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第21話 フィナーレに向けて
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――私の物語、これで、終わりでいいのかな。
――ちゃんと、誰かの心の中に、忘れられないで残れるかな。
その、誰にも届かないはずだった私のか細い問いかけが、月の光に溶けて、静まり返った廊下の闇へと吸い込まれていった、その時だった。
「それは、君が決めることだ」
声がした。
それは、とても落ち着いた静かな声だった。男の子の声。でも、春樹くんの優しさが滲む声とは違う。もっと、年が近いようでいて、ずっと遠い場所から響いてくるような不思議な声。この部屋の中で響いているというよりは、私の頭のもっと奥深く、心に直接語りかけてくるようだった。
夢……なのかもしれない。きっと、そう。夏祭りが楽しみすぎて、嬉しい夢でも見ているんだ。それとも、お薬のせいで幻聴でも聞こえているのかな。そうに決まってる。だってこんな夜中に、この部屋に誰かがいるはずなんて……。
私は、はっとして声がした、窓の方を見上げた。
そこに、少年が座っていた。
開け放たれた窓の窓枠に、ずっとそこが彼の指定席だったかのように、ごくごく自然に、腰掛けていた。
違う。座っているというよりは、月の光そのものが人の形に、ゆっくりと集まってできているかのようだった。満月のあまりにも強い光をその背に受けて、少年の輪郭はぼんやりと、銀色に淡く発光している。
風が、そっと病室に吹き込んで、月光と同じ色をした銀色の髪を、優しく揺らした。髪というよりは、光の繊維か、あるいは細い煙のように繊細だった。その身体には、あるはずの影がない。着ている服も病院のパジャマのようでもあり、もっと、ずっと昔の、誰かの寝間着のようでもあった。
静かな瞳。
その瞳はただ、静かに私を見つめている。春樹くんや柚希ちゃんとは全く違う種類の、この世の全ての時間から切り離されて、たった一人だけ時が止まってしまったかのような、不思議な雰囲気を持った少年だった。
不思議と、恐怖は少しも感じなかった。
この深夜の病室にありえない方法で現れた、このありえない存在に対して、私の心はただ静まり返っていた。
「……あなたは、誰?」
私は、囁くように尋ねた。
少年は、その姿勢を少しも崩さずに答えた。
「僕は、陽翔。佐久間陽翔」
「陽翔……くん?」
「うん」
彼は、小さく頷いた。そして続けた。
「僕は、忘れられた物語が、集まる場所にいる」
忘れられた、物語。
あまりにも詩的で、あまりにも悲しい言葉に、私は次の言葉を失った。
陽翔くんは、そんな私に穏やかに語りかける。
「本棚の隅で、誰にももう読まれなくなってしまった、古い物語の本。でも、そのインクの文字は消えずに残っている。誰かが、心を込めて紡いだその物語は、確かに、そこに存在しているんだ。……僕は、そういう静かな場所にいる。この病院も、そういう場所の一つだよ。終わっていく物語。誰にも読まれずに、そっと閉じられていく物語が、たくさん、たくさん眠っているから。ピアノの発表会の前に、指を怪我してしまった女の子の物語。たった一度でいいから、本物の飛行機に乗りたかった、飛行機博士の男の子の物語。彼らの物語に派手さはない。でもね、決して、人の心を震わせない、意味のない物語ではないんだ。僕には、その物語の鼓動が聞こえるんだよ」
優しい比喩の言葉が、少しだけ乾いていた私の心に、すっと染み入ってきた。
「君の、誰かの記憶に残りたいという強い願いが、僕をここに呼んだんだよ。君の物語は、忘れられることを必死に拒んでいる。だから、君に僕の姿が見える。僕の声が君に聞こえる」
私の願いが。
私が、忘れられたくないと心の底から願ったから。
この不思議な少年は、私の前に現れてくれた。
「でも……私の物語は、きっとつまらないよ。ほとんどの時間を、この白い部屋で過ごしただけだもの」
私の口から、思わず弱音がこぼれた。
陽翔くんは、静かに首を横に振った。
「物語の価値は、その長さや、舞台の広さでは決まらない。その物語が、どれだけ深く、心を揺さぶるかで決まるんだ。君は、この一つの窓から、たくさんの旅人が一生かかっても見られないような、いろんな空の色を見てきたね。たった一日のうちに、たくさんの人が一生かかっても感じられないような、深い喜びと悲しみを感じてきたね。君の物語は、つまらなくなんかない。……それは、凝縮されているだけだ。君の物語は、海の、たった一滴の雫のように濃密なだけさ」
海の、たった一滴。その言葉は魔法のように、私のちっぽけな人生を肯定してくれた。
「僕は、結末を変えることはできない」
陽翔くんは、はっきりと言った。
その言葉は残酷な宣告のようでいて、不思議と、私の心をすとんと落ち着かせた。彼は私に、安易な嘘の希望を与えたりはしない。
「君の物語の、最後のページを書き換えることは僕にはできない。それは、神様の領域だからね。僕にできるのは、そんな大それた魔法じゃないよ」
彼は続けた。
「でも、君の物語の読み手になることはできる」
「……読み手?」
「そう。多くの物語は、結末を作者に決められてしまう。でも、人の命という物語は違うんだ。最後の、最後の瞬間まで、その主人公がどんな顔で笑い、どんな言葉を遺すのか。それを自分で決めることができる。最後の章を自分で、たった一人で、書き上げることができるんだ。君は幸運だよ。君の物語には、素晴らしい書き手と、そして誰よりも力強い守り手がいる」
書き手と守り手。春樹くんと、柚希ちゃんのことだ。
「君は、どんな結末を選びたい? どんな物語を、この世界に遺したい?」
最後の章を自分で。
その言葉は新しい光のように、私の心の中を隅々まで照らした。
私はもう、ただ運命に流されるだけのか弱いヒロインじゃない。自分の物語の結末を、自分で選ぶことができる、主人公なんだ。
初めて、自分のこのどうしようもない運命を、本当の意味で理解し、そして、受け入れてくれる存在に出会えたような、そんな不思議安堵感を覚えていた。
「……ありがとう」
私の口から、自然と感謝の言葉がこぼれ落ちていた。
「見ていてくれる? 私の、たった一度の夏祭りを。……私の、物語の最終章を」
それは、私が私という物語の書き手としての誇りを懸けた、たった一人の読者へのお願い。
陽翔くんは、時が止まったような静かな瞳で、私をまっすぐに見つめ返す。そして、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。君の物語の、最高の読み手になることを約束するよ。一文字も、一瞬の笑顔も、一粒の涙も、僕は絶対に見逃したりはしない」
月の光が、そんな私たち二人を、舞台の上で最も重要な場面を演じようとする主役たちを照らすスポットライトのように、優しく、静かに照らし続けていた。
ピッ、ピッ、ピッ、という、私の命のメトロノームが、最後の物語の開始を告げていた。
――ちゃんと、誰かの心の中に、忘れられないで残れるかな。
その、誰にも届かないはずだった私のか細い問いかけが、月の光に溶けて、静まり返った廊下の闇へと吸い込まれていった、その時だった。
「それは、君が決めることだ」
声がした。
それは、とても落ち着いた静かな声だった。男の子の声。でも、春樹くんの優しさが滲む声とは違う。もっと、年が近いようでいて、ずっと遠い場所から響いてくるような不思議な声。この部屋の中で響いているというよりは、私の頭のもっと奥深く、心に直接語りかけてくるようだった。
夢……なのかもしれない。きっと、そう。夏祭りが楽しみすぎて、嬉しい夢でも見ているんだ。それとも、お薬のせいで幻聴でも聞こえているのかな。そうに決まってる。だってこんな夜中に、この部屋に誰かがいるはずなんて……。
私は、はっとして声がした、窓の方を見上げた。
そこに、少年が座っていた。
開け放たれた窓の窓枠に、ずっとそこが彼の指定席だったかのように、ごくごく自然に、腰掛けていた。
違う。座っているというよりは、月の光そのものが人の形に、ゆっくりと集まってできているかのようだった。満月のあまりにも強い光をその背に受けて、少年の輪郭はぼんやりと、銀色に淡く発光している。
風が、そっと病室に吹き込んで、月光と同じ色をした銀色の髪を、優しく揺らした。髪というよりは、光の繊維か、あるいは細い煙のように繊細だった。その身体には、あるはずの影がない。着ている服も病院のパジャマのようでもあり、もっと、ずっと昔の、誰かの寝間着のようでもあった。
静かな瞳。
その瞳はただ、静かに私を見つめている。春樹くんや柚希ちゃんとは全く違う種類の、この世の全ての時間から切り離されて、たった一人だけ時が止まってしまったかのような、不思議な雰囲気を持った少年だった。
不思議と、恐怖は少しも感じなかった。
この深夜の病室にありえない方法で現れた、このありえない存在に対して、私の心はただ静まり返っていた。
「……あなたは、誰?」
私は、囁くように尋ねた。
少年は、その姿勢を少しも崩さずに答えた。
「僕は、陽翔。佐久間陽翔」
「陽翔……くん?」
「うん」
彼は、小さく頷いた。そして続けた。
「僕は、忘れられた物語が、集まる場所にいる」
忘れられた、物語。
あまりにも詩的で、あまりにも悲しい言葉に、私は次の言葉を失った。
陽翔くんは、そんな私に穏やかに語りかける。
「本棚の隅で、誰にももう読まれなくなってしまった、古い物語の本。でも、そのインクの文字は消えずに残っている。誰かが、心を込めて紡いだその物語は、確かに、そこに存在しているんだ。……僕は、そういう静かな場所にいる。この病院も、そういう場所の一つだよ。終わっていく物語。誰にも読まれずに、そっと閉じられていく物語が、たくさん、たくさん眠っているから。ピアノの発表会の前に、指を怪我してしまった女の子の物語。たった一度でいいから、本物の飛行機に乗りたかった、飛行機博士の男の子の物語。彼らの物語に派手さはない。でもね、決して、人の心を震わせない、意味のない物語ではないんだ。僕には、その物語の鼓動が聞こえるんだよ」
優しい比喩の言葉が、少しだけ乾いていた私の心に、すっと染み入ってきた。
「君の、誰かの記憶に残りたいという強い願いが、僕をここに呼んだんだよ。君の物語は、忘れられることを必死に拒んでいる。だから、君に僕の姿が見える。僕の声が君に聞こえる」
私の願いが。
私が、忘れられたくないと心の底から願ったから。
この不思議な少年は、私の前に現れてくれた。
「でも……私の物語は、きっとつまらないよ。ほとんどの時間を、この白い部屋で過ごしただけだもの」
私の口から、思わず弱音がこぼれた。
陽翔くんは、静かに首を横に振った。
「物語の価値は、その長さや、舞台の広さでは決まらない。その物語が、どれだけ深く、心を揺さぶるかで決まるんだ。君は、この一つの窓から、たくさんの旅人が一生かかっても見られないような、いろんな空の色を見てきたね。たった一日のうちに、たくさんの人が一生かかっても感じられないような、深い喜びと悲しみを感じてきたね。君の物語は、つまらなくなんかない。……それは、凝縮されているだけだ。君の物語は、海の、たった一滴の雫のように濃密なだけさ」
海の、たった一滴。その言葉は魔法のように、私のちっぽけな人生を肯定してくれた。
「僕は、結末を変えることはできない」
陽翔くんは、はっきりと言った。
その言葉は残酷な宣告のようでいて、不思議と、私の心をすとんと落ち着かせた。彼は私に、安易な嘘の希望を与えたりはしない。
「君の物語の、最後のページを書き換えることは僕にはできない。それは、神様の領域だからね。僕にできるのは、そんな大それた魔法じゃないよ」
彼は続けた。
「でも、君の物語の読み手になることはできる」
「……読み手?」
「そう。多くの物語は、結末を作者に決められてしまう。でも、人の命という物語は違うんだ。最後の、最後の瞬間まで、その主人公がどんな顔で笑い、どんな言葉を遺すのか。それを自分で決めることができる。最後の章を自分で、たった一人で、書き上げることができるんだ。君は幸運だよ。君の物語には、素晴らしい書き手と、そして誰よりも力強い守り手がいる」
書き手と守り手。春樹くんと、柚希ちゃんのことだ。
「君は、どんな結末を選びたい? どんな物語を、この世界に遺したい?」
最後の章を自分で。
その言葉は新しい光のように、私の心の中を隅々まで照らした。
私はもう、ただ運命に流されるだけのか弱いヒロインじゃない。自分の物語の結末を、自分で選ぶことができる、主人公なんだ。
初めて、自分のこのどうしようもない運命を、本当の意味で理解し、そして、受け入れてくれる存在に出会えたような、そんな不思議安堵感を覚えていた。
「……ありがとう」
私の口から、自然と感謝の言葉がこぼれ落ちていた。
「見ていてくれる? 私の、たった一度の夏祭りを。……私の、物語の最終章を」
それは、私が私という物語の書き手としての誇りを懸けた、たった一人の読者へのお願い。
陽翔くんは、時が止まったような静かな瞳で、私をまっすぐに見つめ返す。そして、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。君の物語の、最高の読み手になることを約束するよ。一文字も、一瞬の笑顔も、一粒の涙も、僕は絶対に見逃したりはしない」
月の光が、そんな私たち二人を、舞台の上で最も重要な場面を演じようとする主役たちを照らすスポットライトのように、優しく、静かに照らし続けていた。
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