空を泳ぐ金魚

空-kuu-

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第22話 記憶の旅

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 夏祭りの朝。
 病室の窓から差し込む光はいつもと同じはずなのに、今日はまるで、この日のためだけに特別に空から届けられた、祝福のスポットライトみたいに、きらきらと輝いて見えた。
 遠くからお囃子の練習の音が、風に乗って聞こえてくる。どこか間の抜けた、でも、心をどうしようもなく陽気にさせるリズムが、私の胸を優しく、少しだけくすぐったく撫でていく。
 ピッ、ピッ、ピッ、という、私の命のメトロノームさえも、今日はどこか浮き足立っているように感じる、楽しげな、お祭りのリズムを刻んでいるようだ。
 コンコンと、控えめなノックの音。そして、返事を待ちきれなかったかのように、勢いよく病室のドアが開いた。
「七海ちゃん、おっはよー! 見て見て見て見て、じゃーーーん!」
 そこに立っていたのは、嵐みたいな私の親友、柚希ちゃんだった。その腕には、大きな、宝箱のような、美しい風呂敷包みが大切そうに抱えられている。
「今年の最新最強モデル! 七海ちゃんのために、あたしがお母さんと一緒に、三日三晩寝ずに選んだ最高の浴衣だよ!」
 柚希ちゃんはそう言うと、風呂敷を解き、ベッドの上にふわりと一枚の浴衣を広げた。
 それは、夜明け前のほんのりと紫がかった空のような美しい白地に、曙色と金色の、大小さまざまな金魚たちが楽しそうに、そして、命の限り優雅に泳ぎ回っている柄の、息をのむほど可愛らしい浴衣だった。
「……きれい」
 私の口から、思わずため息がこぼれた。
「でしょー! さあ、着るよ! あたしが七海ちゃんを、この世で一番可愛いお姫様にしてあげる! 夏祭りに浴衣はマストだからね」
 柚希ちゃんは、これから一大事業でも始めるかのように、きりりと腕まくりをして、私の支度を手伝い始めた。彼女の、いつもは少しだけ乱暴なはずの指先が、今日だけは、壊れやすいガラス細工にでも触れるかのように、驚くほど優しく、慎重だった。
 ひんやりとした真新しい浴衣の生地が、病院着に慣れてしまった私の肌をそっと撫でる。その、少しだけざらりとした感触が、私に、私がまだ、この世界とちゃんと繋がっていることを教えてくれた。

 賑やかで、どこまでも幸福な喧騒の中。
 部屋の隅のパイプ椅子に、陽翔くんがいつの間にか座っていた。
 彼はただ、静かにそこにいて、微笑むでもなく悲しむでもなく、ただ、全ての光景を、その水面のように静かな瞳に映している。
 もちろん柚希ちゃんには、彼の姿は見えていない。彼女は時々、陽翔くんがいる辺りを見て、「あれ、なんかこの辺ひんやりしない? 霊的なやつ? 守護霊様かな?」なんて、的外れなことを言って、一人で鳥肌を立てているだけ。
 柚希ちゃんが私の髪を、慣れない手つきで、でも、すごく、すごく丁寧に結ってくれている。柘植の櫛が、私の少しだけ細くなってしまった髪を、慈しむように梳いていく。その、優しい音を聞きながら、私は、心の中で静かに、私のたった一人の読み手に問いかけた。

――ねえ、陽翔くん。人は死んだら、本当にどこかへ行ってしまうの?

 私の問いかけに、陽翔くんは、心の中で静かに応えてくれる。

――肉体は、土に還るさ。それは、どんな生き物も、どんな星も同じだ。いつか形を失って、宇宙の塵になる。でもね、その人が、その人生で紡いだ物語は、決して消えたりはしないよ。

 柚希ちゃんが私の髪に、小さな金魚の形をした、赤い珊瑚のような髪飾りをそっとつけてくれる。
「よし、可愛い! 超似合ってる! 天才か、あたし! この金魚はお守りだからね。今日の七海ちゃんのこと、ちゃんと守ってくれるから」
 嬉しそうな声を聞きながら、私は陽翔くんの言葉の続きを待つ。

――物語は、旅をするんだ。誰かの記憶の中を。君が、春樹くんや柚希ちゃんの心に残した言葉や、笑顔や、涙のようにね。彼らが君を思い出すたびに、君の物語は、彼らの心の中でもう一度色鮮やかに再生される。君は彼らの記憶の中で、彼らが生きている限り、永遠に生き続けるんだ。

 そっか。記憶の中を旅するんだ。
 なんて素敵な、終わらない旅なんだろう。私は、いびつなおにぎりの、塩辛い味を思い出す。屋上の、強すぎる日差しを思い出す。その一つひとつが、小さな、小さな光の種になって、春樹くんと柚希ちゃんの心の大地に植えられていく。

――良い物語はね、時々、それを読んだ読み手の人生を変えてしまうことさえあるんだよ」

 陽翔くんの言葉が、私の心の一番深い場所に、温かい光となって染み渡っていく。

「君の、その短く、でも、誰よりも懸命に生きた物語は、きっと誰かの勇気になるはずだよ。君のその、最後の最後まで諦めなかった笑顔は、きっと誰かの光になるはずだ。君が春樹くんに、柚希ちゃんに遺すものは、悲しい思い出だけじゃない。自分の本当の気持ちを隠していた少年が、君の物語を紡ぐことで本当の自分を見つける勇気を得る。弱さを隠していた少女が、君の涙に触れることで本当の強さを知る。君の物語は終わらない。彼らの物語の一部になって、彼らの血となって、肉となって、続いていくんだ。だから胸を張って、君のクライマックスを演じるといい。君はもう、ただのか弱いヒロインなんかじゃないはずだよ。君はこれから、誰かの勇気そのものになるんだから」

 その言葉を聞くと、私の心の中から、小さな恐怖のかけらがすうっと消えてなくなった。
 そうだ。
 私は、私の物語を完成させるんだ。
 最高の、最高の最終章を、これからこの手で作り上げるんだ。

「……できた!」
 柚希ちゃんの達成感に満ちた声で、私は、はっと我に返った。
「見てみなよ、七海ちゃん! 世界で一番可愛いよ!」
 柚希ちゃんが、鏡を私の目の前に差し出す。
 鏡の中に映った金魚柄の浴衣を着た私は、少しだけ頬はこけて、肌も青白く透き通っているけれど、自分でも見たことのないくらい少しだけ大人びて、そして、不思議なほど凛として見えた。
 ただ、浴衣を着たからというだけではない。
 覚悟を決めた、物語の主人公の顔をしていたからだ。

 コンコン。
 控えめなノックの音。
「……七海? 準備、できた?」
 ドアの向こうから、春樹くんの少しだけ緊張した声が聞こえる。
 柚希ちゃんがにっと笑って、舞台の幕を開けるようにドアを開けた。
「お待たせしました、書き手先生! 世界で一番美しい物語の、ヒロインのご登場ですよ!」
 ドアの前に立っていた、少しだけおめかしした紺色の甚平姿の春樹くんは、私の姿を見ると、一瞬息をのんで、そして、今まで見たこともないくらい、顔を夕焼けみたいに真っ赤にした。
 彼は照れくさそうに、でも、まっすぐに私の目を見つめて、右手をそっと差し伸べてくれた。その手は、少しだけ震えていた。
「……行こう、七海」
 不器用だ。でも、世界で一番優しい声。
 少しだけ汗をかいた、温かい手。
 私はその手を強く握り返した。この手は、私の物語を未来へと運んでくれる大切な手だ。
 そして私は、私の人生でこれ以上ないくらいの、満開のひまわりのような笑顔で彼に答えた。
「うん!」

――陽翔くん、見ていてね。私の、最高のエンディングを。

 私の、たった一度の夏祭り。
 私の、物語の最終章が幕を開けた。
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