お料理好きな福留くん

八木愛里

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12 桜塩と春の目覚め

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「お茶とコーヒー、どちらにしますか?」

 応接室に案内したお客様に尋ねると、初老の男性はたっぷりと蓄えた口ひげを動かした。優しいだけのおじいさんではなく、上場会社の㈱三俣商事みつまたしょうじの取締役だ。

「コーヒーにしようかな」
「コーヒーですね」

 返事を聞くと応接室から顔を出して、事務員の姿を探す。昼休み中で、フロアには事務員がいない。
「少々お待ちください」

 給湯室まで歩いていく。
 インスタントの粉をカップに入れると、給湯室の奥から話し声が聞こえた。

「……この事務所で恋愛対象にできるのは福留くんかな。将来有望だし」
「やっぱり給料面は大事だよね」

 杉原さんと、調子を合わせて笑っているのは杉原さんと同世代の事務員の阿部さんだ。一緒にいるのをよく見かける。
 今二人に話しかけると、福留くんの話を聞いてしまったことがバレてしまう。

(すぐ終わるから、このままコーヒを用意して戻ろう)

 砂糖とミルクを棚から取り出そうとして、バンと大きな音を立ててしまった。

「あ、真島さん……」

 杉原さんに気付かれてしまった。

「お客様にコーヒーですね。用意しておきますね」
「……うん。お願い」

 にこーっと完璧な笑みで話しかけられた。用意しかけた手元を見て、察知したようだ。
 お茶出しは杉原さんに任せることにして、応接室へ戻った。

(将来有望かぁ。そんな視点で福留くんを見たことはなかったけれど、頼りにされているものね)

 税理士が安泰であるかと聞かれたら、そうではない。顧客ありきの商売で、信頼関係がなくなってしまったら仕事として成り立たない。しかし、相手の求めるものを返すことができる福留くんなら上手くやっていけるだろう。



「仕事終わりのビールは美味しい!」

 喉に苦味のある爽快感が駆け抜けると、仕事の疲れが一気に吹き飛んだ。

「どんどん飲んで。それにしても、ゆりがこんな洒落た店に行きたいって言うのは珍しいわね」

 数少ない一緒に飲みに行ける女友達。藤崎杏(ふじさきあん)がビールを片手に店内を見渡した。
 テーブル席からは掘りごたつのカウンター席がよく見える。手作りをモットーにしたお店で、お米は農家直送だという。

 黒髪で襟足を短くしたショートヘアで、鋭い目付きからか初対面だと怖い人と誤解されがちだが、表裏のない優しい性格だ。

「たまには体に優しいものを食べたいと思って。ほら、カップ麺ばかり食べて倒れちゃったでしょう?」

「聞いたときはビックリしちゃったよ! 過労かと思いきや、栄養失調って。ほんとにゆりらしいわ」

 笑い飛ばしてくれるのは助かる。気を遣われてしまうと、かえって申し訳ない。

「お酒のつまみを頼む? メニュー、メニューっと」

 テーブルの脇にあったお品書きは和紙で出来ていて、一つ一つが手書きだった。お店の雰囲気に合っていて、おしゃれ。

「どれにする?」

 お品書きに載っているのはどれも美味しそうで、私は目に入ったものから指を差していく。

「お刺身の盛り合わせでしょ、ポテトフライに唐揚げに、健康面も考えてサラダも頼もうかなぁ」
「それを注文するなら、普通の居酒屋で構わなくない?」

 ツッコミがちょくちょく入るのは彼女の持ち味だ。

「……とは言ったものの、実際に食べてみないとわからないよね。店員さんー!」

 杏が勢いよく手を挙げて店員を呼ぶと、お通しを持った店員がやってきた。

 杏は一風変わった経歴を持っている。私より二歳年上の三十四歳。青木会計事務所の事務員として数年働いた後に、イラストレーターとして独立。

 ──実は副業で絵を描いていたんだ。小遣い稼ぎのつもりだったけれど、だんだん比重が絵の方に傾いていって。ついに、ご飯が食べれるようになったから仕事辞めることにするわ。

 会社で発表される数日前に、相談という名の居酒屋飲みで聞いたときは驚いた。イラストを描いていたことなんて初耳。そして、現在は不毛な恋愛をしている。

「ゆり、聞いてよ! 彼が私とのデートの日と、娘さんに会いにいく日をブッキングさせてさ。結局、娘さんに会いに行って来なよって優しく言っちゃった。さすがに私を優先して、なんて言えないよお」

 相手はバツイチで子持ち。四歳になる娘がいて、時々お父さんはどこ? と聞いてくるそうだ。

「それは難しい話だね……。元奥さんの存在っていうのも気になるだろうし」

「元奥さんは気にしてない。彼が言うには絶対に復縁はないと言っているし、私は信じているから」

 彼氏は一回結婚に失敗していることから、杏との結婚は慎重になっているらしい。私は話を聞くことしかできないが、杏はそれで良いと言ってくれる。

「お待たせしました」

 注文した料理が運ばれてきた。

「自家製ドレッシングとシーザーサラダにお刺身の盛り合わせです。お刺身は桜塩(さくらじお)を付けてお召し上がりください」

「桜塩! 醤油ではなくて?」

 杏はお店の人に質問した。

「桜塩は、桜を乾燥させたものを塩に混ぜたものです。お刺身に合いますよ。醤油もテーブルの端にありますので、お好みでどうぞ」

「はーい」

 返事をして、物珍しげな顔で桜塩を見下ろしている。桜色の粉は、春が待ち遠しいという心の声を反映しているようだった。

「意外に合うかも。ゆりも付けてみなよ」

 行動は早く、マグロを桜塩に付けたと思いきや、もぐもぐと食べていた。
 私も桜塩を付けて食べると、仄かに鼻腔から桜餅のような香りが抜けた。
 塩分がちょうど良くて、見た目も楽しませてくれる。

「ところで。ゆりは最近どうなのよ?」

 自分の話には満足したようで、私に話を振ってくる。

「最近は栄養失調で倒れたことがきっかけで、ある人に料理を教えてもらっていて」
「ある人って?」

 杏はビールを一口飲んで興味津々に聞いてくる。

「……会社の福留くん」
「福留!?」

 口に入っているものを吹き出さんばかりに叫んだ。元同僚なので、もちろん顔と名前は一致している。

「仕事ができる後輩って感じだったけど、料理もできるの?」

「教えてもらっていると、自分の無知が恥ずかしくなってくるよ。彼は毎日お弁当を作ってきているしね」

「親に作ってもらっているのかと思ってたわ」

 カフェ&レストランを貸しきって教えてもらっていることを説明すると、ニヤニヤと頬を緩ませた。

「へえー、福留と二人きりでねぇ」

「そんな感じじゃないのよ。……特訓。そうよ特訓。福留くんが大量のジャガイモを持ってきて皮剥きをさせられたんだから」

「なぜにジャガイモの皮剥き?」

 包丁でジャガイモを剥くことになった経緯について話すと、杏は納得した。
 ジャガイモの話をしていたところで、噂をすればポテトフライが届く。

「ポテトフライに唐揚げです。ケチャップとマヨネーズの他に、こちらもお好みで桜塩を付けてお召し上がりください」

 お店の人は追加の桜塩の入った皿をテーブルに置く。

「へー。何でも合うんだね」
「美味しいですよ、ぜひ」

 私の呟いた言葉を拾い上げて、お店の人はオススメしてくれる。
 箸でつまんだポテトフライの先を桜塩に付けて食べると、程良い塩分が口内を支配した。

「──そういうことね。練習に付き合ってくれるなんて優しいじゃん」
「福留くんはないかな。年下だから」
「そう?」

 杏は首を傾けて、疑問符で返した。
 そう。年下は恋愛対象から除外される。

「恋愛対象……と言えば。偶然通りかかったときに聞いちゃったんだけど、杉原さんが福留くんなら恋愛対象として見られるって言っていたなぁ」

 杏の顔からニヤニヤが抜けて真顔になる。

「ゆり、悪いことは言わないから福留はやめておきな」

 世間話のつもりで軽く言ったのに、杏がキッパリと言い返してきた。

「年下だから、そもそも違うって……」
「そうじゃなくて、ゆりには勝ち目がないからやめておきなって話。学生時代にCOMCOM(コムコム)の読者モデルをしてたっていうのは社内でも有名だったでしょ」

(え? そうだったかな)

 私の反応が遅れたのを見て、杏はうんざりと長く息を吐く。

「無頓着すぎる。入社時に話題になったでしょう……」

 ぶつぶつと呟いた後に、私に向かって人差し指をビシッと差した。

「とにかく! 杉原さんは敵に回しちゃダメなんだからね」

 お酒が入った杏には慣れているが、忠告は初めて聞いた。

(年下が恋愛対象にならないのだから、敵になることなんてない……よね)

 春の嵐が近づく予感がして、その想像を酒の力を借りて忘れようとした。
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