空を泳ぐ金魚

空-kuu-

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第14話 すれ違う心

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 夏祭りまであと一週間。
 七日間という時間が、僕たちにとってはとても長く、そして、瞬きする間に消えてしまうほど、恐ろしく短いものにも感じられた。
 七海の容態は、良くもならなければ悪くもならなかった。それはまるで、巨大な天秤の上で、かろうじて奇跡的な均衡を保っているかのように。医師の武田先生は、決して「無理だ」とは言わなかったが、「奇跡でも起きない限り」という、希望を根こそぎ打ち砕くには十分すぎる言葉を僕たちに告げた。
 奇跡なんて起こらない。
 僕はあの夜、神社の星空の下で願ったんだ。奇跡なんていらないと。
 だから僕は、僕にできる唯一の準備を始めた。
 もし七海が、夏祭りという世界に行くことができないのなら、夏祭りという世界を、彼女のところに届けに行けばいい。
 僕は毎日、放課後になると町を歩き回った。夏祭りの準備で活気づく神社の参道を、スケッチブックと新しく買ったばかりの七十二色の色鉛筆のセットを手に歩いた。提灯が飾られていく様子、屋台の骨組みが組まれていく光景、その一つひとつを、僕は、記憶と拙い絵で必死に記録していく。夜にはICレコーダーを握りしめて、再び神社へと忍び込んだ。練習に励む太鼓の、腹の底に響く力強い音。子供たちの期待に満ちた、甲高い笑い声。風鈴の涼やかで、どこか物悲しい音色。その全てを、音のかけらとして、丁寧に集めて回った。
 これは僕の、僕だけにしかできない七海への気持ちだ。これは僕が彼女に誓った、物語を紡ぐための、最初の一ページだ。僕はこの行いが絶対に正しいと、心の底から信じていたのだ。

 その日、僕は渾身の一枚を完成させた。
 夜空を鮮やかに、そして壮大に彩る打ち上げ花火の絵。黒い画用紙の上に色鉛筆の全てを使い、僕が想像できる、ありったけの光の饗宴を、指先が痛くなるまで描いた。
 これを持って、明日、七海に会いに行こう。そして、録音した音と一緒に、彼女に僕たちだけの、世界でたった一つの夏祭りをプレゼントするんだ。
 そんな自己満足にも似た、しかし純粋な高揚感を胸に、自宅の玄関のドアを開けた。
 目の前に柚希が、行く手を阻む門番のように、腕を組んで立っていた。
 その表情は、僕が今まで見たこともないくらい硬く、抑えきれない怒りと、深い疲労の色に満ちていた。
「……柚希? どうしたんだ、こんなとこで」
「どうした、じゃないよ」
 柚希の声は震えていた。彼女は、僕が大事そうに抱えている画用紙の筒を、汚いものでも見るかのように睨みつけた。
「……また、そんなの描いてたの?」
「そんなのって……」
「絵とか! スケッチとか! あとこの前も、こそこそなんか音録ってたでしょ!」
 僕は言葉に詰まる。彼女が、僕のこの密やかな行いに気づいていたことに驚いた。
「ハル、あんた分かってないの!?」
 柚希は叫んだ。その声は、悲痛な、懇願するような声音だった。
「そんなの、ただの気休めじゃん! 偽物じゃん! 七海がしたいのは、そんな絵を見ることじゃない! 録音された音を聞くことじゃない! 自分の足であの参道を歩いて、自分の目で本物の花火を見上げて、自分の鼻でりんご飴の、あの甘ったるい匂いを嗅ぐことだよ! 本物の、本物の夏祭りに行くことなんだよ!」
 あまりにも正しく、あまりにも純粋な言葉が、僕の胸をぐさりと、容赦なく抉った。
「……無理だって、先生に言われただろ!」
 僕は反論した。それは僕が自分自身に、この一週間呪文のように毎日言い聞かせている言葉だった。「奇跡なんて、起こらないんだ」と。
「無理じゃない! まだ、一週間もある! 何か、何か方法があるはずだよ! あたし、昨日も武田先生に、もう一度お願いしに行った! でも、ダメだった! 親にも、何か方法はないかって聞いた! でも、無理だって! ……だから、だからハルに相談しに来たのに……!」
 柚希の瞳が潤んでいく。彼女もまた、彼女なりの孤独な戦いを続けていたのだ。
「なのに、ハルは! ハルは、最初から諦めてる! 七海ちゃんのこと、本当に考えてるの!? それとも、ただ……」
 彼女はそこで一度言葉を切り、唇を噛みしめた。そして、僕の心を最も深く、最も残酷に傷つける言葉を選んで口にした。
「……ただ、自分が傷つきたくないだけなんじゃないの? 挑戦して、失敗して、七海をがっかりさせるのが怖いだけなんじゃないの?」

 その言葉は、僕の心の一番脆く、一番隠しておきたかった場所を的確に、容赦なく打ち抜いた。
 僕のこの想いは……僕のこの誓いは……。
 本当に、七海のためだったのだろうか。
 それとも、どうしようもない現実に直面し認めるのが怖くて、自分にできる安全な、小さな、小さな世界に逃げ込んでいるだけだったのではないか。
「……これが僕のやり方だ!」
 僕は叫んでいた。それは怒りというよりも、自分自身を守るための、悲鳴に近いものだった。
「僕にできる、たった一つのやり方なんだよ!」
「そんなの……」
 柚希は、大きな瞳からぽろぽろと零れる大粒の涙を拭おうともせずに、僕に最後通告を突きつけた。

「そんなの、ハルの自己満足でしょ!」

 自己満足。
 その、たった四文字の言葉が、僕がこの一週間必死に築き上げてきた全てのものを、音を立てて崩していった。
 僕が、彼女のためにと心を込めて、指先が痛くなるまで描いたこの花火の絵も。
 僕が、彼女のためにと夜の神社で蚊に食われながら集めて回った、この音のかけらたちも。
 全てが、ただの僕のエゴ。僕が、悲劇の物語の優しい主人公でいるための、安っぽくて、醜い自己満足。
 二人の間に、もう言葉はなかった。
 ただ夏の蒸し暑い、まとわりつくような空気が、僕たちの間を隔てていた。
 かなかなかなと、ヒグラシの狂ったような鳴き声だけが、僕たちの壊れてしまった心を嘲笑うかのように、けたたましく響き渡っていた。
 やがて柚希は、僕に背を向けた。その肩は、小刻みに震えていた。
「……もういい。あんたには頼らない」
 柚希の声は、怒ってはいるものではなかった。ただ深く、深く失望しきって、そして傷ついていた。
「あたしはあたしのやり方で、七海ちゃんを絶対に連れていくから。……一人でやってやるから」
 そう言い捨てて、彼女は一度も振り返ることなく、走り去っていった。

 一人、その場に取り残される。
 その場に立ち尽くし、どうしようもない想いに打ちひしがれる。
 手の中に抱えた花火の絵が、急に、どうでも良いものに感じられた。もう、これは彼女へのプレゼントではない。僕の醜い、自己満足だという動かぬ証拠だった。
 本当に、そうだったのだろうか。
 僕のあの夜の誓いは。僕のこの行動は。
 全て、ただの自己満足だったのだろうか。
 分からなかった。もう、何も分からなかった。
 僕があれほどまでに信じていた、僕の言葉も、物語も。この残酷な現実の前では、何の意味も持たない、ただの空っぽな、子供の遊びだったのかもしれない。
 茜色の空が僕の心の中のように、ゆっくりと、暗い、救いのない夜の色に飲み込まれていった。
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