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第15話 柚希の涙
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翌日の放課後、あたし、月村柚希は、たった一人で潮見ヶ丘総合病院の廊下を歩いていた。独特の消毒液の匂いは、いつだってあたしの心を重くする。
昨日のハルとの喧嘩。
あたしが一方的に、そして容赦なくぶつけた、たくさんの醜くて汚い言葉。ハルのことは一番よく分かっているはずなのに、あえて一番傷つきやすい心の部分を、わざと狙って突き刺した。とても、残酷な言葉。
――「そんなの、ハルの自己満足でしょ!」
あの時のハルの顔。驚きと、痛みと、そして、信じていたものに裏切られたかのような、深く傷ついたあの瞳。
わかってる。あたしが間違ってた。ハルもハルなりに必死だったんだってことくらい、本当は、心の底では分かってる。
でも、認められなかった。ハルが、まるでもう諦めてしまったかのような顔で、七海のための優しい思い出作りをしていることが、どうしても許せなかった。あたしはまだ、諦めてなんかないのに。あたしはまだ、必死に戦っているのに。
胸の中に、後悔と、怒りと、どうしようもない焦りと。醜い嫉妬がぐちゃぐちゃになって、黒い渦を巻いている。
ハルに何も告げずにここに来た。
コンビニで買った一番高いプリンが入った袋を、強く、強く握りしめる。これは、あたしの罪悪感と、意地と、どうしようもない寂しさが詰まった、みっともない貢ぎ物だ。
七海の病室の前に立ち、一度大きく深呼吸をする。そして、いつもの快活で、強気で、何も考えていない能天気なあたしを演じる。
「七海ちゃん、入るよー! 生きてるー?」
わざと、大きな、馬鹿みたいな声で言ってドアを開ける。
七海はベッドの上で上半身を起こして、窓の外をぼんやりと眺めていた。その横顔は、いつもより少しだけ儚げに見えた。
「……あっ、柚希ちゃん。来てくれたんだ」
「当然じゃん。はい、これ。差し入れ。帰りに、駅前の超有名なケーキ屋で買ってきた、幻のプリン。一個千円のやつ」
あたしはぶっきらぼうに、コンビニの袋を彼女のベッドのサイドテーブルに置いた。優しく、なんてできない。そんなことをしたら、必死に演じている私が、すぐに、バリバリに崩れ落ちてしまいそうだったから。
七海は、そんなあたしの痛々しいほどの虚勢の全てを、あまりにも澄んだ湖の底のような瞳で見透かしているかのようだった。
彼女は静かに、そして、あまりにも優しく尋ねた。
「……春樹くんと、喧嘩したんでしょ?」
あまりにも的確な核心を突く一言に、あたしの心臓が、どきりと大きく、嫌な音を立てて跳ねた。
「……なんで、わかんの。エスパーかよ……」
「わかるよ。だって柚希ちゃん、今日一人だもん。それに、春樹くんのこと、一回も話題に出さない。……それにほら、その顔」
「顔?」
「うん。無理して笑ってる顔。……一番、悲しい顔だよ、それ」
七海は、寂しそうに微笑んだ。
そして、あたしの心を、粉々に打ち砕く言葉を続けた。
「……ごめんね。私のせいで。私がいなければ、二人は、ずっと仲良しでいられたのにね」
聖母のような優しさ。
全ての罪を、全ての責任を一人で、そのか細い肩に背負い込もうとする、あまりにも、あまりにも気高い優しさ。
それが、あたしの心の中で、かろうじて、本当にかろうじて張り詰めていた、最後の、最後の理性の糸を、ぷつりと無残に断ち切った。
「……謝らないでよっ!!」
自分でも驚くような、獣の咆哮のような大きな声が、あたしの喉からほとばしり出ていた。
一度、決壊してしまった感情のダムは、もう誰にも止めることはできなかった。
「七海ちゃんが謝ることじゃない! 七海ちゃんは何も、何も悪くない! 悪いのは……! 悪いのは、あたしで、ハルで……! 分かってるのに……! 分かってるのに、どうしようもないのよっ!」
あたしの瞳からぽろぽろと、今まで、必死にまぶたの裏に閉じ込めていた涙が熱い塊となって、決壊したダムの水のように溢れ出してくる。
もう、ダメだった。強がるのも、快活なふりをするのも、もう限界だった。
あたしは、その場に小さな子供のようにうずくまって、わっと声を上げて泣き出した。
「怖いんだよ……っ!」
嗚咽の合間に、あたしの一番醜くて、一番弱くて、誰にも、ハルにさえも見せたことのなかった、本当の本音がこぼれ落ちていく。
「怖いんだよ……! 夏祭りが終わったら、七海ちゃんが、いなくなっちゃうんじゃないかって……! そしたら、ハルも、あたしの知らない、どこか遠いところに行っちゃうんじゃないかって……! 三人でいられるこの夏が、終わっちゃうのが、怖い、怖いんだよ……!」
そうだ。あたしは、ただ怖かったのだ。
この奇跡のような、壊れやすい夏が終わってしまうのが。
大切なものが、この手から砂のようにこぼれ落ちていってしまうのが。
そして、一人になってしまうのが。
ただ、ただ怖くて仕方がなかったのだ。
「あたしが、しっかりしなきゃって。あたしが、二人を引っ張っていかなきゃって、思うのに……! なのに、あたしが一番、弱虫なんだよ……! あたしが一番、自分勝手なんだよ! ごめん、ごめんね、七海ちゃん……っ! こんな自分、嫌だ! 醜いところ、見せて、ごめん……っ!」
あたしは、自分の弱さが情けなくて、恥ずかしくて、ただ、床に涙の染みを作ることしかできなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
しゃくりあげるあたしの背中に、そっと温かいものが触れた。
見上げると、七海がベッドからか細い身体を必死に乗り出すようにして、あたしの背中を優しく、優しく撫でてくれていた。
温かい手のひら。
七海は、何も言わなかった。ただ、あたしが泣き止むまで、ずっと、ずっとそうして、あたしの背中を撫で続けてくれていた。
やがて、あたしの涙が少しだけ枯れてきた頃。
七海は静かな、芯の通った決して揺らぐことのない声で言った。
「ありがとう、柚希ちゃん」
えっ、何……ありがとう。
あたしは自分の、こんなにも醜くてドロドロした感情を全部ぶつけてしまったというのに。
七海はまるで、この世で一番尊いものでも見つめるかのように、優しい慈愛に満ちた瞳であたしを見つめていた。
「私のために、本気で怒ってくれてありがとう」
「……えっ……」
「私のために、本気で泣いてくれてありがとう」
その言葉に、あたしはハッとした。
そうだ。あたしがハルに怒ったのも、今、こうしてみっともなく泣いているのも。
全て、七海を失いたくないから。
七海に生きていてほしいから。
あたしのこのぐちゃぐちゃで醜い感情の、その一番奥深くにある、たった一つの純粋な願い。
七海は、それをちゃんとわかってくれていたのだ。
「……嬉しいよ。柚希ちゃんが、私のために、本気で怒ってくれて、本気で泣いてくれて。……みんなね、私の前では悲しい顔をするの。かわいそうだって。でも、柚希ちゃんは違う。柚希ちゃんだけは、私の代わりに、世界に怒ってくれる。……だから、私一人じゃないんだなって思えたから」
七海はそう言って、泣きながら、それでも最高の笑顔で笑った。
その笑顔を見た瞬間、あたしの心の中で、ハルをめぐるちっぽけな嫉妬とか、焦りとか、そういうどうでもいいものが、全部、綺麗に洗い流されていった。
もう、どうでもよかった。
あたしはこの、目の前で笑っている誰よりも強くて、誰よりも儚くて、そして、誰よりも優しいこの少女を守りたい。
ううん、違う。
守るなんておこがましい。
あたしはこの子の、世界でたった一人の、一番の親友になりたい。
そう、心の底から思った。
あたしたちはその日初めて、本当の意味で友達になったのかもしれない。
ううん。友達という言葉でも、足りないかもしれない。
強さと弱さの、その裸の心を全ての見せ合った私たちは。
ずっと昔からそうだったかのような、かけがえのない、姉妹のような存在になったのだ。
昨日のハルとの喧嘩。
あたしが一方的に、そして容赦なくぶつけた、たくさんの醜くて汚い言葉。ハルのことは一番よく分かっているはずなのに、あえて一番傷つきやすい心の部分を、わざと狙って突き刺した。とても、残酷な言葉。
――「そんなの、ハルの自己満足でしょ!」
あの時のハルの顔。驚きと、痛みと、そして、信じていたものに裏切られたかのような、深く傷ついたあの瞳。
わかってる。あたしが間違ってた。ハルもハルなりに必死だったんだってことくらい、本当は、心の底では分かってる。
でも、認められなかった。ハルが、まるでもう諦めてしまったかのような顔で、七海のための優しい思い出作りをしていることが、どうしても許せなかった。あたしはまだ、諦めてなんかないのに。あたしはまだ、必死に戦っているのに。
胸の中に、後悔と、怒りと、どうしようもない焦りと。醜い嫉妬がぐちゃぐちゃになって、黒い渦を巻いている。
ハルに何も告げずにここに来た。
コンビニで買った一番高いプリンが入った袋を、強く、強く握りしめる。これは、あたしの罪悪感と、意地と、どうしようもない寂しさが詰まった、みっともない貢ぎ物だ。
七海の病室の前に立ち、一度大きく深呼吸をする。そして、いつもの快活で、強気で、何も考えていない能天気なあたしを演じる。
「七海ちゃん、入るよー! 生きてるー?」
わざと、大きな、馬鹿みたいな声で言ってドアを開ける。
七海はベッドの上で上半身を起こして、窓の外をぼんやりと眺めていた。その横顔は、いつもより少しだけ儚げに見えた。
「……あっ、柚希ちゃん。来てくれたんだ」
「当然じゃん。はい、これ。差し入れ。帰りに、駅前の超有名なケーキ屋で買ってきた、幻のプリン。一個千円のやつ」
あたしはぶっきらぼうに、コンビニの袋を彼女のベッドのサイドテーブルに置いた。優しく、なんてできない。そんなことをしたら、必死に演じている私が、すぐに、バリバリに崩れ落ちてしまいそうだったから。
七海は、そんなあたしの痛々しいほどの虚勢の全てを、あまりにも澄んだ湖の底のような瞳で見透かしているかのようだった。
彼女は静かに、そして、あまりにも優しく尋ねた。
「……春樹くんと、喧嘩したんでしょ?」
あまりにも的確な核心を突く一言に、あたしの心臓が、どきりと大きく、嫌な音を立てて跳ねた。
「……なんで、わかんの。エスパーかよ……」
「わかるよ。だって柚希ちゃん、今日一人だもん。それに、春樹くんのこと、一回も話題に出さない。……それにほら、その顔」
「顔?」
「うん。無理して笑ってる顔。……一番、悲しい顔だよ、それ」
七海は、寂しそうに微笑んだ。
そして、あたしの心を、粉々に打ち砕く言葉を続けた。
「……ごめんね。私のせいで。私がいなければ、二人は、ずっと仲良しでいられたのにね」
聖母のような優しさ。
全ての罪を、全ての責任を一人で、そのか細い肩に背負い込もうとする、あまりにも、あまりにも気高い優しさ。
それが、あたしの心の中で、かろうじて、本当にかろうじて張り詰めていた、最後の、最後の理性の糸を、ぷつりと無残に断ち切った。
「……謝らないでよっ!!」
自分でも驚くような、獣の咆哮のような大きな声が、あたしの喉からほとばしり出ていた。
一度、決壊してしまった感情のダムは、もう誰にも止めることはできなかった。
「七海ちゃんが謝ることじゃない! 七海ちゃんは何も、何も悪くない! 悪いのは……! 悪いのは、あたしで、ハルで……! 分かってるのに……! 分かってるのに、どうしようもないのよっ!」
あたしの瞳からぽろぽろと、今まで、必死にまぶたの裏に閉じ込めていた涙が熱い塊となって、決壊したダムの水のように溢れ出してくる。
もう、ダメだった。強がるのも、快活なふりをするのも、もう限界だった。
あたしは、その場に小さな子供のようにうずくまって、わっと声を上げて泣き出した。
「怖いんだよ……っ!」
嗚咽の合間に、あたしの一番醜くて、一番弱くて、誰にも、ハルにさえも見せたことのなかった、本当の本音がこぼれ落ちていく。
「怖いんだよ……! 夏祭りが終わったら、七海ちゃんが、いなくなっちゃうんじゃないかって……! そしたら、ハルも、あたしの知らない、どこか遠いところに行っちゃうんじゃないかって……! 三人でいられるこの夏が、終わっちゃうのが、怖い、怖いんだよ……!」
そうだ。あたしは、ただ怖かったのだ。
この奇跡のような、壊れやすい夏が終わってしまうのが。
大切なものが、この手から砂のようにこぼれ落ちていってしまうのが。
そして、一人になってしまうのが。
ただ、ただ怖くて仕方がなかったのだ。
「あたしが、しっかりしなきゃって。あたしが、二人を引っ張っていかなきゃって、思うのに……! なのに、あたしが一番、弱虫なんだよ……! あたしが一番、自分勝手なんだよ! ごめん、ごめんね、七海ちゃん……っ! こんな自分、嫌だ! 醜いところ、見せて、ごめん……っ!」
あたしは、自分の弱さが情けなくて、恥ずかしくて、ただ、床に涙の染みを作ることしかできなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
しゃくりあげるあたしの背中に、そっと温かいものが触れた。
見上げると、七海がベッドからか細い身体を必死に乗り出すようにして、あたしの背中を優しく、優しく撫でてくれていた。
温かい手のひら。
七海は、何も言わなかった。ただ、あたしが泣き止むまで、ずっと、ずっとそうして、あたしの背中を撫で続けてくれていた。
やがて、あたしの涙が少しだけ枯れてきた頃。
七海は静かな、芯の通った決して揺らぐことのない声で言った。
「ありがとう、柚希ちゃん」
えっ、何……ありがとう。
あたしは自分の、こんなにも醜くてドロドロした感情を全部ぶつけてしまったというのに。
七海はまるで、この世で一番尊いものでも見つめるかのように、優しい慈愛に満ちた瞳であたしを見つめていた。
「私のために、本気で怒ってくれてありがとう」
「……えっ……」
「私のために、本気で泣いてくれてありがとう」
その言葉に、あたしはハッとした。
そうだ。あたしがハルに怒ったのも、今、こうしてみっともなく泣いているのも。
全て、七海を失いたくないから。
七海に生きていてほしいから。
あたしのこのぐちゃぐちゃで醜い感情の、その一番奥深くにある、たった一つの純粋な願い。
七海は、それをちゃんとわかってくれていたのだ。
「……嬉しいよ。柚希ちゃんが、私のために、本気で怒ってくれて、本気で泣いてくれて。……みんなね、私の前では悲しい顔をするの。かわいそうだって。でも、柚希ちゃんは違う。柚希ちゃんだけは、私の代わりに、世界に怒ってくれる。……だから、私一人じゃないんだなって思えたから」
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その笑顔を見た瞬間、あたしの心の中で、ハルをめぐるちっぽけな嫉妬とか、焦りとか、そういうどうでもいいものが、全部、綺麗に洗い流されていった。
もう、どうでもよかった。
あたしはこの、目の前で笑っている誰よりも強くて、誰よりも儚くて、そして、誰よりも優しいこの少女を守りたい。
ううん、違う。
守るなんておこがましい。
あたしはこの子の、世界でたった一人の、一番の親友になりたい。
そう、心の底から思った。
あたしたちはその日初めて、本当の意味で友達になったのかもしれない。
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