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4話「選択の行方」

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             高橋たかはし 俊介しゅんすけ 二十八歳



 失敗だった。

 僕の選択した決断は、また……失敗だった。

 いつもそうだ。僕はとても慎重で臆病な性格だ。自分に自信がないから、人一倍熟考して選択を下す。メリットとデメリットを比べて、よりデメリットの少なそうな選択肢を選ぶ。

 それなのに僕が選んだ選択肢は、いつだって最悪の結果を迎えた。

 あれは高校三年のときだった。センターテストのマークシートの練習ということで、物理のテストをやった。問題は五十問。問題用紙と別に解答用紙が用意され、答えを記入するのではなく、マークシートの選択肢から正解を選ぶ方式だった。そのときは練習ということもあって、選択肢はAとBの二つだけ。不真面目な僕の友達は全部Bを選択し、五十四点だった。そして真面目に解答した僕の結果は……六点。有り得ない確率だ。二択の問題で僕はたったの六点しか取れなかった。

 いつも、いつもそんなふうに僕は選択を誤ってきた。

 特に今回のは最悪だ。

 僕は自分の腕を見る。そして右腕と左腕を並べて見比べる。利き腕の右腕が左腕より細い。

 泣きたくなる。泣き叫びたくなる。どうしてだと叫んで、周りの物に当り散らしたい衝動に駆られる。

 しかし思うだけで行動には移すことはない。それは自制心がそうされるのではなく、ただ小心者の僕には物に当たるような度胸もないだけだ。

 それでも僕は自らの中に溢れるこの憤怒を少しでも吐き出してしまいたくて、大きく息を吐いた。すると吐き出された怒りのスペースを埋めるように、深い悲しみが僕の心を満たしていく。

 僕はうつむき、右手に少しだけ力を入れて拳を握った。

 これからだった。これからだったんだ。

 それなのに……

 どうしてあのとき、こんな選択をしてしまったのだろう。わかっている。あのときはこれが最善の選択だと思ったからだ。それなのにいつも結局は最悪な結果が訪れる。いったいこれで何度目だろう……

 この選択はたぶん僕の人生で二番目に大きな失敗だ。そして最大の失敗は……

思い出す。そう……あれも高校三年のときだった。

 暑い、熱い高校三年の夏。

 僕は野球部でピッチャーをやっていた。僕が通っていた高校は甲子園常連の強豪校。もちろん僕はエースじゃなかった。僕は先発候補の二番手投手。エースは右の本格派。150キロを超える速球の持ち主で、二年のときからチームのエースだった。抑えにもいいピッチャーがいた。二年生左腕。彼もまた140キロ後半を出す速球の持ち主だった。そして僕は130キロ後半の右腕。出所の見えにくいフォームにコントロールと緩急、相手の芯を外す変化球を武器に、打たせて取るタイプのピッチャーだった。

 うちの高校には抑えがいたので、僕は二番手投手と言っても試合での出番は格下相手の先発くらいしかなかった。それでも練習試合では「お前が投げると内野の守備練習になる」と、よく先発を任せられた。

 そんな高校三年の夏。僕の高校は順調に予選を突破して甲子園の出場を決めていた。僕が登板したのは予選でも序盤の二試合だけだった。甲子園で僕の出番はない。あるとすればエースと抑えの両投手が打ち込まれた後くらいだろう。そう思っていた。

 しかし甲子園を前にエースが怪我をし、甲子園での登板が不可能になってしまった。そこで監督が決めた作戦は行けるところまで僕で行き、その後は抑えに任せるという方法だった。

 そして僕は甲子園決勝のマウンドにいた。初戦で二失点して以降、守備の助けもあって僕自身は点を取られていない。さらに二戦目と準決勝では完封勝利だった。そして決勝戦。惨敗だった。初回にエラー絡みで二失点し、僕は四回途中まで投げて五失点。他の投手も打ち込まれ、結局十二対三で負けた。

 そういえば初回のツーアウト、二、三塁のピンチ。一人を敬遠し、満塁策をとった後、ツーストライク、ワンボールの状況でキャッチャーは左バッターの内角高めにストレートを要求してきた。キャッチャーは三振がほしかったのだろう。でも僕は首を振って、内角低めに落ちるカットボールを投げた。打ち取ったあたりだった。ボテボテのサードゴロ。それなのにサードの送球ミスで二失点した。あの選択だって間違いだった。キャッチャーの要求に従っていたら、また結果は変わっていたかもしれない。

 しかし本当の失敗はそんなことではなかった。

 甲子園が終わった後、僕の周りは急に騒がしくなった。甲子園の前まではただ野球が好きなだけで、自分がプロになれるなんて思ったこともなかった。もちろん考えたことはある。でもそれは妄想と呼べるレベルのもので、夢として語ることすらおこがましいものだった。

 それなのに甲子園での活躍の後、多くの球団スカウトが僕のところにやってきた。特に一球団は僕を高く評価してくれて、ドラフトでの上位指名まで約束してくれた。うれしかった。こんな僕でもプロを目指せることがわかった。

 しかし僕には自信がなかった。僕はほとんど三振をとることが出来ない。決勝戦の結果でもわかるように少し守備が乱れると、僕にはもうどうすることも出来なかった。だから僕は大学に行くことにした。そこでもっと実力をつけてからプロを目指す。そう選択した。スカウトの人には反対された。「打たせてとるタイプのピッチャーは上に行けば行くほど活躍出来る。仲間の守備が良くなるからだ。甲子園の決勝戦だって、君の玉はほとんど芯で捕らえられてはいなかった。君はプロになればもっと活躍出来る」そう言ってくれた。

 それでもやっぱり僕はプロでやっていく自信がなかった。ずっとプロを目指していたのなら話は違ったかもしれない。とにかく僕の場合は全てがあまりに急で、プロでやっていくだけの心の準備が出来ていなかった。

 だから僕は大学に進学した。大学で心と技術をもっと鍛えて、それからプロを目指す。それが僕の選んだプランだった。そのほうが失敗はないと思った。それにプロで芽が出なかったとき、高卒と大卒ではだいぶ違うだろう。そんな保険の意味合いもあった。

 だがそれは失敗だった。それこそが僕の人生の最大の失敗だった。

 大学で僕は球速を上げるためにフォームの矯正をされた。球速が上がれば得意のカットボールやチェンジアップといった変化球がもっと効果的になると言われた。僕が生まれる前から野球の指導をしていて、多くの選手をプロへと導いた指導者の意見に僕は迷うことなく従った。

 確かにスピードは少し速くなった。それでも130キロ後半が140キロギリギリになったくらいだ。フォームを変えて、軸として投げていたツーシームを減らし、フォーシームのストレートを増やすと、よく打たれるようになった。フォームがまだ完全に固まっていないからだと言われ、それを改善するために投げ込みを増やした。

 そして僕は怪我をした。

 半年間、ボールを投げられなかった。怪我から復帰した後も僕はたいして活躍することは出来なかった。正直、僕はもうプロにはなれないだろうと考えていた。

 それでも高校時代、熱心に誘ってくれた球団がドラフト下位で指名してくれたので僕は何とかプロになることが出来た。そしてプロになって、まず取り組んだことがフォームを高校時代のものへと戻すことだった。

 それは僕の大学四年間が全くの無駄だったということを意味した。いや、無駄どころかマイナスだった。

 そしてプロ入り一年目のシーズン終盤、僕は中継ぎで一軍デビューした。シーズン成績は十二試合に登板して防御率は1.48。勝ち星は一度もつかなかったが、負けもしなかった。順調すぎるくらいの滑り出しだった。

 二年目は先発に転向し、開幕からローテーションに入った。二十六試合に登板して十四勝五敗。防御率は2.32。新人王をとった。

 それから五年、僕はずっと先発のローテーションを守ってきた。新人王以降は賞とは無縁だったが、それでもオールスターには選ばれたし、リーグ優勝にも貢献出来た。年俸もうなぎ上りで順風満帆だった。

 しかし去年の試合中、右肘に痛みが走った。大学時代に痛めた所だった。ここにきてまた、大学という亡霊が僕に牙を剥いた。選択肢は二つあった。しばらく休み、だましだまし続けていくか、手術をするか……

 僕は手術を選択した。

 トミー・ジョン手術という靭帯の移植手術で、復帰までには一年以上、怪我以前と同じレベルに戻るには二年近くかかると言われている。

 それでも僕は手術を選択した。決断するまでには時間がかかった。多くの人に助言を貰い、様々なものを秤にかけて、選択を下した。

 結局はいつものように、一番恐れるデメリットを避けての選択だった。手術の失敗はほとんどないらしく、それ自体に恐怖はあまりなかった。僕を悩ませたのは二つのデメリット。一つは手術をすることで長く野球が出来なくなること。そしてもう一つはだましだまし続けた結果、成績が振るわず解雇されることだ。僕は野球が大好きだ。一年以上野球が出来ないのは大きな苦痛となる。それでもやっぱり僕は臆病だから、全力の出せないだましだましの投球で、成績が維持出来るとは思えなかった。だから手術を選択した。

 僕は今を対価に、未来の希望を買ったのだ。

 それなのに……

 失敗だった。また選択を誤った。

 なぜなら今日、世界は終わるからだ。また投げられるようになるために手術を受けたのに、投げられるようになる前に世界は終わってしまう。意味がなかった。手術も、その後の血の滲むようなリハビリも全てが無意味だった。

「これからだったのに。もうすぐ、後少しで投げられるようになれるところだったんだ!」

 僕は思いの丈を吐き出す。

「また失敗したと思って、後悔しているの?」

 声のした方に目をやると、妻が笑顔を浮かべていた。

 腹が立った。どうしてこの状況で笑っていられるのだろう。もうすぐ世界は終わる。この一年間、誰よりも近くで僕の苦悩を見てきたはずなのに……僕の絶望を誰よりも知っているはずなのに……どうして笑顔なんて浮かべられるのだろう。

 だから僕は声を荒らげて言い返した。

「当たり前だろ! 手術なんてしなければよかった。そうすれば、この一年だって野球がやっていられたんだ」

「そう……でも私はこの一年間、とても幸せだった。ずっとあなたと一緒にいられたんだもの。リハビリの手伝いとかも、あなたの役に立ててうれしかった。叶乃だってパパとずっと一緒で楽しかったよね?」

「うん! このまま野球なんて辞めちゃえばいいのに」

 そう言って叶乃かのは楽しそうに笑った。叶乃は四歳の娘だ。世界が終わることは伝えたのだが、あまり理解していないらしく、なぜかとても楽しそうにはしゃいでいる。

「今回のことだけじゃない。あなたはいつも大学なんて行かなければ良かったって言うけど……私とあなたは大学で出会ったのよ。そして私は恋をした。あなたは高校野球のスター選手だったのに、とっても内気で小心者。責任感が強くて、真面目ですごく優しいの。誰かが悲しんだり喜んだりしていると、まるで自分のことみたいに一緒に悲しんだり喜んだりするし、映画で感動するやつとか、悲しいのを見るとボロボロ涙をこぼして泣いちゃうの」

 心から幸せそうに、そして愛おしそうに妻は微笑む。

「私は心の底からよかったと思う。あなたが大学に来てくれて。この一年間だって、今にして思えば神様からの贈り物なんじゃないかって思うくらいに幸せな時間だった。野球ばっかりだったあなたと世界が終わる前の一年間、私はずっと一緒にいられた。本当に幸せだった」

 妻の目から涙がこぼれ落ちる。

「ごめんね。妻失格だよね……あなたはずっと後悔していた。悔やんでいた。でも私は、幸せだった。あなたと出会えて、一緒にいられて、幸せだったの」

 そうか……そうだった。

 考えもしなかった。妻と一緒になれなかった可能性なんて、一度も考えたことがない。妻や娘のいない人生なんて想像すら出来ない。野球のことしか考えていなかった。大学に行かないで高校卒業後すぐにプロになっていれば、その四年で何勝稼げていただろう。大学に行っていなければ怪我もしなかったかもしれないし、引退する頃には二百勝出来る可能性だってあった。それにもしかしたら今頃はアメリカでプレイしていたかもしれない。

 そんなことばかり考えて、ずっと後悔していた。野球のことだけを考えて、絶対的に見ればそれはとても大きなことだろう。

 でも……僕の人生において相対的に見たらそんなものは、とてもちっぽけな価値しかなかった。

 僕は野球が大好きだった。物心ついたころからずっと野球中心の人生だった。そんな僕が初めて野球より大切なものをみつけたんだ。妻と娘。一番大切な僕の宝物だ。

 そうか……僕はそれを見つけに大学に行ったのか。そうであったのなら、それは失敗なんかじゃなかった。それはとても価値のある四年間だった。

 それだけじゃない。大学ではたくさんの出会いがあった。今回の怪我でリハビリのプランを立て、付きっ切りで担当してくれているトレーナーは大学の野球部の後輩だ。見知っていた友だからこそ、全てを任せられた。他にも数え切れないほどのものを僕は大学で手に入れた。

 この一年だってそうだ。確かに野球は出来なかった。リハビリも辛かった。それでも家族と過ごす毎日は幸せに満ちていた。

「そうか……野球的に失敗だっただけで、人生的には大成功だったんだ。でもさ……思うんだ。きっと僕たちは、僕が大学なんて行かなくても出会ってたって。そう、思わない?」

「そうかもね。私たち運命の赤い糸で結ばれているものね」

「失敗も後悔もあった人生だった。それでも……それよりずっとたくさんの幸せがあった。最高の人生だった」

 妻を抱きしめる。

「ほら、叶乃もおいで。抱きしめてやる!」

「やったー!」

 辛く厳しいリハビリにも意味はあった。おかげでこうして娘を抱きかかえられる。

 僕の人生には多くの選択肢があった。僕は一生懸命考えて、一つ一つの選択肢を選んできた。正解もあれば間違いもあっただろう。

 その選択の結果、ここに辿り着いた。

 ここが僕のゴール。

 それは最高のハッピーエンドだった。
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