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第一章 人魚の鱗は海へ還る
5 ハオリ島
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「……妄執、だな……」
最初に立ち直ったのは、カイトだった。誰にも分からない言葉をつぶやき、脱いでアイビスに預けてあった自分の上着を、座りこんで動けないユエの股間に被せる。
「ひとまずここを離れるぞ。すぐに他の船が集まってくる」
夢を見ているような表情だった他の船員たちは、ほとんど反射のように動き始めた。
動いてから、
「……どこへ……?」
アイビスがもっともなことを聞く。
「そうだな……ハオリ島へ行こう。ここから近い」
何度か寄ったことのある馴染みの島の名に、やっと現実感が戻ってくる。
「なにが……なんだか……」
悪夢を祓うように頭を振ったアイビスに、
「考えるのは後だ」
と言葉少なに言い置き、船を操る船員から離れて、まだ焦点の合っていないユエの前に座る。
さっき股間に置いた上着を、されるがままのユエに頭から被せると、大きめの服は床まで届く。
ユエが現実を受け止めるのを待つように、その前で自身も思考に沈んだ。
******
ハオリ島は小さな島だ。
外から見ると木と草しか見えず、船が付けられるような海岸はないように思えるのだが、一本だけ川が繋がっていて、そこを知っている者しか訪れることはできない。
その川を登ると、開けた海岸に着く。その目の前には大きな木の住居。それがこの島唯一の建物だ。
満潮時には水に浸かってしまう建物の柱が、今は剥き出しになっている。開放的な窓から、船が見えた一人が、砂浜に出てきた。
「カイトー!いらっしゃい!突然だね!」
四十ほどの体格のいい女性。
「急で悪い。ちょっと近くまで来たもんでね」
つい先刻までの深刻さを微塵も感じさせず、軽い調子であいさつを交わす。
船の上から声を張り上げて、
「ここに来る途中、おかしなものに遭ってね。ここから南東に行った──ほら、前によく船が沈むって言っていたところ」
「ああ!はいはい!分かるよ!」
「あそこが何やら潮の流れがおかしくてね。遠目で見て、海が濁っているのが見えた。もし船が出ているなら、気をつけた方がいい」
「そうかい……情報、ありがとうよ。さっそく見に行ってみるよ」
「ああ、その方がいい」
「今日はどうするんだい?いきなりだから、悪いけどあんまりもてなしはできないよ」
「いや、いいんだ。食糧はある。少し休ませてくれるだけでいい」
二人の会話の間に、話が聞こえた島民が続々と姿を現わす。
「あんまりのんびりしていると、日が暮れちまう」
「そうだね、行くなら準備して!」
「カイト!食材があるなら、こっちで料理しようか?」
「それは助かる」
荷物を取りに行く者、船の準備に取りかかる者、それは全て女性だった。それも三十代以上の妙齢の、後は子どもばかり。
「先に降りていろ」
と言うカイトに諸手を上げたのは、ヘロンのみ。残りの者は、カイトとユエを見て躊躇する。
結局、降りたいばかりのヘロンに付き合って、ラークとフェザントが下船した。
アイビスはカイトの傍に、クレインとジェイは少し遠巻きに二人を見守る。
ユエはあれから一言も発していない。信じたくないというように、自分の下半身から目を逸らして、空を見つめている。
だがカイトはお構いなしに、自分が着せた上着を捲り上げ、鍵が吸い込まれた胸を調べる。下肢が丸出しになり、慌ててアイビスが目線を外すが、人間とは羞恥心の感じ方が異なる人魚には、あまり意味のない配慮だった。
変わったところが見受けられない上半身から、徐々に下半身に視線は移る。
へそ、生殖器、排泄器官、そして足──おそらく今のユエを見て、人魚だと分かる者など存在しない。
人魚の亜種であるクレインには、足の甲や足首に薄い鱗があるのだが、それすら見当たらない今のユエは、クレインよりもよほど人間に近い。
生まれたばかりの足を、カイトの指がなぞる。
「んぅ……っ」
あれ以来、初めてユエが反応した。
「……感じるか?」
カイトの指は肌を確かめるように、指から足裏、踵を通って甲、足首から徐々に上へ這わせていく。
肌はまさに『生まれたて』だった。
傷も、ほくろも、日焼けもない、まっさらな肌。
それゆえ、とても敏感だった。
カイトの指が触れたところから、何かが駆け抜けて、全身に広がっていく。しかしユエにとっては未知の感覚に、脳は理解できず、体だけが反応し、頭は鈍感になっていた。
「ああっ……!」
太ももの内側に指が到達した瞬間、今までにない感覚がユエを襲う。ビクッビクッと全身を震わせて、吐息を漏らした。それは快感だったのか、それとも掻痒か。
「感じているな……」
確かめるべくカイトの手はより際どい場所へ……それに比例して、ユエの吐息も熱くなっていく。
「おい……ちょっといかがわしいぞ」
手が服の裾に潜る前に、アイビスが止める。いけないものを見たように、顔を赤くして直視を避けている。
「…………おもしろい」
カイトのその含みのある言に、現実を受け入れたくなかったユエの頭に、怒りで血が戻る。
「『おもしろい』?おもしろいだと?!おもしろい訳ないだろう!!」
まだ自分の『肌』に置かれていた手を、力任せに振り払い、睨みつける。
思いがけず、言葉とは違う真剣な顔を目の当たりにし怯んだのは一瞬、むしろそれを力に変えるように、眉尻を吊り上げる。
「どうしてくれるんだ!これじゃあ……これじゃあ海に帰れない!!」
お前のせいだ、人間の頼みなんて聞くんじゃなかった、と責めるユエに、だがカイトはどこ吹く風と、軽い調子を取り戻す。
「安心しろ。元に戻る方法はあるさ」
そのあっさりとした言葉に、むしろユエはジト目を返した。沈没船や鍵のありかを、自信満々に語っていたことが思い出されたからだ。信じたユエは苦労することになった。
「……本当か?」
「ああ」
「……どうすれば、戻れる?」
「それは分からない」
「「はあ?!」」
ユエだけでなく、傍で聞いていたアイビスも、声を上げる。
「分からないって……」
「俺が知る訳ないだろう。俺は神様じゃあ、ないんだ」
気負いのない応えに、ユエは力が抜ける。
だがアイビスは、たじろいだ。アイビスは──いや、仲間たちは皆、カイトを『神様』のように思っているところがあるのだ。
「俺は知らないが、方法はあるだろう。人魚に足を生やす方が、よっぽど難儀なんだ。元に戻せない道理はない」
道理になっていない道理だったが、カイトが言うと、なぜか反論できない。
「……本当、だろうな?」
ユエは縋るように念を押すが、カイトはあくまで軽い。「大丈夫だ」
服の上からユエの胸に人差し指を置いて、
「鍵は『鍵』だ」
駄洒落を言っておいて、くすりともしない。
「『鍵』がお前の中に吸い込まれたことが、もっとも考えられる要因だ。『鍵』を取り出せば、元に戻る、かもしれない」
「かも、って……」
「あるいは……いや……」
言葉を切ったカイトは、何かを悼むような、憐れむような空気を醸し出し、だが断ち切るように立ち上がって、アイビスとその奥に控えるクレイン、ジェイに向かう。
「とりあえず俺たちのやることは変わらない。『鍵』を手に入れる。ユエの中に鍵があるなら、それを取り出す方法を探す。そうすれば自然とユエの問題も解決に向かうだろう」
次にユエを見下ろして、
「お前は鍵と一心同体だ。当分、故郷に送るという約束は棚上げだ。鍵を取り出し、足を戻すまでは、面倒は見る」
押しつけがましいそれに、「当たり前だろ」つんと返すユエ。
これからどうなるかという不安は、怒りや呆れによって、この場ではかき消されていた。
カイトは大らかな笑みを返して、「腹減ったな」などと、いきなり日常に戻る。
「ひとまずは……」「うわっ」
足の使い方が分からないユエを横抱きに、黙って成り行きを見守っていたクレインに、「服、貸してやれ。クレインが一番体格が近いだろう」と船室に促す。
「あっ、うん」
甲板に残ったアイビスとジェイは、顔を見合わせて、ため息をついた。
******
「大渦ができていたわ。あそこは当分の間、迂回した方がいい。船や近くの島にも、そう通達しておくよ」
船員たちではとても作れない凝った料理を前に、偵察船の報告を聞く。だがちゃんと相槌を打っているのは、アイビスだけだった。
ヘロンは料理を喉に詰まらせて、その背をフェザントがガンガン叩くから、余計にむせている。慌てて水をもらいに行くラーク。
カイトとユエとクレインは、船を下りなかった。
ユエをあまり人目にさらしたくないからと、カイトが共に残った。クレインはもともと、人が多いところは好まない。いつもは皆に付き合って降りはするが、今日はこれ幸いと動かなかったのだ。
ジェイはその三人のために、食事を届けに行っている。
必然、アイビスが島の女性たちの相手を引き受けることになった。
「そうか……何があったか、分かったのか?」
まさに自分たちが原因なのだが、それをおくびにも出さない。あくまで善意の報告者を装う。
「いや、見当もつかないね。あの辺りは確かに、よく船が沈むって言われてきたけど……いきなりこうなるとはね。ちょっと異常だよ」
だが女たちには、それほど悲壮感はない。
「まあだけど、何か問題があるってほどじゃないからね。漁場でもないし、通る時に気をつければいいさね」
「そうか、ならいいけど」
アイビスは人好きのする笑顔を浮かべ、親身になって聞いてはいたが、心はカイトとユエに飛んでいた。
(カイトにしては、少し入れ込みすぎている気がする)
カイトとユエが並んでいる光景は、アイビスを揺らがせた。
アイビスはこの船の仲間の中で、カイトと一番付き合いが長い。
とある貴族の出のアイビスは、放蕩していたところをカイトと出会い、家を出た。というより、カイトに惹かれ、勝手にくっついて来たのだ。
それから、家族に虐待されていたラークを助け、ヘロンに懐かれ、奴隷だったクレインとジェイを救い、そしてフェザントが加わった。
だがカイトは一貫して、『来る者は拒まず去る者は追わず』だった。自分から「来い」とは言わない。かといって追い返すこともない。
ただ全てを受け入れる。
(いや……ユエに、ではなく、『鍵』に、入れ込んでいるのか)
アイビスたちは『鍵』が実際どういうものなのか、知らない。カイトが『次の獲物』として説明したのは、ユエに説明した同様の内容だった。
一行はこれまでも、『呪いの指輪』だの『ドワーフの伝説の斧』だの『妖精の羽』だの、様々なものを追ってきた。
カイトが獲物を決めて、そのための資金を稼ぎ、そして狩る。
時には失敗もあったが、おおむね目的は達してきた。
だがカイトは、それらの品に執着は見せなかった。手に入れるまでを楽しんでいるかのように、手にしてからは、売却してしまったり、盗品だったら元の持ち主に返したり。
あまりに危険が大きい場合は、無理せず引くこともあった。その判断が優れていたから、一行はこれまで、危険な橋を渡りながらも、死者を出さずに来れたのだ。
しかし今回に限って言えば、今までにない危険を、すでに冒していた。
あの殺した貴族は、素行は悪いが有力貴族だったから、今ごろ犯人を血眼になって探していることだろう。
オークションの信用も落とすことになったから、そっちも黙っていない。
カイトがオークションに潜り込めたのが、どこの伝手だったのか聞いていないが、紹介者の面目も丸つぶれだ。
確かに人魚でなければ取りに行けない深海に『鍵』はあったが、そのために人魚を探し、奪うなんて……。
これでもし、首尾よく鍵を手に入れ、ユエを故郷の海へ送り届けることができていたら、アイビスもここまで不安にはならなかった。
鍵は手に入れたと言ってもいいのか分からない状態。厄介者まだ残り、さらに面倒が増えた。
もちろん人魚のままほどではないが、あの容姿は目立つ。
オークション会場にいた人間や、それに関わった人間は、ユエの顔を覚えているだろう。人魚が見つかるよりも、人間になった人魚が見つかる方が、絶対にマズい。
そんな方法があると知れたら……。
嫌な想像を振り払うように、アイビスは酒をあおった。
ここでどれほど自分がやきもきしようと、カイトに従うことだけは決まっている。
(三年も経つのに、知らないことはまだある)
陽気な女性たちの声を肴に、酒は進んだ。
最初に立ち直ったのは、カイトだった。誰にも分からない言葉をつぶやき、脱いでアイビスに預けてあった自分の上着を、座りこんで動けないユエの股間に被せる。
「ひとまずここを離れるぞ。すぐに他の船が集まってくる」
夢を見ているような表情だった他の船員たちは、ほとんど反射のように動き始めた。
動いてから、
「……どこへ……?」
アイビスがもっともなことを聞く。
「そうだな……ハオリ島へ行こう。ここから近い」
何度か寄ったことのある馴染みの島の名に、やっと現実感が戻ってくる。
「なにが……なんだか……」
悪夢を祓うように頭を振ったアイビスに、
「考えるのは後だ」
と言葉少なに言い置き、船を操る船員から離れて、まだ焦点の合っていないユエの前に座る。
さっき股間に置いた上着を、されるがままのユエに頭から被せると、大きめの服は床まで届く。
ユエが現実を受け止めるのを待つように、その前で自身も思考に沈んだ。
******
ハオリ島は小さな島だ。
外から見ると木と草しか見えず、船が付けられるような海岸はないように思えるのだが、一本だけ川が繋がっていて、そこを知っている者しか訪れることはできない。
その川を登ると、開けた海岸に着く。その目の前には大きな木の住居。それがこの島唯一の建物だ。
満潮時には水に浸かってしまう建物の柱が、今は剥き出しになっている。開放的な窓から、船が見えた一人が、砂浜に出てきた。
「カイトー!いらっしゃい!突然だね!」
四十ほどの体格のいい女性。
「急で悪い。ちょっと近くまで来たもんでね」
つい先刻までの深刻さを微塵も感じさせず、軽い調子であいさつを交わす。
船の上から声を張り上げて、
「ここに来る途中、おかしなものに遭ってね。ここから南東に行った──ほら、前によく船が沈むって言っていたところ」
「ああ!はいはい!分かるよ!」
「あそこが何やら潮の流れがおかしくてね。遠目で見て、海が濁っているのが見えた。もし船が出ているなら、気をつけた方がいい」
「そうかい……情報、ありがとうよ。さっそく見に行ってみるよ」
「ああ、その方がいい」
「今日はどうするんだい?いきなりだから、悪いけどあんまりもてなしはできないよ」
「いや、いいんだ。食糧はある。少し休ませてくれるだけでいい」
二人の会話の間に、話が聞こえた島民が続々と姿を現わす。
「あんまりのんびりしていると、日が暮れちまう」
「そうだね、行くなら準備して!」
「カイト!食材があるなら、こっちで料理しようか?」
「それは助かる」
荷物を取りに行く者、船の準備に取りかかる者、それは全て女性だった。それも三十代以上の妙齢の、後は子どもばかり。
「先に降りていろ」
と言うカイトに諸手を上げたのは、ヘロンのみ。残りの者は、カイトとユエを見て躊躇する。
結局、降りたいばかりのヘロンに付き合って、ラークとフェザントが下船した。
アイビスはカイトの傍に、クレインとジェイは少し遠巻きに二人を見守る。
ユエはあれから一言も発していない。信じたくないというように、自分の下半身から目を逸らして、空を見つめている。
だがカイトはお構いなしに、自分が着せた上着を捲り上げ、鍵が吸い込まれた胸を調べる。下肢が丸出しになり、慌ててアイビスが目線を外すが、人間とは羞恥心の感じ方が異なる人魚には、あまり意味のない配慮だった。
変わったところが見受けられない上半身から、徐々に下半身に視線は移る。
へそ、生殖器、排泄器官、そして足──おそらく今のユエを見て、人魚だと分かる者など存在しない。
人魚の亜種であるクレインには、足の甲や足首に薄い鱗があるのだが、それすら見当たらない今のユエは、クレインよりもよほど人間に近い。
生まれたばかりの足を、カイトの指がなぞる。
「んぅ……っ」
あれ以来、初めてユエが反応した。
「……感じるか?」
カイトの指は肌を確かめるように、指から足裏、踵を通って甲、足首から徐々に上へ這わせていく。
肌はまさに『生まれたて』だった。
傷も、ほくろも、日焼けもない、まっさらな肌。
それゆえ、とても敏感だった。
カイトの指が触れたところから、何かが駆け抜けて、全身に広がっていく。しかしユエにとっては未知の感覚に、脳は理解できず、体だけが反応し、頭は鈍感になっていた。
「ああっ……!」
太ももの内側に指が到達した瞬間、今までにない感覚がユエを襲う。ビクッビクッと全身を震わせて、吐息を漏らした。それは快感だったのか、それとも掻痒か。
「感じているな……」
確かめるべくカイトの手はより際どい場所へ……それに比例して、ユエの吐息も熱くなっていく。
「おい……ちょっといかがわしいぞ」
手が服の裾に潜る前に、アイビスが止める。いけないものを見たように、顔を赤くして直視を避けている。
「…………おもしろい」
カイトのその含みのある言に、現実を受け入れたくなかったユエの頭に、怒りで血が戻る。
「『おもしろい』?おもしろいだと?!おもしろい訳ないだろう!!」
まだ自分の『肌』に置かれていた手を、力任せに振り払い、睨みつける。
思いがけず、言葉とは違う真剣な顔を目の当たりにし怯んだのは一瞬、むしろそれを力に変えるように、眉尻を吊り上げる。
「どうしてくれるんだ!これじゃあ……これじゃあ海に帰れない!!」
お前のせいだ、人間の頼みなんて聞くんじゃなかった、と責めるユエに、だがカイトはどこ吹く風と、軽い調子を取り戻す。
「安心しろ。元に戻る方法はあるさ」
そのあっさりとした言葉に、むしろユエはジト目を返した。沈没船や鍵のありかを、自信満々に語っていたことが思い出されたからだ。信じたユエは苦労することになった。
「……本当か?」
「ああ」
「……どうすれば、戻れる?」
「それは分からない」
「「はあ?!」」
ユエだけでなく、傍で聞いていたアイビスも、声を上げる。
「分からないって……」
「俺が知る訳ないだろう。俺は神様じゃあ、ないんだ」
気負いのない応えに、ユエは力が抜ける。
だがアイビスは、たじろいだ。アイビスは──いや、仲間たちは皆、カイトを『神様』のように思っているところがあるのだ。
「俺は知らないが、方法はあるだろう。人魚に足を生やす方が、よっぽど難儀なんだ。元に戻せない道理はない」
道理になっていない道理だったが、カイトが言うと、なぜか反論できない。
「……本当、だろうな?」
ユエは縋るように念を押すが、カイトはあくまで軽い。「大丈夫だ」
服の上からユエの胸に人差し指を置いて、
「鍵は『鍵』だ」
駄洒落を言っておいて、くすりともしない。
「『鍵』がお前の中に吸い込まれたことが、もっとも考えられる要因だ。『鍵』を取り出せば、元に戻る、かもしれない」
「かも、って……」
「あるいは……いや……」
言葉を切ったカイトは、何かを悼むような、憐れむような空気を醸し出し、だが断ち切るように立ち上がって、アイビスとその奥に控えるクレイン、ジェイに向かう。
「とりあえず俺たちのやることは変わらない。『鍵』を手に入れる。ユエの中に鍵があるなら、それを取り出す方法を探す。そうすれば自然とユエの問題も解決に向かうだろう」
次にユエを見下ろして、
「お前は鍵と一心同体だ。当分、故郷に送るという約束は棚上げだ。鍵を取り出し、足を戻すまでは、面倒は見る」
押しつけがましいそれに、「当たり前だろ」つんと返すユエ。
これからどうなるかという不安は、怒りや呆れによって、この場ではかき消されていた。
カイトは大らかな笑みを返して、「腹減ったな」などと、いきなり日常に戻る。
「ひとまずは……」「うわっ」
足の使い方が分からないユエを横抱きに、黙って成り行きを見守っていたクレインに、「服、貸してやれ。クレインが一番体格が近いだろう」と船室に促す。
「あっ、うん」
甲板に残ったアイビスとジェイは、顔を見合わせて、ため息をついた。
******
「大渦ができていたわ。あそこは当分の間、迂回した方がいい。船や近くの島にも、そう通達しておくよ」
船員たちではとても作れない凝った料理を前に、偵察船の報告を聞く。だがちゃんと相槌を打っているのは、アイビスだけだった。
ヘロンは料理を喉に詰まらせて、その背をフェザントがガンガン叩くから、余計にむせている。慌てて水をもらいに行くラーク。
カイトとユエとクレインは、船を下りなかった。
ユエをあまり人目にさらしたくないからと、カイトが共に残った。クレインはもともと、人が多いところは好まない。いつもは皆に付き合って降りはするが、今日はこれ幸いと動かなかったのだ。
ジェイはその三人のために、食事を届けに行っている。
必然、アイビスが島の女性たちの相手を引き受けることになった。
「そうか……何があったか、分かったのか?」
まさに自分たちが原因なのだが、それをおくびにも出さない。あくまで善意の報告者を装う。
「いや、見当もつかないね。あの辺りは確かに、よく船が沈むって言われてきたけど……いきなりこうなるとはね。ちょっと異常だよ」
だが女たちには、それほど悲壮感はない。
「まあだけど、何か問題があるってほどじゃないからね。漁場でもないし、通る時に気をつければいいさね」
「そうか、ならいいけど」
アイビスは人好きのする笑顔を浮かべ、親身になって聞いてはいたが、心はカイトとユエに飛んでいた。
(カイトにしては、少し入れ込みすぎている気がする)
カイトとユエが並んでいる光景は、アイビスを揺らがせた。
アイビスはこの船の仲間の中で、カイトと一番付き合いが長い。
とある貴族の出のアイビスは、放蕩していたところをカイトと出会い、家を出た。というより、カイトに惹かれ、勝手にくっついて来たのだ。
それから、家族に虐待されていたラークを助け、ヘロンに懐かれ、奴隷だったクレインとジェイを救い、そしてフェザントが加わった。
だがカイトは一貫して、『来る者は拒まず去る者は追わず』だった。自分から「来い」とは言わない。かといって追い返すこともない。
ただ全てを受け入れる。
(いや……ユエに、ではなく、『鍵』に、入れ込んでいるのか)
アイビスたちは『鍵』が実際どういうものなのか、知らない。カイトが『次の獲物』として説明したのは、ユエに説明した同様の内容だった。
一行はこれまでも、『呪いの指輪』だの『ドワーフの伝説の斧』だの『妖精の羽』だの、様々なものを追ってきた。
カイトが獲物を決めて、そのための資金を稼ぎ、そして狩る。
時には失敗もあったが、おおむね目的は達してきた。
だがカイトは、それらの品に執着は見せなかった。手に入れるまでを楽しんでいるかのように、手にしてからは、売却してしまったり、盗品だったら元の持ち主に返したり。
あまりに危険が大きい場合は、無理せず引くこともあった。その判断が優れていたから、一行はこれまで、危険な橋を渡りながらも、死者を出さずに来れたのだ。
しかし今回に限って言えば、今までにない危険を、すでに冒していた。
あの殺した貴族は、素行は悪いが有力貴族だったから、今ごろ犯人を血眼になって探していることだろう。
オークションの信用も落とすことになったから、そっちも黙っていない。
カイトがオークションに潜り込めたのが、どこの伝手だったのか聞いていないが、紹介者の面目も丸つぶれだ。
確かに人魚でなければ取りに行けない深海に『鍵』はあったが、そのために人魚を探し、奪うなんて……。
これでもし、首尾よく鍵を手に入れ、ユエを故郷の海へ送り届けることができていたら、アイビスもここまで不安にはならなかった。
鍵は手に入れたと言ってもいいのか分からない状態。厄介者まだ残り、さらに面倒が増えた。
もちろん人魚のままほどではないが、あの容姿は目立つ。
オークション会場にいた人間や、それに関わった人間は、ユエの顔を覚えているだろう。人魚が見つかるよりも、人間になった人魚が見つかる方が、絶対にマズい。
そんな方法があると知れたら……。
嫌な想像を振り払うように、アイビスは酒をあおった。
ここでどれほど自分がやきもきしようと、カイトに従うことだけは決まっている。
(三年も経つのに、知らないことはまだある)
陽気な女性たちの声を肴に、酒は進んだ。
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