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第20話 七海の心
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夜が来た。
消灯時間をとっくに過ぎた病室は、しんと深く静まり返っている。私、天野七海は、まるで世界にたった一人だけ、私一人だけが、ぽつんと取り残されてしまったかのような、海の底のに沈んでしまったような息苦しさを感じていた。
聞こえるのは、私の命のリズムを一秒、また一秒と正確に刻み続ける、心電図モニターのピッ、ピッという電子音だけ。それは、私の限られた時間の、あまりにも正確な残り時間を告げる子守唄。
窓の外には、大きな満月が浮かんでいた。
銀色の優しい光が天使の羽のように、この白い、清潔な消毒液の匂いしかしない無菌室の中へと、そっと差し込んでいる。その光に照らされて、窓辺に吊るされたガラスの風鈴がきらりと、一度だけ、夢を見るようにまたたいた。
明日は夏祭り。
武田先生が「奇跡だね」と、本当に驚いたような顔をしていた。そして自分のことのように、心から嬉しそうな顔で笑ってくれた。ほんの数時間だけれど、病院の外に出ることを許してもらえたのだ。
明日。
私に、まだ明日という、かけがえのない時間が残されていたんだ。
健康な子たちにとっては、明日なんて当たり前に、無限にやってくるものなのかもしれない。でも、私にとっての明日は、奇跡そのものだ。
今頃、春樹くんと柚希ちゃんは、興奮して眠れずにいるんだろうな。
春樹くんはきっと、物置から引っ張り出してきたお父さんの古いカメラを、柔らかい布で何度も、何度も祈るように磨いている。明日、どんな写真を撮ろうか。どんな言葉で、この一日を刻もうか。その真剣で、少しだけ眉間に皺を寄せた、愛おしい顔が目に浮かぶようだ。
柚希ちゃんは、きっとベッドの上で明日着るための浴衣を広げて、ああでもないこうでもないと、一人で、大声で、ファッションショーをしているに違いない。「あたしが七海ちゃんを、世界で一番可愛くしてやるんだから!」なんて、誰も見ていないのに、力こぶを作ったりして。
その光景を想像するだけで、私の胸の奥が温かい、どうしようもなく温かいものでいっぱいになって、少しだけ、きゅっと痛む。
私の、大好きでかけがえのない宝物。
私はそっと、ベッドの上で、冷たいシーツの上で手を組んだ。
そして、窓の向こうの、あまりにも美しい満月に向かって静かに祈る。
――神様、ありがとう。
また、私のわがままな、小さな願いを聞いてくれたんですね。
明日という、宝石よりももっと、ずっと、きらきらした一日を、また私にプレゼントしてくれて、本当に、本当に、ありがとう。
怖くないって言ったら嘘になる。
本当は、すごく、すごく怖い。
だんだん重くなっていくこの身体も。
時々、霧がかかったように遠くなっていく意識も。
いつか、この、ピッ、ピッ、ピッっていう命の音が、ぷつりと途絶えてしまうその瞬間も。
全部、怖い。
でも、一番怖いのは。
この世界から、私が消えてしまうことよりも、もっと、ずっと怖いのは。
みんなの心の中から、私という存在が消えてしまうこと。
春樹くんが、柚希ちゃんが、お父さんが、お母さんが、私のことを忘れてしまうこと。
天野七海という人間が、この世界に確かにいたことさえも、夏の終わりの淡い陽炎のように、なかったことになってしまうこと。
それが、一番怖い。消えてしまうよりも、忘れられる方が、ずっと、ずっと怖いんだ。
でもね、神様。
私、もう決めたんだ。
怖い、怖いって泣いてばかりいるのは、もうおしまい。
明日は、私の最後の戦いをするんだ。
この限られた命を、二人の中に永遠の記憶として留めてもらうための、たった一度の本当の戦い。
だから明日は、人生で一番笑うって。
りんご飴を食べて、ヨーヨー釣りをして。そして、夜空に咲く大きな、大きな花火を見上げて。
心から、お腹の底から、もうこれ以上笑えないっていうくらい、たくさん、たくさん笑うんだ。
そして、最高の思い出を二人の心の中に、深く刻みつけるの。焼き付けるの。
そうすればきっと、私は忘れられない。天野七海が確かに生きていたということを覚えていてもらえる。
春樹くん。
私の優しくて、不器用で、そして誰よりも強い心を持った、お日様みたいな春樹くん。
図書室で見せてくれたあなたの言葉が、私の、暗くて怖かっただけの色のない世界に、初めて光をくれた。あなたが、私の物語を書いてくれる。その約束が、今、私の一番のお守りだよ。
柚希ちゃん。
私の、快活で、めちゃくちゃで、そして誰よりも情に厚い、嵐みたいな柚希ちゃん。
病室で、あなたの美しい熱い涙が、私の、たくさんの言えなかった孤独を、全部洗い流してくれた。あなたが私の代わりに、この理不尽な世界に本気で怒ってくれた。そのことが、私を一人じゃないって思わせてくれた。
二人に会えて、私の人生はちゃんと意味があったよ。
たとえ他の子たちより、ずっと、ずっと短かったかもしれないけど、私の人生は誰にも負けないくらい、世界で一番幸せな物語だった。
本当に、心からありがとう。
私は、ゆっくりと目を開けた。
そして、月の光が銀色の道を床に作っている病室の何もない空間に向かって、誰に言うでもなく、そっと囁いた。
そこにもう一人同じように、この静かな夜の中で眠れずにいる誰かの孤独な気配を、ずっと前から感じていたんだ。
壁の向こうから、時折かすかに聞こえる咳の音。私と同じ、眠れない夜を過ごしている誰かさん。
「ねえ、そこにいるんでしょ?」
私の、声にならない問いかけ。
「私の物語、これで、終わりでいいのかな」
「ちゃんと、誰かの心の中に、忘れられないで残れるかな」
その、誰にも届かないはずの問いかけが月の光に溶けて、静まり返った廊下の闇へと吸い込まれていった。
消灯時間をとっくに過ぎた病室は、しんと深く静まり返っている。私、天野七海は、まるで世界にたった一人だけ、私一人だけが、ぽつんと取り残されてしまったかのような、海の底のに沈んでしまったような息苦しさを感じていた。
聞こえるのは、私の命のリズムを一秒、また一秒と正確に刻み続ける、心電図モニターのピッ、ピッという電子音だけ。それは、私の限られた時間の、あまりにも正確な残り時間を告げる子守唄。
窓の外には、大きな満月が浮かんでいた。
銀色の優しい光が天使の羽のように、この白い、清潔な消毒液の匂いしかしない無菌室の中へと、そっと差し込んでいる。その光に照らされて、窓辺に吊るされたガラスの風鈴がきらりと、一度だけ、夢を見るようにまたたいた。
明日は夏祭り。
武田先生が「奇跡だね」と、本当に驚いたような顔をしていた。そして自分のことのように、心から嬉しそうな顔で笑ってくれた。ほんの数時間だけれど、病院の外に出ることを許してもらえたのだ。
明日。
私に、まだ明日という、かけがえのない時間が残されていたんだ。
健康な子たちにとっては、明日なんて当たり前に、無限にやってくるものなのかもしれない。でも、私にとっての明日は、奇跡そのものだ。
今頃、春樹くんと柚希ちゃんは、興奮して眠れずにいるんだろうな。
春樹くんはきっと、物置から引っ張り出してきたお父さんの古いカメラを、柔らかい布で何度も、何度も祈るように磨いている。明日、どんな写真を撮ろうか。どんな言葉で、この一日を刻もうか。その真剣で、少しだけ眉間に皺を寄せた、愛おしい顔が目に浮かぶようだ。
柚希ちゃんは、きっとベッドの上で明日着るための浴衣を広げて、ああでもないこうでもないと、一人で、大声で、ファッションショーをしているに違いない。「あたしが七海ちゃんを、世界で一番可愛くしてやるんだから!」なんて、誰も見ていないのに、力こぶを作ったりして。
その光景を想像するだけで、私の胸の奥が温かい、どうしようもなく温かいものでいっぱいになって、少しだけ、きゅっと痛む。
私の、大好きでかけがえのない宝物。
私はそっと、ベッドの上で、冷たいシーツの上で手を組んだ。
そして、窓の向こうの、あまりにも美しい満月に向かって静かに祈る。
――神様、ありがとう。
また、私のわがままな、小さな願いを聞いてくれたんですね。
明日という、宝石よりももっと、ずっと、きらきらした一日を、また私にプレゼントしてくれて、本当に、本当に、ありがとう。
怖くないって言ったら嘘になる。
本当は、すごく、すごく怖い。
だんだん重くなっていくこの身体も。
時々、霧がかかったように遠くなっていく意識も。
いつか、この、ピッ、ピッ、ピッっていう命の音が、ぷつりと途絶えてしまうその瞬間も。
全部、怖い。
でも、一番怖いのは。
この世界から、私が消えてしまうことよりも、もっと、ずっと怖いのは。
みんなの心の中から、私という存在が消えてしまうこと。
春樹くんが、柚希ちゃんが、お父さんが、お母さんが、私のことを忘れてしまうこと。
天野七海という人間が、この世界に確かにいたことさえも、夏の終わりの淡い陽炎のように、なかったことになってしまうこと。
それが、一番怖い。消えてしまうよりも、忘れられる方が、ずっと、ずっと怖いんだ。
でもね、神様。
私、もう決めたんだ。
怖い、怖いって泣いてばかりいるのは、もうおしまい。
明日は、私の最後の戦いをするんだ。
この限られた命を、二人の中に永遠の記憶として留めてもらうための、たった一度の本当の戦い。
だから明日は、人生で一番笑うって。
りんご飴を食べて、ヨーヨー釣りをして。そして、夜空に咲く大きな、大きな花火を見上げて。
心から、お腹の底から、もうこれ以上笑えないっていうくらい、たくさん、たくさん笑うんだ。
そして、最高の思い出を二人の心の中に、深く刻みつけるの。焼き付けるの。
そうすればきっと、私は忘れられない。天野七海が確かに生きていたということを覚えていてもらえる。
春樹くん。
私の優しくて、不器用で、そして誰よりも強い心を持った、お日様みたいな春樹くん。
図書室で見せてくれたあなたの言葉が、私の、暗くて怖かっただけの色のない世界に、初めて光をくれた。あなたが、私の物語を書いてくれる。その約束が、今、私の一番のお守りだよ。
柚希ちゃん。
私の、快活で、めちゃくちゃで、そして誰よりも情に厚い、嵐みたいな柚希ちゃん。
病室で、あなたの美しい熱い涙が、私の、たくさんの言えなかった孤独を、全部洗い流してくれた。あなたが私の代わりに、この理不尽な世界に本気で怒ってくれた。そのことが、私を一人じゃないって思わせてくれた。
二人に会えて、私の人生はちゃんと意味があったよ。
たとえ他の子たちより、ずっと、ずっと短かったかもしれないけど、私の人生は誰にも負けないくらい、世界で一番幸せな物語だった。
本当に、心からありがとう。
私は、ゆっくりと目を開けた。
そして、月の光が銀色の道を床に作っている病室の何もない空間に向かって、誰に言うでもなく、そっと囁いた。
そこにもう一人同じように、この静かな夜の中で眠れずにいる誰かの孤独な気配を、ずっと前から感じていたんだ。
壁の向こうから、時折かすかに聞こえる咳の音。私と同じ、眠れない夜を過ごしている誰かさん。
「ねえ、そこにいるんでしょ?」
私の、声にならない問いかけ。
「私の物語、これで、終わりでいいのかな」
「ちゃんと、誰かの心の中に、忘れられないで残れるかな」
その、誰にも届かないはずの問いかけが月の光に溶けて、静まり返った廊下の闇へと吸い込まれていった。
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