上げる。海が故郷であるはずの人魚がぐったりしている様に、クレインも恐怖した。
甲板に上がった三人を、他が取り囲んで輪ができる。
どちらにも目に見えるけがや変化はなく、やっと安堵が広がった。
カイトは大渦が船に届かないことを確認してから、力なく自分の腕にすがるユエに、
「何があった?」
と尋ねる。
その、他人事のような言葉にユエは、
「『何があった?』じゃない!全然聞いていた話と違った!」
激昂を吐きだすように、海の中での出来事を話し始めた。
「船はたくさん沈んでいてどれだか分からないし、海はおかしいし……」──
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ユエが久しぶりに大海に身を沈めた瞬間、懐かしさや心地よさよりも、底知れぬ不安を感じた。
(この海は、なんだかおかしい)
自分がこれから向かわなければならない底の方から、体にまとわりつくような嫌な気配が漂っていた。
故郷とは違う、暗く冷たい海。
だがそれだけではない。もっと陰湿な、なにか──。
(……別に絶対に行かなければいけないわけじゃない。このまま逃げたって……)
だがユエには、カイトが指摘したように、『人間に借りを作りたくない』という矜持もあったし、それに何より、『鍵』に対する興味を引き出されていた。『鍵』を見てみたい。本当に存在するのなら。
故郷で聞いたおとぎ話が浮かぶ。
海の果て──人間はもちろん人魚でさえ、まだ見たことのない海がある。陸から遠ざかるように泳いで泳いで泳いで──どれだけ泳いでも、その先を見た者はいなかった。もしそこに辿り着けたなら、そこは人魚だけの楽園が広がっている。人間もドワーフも妖精もいない、安らかな世界。
ユエが聞いた話には『鍵』のことは出てこなかったが、誰も行ったことがない場所へ行くには、確かに何か『特別なもの』が必要なのかもしれないとは思った。それが『鍵』なのかもしれない。
(人間に渡してはいけない。もし本当に『鍵』が『海の楽園』へ行くためのものなら、それは人魚のものだ)
チラリと、楽しそうなカイトの顔が浮かんだ。悪い人間ではないのかもしれない。でも……やっぱり人間には奪われたくない。
それは人魚のためというより、ユエ個人の固執ではあったが、利己的な自分には目をつむり、決意を新たに、海の底へ向き合った。
水が冷たくなるにつれて、暗い気配も濃くなる。まるで悪魔が手招きしているかのように、気持ちは萎えるのに、身体は引きずられる。
どれだけ潜ったのか、時間の感覚がないまま、底に辿り着いた。
いや、底、と言っても、海底は見えない。
船らしき残骸で、砂は埋まっていた。
大小様々な船が、ほとんど原形を留めずに沈んでいる。
(『大丈夫』なんて、嘘ばっかりだ)
怨みがましくカイトの自信満々な顔を思い出すが、後の祭りだ。もう来てしまった。
仕方なしに、『人魚の像』を探して、木の破片の周りをぐるぐる何度も泳ぐ。そうして見てみると、沈没船たちはずいぶんと年代にばらつきがあるようだった。
すでに朽ちかけ、触れれば崩れてしまいそうなものから、まだ木の艶を残したものまで。
だが不思議と人骨は見当たらないことに、ユエは安堵した。
しばらく一定の距離を取って、積み重なった船の墓場を見ていたが、ふと思い立って、全体が見える位置まで下がる。
すると──
「……あった」
『一番大きな船』は、一番下にあった。
最初に沈んだそれに、後から沈んだ船たちが折り重なり、姿を隠していたのだ。
「……大きい」
確かにその船は、周りより一回りも二回りも巨体だった。
圧倒されつつも船首に回ると、『人魚の像』も確かにある。
だが、早くここを離れたいと気が急くユエは気づかなかった。その船の異常さに。
なぜその船だけが、形を保っているのか。
なぜその船は、上に乗っている後から沈んだ船よりも、朽ちていないのか。
早く!早く!と焦るユエだが、人魚の像を調べて、再びカイトを呪った。
(どこにもないじゃないか!!)
『人魚の像』はまるで時が止まっているかのように、美しさを残したまま、しかしどこか悲しげな表情が印象的であった。
だがその首には、『鍵』はない。
(もう!なんで俺がこんな苦労……!)と身を翻そうとしたユエの目に、「ひっ!」恐ろしいものが映る。
骸骨だ。
祈りに手を組んだ『人魚の像』の背後に、人骨が引っかかっている。
(もういやだ!)と後退るか、背を向ける前に、キラッと光が反射した。いや、この深海に光は届かない。それそのものが光を発したのか。
人骨の首に、『鍵』はかかっていた。
だがユエにしてみれば、やっと見つかったという安堵よりも、人骨に近づかなければならない嫌悪の方が勝った。
しかし、目の前にして……とさすがに諦めることはできず、オロオロと手を伸ばしかけては戻す、といった行動を繰り返すこと十数分。
やっと決心をつけて、体はなるべく遠ざけて、手だけを伸ばす。そして一息に引き寄せた。
チリッと鍵に通してあった鎖が切れて、思いがけず簡単に、手の中にそれは収まった。
「……きれい……」
カイトが言っていた通り、海の化身のような蒼。思わず見入ってしまって、海の変化に気づくのに一瞬遅れる。
「なっ……!」
先ほどまで時が止まったかの様相を見せていた船が、鍵によって時間が早回しされたように、ボロボロと崩れていく。
ゴゴゴゴ……!と砂が巻き上げられ、塞がれた視界。
そこにいきなり、窪んだ目が……!
「いやだ……っ!!」
鍵を持っていたあの骸骨が、ユエに向かって突進してくる。それは朽ちる船による反動ではない、まるで糸で引っ張ったような早さで……。
恐慌状態のユエは、とにかく海面を目指して泳いだ。
怖くて振り返れない。
背後からはまだゴゴゴゴ……という音と、そしてユエを底に連れ戻すように水が沈んでいく。
骸骨の暗い眼窩を振り払うように、光を目指した。
そこに一つの影。
その影に腕を取られて、ユエは光の世界に帰還した。
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「それじゃあ、鍵はあったんだな」
ユエの冒険譚を聞いて、カイトが発したのはそれだった。
まだ怒りと恐怖が収まらないユエは、憮然としながらも、掌を広げて見せる。
「「おぉーー!!」」
いくつもの歓声が重なる。
しかし次の瞬間──
「うわっ」「なんだ?!」
注視していた鍵から、光が溢れた。
宙に浮かび上がった光は、徐々に輝きを増しながら、ユエの胸に吸い込まれる。そして次はそのユエの体から光が──
光に眩んだ目を開けた一行は、ただただ、立ち尽くした。
「……え……?」
鍵が吸い込まれた自分の胸から、ユエはだんだんと下に目を移す。
さっきまで鱗があった場所に、見慣れない肌色。
二本の足が、生えていた。
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