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第3話 七海のお楽しみノート
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朝のホームルームが始まる前の、独特の気だるい喧騒。友達の宿題を大声で写す男子生徒。昨晩のアイドルの歌番組について熱っぽく語り合う女子生徒たち。その全てが、僕にとっては異国の言葉のように意味をなさない。机の上で開いた、文庫本の活字に閉じこもり、言葉の洪水から必死に身を守っていた。
だが、普段は強固なその防壁は、今日に限っては驚くほど脆かった。
心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
昨日、耳に飛び込んで来た、「明日、転校生来るってよ!」というその一言が、僕の中で、二つの相反する感情を育てていた。
一つは、期待。あの少女が、僕の日常に、この色褪せた教室にやってくるかもしれないという、ありえない奇跡への淡い期待。彼女がいれば、この息苦しいだけの世界も、少しは色づくのかもしれない。
そしてもう一つは、恐怖。もし本当に彼女が来たら、僕が必死に守ってきたこの静かな世界、傷つくことのない安全な日常はどうなってしまうのだろう。彼女は、僕の静かな世界を根こそぎ破壊する嵐のような存在かもしれないのだ。
期待と恐怖。その二つが、僕の心臓を交互に締め付ける。
「はい、みんな席についてー」
担任の村井先生の、いつもと変わらない穏やかな声が響く。
「今日は、みんなに新しい仲間を紹介します。さあ、入ってきて」
教室中の視線が、一本の光線のように、教室の入り口の扉に集中する。僕も、本から顔を上げた。息が、できない。
軋むような音を立てて、扉が開く。
そして、彼女はそこにいた。
光を連れて、僕たちの教室に現れた。
白いブラウスに、落ち着いた色のチェックのスカート。一昨日、屋上で見た、現実離れした白いワンピース姿とは違う、ごく普通の服装。それなのに、いや、それだからこそ、彼女の存在が放つ非日常性が、より一層際立って見えた。廊下から差し込む初夏の強い光が、まるで彼女のためだけのスポットライトのように、その柔らかな髪を透かし、金色に輝かせている。
教室が大きく、そして深くどよめいた。単なる好奇心ではない。抗うことのできない、圧倒的な存在を前にした時の、畏敬にも似たどよめきだった。
屋上の少女だ。
僕は自分の席で、まるで彫像のように固まっていた。
彼女は村井先生に促され、ゆっくりと教壇の前に立った。その一挙手一投足を、教室中の誰もが息を殺して見守っている。村井先生が、彼女の肩にそっと手を置く。その眼差しが、ただ新しい生徒に向けるものではなく、何か特別な慈しみと、そして痛みをこらえるような優しさに満ちていることに、気づいたのは、おそらく僕だけだっただろう。
彼女は、村井先生に小さく頷くと、一本のチョークを手に取った。その驚くほど白い指先が、黒板に、流れるような美しい文字を綴り始める。
「天野七海です」
凛とした、鈴の音のような声。それは、教室の喧騒を浄化するような、不思議な力を持っていた。
「七つの“七”に海の“海”って書きます」
彼女は、自分の名前に込められた風景を、僕たちに手渡すように言った。七つの海。その壮大な名前。
「この潮見ヶ丘の、海と、空と、そして風が大好きです」
そう言って、彼女はふわりと笑った。その瞬間、教室の窓から祝福するかのように、さあっと強い風が吹き込み、彼女の髪を優しく揺らした。誰もがその光景に、魔法のような美しさを見た。
だが、その魔法は、彼女自身の次の言葉で、ほんの少しだけ、現実の切ない色を帯びた。
「……体のことで、みんなに、たくさん迷惑をかけるかもしれません。ごめんなさい」
その一言で、クラスの浮ついた空気が、ぴんと張り詰める。迷惑……体のこと……誰もが、その言葉の裏にある意味を探ろうと、互いの顔を見合わせる。
「だから、いられるのは三ヶ月の間だけだけど……どうぞ、よろしくお願いします」
三ヶ月。
その、あまりに具体的で、そしてあまりに短い期間を示す言葉が、僕の胸に深く、深く突き刺さった。
最初の休み時間は、熱狂という名の嵐だった。
七海の席の周りには、あっという間に幾重もの人垣ができていた。その輪の中心で、台風の目のように君臨しているのは、やはり月村柚希だった。
「ねえねえ、天野さん、どこから来たの?」
「好きな食べ物は?」
「彼氏とかいるのー?」
柚希の快活な質問に、七海は一つひとつ、楽しそうに答えている。その笑顔は、誰をも魅了する太陽のようだった。
僕は、自分の席から一歩も動けずに、その光景を違う国の出来事のように眺めていた。僕と彼女の間には、たった数メートルの距離しかない。なのにその距離は、決して渡ることのできない、深く冷たい河のように、絶望的に横たわっていた。
その時だった。七海が自分のカバンから、一冊のくたびれたノートを取り出した。
それは、新品のノートではなかった。表紙には、淡い水彩絵の具で描かれたような、大きな雲の絵。クレヨンか何かで、子供が一生懸命描いたような、少しだけ拙いタッチの絵だ。角は丸く擦り切れ、ところどころに、何の染みか判別できない、微かな跡も残っている。彼女が長い時間、ずっと大切に抱きしめてきたであろうことが、一目でわかった。
「天野さん、それ、日記?」
目ざとく見つけた柚希が尋ねる。
七海は、秘密を打ち明ける子供のように、人差し指を自分の唇に当てると、にっこりと笑って首を振った。
「ううん。これはね、お楽しみノート」
その特別なネーミングに、周りの誰もが「何それ?」と身を乗り出す。
七海はそのノートを、大切に温めてきた宝物を扱うかのように、そっと開いた。
「私がこの町で、この三ヶ月の間にやりたいことリストだよ」
覗き込んだクラスメイトたちが、わっと声を上げる。そこには、子供らしい、少しだけ丸みを帯びた文字で、きらきらした、そしてどこか切ない願い事がたくさん並んでいた。
『① 潮見ヶ丘の駄菓子屋で、百円玉を握りしめてお菓子を買う』
『② 放課後の誰もいない校庭で、風と一緒に走る』
『③ この町で一番高い、駅前の観覧車に乗る』
『④ 自分でにぎった、いびつな形のおにぎりを、海を見ながら食べる』
そのリストの片隅に、他よりもずっと小さな文字で、こうも書かれていた。
『いつか、飛行機よりも高いところから、空を泳ぐ金魚たちを見てみたい』
リストは、彼女のささやかな日常への憧れと、決して叶いそうにない壮大な夢とが同居する、不思議なものだった。
七海は、クラスメイトたちの顔をぐるりと見渡すと、少しだけはにかむように言った。
「でも、一人じゃできないこともあるから……みんな、手伝ってくれると嬉しいな」
その純粋な呼びかけに、教室は再び、幸福な熱狂に包まれた。
「面白そう!」
「やろうぜ、やろうぜ!」
「観覧車、俺が案内する!」
男子たちは、目の前の可憐な少女の騎士になるため、我先にと名乗りを上げる。
だが、その熱狂の輪の中で、一部の女子生徒たちが、少しだけ冷ややかな、嫉妬の混じった視線を七海に向けていることに、僕は気づいていた。そして、その視線に気づいたからこそ、僕の心の中に、守りたいという、今まで感じたことのない感情が宿ったことも。
僕だけが、その熱狂の輪から弾き出されたように取り残されていた。
声が出ない。一歩が、踏み出せない。僕は、こんなにも勇気がない人間だったのか。
永遠よりも長く感じられた瞬間。
たくさんの笑顔と好奇心に囲まれているはずの七海の瞳から、ふっと光が消えた。誰にも向けられていない、どこか遠くを見つめるような、深い寂しさの色が、その瞳の奥に一瞬だけ、よぎった。
その瞬間を、熱狂の輪の外にいた僕だけが見てしまった。
そして、まるで救いを求めるかのように、その寂しげな瞳が、幾重にも重なる人垣の向こうから、まっすぐに僕を探し当てた。
視線が、絡み合う。
時間が、止まった。周りの喧騒が、潮が引くように遠ざかっていく。世界に、僕と彼女の二人だけしかいないかのような濃密な静寂。
彼女の唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。それは、他の誰にも向けられていない、僕だけに向けられた、秘密の、そして少しだけ助けを求めるような微笑み。
彼女は、まるで「あなただけは、わかってくれるよね?」とでも言うかのように、小さく、こくりと、一度だけ頷いた。
誰にも気づかれない、たった一瞬の合図。
でも、その合図は、どんな雄弁な言葉よりも強く、僕の心の奥深く、一番柔らかい場所に、まっすぐに届いた。
疎外感という名の分厚い氷に亀裂が走る。そこから、温かく、そして少しだけ切ない光が、どうしようもなく溢れ出してくる。
自分の胸が、ちりちりとした痛みと、それ以上に大きな、名前のつけようのない喜びで、きゅっと締め付けられるのを感じていた。
これはもう、逃れることのできない、運命なのだと。
退屈で静かだった夏が、この日、この瞬間に終わりを告げ、そして、生涯忘れることのできない、たった三ヶ月の特別な季節が始まろうとしている。そのことを僕は、確信していた。
だが、普段は強固なその防壁は、今日に限っては驚くほど脆かった。
心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
昨日、耳に飛び込んで来た、「明日、転校生来るってよ!」というその一言が、僕の中で、二つの相反する感情を育てていた。
一つは、期待。あの少女が、僕の日常に、この色褪せた教室にやってくるかもしれないという、ありえない奇跡への淡い期待。彼女がいれば、この息苦しいだけの世界も、少しは色づくのかもしれない。
そしてもう一つは、恐怖。もし本当に彼女が来たら、僕が必死に守ってきたこの静かな世界、傷つくことのない安全な日常はどうなってしまうのだろう。彼女は、僕の静かな世界を根こそぎ破壊する嵐のような存在かもしれないのだ。
期待と恐怖。その二つが、僕の心臓を交互に締め付ける。
「はい、みんな席についてー」
担任の村井先生の、いつもと変わらない穏やかな声が響く。
「今日は、みんなに新しい仲間を紹介します。さあ、入ってきて」
教室中の視線が、一本の光線のように、教室の入り口の扉に集中する。僕も、本から顔を上げた。息が、できない。
軋むような音を立てて、扉が開く。
そして、彼女はそこにいた。
光を連れて、僕たちの教室に現れた。
白いブラウスに、落ち着いた色のチェックのスカート。一昨日、屋上で見た、現実離れした白いワンピース姿とは違う、ごく普通の服装。それなのに、いや、それだからこそ、彼女の存在が放つ非日常性が、より一層際立って見えた。廊下から差し込む初夏の強い光が、まるで彼女のためだけのスポットライトのように、その柔らかな髪を透かし、金色に輝かせている。
教室が大きく、そして深くどよめいた。単なる好奇心ではない。抗うことのできない、圧倒的な存在を前にした時の、畏敬にも似たどよめきだった。
屋上の少女だ。
僕は自分の席で、まるで彫像のように固まっていた。
彼女は村井先生に促され、ゆっくりと教壇の前に立った。その一挙手一投足を、教室中の誰もが息を殺して見守っている。村井先生が、彼女の肩にそっと手を置く。その眼差しが、ただ新しい生徒に向けるものではなく、何か特別な慈しみと、そして痛みをこらえるような優しさに満ちていることに、気づいたのは、おそらく僕だけだっただろう。
彼女は、村井先生に小さく頷くと、一本のチョークを手に取った。その驚くほど白い指先が、黒板に、流れるような美しい文字を綴り始める。
「天野七海です」
凛とした、鈴の音のような声。それは、教室の喧騒を浄化するような、不思議な力を持っていた。
「七つの“七”に海の“海”って書きます」
彼女は、自分の名前に込められた風景を、僕たちに手渡すように言った。七つの海。その壮大な名前。
「この潮見ヶ丘の、海と、空と、そして風が大好きです」
そう言って、彼女はふわりと笑った。その瞬間、教室の窓から祝福するかのように、さあっと強い風が吹き込み、彼女の髪を優しく揺らした。誰もがその光景に、魔法のような美しさを見た。
だが、その魔法は、彼女自身の次の言葉で、ほんの少しだけ、現実の切ない色を帯びた。
「……体のことで、みんなに、たくさん迷惑をかけるかもしれません。ごめんなさい」
その一言で、クラスの浮ついた空気が、ぴんと張り詰める。迷惑……体のこと……誰もが、その言葉の裏にある意味を探ろうと、互いの顔を見合わせる。
「だから、いられるのは三ヶ月の間だけだけど……どうぞ、よろしくお願いします」
三ヶ月。
その、あまりに具体的で、そしてあまりに短い期間を示す言葉が、僕の胸に深く、深く突き刺さった。
最初の休み時間は、熱狂という名の嵐だった。
七海の席の周りには、あっという間に幾重もの人垣ができていた。その輪の中心で、台風の目のように君臨しているのは、やはり月村柚希だった。
「ねえねえ、天野さん、どこから来たの?」
「好きな食べ物は?」
「彼氏とかいるのー?」
柚希の快活な質問に、七海は一つひとつ、楽しそうに答えている。その笑顔は、誰をも魅了する太陽のようだった。
僕は、自分の席から一歩も動けずに、その光景を違う国の出来事のように眺めていた。僕と彼女の間には、たった数メートルの距離しかない。なのにその距離は、決して渡ることのできない、深く冷たい河のように、絶望的に横たわっていた。
その時だった。七海が自分のカバンから、一冊のくたびれたノートを取り出した。
それは、新品のノートではなかった。表紙には、淡い水彩絵の具で描かれたような、大きな雲の絵。クレヨンか何かで、子供が一生懸命描いたような、少しだけ拙いタッチの絵だ。角は丸く擦り切れ、ところどころに、何の染みか判別できない、微かな跡も残っている。彼女が長い時間、ずっと大切に抱きしめてきたであろうことが、一目でわかった。
「天野さん、それ、日記?」
目ざとく見つけた柚希が尋ねる。
七海は、秘密を打ち明ける子供のように、人差し指を自分の唇に当てると、にっこりと笑って首を振った。
「ううん。これはね、お楽しみノート」
その特別なネーミングに、周りの誰もが「何それ?」と身を乗り出す。
七海はそのノートを、大切に温めてきた宝物を扱うかのように、そっと開いた。
「私がこの町で、この三ヶ月の間にやりたいことリストだよ」
覗き込んだクラスメイトたちが、わっと声を上げる。そこには、子供らしい、少しだけ丸みを帯びた文字で、きらきらした、そしてどこか切ない願い事がたくさん並んでいた。
『① 潮見ヶ丘の駄菓子屋で、百円玉を握りしめてお菓子を買う』
『② 放課後の誰もいない校庭で、風と一緒に走る』
『③ この町で一番高い、駅前の観覧車に乗る』
『④ 自分でにぎった、いびつな形のおにぎりを、海を見ながら食べる』
そのリストの片隅に、他よりもずっと小さな文字で、こうも書かれていた。
『いつか、飛行機よりも高いところから、空を泳ぐ金魚たちを見てみたい』
リストは、彼女のささやかな日常への憧れと、決して叶いそうにない壮大な夢とが同居する、不思議なものだった。
七海は、クラスメイトたちの顔をぐるりと見渡すと、少しだけはにかむように言った。
「でも、一人じゃできないこともあるから……みんな、手伝ってくれると嬉しいな」
その純粋な呼びかけに、教室は再び、幸福な熱狂に包まれた。
「面白そう!」
「やろうぜ、やろうぜ!」
「観覧車、俺が案内する!」
男子たちは、目の前の可憐な少女の騎士になるため、我先にと名乗りを上げる。
だが、その熱狂の輪の中で、一部の女子生徒たちが、少しだけ冷ややかな、嫉妬の混じった視線を七海に向けていることに、僕は気づいていた。そして、その視線に気づいたからこそ、僕の心の中に、守りたいという、今まで感じたことのない感情が宿ったことも。
僕だけが、その熱狂の輪から弾き出されたように取り残されていた。
声が出ない。一歩が、踏み出せない。僕は、こんなにも勇気がない人間だったのか。
永遠よりも長く感じられた瞬間。
たくさんの笑顔と好奇心に囲まれているはずの七海の瞳から、ふっと光が消えた。誰にも向けられていない、どこか遠くを見つめるような、深い寂しさの色が、その瞳の奥に一瞬だけ、よぎった。
その瞬間を、熱狂の輪の外にいた僕だけが見てしまった。
そして、まるで救いを求めるかのように、その寂しげな瞳が、幾重にも重なる人垣の向こうから、まっすぐに僕を探し当てた。
視線が、絡み合う。
時間が、止まった。周りの喧騒が、潮が引くように遠ざかっていく。世界に、僕と彼女の二人だけしかいないかのような濃密な静寂。
彼女の唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。それは、他の誰にも向けられていない、僕だけに向けられた、秘密の、そして少しだけ助けを求めるような微笑み。
彼女は、まるで「あなただけは、わかってくれるよね?」とでも言うかのように、小さく、こくりと、一度だけ頷いた。
誰にも気づかれない、たった一瞬の合図。
でも、その合図は、どんな雄弁な言葉よりも強く、僕の心の奥深く、一番柔らかい場所に、まっすぐに届いた。
疎外感という名の分厚い氷に亀裂が走る。そこから、温かく、そして少しだけ切ない光が、どうしようもなく溢れ出してくる。
自分の胸が、ちりちりとした痛みと、それ以上に大きな、名前のつけようのない喜びで、きゅっと締め付けられるのを感じていた。
これはもう、逃れることのできない、運命なのだと。
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