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第8話 星空の下、君に誓う
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ざあ、ざあという単調な波の音だけが、やけに大きく、耳に響いていた。まるで、僕たちの壊れてしまった時間を、ただただ打ち消していくかのようだ。
言葉。僕には、言葉があるはずだった。本の世界で、僕はいつだって正しい言葉を知っていたはずだ。誰かを慰め、誰かを励まし、壊れた関係を修復するための、魔法のような言葉たちを。
なのに、現実はどうだ。一番大切な幼なじみを傷つけ、そして今、隣で心を痛めている、かけがえのない少女に、かけるべき言葉一つ、見つけられずにいる。なんという無力さだろう。
「……私の、せいだね」
七海が、ぽつりと呟いた。その声は、夜風に溶けて消えてしまいそうなほどか細く、罪悪感に震えていた。
「そんなことない」
僕はまたしても、かろうじて、そう答えるのが精一杯だった。その声が、いかに無力で空虚に響いたか。
どれくらい、そうしていただろうか。もうこのまま、僕たちもこの夜の闇に溶けて消えてしまうのではないかと思った、その時だった。
重苦しい沈黙を、破ったのは七海だった。
彼女は、無理に作った笑顔で僕を見上げた。その瞳の奥には、まだ涙の膜が、星の光を滲ませている。
「……ねえ、春樹くん。もう一つだけ、私のわがまま、付き合ってほしいな」
その声は、ただの気分転換ではない、何かを切実に求めるようなものだった。このまま、こんな悲しい気持ちで、今日という一日を終わらせたくない。この痛みや傷を、何か、もっと大きくて美しいもので上書きしてしまいたい。そんな、彼女なりの必死の抵抗。
彼女は、自分のカバンからお楽しみノートを取り出した。そして、震える指先で、あるページを僕にだけ見えるようにそっと指さした。
そこには、こう書かれていた。
『⑤ 夜の神社で、星に願い事をする』
それは、この重苦しい現実から逃れるための、少しだけ危険で、そしてあまりにも魅力的な夜の冒険への誘いだった。
僕は、彼女の強さに引っぱられるように、黙って頷いた。
防波堤から、潮見ヶ丘神社へと続く道は街灯がまばらで、昼間とは全く違う顔を見せていた。聞こえるのは、自分たちが歩くときのサンダルが、ぱたぱた、と鳴る頼りない音と、道の脇の草むらから聞こえる無数の虫の声だけ。
神社の入り口に立つ古びた石の鳥居は、夜の闇の中で、まるで異世界への門のように、僕たちの前に立ちはだかっていた。夜の暗がりの中では、その様子が少し恐ろしく感じる。
僕たちは、長い石段を一歩ずつ、確かめるように登っていく。石段には苔が生え、ひんやりとした湿った空気が足元にまとわりつく。二人の間に言葉はなかった。この石段を登る一歩一歩が、僕たちを人間の住む世界から、もっと特別な、神様の住む世界へと運んでいくようだった。
最後の石段を登りきった瞬間、空気がふっと変わった。
ひんやりとした、どこまでも澄み切った神聖な空気が、僕たちの肌を撫で、そして肺を満たしていく。昼間の喧騒も、町の匂いも、ここにはその一切が届かない。ただ、拝殿の奥の深い闇と、木々の葉が夜風にそよぐ音だけが僕たちを包み込んでいた。
そして、空。
街にいた時よりも、ずっと、ずっと星が大きく、そして近くに見えた。まるで、手の届きそうな場所に、無数のダイヤモンドが、散りばめられているかのように。
七海は、境内の端にある町を見下ろせる手すりの方へと、吸い寄せられるように歩いていった。僕も、その後ろを、影のようについていく。
そして、僕たちは息をのんだ。
眼下に、光の海が広がっていた。
家々の窓の明かり、街灯のオレンジ色の光、車のヘッドライトの流れ。その一つひとつが、誰かが夜のビロードの上に、星々を惜しげもなくばらまいたかのように、天の川のようにきらきらと瞬いている。
「……きれい」
七海が、うっとりとため息のように呟いた。
「まるで、夜の海に沈んだたくさんの星みたいだ。……一つひとつの光の中に、誰かの笑い声とか、温かいご飯の匂いとかがあるんだね」
しばらく、僕たちは言葉もなく、その光の海をただ見つめていた。この、神聖な静寂の中にいると、さっきまでの防波堤での出来事が、まるで遠い、悪い夢だったかのように思えてきた。
やがて、七海が夜景から目を離さずに、ぽつりと僕に問いかけた。
「ねえ、春樹くん」
その声は、夜風に消えてしまいそうなほど儚かった。
「もし、自分に残された時間が……もうほんの少ししかないってわかったら、どうする?」
それはあまりにも唐突で、そして、あまりにも核心に触れる質問だった。僕は答えに窮した。そんなこと、考えたこともなかったから。
僕が言葉を探していると、七海は独り言のように続けた。その声には、彼女の裏側に隠されていた、子供らしい弱さと、不安の色があった。
「……私、時間が足りないんだ」
その告白は、ドラマチックなものではなかった。ただ、夜風にそっと真実を乗せただけのような、静かで、諦観に満ちたものだった。
だけど、その静かな一言が、僕の心臓を巨大な金槌で真正面から殴りつけたかのような、強烈な衝撃を与えた。
――三ヶ月。
彼女の自己紹介の言葉。村井先生の、あの痛みをこらえるような眼差し。校庭で、すぐに息を切らしていた苦しそうな横顔。
今まで、僕の頭の中でバラバラのパズルピースだったものが、その一言で、一気に一つの残酷で、あまりにも悲しい絵を形作っていく。
だけど、僕は、それをまだ認めたくなかった。信じたくなかった。
七海は、そんな僕の混乱を全て察しているかのように、寂しそうに、しかし、どこまでも優しく微笑んだ。
「ごめんね、変なこと言って。……ほら、見て。星、すごくきれいだよ」
彼女は話題を変えるように、満天の星空を指さした。
そして、続けた。
「春樹くんの詩、もっと読みたいな」
その声は、どこか遠く、手の届かないものに憧れるような響きだった。
「私のいない未来でも、春樹くんの言葉はちゃんと残るんでしょ。本になって、誰かが読んで、その人の心の中でずっと生き続ける。……いいな……」
その、消えてしまいそうな横顔。その、あまりにも儚い言葉。
それが、僕の心の中の、最後の壁を粉々に打ち砕いた。
同情? 戸惑い? 無力感?
違う。そんな、生ぬるい感情じゃない。
もっと熱くて、もっと激しくて、もっとどうしようもない衝動。
――守りたい。
この、今にも消えてしまいそうな美しい光を、僕が、僕の言葉で守らなければ。
なぜなら、彼女だけが僕の言葉の力を信じてくれたのだから。僕の魂を肯定してくれたのだから。君が僕の言葉を見つけてくれたように、今度は僕が、君の存在を言葉で見つけ出す番だ。
「僕が、書くよ」
僕の口から、自分でも驚くほど強い声が出ていた。まだ少し震えていたけれど、確かな、揺るぎない決意が宿っていた。
「天野さんのために、書く」
七海が驚いたように、目を見開いて僕を見る。
「君が見た、空を泳ぐ金魚のこと。君が好きだと言った、風の匂いのこと。君が駄菓子屋で、笑ったこと。君が、友達のことで、心が張り裂けそうになるくらい泣いたこと。その全部が、ただ消えてなくなってしまうなんて、僕が、絶対に許さない」
僕は必死だった。これは、慰めじゃない。僕の心からの必死の懇願だ。
「僕が、君が生きていた証を物語にする。だから……」
「だから……いなくならないで」
その言葉を聞いた瞬間、七海の大きく見開かれた瞳から、ずっと、ずっと、その小さな身体の中に堰き止められていた涙が、一粒、また一粒と、静かに頬を伝った。
ただ悲しいだけの涙ではない。
絶望の淵で、たった一人で戦ってきた彼女が、初めて自分の運命を、誰かが一緒に背負ってくれようとしたことへの感謝と安堵の涙。
そして、自分の死というただ怖かっただけのものが、春樹の言葉によって、物語という誰かの心に残る美しいものに変わるかもしれない。そんな救いの涙だった。
彼女は、何も言わなかった。
ただ泣きながら、それでも、今までに見たことのないくらい、最高の笑顔で、僕に口の形でこう伝えた。
――あ・り・が・と・う。
夜風が、僕たちの涙を優しく拭うように、そっと吹き抜けていった。
この夜を境に、一人の少女の、あまりにも短い運命と、一人の少年の、不器用な言葉の力。
その二つが、この神聖な場所で、固く、永遠に結びつけられた。
彼女の命のバトンを、今この瞬間僕が受け取ったのだ。
言葉。僕には、言葉があるはずだった。本の世界で、僕はいつだって正しい言葉を知っていたはずだ。誰かを慰め、誰かを励まし、壊れた関係を修復するための、魔法のような言葉たちを。
なのに、現実はどうだ。一番大切な幼なじみを傷つけ、そして今、隣で心を痛めている、かけがえのない少女に、かけるべき言葉一つ、見つけられずにいる。なんという無力さだろう。
「……私の、せいだね」
七海が、ぽつりと呟いた。その声は、夜風に溶けて消えてしまいそうなほどか細く、罪悪感に震えていた。
「そんなことない」
僕はまたしても、かろうじて、そう答えるのが精一杯だった。その声が、いかに無力で空虚に響いたか。
どれくらい、そうしていただろうか。もうこのまま、僕たちもこの夜の闇に溶けて消えてしまうのではないかと思った、その時だった。
重苦しい沈黙を、破ったのは七海だった。
彼女は、無理に作った笑顔で僕を見上げた。その瞳の奥には、まだ涙の膜が、星の光を滲ませている。
「……ねえ、春樹くん。もう一つだけ、私のわがまま、付き合ってほしいな」
その声は、ただの気分転換ではない、何かを切実に求めるようなものだった。このまま、こんな悲しい気持ちで、今日という一日を終わらせたくない。この痛みや傷を、何か、もっと大きくて美しいもので上書きしてしまいたい。そんな、彼女なりの必死の抵抗。
彼女は、自分のカバンからお楽しみノートを取り出した。そして、震える指先で、あるページを僕にだけ見えるようにそっと指さした。
そこには、こう書かれていた。
『⑤ 夜の神社で、星に願い事をする』
それは、この重苦しい現実から逃れるための、少しだけ危険で、そしてあまりにも魅力的な夜の冒険への誘いだった。
僕は、彼女の強さに引っぱられるように、黙って頷いた。
防波堤から、潮見ヶ丘神社へと続く道は街灯がまばらで、昼間とは全く違う顔を見せていた。聞こえるのは、自分たちが歩くときのサンダルが、ぱたぱた、と鳴る頼りない音と、道の脇の草むらから聞こえる無数の虫の声だけ。
神社の入り口に立つ古びた石の鳥居は、夜の闇の中で、まるで異世界への門のように、僕たちの前に立ちはだかっていた。夜の暗がりの中では、その様子が少し恐ろしく感じる。
僕たちは、長い石段を一歩ずつ、確かめるように登っていく。石段には苔が生え、ひんやりとした湿った空気が足元にまとわりつく。二人の間に言葉はなかった。この石段を登る一歩一歩が、僕たちを人間の住む世界から、もっと特別な、神様の住む世界へと運んでいくようだった。
最後の石段を登りきった瞬間、空気がふっと変わった。
ひんやりとした、どこまでも澄み切った神聖な空気が、僕たちの肌を撫で、そして肺を満たしていく。昼間の喧騒も、町の匂いも、ここにはその一切が届かない。ただ、拝殿の奥の深い闇と、木々の葉が夜風にそよぐ音だけが僕たちを包み込んでいた。
そして、空。
街にいた時よりも、ずっと、ずっと星が大きく、そして近くに見えた。まるで、手の届きそうな場所に、無数のダイヤモンドが、散りばめられているかのように。
七海は、境内の端にある町を見下ろせる手すりの方へと、吸い寄せられるように歩いていった。僕も、その後ろを、影のようについていく。
そして、僕たちは息をのんだ。
眼下に、光の海が広がっていた。
家々の窓の明かり、街灯のオレンジ色の光、車のヘッドライトの流れ。その一つひとつが、誰かが夜のビロードの上に、星々を惜しげもなくばらまいたかのように、天の川のようにきらきらと瞬いている。
「……きれい」
七海が、うっとりとため息のように呟いた。
「まるで、夜の海に沈んだたくさんの星みたいだ。……一つひとつの光の中に、誰かの笑い声とか、温かいご飯の匂いとかがあるんだね」
しばらく、僕たちは言葉もなく、その光の海をただ見つめていた。この、神聖な静寂の中にいると、さっきまでの防波堤での出来事が、まるで遠い、悪い夢だったかのように思えてきた。
やがて、七海が夜景から目を離さずに、ぽつりと僕に問いかけた。
「ねえ、春樹くん」
その声は、夜風に消えてしまいそうなほど儚かった。
「もし、自分に残された時間が……もうほんの少ししかないってわかったら、どうする?」
それはあまりにも唐突で、そして、あまりにも核心に触れる質問だった。僕は答えに窮した。そんなこと、考えたこともなかったから。
僕が言葉を探していると、七海は独り言のように続けた。その声には、彼女の裏側に隠されていた、子供らしい弱さと、不安の色があった。
「……私、時間が足りないんだ」
その告白は、ドラマチックなものではなかった。ただ、夜風にそっと真実を乗せただけのような、静かで、諦観に満ちたものだった。
だけど、その静かな一言が、僕の心臓を巨大な金槌で真正面から殴りつけたかのような、強烈な衝撃を与えた。
――三ヶ月。
彼女の自己紹介の言葉。村井先生の、あの痛みをこらえるような眼差し。校庭で、すぐに息を切らしていた苦しそうな横顔。
今まで、僕の頭の中でバラバラのパズルピースだったものが、その一言で、一気に一つの残酷で、あまりにも悲しい絵を形作っていく。
だけど、僕は、それをまだ認めたくなかった。信じたくなかった。
七海は、そんな僕の混乱を全て察しているかのように、寂しそうに、しかし、どこまでも優しく微笑んだ。
「ごめんね、変なこと言って。……ほら、見て。星、すごくきれいだよ」
彼女は話題を変えるように、満天の星空を指さした。
そして、続けた。
「春樹くんの詩、もっと読みたいな」
その声は、どこか遠く、手の届かないものに憧れるような響きだった。
「私のいない未来でも、春樹くんの言葉はちゃんと残るんでしょ。本になって、誰かが読んで、その人の心の中でずっと生き続ける。……いいな……」
その、消えてしまいそうな横顔。その、あまりにも儚い言葉。
それが、僕の心の中の、最後の壁を粉々に打ち砕いた。
同情? 戸惑い? 無力感?
違う。そんな、生ぬるい感情じゃない。
もっと熱くて、もっと激しくて、もっとどうしようもない衝動。
――守りたい。
この、今にも消えてしまいそうな美しい光を、僕が、僕の言葉で守らなければ。
なぜなら、彼女だけが僕の言葉の力を信じてくれたのだから。僕の魂を肯定してくれたのだから。君が僕の言葉を見つけてくれたように、今度は僕が、君の存在を言葉で見つけ出す番だ。
「僕が、書くよ」
僕の口から、自分でも驚くほど強い声が出ていた。まだ少し震えていたけれど、確かな、揺るぎない決意が宿っていた。
「天野さんのために、書く」
七海が驚いたように、目を見開いて僕を見る。
「君が見た、空を泳ぐ金魚のこと。君が好きだと言った、風の匂いのこと。君が駄菓子屋で、笑ったこと。君が、友達のことで、心が張り裂けそうになるくらい泣いたこと。その全部が、ただ消えてなくなってしまうなんて、僕が、絶対に許さない」
僕は必死だった。これは、慰めじゃない。僕の心からの必死の懇願だ。
「僕が、君が生きていた証を物語にする。だから……」
「だから……いなくならないで」
その言葉を聞いた瞬間、七海の大きく見開かれた瞳から、ずっと、ずっと、その小さな身体の中に堰き止められていた涙が、一粒、また一粒と、静かに頬を伝った。
ただ悲しいだけの涙ではない。
絶望の淵で、たった一人で戦ってきた彼女が、初めて自分の運命を、誰かが一緒に背負ってくれようとしたことへの感謝と安堵の涙。
そして、自分の死というただ怖かっただけのものが、春樹の言葉によって、物語という誰かの心に残る美しいものに変わるかもしれない。そんな救いの涙だった。
彼女は、何も言わなかった。
ただ泣きながら、それでも、今までに見たことのないくらい、最高の笑顔で、僕に口の形でこう伝えた。
――あ・り・が・と・う。
夜風が、僕たちの涙を優しく拭うように、そっと吹き抜けていった。
この夜を境に、一人の少女の、あまりにも短い運命と、一人の少年の、不器用な言葉の力。
その二つが、この神聖な場所で、固く、永遠に結びつけられた。
彼女の命のバトンを、今この瞬間僕が受け取ったのだ。
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