空を泳ぐ金魚

空-kuu-

文字の大きさ
17 / 36

第17話 重なり合う心

しおりを挟む
 村井先生と話した翌日。僕は柚希を、潮見ヶ丘を流れる小さな川のほとりに呼び出していた。
 ここは、僕たちがまだ出会って間もなかった頃。世界がもっと単純で、もっと無限に広がっていて、そして永遠なものだと信じていた小さかったあの頃。よく二人で、秘密基地を作ったり、ザリガニを釣ったりした、僕たちの始まりの場所だった。
 川面に、傾き始めた西日が反射して、きらきらと眩しく輝いている。夏のむせ返るような草の匂い。せせらぎの優しく変わらない音。そして、ヒグラシの少しだけ物悲しい、心を不思議と落ち着かせる鳴き声。
 あまりにも美しく、あまりにも懐かしい風景の中で、僕たちは、まるで初めて会った名前も知らない他人どうしのように、ぎこちなく、数メートルの距離を置いて立っていた。
 僕が来るのを待っていた柚希は、目を合わせようとしない。足元に転がっていた平たい石を拾うと、何も言わずに川面に向かって、ぽちゃん、ぽちゃんと投げ込んでいる。その小さな背中が、いつもよりずっとか弱く、僕の言葉など聞きたくないと、頑なに拒絶しているように見えた。
 気まずい重たい沈黙が、僕たちの間に流れていた。何をどう話せばいいのか、分からなかった。僕の心臓が、どく、どくとうるさい音を立てている。
 僕が動かなければ。
 僕から始めなければ。
 乾ききった唇を一度舐めると、自分でも驚くほどみっともなく震えている声で、その張り詰めた沈黙を破った。

「……ごめん」

 その一言を、喉の奥から無理やり引きずり出すのに、僕のありったけの、けして多くはない勇気の、その全てが必要だった。
 柚希の、石を投げる手がぴたりと止まる。その肩が、ほんの少しだけこわばったのがわかった。彼女はまだ、こちらを振り返らない。
 僕は続けた。
「あの時……僕は自分のことしか、見えてなかった。七海のことで頭がいっぱいで、柚希が、一人で、たった一人で七海のために戦っていたことに、気づいてあげられなかった。……本当に、ごめん」
 そして僕は、今まで彼女にさえずっと隠し続けてきた、僕の一番醜くて、一番脆い心の奥底の暗い部分を、彼女の前に晒け出す覚悟を決めた。
「……怖かったんだ」
「えっ……?」
「柚希に、自己満足だって言われた時……。僕の言葉が、誰かを傷つけるのが、また怖くなったんだ」
 僕は先生に話した、小学生の頃、母親に、心を込めて書いた、たった一つの宝物だった詩のノートを、目の前で無残に破り捨てられたあの日のことを語った。途切れ途切れに、しかし、ごまかすことなく。正直に、全て話した。
「だから、僕はずっと怖かった。僕の言葉は、僕の想いは、結局ただの自己満足で、人を不快にさせて傷つけるだけなんじゃないかって……。柚希の言葉が、突き刺さったんだ」
 全てを告白し終えた後、僕はただ、彼女の返事を待った。
 軽蔑されても仕方ない。呆れられても仕方ない。
 僕はただ、彼女に僕の、このどうしようもない弱さの本当の理由を知ってほしかったのだ。

 やがて柚希は、ゆっくりと、本当にゆっくりとこちらを振り返った。
 その大きな瞳は、驚きと、そして深い後悔の色で潤んでいた。
「……あたしこそ」
 彼女の声はか細く、そして、罪悪感で張り裂けんばかりに震えていた。
「あたしこそ、ごめん。……ごめんなさい!」
 柚希はそう言うと、わっと顔を覆った。その指の隙間から、ぽろぽろと、熱い涙が堰を切ったようにこぼれ落ちていく。
「ひどいこと、言った……。最低だ、あたし……。ハルが、そんな辛い思いしてたなんて、知らなかった。何も、何も知らなかったくせに! あたし、自分の焦りとか、不安とか、醜い気持ち、全部ハルに、一番ぶつけちゃいけないハルにぶつけちゃったんだ!」
 彼女は嗚咽を漏らしながら、自分の本当の弱さを僕に見せてくれた。
「怖かったんだよ、あたしも! 七海ちゃんがいなくなっちゃうんじゃないか、ハルが遠い、あたしの知らないどこかに行っちゃうんじゃないかって、全部、全部、失ってしまうのが怖くて、怖くて! ハルがあたしの知らない、七海ちゃんだけの、優しい特別な顔をしてるのが、悔しくて! あたし、本当に、醜いっ!」
 僕たちはお互いに、自分の一番見せたくなかった弱くてみっともない裸の心を、全てを洗い流すかのような、夕暮れの川辺で、晒し合っていた。

 やがてどちらからともなく、僕たちはふっと笑っていた。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったひどい顔の、でも心の底からの、どうしようもなく温かい笑いだった。
 全ての意地も、見栄も、誤解も、後悔も。涙と一緒にこの川が、どこか遠い海へと流してくれたかのようだった。
 僕と柚希は、そっと川辺の草むらに、隣り合って腰を下ろした。もう、僕たちの間に不自然な距離はなかった。
「……私たち、似てるのかもね」
 柚希が、まだ鼻をすすりながら言った。
「意地っ張りで、強がりで……そのくせ本当は、怖くて怖くて仕方ない、ただの弱虫。……すごく、不器用なとこ」
「……かもな」
 僕は頷いた。
 そうだ。僕たちは似ているのだ。
 僕は、沈黙という武器と言葉の影に隠れる弱虫。
 柚希は、快活さという虚像に隠れる弱虫。
 大切なものを失うのが、ただ怖くてたまらない。不器用でどうしようもない、同じ種類の弱虫なのだ。
 そのどうしようもない弱さを、僕たちはこの日、この瞬間、初めて分かち合うことができた。
 僕たちの間にあった分厚い壁は、完全になくなっていた。以前よりもずっと強くて、決して壊れることのない、本物の絆が生まれたような気がした。

 夕日が、最後の美しい燃えるような輝きを放ち、空と川面をオレンジ色、紫色とが混じり合った、神々しい色合いに染め上げていく。
 あまりにも美しい、世界の終りのようでもあり始まりのようでもある光景の中で、柚希が立ち上がり、僕の目をまっすぐに見て言った。
 その瞳には、迷いも怒りもなかった。ただ強く、そして、どこまでも澄み切った決意が宿っている。
「ハル。七海ちゃんのために、あたしたちにできること全部やろう」
「……うん」
 僕も立ち上がり、力強く頷いた。
「もう、喧嘩してる時間なんて、あたしたちには一秒もない。ハルの、その誰よりも優しい言葉の力と、あたしの、体力しか取り柄のない行動力と。……二人なら、きっと最強だよ」
 柚希は悪戯っぽくにっと笑って、自分の力こぶを作ってみせた。
「だから、まずは諦めてたあの夏祭り。絶対、絶対七海ちゃんを連れていきたいの! 医者がダメなら、あたしたちが奇跡を起こすの!」
 根拠なんて何もない。
 でも、僕たちはもう信じることができた。二人なら、この理不尽な運命に一矢報いることができるかもしれないと。
「分かった、連れていこう。僕たちの、やり方で。……僕が、物語を書き留める。でもその前に、僕も柚希と一緒に、その物語をこの手で作っていく」
 僕たちは強く頷き合った。
 いつの間にか、空には一番星が、小さく光を放ち始めていた。
 僕と柚希は、運命を、一つの、かけがえのない命を共に背負って戦う誓いを立てたのだ。
 僕たちの本当の夏は、今、ここから始まろうとしていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

モブの私が理想語ったら主役級な彼が翌日その通りにイメチェンしてきた話……する?

待鳥園子
児童書・童話
ある日。教室の中で、自分の理想の男の子について語った澪。 けど、その篤実に同じクラスの主役級男子鷹羽日向くんが、自分が希望した理想通りにイメチェンをして来た! ……え? どうして。私の話を聞いていた訳ではなくて、偶然だよね? 何もかも、私の勘違いだよね? 信じられないことに鷹羽くんが私に告白してきたんだけど、私たちはすんなり付き合う……なんてこともなく、なんだか良くわからないことになってきて?! 【第2回きずな児童書大賞】で奨励賞受賞出来ました♡ありがとうございます!

9日間

柏木みのり
児童書・童話
 サマーキャンプから友達の健太と一緒に隣の世界に迷い込んだ竜(リョウ)は文武両道の11歳。魔法との出会い。人々との出会い。初めて経験する様々な気持ち。そして究極の選択——夢か友情か。   (also @ なろう)

極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。

猫菜こん
児童書・童話
 私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。  だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。 「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」  優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。  ……これは一体どういう状況なんですか!?  静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん  できるだけ目立たないように過ごしたい  湖宮結衣(こみやゆい)  ×  文武両道な学園の王子様  実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?  氷堂秦斗(ひょうどうかなと)  最初は【仮】のはずだった。 「結衣さん……って呼んでもいい?  だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」 「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」 「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、  今もどうしようもないくらい好きなんだ。」  ……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。

魔法少女はまだ翔べない

東 里胡
児童書・童話
第15回絵本・児童書大賞、奨励賞をいただきました、応援下さった皆様、ありがとうございます! 中学一年生のキラリが転校先で出会ったのは、キラという男の子。 キラキラコンビと名付けられた二人とクラスの仲間たちは、ケンカしたり和解をして絆を深め合うが、キラリはとある事情で一時的に転校してきただけ。 駄菓子屋を営む、おばあちゃんや仲間たちと過ごす海辺の町、ひと夏の思い出。 そこで知った自分の家にまつわる秘密にキラリも覚醒して……。 果たしてキラリの夏は、キラキラになるのか、それとも? 表紙はpixivてんぱる様にお借りしております。

四尾がつむぐえにし、そこかしこ

月芝
児童書・童話
その日、小学校に激震が走った。 憧れのキラキラ王子さまが転校する。 女子たちの嘆きはひとしお。 彼に淡い想いを抱いていたユイもまた動揺を隠せない。 だからとてどうこうする勇気もない。 うつむき複雑な気持ちを抱えたままの帰り道。 家の近所に見覚えのない小路を見つけたユイは、少し寄り道してみることにする。 まさかそんな小さな冒険が、あんなに大ごとになるなんて……。 ひょんなことから石の祠に祀られた三尾の稲荷にコンコン見込まれて、 三つのお仕事を手伝うことになったユイ。 達成すれば、なんと一つだけ何でも願い事を叶えてくれるという。 もしかしたら、もしかしちゃうかも? そこかしこにて泡沫のごとくあらわれては消えてゆく、えにしたち。 結んで、切って、ほどいて、繋いで、笑って、泣いて。 いろんな不思議を知り、数多のえにしを目にし、触れた先にて、 はたしてユイは何を求め願うのか。 少女のちょっと不思議な冒険譚。 ここに開幕。

【完結】またたく星空の下

mazecco
児童書・童話
【第15回絵本・児童書大賞 君とのきずな児童書賞 受賞作】 ※こちらはweb版(改稿前)です※ ※書籍版は『初恋×星空シンバル』と改題し、web版を大幅に改稿したものです※ ◇◇◇冴えない中学一年生の女の子の、部活×恋愛の青春物語◇◇◇ 主人公、海茅は、フルート志望で吹奏楽部に入部したのに、オーディションに落ちてパーカッションになってしまった。しかもコンクールでは地味なシンバルを担当することに。 クラスには馴染めないし、中学生活が全然楽しくない。 そんな中、海茅は一人の女性と一人の男の子と出会う。 シンバルと、絵が好きな男の子に恋に落ちる、小さなキュンとキュッが詰まった物語。

中学生ユーチューバーの心霊スポットMAP

じゅん
児童書・童話
【第1回「きずな児童書大賞」大賞 受賞👑】  悪霊のいる場所では、居合わせた人に「霊障」を可視化させる体質を持つ「霊感少女」のアカリ(中学1年生)。  「ユーチューバーになりたい」幼なじみと、「心霊スポットMAPを作りたい」友達に巻き込まれて、心霊現象を検証することになる。  いくつか心霊スポットを回るうちに、最近増えている心霊現象の原因は、霊を悪霊化させている「ボス」のせいだとわかり――  クスっと笑えながらも、ゾッとする連作短編。

盲目魔女さんに拾われた双子姉妹は恩返しをするそうです。

桐山一茶
児童書・童話
雨が降り注ぐ夜の山に、捨てられてしまった双子の姉妹が居ました。 山の中には恐ろしい魔物が出るので、幼い少女の力では山の中で生きていく事なんか出来ません。 そんな中、双子姉妹の目の前に全身黒ずくめの女の人が現れました。 するとその人は優しい声で言いました。 「私は目が見えません。だから手を繋ぎましょう」 その言葉をきっかけに、3人は仲良く暮らし始めたそうなのですが――。 (この作品はほぼ毎日更新です)

処理中です...