空を泳ぐ金魚

空-kuu-

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第12話 真夜中のピクニック

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 僕たちの夏は、気まぐれな神様がサイコロでも振っているかのように、天国と地獄の間を目まぐるしく、容赦なく行き来した。
 三人で観覧車に乗った、奇跡のような一日からわずか一週間後。僕たちが再び取り戻したはずの日常は、あまりにもあっけなく、再び奪い去られた。
 七海の容態が安定しなくなったのだ。
 僕と柚希は学校の帰りに、いつものように七海の病室を訪れるた。ドアには、僕たちの無力さを嘲笑うかのように、絶望的な響きを持つ一枚のプレートが、無機質に掛けられていた。
『面会謝絶』
 そのたった四文字が、僕たちの間に、決して越えることのできない、分厚い壁を築いた。僕たちはただ、その大きな壁の前で、為すすべもなく立ち尽くすことしかできなかった。あの日、神社の星空の下で立てた誓い。「僕が、君の生きていた証を物語にする」という言葉。それがなんと空虚で、なんと無力に響いたことか。彼女が今まさに、その命の瀬戸際で、たった一人で戦っているというのに、僕は物語を一行も書き進めることができずにいた。
 無力感。
 それは、じっとりとした、重たい梅雨時の湿気のように、僕たちの心を蝕んでいった。夏の日差しが強ければ強いほど、僕たちの心の中の影は濃くなるばかりだった。

 そんな、出口のない暗闇の中に、あまりにも無謀な光を灯したのは、やはり月村柚希だった。
 ある日の夜、僕の家の電話がけたたましく鳴り響いた。受話器を取ると、潜めた、しかし、抑えきれない興奮で震えている柚希の声が、僕の鼓膜に飛び込んできた。
「ハル! 寝てた!?」
「いや……まだ起きてたけど」
「よし! なら、今から緊急作戦会議を始めよう!」
「作戦会議って……何の」
「決まってんじゃん! 七海ちゃんの、お楽しみノートを増やす作戦だよ!」
 受話器の向こうで、柚希は、革命を決意したように声を弾ませていた。
「夜に外でお菓子パーティーって最高に青春してると思わない? やろう!」
「やろうって……七海は面会謝絶なんだぞ。忘れたのか」
「だからだよ!」と、柚希は言った。その声には、彼女らしい不屈の、そして少しだけヤケクソになったような闘志が燃え盛っていた。
「外に出られないなら、中でやればいいじゃん! ルールを破るのはよくないけど……でも、そんなこと言ってる時間はないの! 面会がダメなら、こっそり忍び込めばいい! あたしたちが、七海ちゃんのところにお菓子パーティーを届けに行くの!」
 それは、あまりにも無謀で、あまりにも子供じみた、突拍子もない計画だった。
 でも、その馬鹿げているとしか思えない計画が、僕の、無力感に苛まれていた心に、熱いを炎を灯したのだ。
 そうだ。僕たちは、ただ待っているだけじゃだめだ。祈っているだけじゃだめだ。僕たちに、できることを探さないと。僕たちの手で、この理不尽な運命に一矢報いることができるかもしれない。

 作戦決行は、三日後の金曜日。深夜十二時。
 僕と柚希は、秘密結社のメンバーにでもなったかのように、家の電話で何度も、何度も、綿密な打ち合わせを重ねた。持ち寄るお菓子、ジュースの種類、そして、最大の難関である、深夜の病院への潜入ルートと夜勤の看護師の交代時間の確認。
 運命の夜が来た。
 僕は、親が寝静まるのを待ち、音を立てずに自分の部屋の窓から抜け出した。背中のリュックには、ポテトチップスとチョコレート。そして、この作戦の生命線である、一本の少しだけ心もとない懐中電灯が入っている。
 待ち合わせ場所の公園に着くと、そこには僕と同じように、黒いパーカーのフードを目深に被った柚希が、ブランコに座って、すでに待っていた。
「……遅いよ、ハル。五分も遅刻。あたしの時計では、もうすでに地球が滅亡してる時間」
「ごめん。猫が、道を通してくれなくて……」
「言い訳しない! さあ、行くよ! 革命の始まりだ!」
 僕たちは息を殺し、闇に紛れて、潮見ヶ丘総合病院へと向かった。
 夜の病院は、昼間とは全く違う。静まり返った白い迷宮のように、僕たちの前に不気味にそびえ立っていた。僕たちは、通用口に鍵がかかっていないことを事前に確認しておいた。小さな清掃員用の扉から、音を立てずに病院の中へと潜入した。
 ひんやりとした消毒液と、床のワックスが混じり合った独特の匂い。長くどこまでも続く薄暗い廊下。遠くで自動販売機が、ううんと低い唸り声を上げている。緑の非常口の明かりだけが、おぞましく不気味に光っている。僕の心臓が破裂しそうなくらい、大きく、速く、内側から叩いていた。
 唯一の道しるべは、柚希に渡した懐中電灯の、頼りない一本の光だけだった。その光が、壁を、床を、怯える小動物のようにせわしなく行き来する。
 最大の難関はナースステーション。この前をどうやって通り抜けるか。僕たちは壁に張り付くようにして息を殺し、中の様子を窺った。夜勤の看護師さんが一人、こくりこくりと、穏やかに船を漕いでいる。
――今だ。
 柚希が、僕の手を強く握った。その手は、僕と同じように、冷たく汗で湿っていた。そして、二人で猫のように、スニーカーのつま先で床を蹴るようにして、その前を一気に駆け抜けた。心臓が、喉から飛び出しそうだった。

 七海の病室は、一番奥の個室。
 ドアノブに手をかける。冷たい、金属の感触。ゆっくりと、1ミリずつ、音を立てないようにドアを開ける。
 そこに、彼女はいた。
 月の光が、窓から優しく差し込んでいる。まるで舞台照明のような光の中で、七海はベッドの上で、小さな身体を丸めて眠っていた。その寝顔は驚くほど穏やかで、今にもこの月の光に溶けて、消えてしまいそうなくらい儚かった。
 柚希が、そっと彼女の肩を揺する。
「……七海ちゃん。……七海ちゃん、起きて。あたしたちだよ。迎えに来たよ」
 七海は、ううん、と小さく身じろぎをすると、ゆっくりと長いまつ毛に縁取られた瞳を開いた。
 そして僕たちの姿を認めると、一瞬、夢でも見ているかのようにきょとんとした顔をした。
 やがてその瞳が、驚きと信じられないという喜びで、みるみるうちに潤んでいく。声にならない小さな嗚咽が、彼女の唇から漏れた。それは、僕たちが、自分を忘れていなかったことへの、感謝の涙だったのだろう。
「……春樹くん? ……柚希ちゃん? どうして? ……夢?」
「しーっ」
 柚希は自分の唇に人差し指を当てると、悪戯が成功した子供のように、最高の笑顔で笑った。
「ピクニックに来たんだよ。真夜中の、世界で一番楽しいピクニックにね」

 僕たちは、七海のベッドの横の冷たいリノリウムの床に、持ってきたレジャーシートをそっと広げた。
 その上に、リュックから取り出したお菓子とジュースを、一つひとつ、丁寧に、並べていく。
 ポテトチップス、チョコレート、クッキー。そして、少しだけ贅沢な炭酸のジュース。
 懐中電灯を上向きに、床の真ん中に置く。一本の光が白い天井に反射して、僕たち三人の周りに柔らかく、温かいドーム状の、秘密基地のような空間を作り出した。
 冷たくて、無機質で、消毒液の匂いがしたはずの病室が、世界で一番、特別で温かい、僕たちだけの居場所に変わった。
 レジャーシートの上に、輪になって座る。
 聞こえるのは、七海に繋がれた心電図モニターの、ピッ、ピッ、ピッという、彼女の命のリズムを刻む、規則正しい電子音だけ。
 僕たちは声を潜め、秘密の呪文でも唱えるかのように囁き合った。
「……このポテチ、新しいコンソメ味だって」
「……柚希、これ炭酸だろ? ジュース、開ける時、音、マジで大丈夫かな」
「……大丈夫だよ。ちょっとくらいね」
 ぷしゅという小さな音を立てて、ジュースの缶を開ける。
 僕たちは、他愛もない話を七海にした。村井先生の新しい髪型のこと、昨日のテレビでやっていたお笑い芸人のこと、クラスメイトが好きな子のこと。本当に、どうでもいい話をした。
 でも、そのどうでもいい話が、僕たちにとっては何よりも大切だった。
 それは、この異常で理不尽な状況の中で、日常という失われた宝物を取り戻すための、どうしようもなく愛おしい儀式だったのだ。
 懐中電灯の頼りない光に照らされた七海の笑顔は、僕が今まで見たどんな笑顔よりも、幸せそうに、そして美しく輝いていた。

 やがて七海は、「ちょっと待ってて」と言うと、枕元からお楽しみノートを取り出した。
 懐中電灯の光を頼りに、新しいページに何かを一文字一文字、確かめるように書き込み始めた。その横顔は、とても真剣で、そしてどこか誇らしげだった。
「……これも、私の大事なリストだね」
 彼女は書き終えたページを、僕たちに卒業証書でも見せるかのように広げて見せてくれた。
 そこには、彼女の確かな喜びと、深い愛情が込められた文字でこう書かれていた。

『⑨ 夜にみんなでお菓子パーティーをする』
 その文字の下に、また一つ新しい文字を書き加えた。

『真夜中のピクニックをする。世界で一番、最高の仲間と』

 最高の仲間。
 その言葉に、僕と柚希は顔を見合わせた。そして、どちらからともなく照れくさそうに、そして、どうしようもなく嬉しそうに笑った。それは、僕たちがこの夏初めて勝ち取った、小さな、かけがえのない勝利の証だった。
 窓の外では月が、僕たちの小さな、生涯忘れることのない冒険を祝福するように、優しく、静かに照らしていた。
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