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第21話 潜入、墨染城下
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忘れ雪の里で心身ともに回復した環は、源爺から授かった古地図を頼りに、墨染藩の心臓部を目指した。その道は、獣すら避けて通るような険しい岩山を縫い、深い谷を越える、まさに地図なき道であった。数日後、ついに彼は山を抜け、眼下に広がる墨染藩の城下町、墨染津の全景を捉えた。その光景は、清澄ヶ原とは、あまりにも対照的であった。
清澄ヶ原が、白凪川の豊かな水に育まれた、華やかでどこか雅な気品を漂わせているのに対し、墨染津は、黒々とした巨大な城郭を中心に、武骨で機能的な建物が隙間なくひしめき合っている。町全体が、一つの巨大な牢獄であるかのような、威圧的で殺伐とした雰囲気を放っていた。環は、薪を運ぶ炭焼き職人に身をやつし、他の行商人の群れに紛れて、固く閉ざされた城門をくぐった。
城下町の中は、外から見た印象以上に、重苦しい空気に満ちていた。人々の顔には笑みがなく、その目は虚ろで、互いに視線を合わせることも少ない。武具を誇示するように闊歩する兵士と、壁際に身を寄せるように歩く町人の姿が、この町の歪な支配構造を物語っている。路地裏では、子供たちが墨爪組の真似をして密偵ごっこに興じているが、その遊びには子供らしい明るさがなく、誰かを密告し追い詰めるという乾いた内容であった。それを見た環は、彩凪の子供たちの屈託のない笑顔を思い出し、胸が締め付けられた。鍛冶場からは、昼夜を問わず刀や槍を鍛える甲高い槌の音が響き渡り、兵士たちの怒声や武具が擦れ合う音が、町のざわめきに混じっている。鉄と石炭の匂いに混じって、貧しさからくる淀んだ匂いが鼻をついた。そこには、人々の穏やかな暮らしの営みではなく、戦争へ向けて突き進む巨大な国家の、不気味な脈動だけがそこにあった。そして何よりも、町の至る所に、鋭い眼光を放つ墨爪組の者たちが二人一組で立ち、道行く人々を監視していた。彼らの存在が、この町の空気をさらに冷たく、息苦しいものにしているのは明らかだった。
環は、墨染津の裏通りにある安宿に身を落ち着けると、慎重に情報収集を開始した。彼は、ある時は荷を運ぶ人足として城壁の修復作業に紛れ込み、兵士たちの会話に耳をそばだて、またある時は腕の良い指物師として武家屋敷に出入りし、内部の構造を探った。その屋敷の主が、新しい槍の柄を注文しながら、「松平様からの情報によれば、彩凪の守りは手薄らしい。今度の戦、大手柄を立てる好機よ」と下卑た笑いを浮かべるのを、環は無表情の仮面の下で、燃えるような怒りと共に話を聞いていた。
夜になれば、彼は労働者たちが集まる安酒場へ向かった。そこは、墨爪組の監視も比較的緩く、人々の本音が漏れやすい場所であった。環は、巧みに酔ったふりをして隣の席の傭兵らしき男に酒を勧め、話を促した。
「へっ、兄さんも物好きだな。こんな町に何の用で来たんだい」
「仕事を探しに、でさあ。どこかで、腕の立つ者を大勢集めてるって噂を聞いたもんでね」
「ああ、それなら本当だぜ。近々、隣の彩凪って国に攻め込むんだと。そのための兵を、今、湯水のように集めてる。なんでも、かの国の天啓の巫女とやらを捕らえれば、褒美は思いのままだそうだ。俺みてえな流れ者でも、一攫千金の好機よ」
傭兵の言葉は、小夜の身の危険が、敵地の末端まで浸透しているという、残酷な事実を環に突きつけた。
情報収集を続ける中、環は市場の一角で、ある異様な光景を目の当たりにした。彩凪藩の誇るべき特産品であるはずの綾錦織が、粗末な露店で安値で売られているのだ。環は、その織物を手に取ってみた。一見すると、本物と見紛うほど精巧な意匠であったが、その手触りは硬く、色合いもどこか下品で深みがない。そして、その織り方には、清澄ヶ原で代々綾錦織を扱ってきた、ある老舗の職人だけが使う独特の癖が見て取れた。その職人の技術が、何らかの形で盗まれたのだ。
「旦那、良い品だろう。こいつは彩凪の逸品だぜ」
店の主人が、にやにやしながら声をかけてくる。
「これが、彩凪のものだと?」
「へへっ、そうよ。だが、彩凪なんてもうじき終わりでさあ。これからはこいつが本物になるんで。今のうちに買っときな。お前さんのような浪人には、高嶺の花だろうがな」
主人の嘲笑が、環の胸に突き刺さる。さらに、別の店では、仙泉酒と偽った質の悪い酒が、本物の徳利に詰められて高値で売られていた。それを買った男が、一口飲んで「なんだこりゃ、本物とは似ても似つかぬ代物だ!」と文句を言うが、近くにいた墨爪組の者に睨まれ、慌てて口をつぐんで立ち去っていった。
環の全身に、冷ややかな怒りが込み上げてきた。これらは、彩凪の優れた技術や情報が、墨染藩へ不正に流出している、動かぬ証拠であった。そして、その裏で糸を引いているのが、松平義明であることは、もはや疑う余地もなかった。義明は、藩の富と誇りを敵国に売り渡し、自らの野望の糧としていたのだ。環は、改めて義明の裏切りへの憎悪と彩凪藩の危機が、自らの想像以上に深刻であることを痛感した。
断片的な情報だけでは、右京に託された密命を果たすことはできない。このままでは、小夜に約束された、義明との縁談の儀の日までに、何も成し遂げられぬまま終わってしまう。その焦りが環の心を駆り立てた。
「父上なら、この状況をどう切り抜けるだろうか。ただ闇雲に突撃するのは愚の骨頂。敵の呼吸を読み、一瞬の隙を突け」
父の教えを胸に、彼はより大きな危険を冒すことを決意した。
「たとえここで命を落とすことになろうとも、奴らの企みだけは暴き出す。それが、彼女にできる唯一の償いかもしれぬ」
環は、数日かけて町を調べ上げ、墨染藩の重臣や、黒曜頼胤の側近たちが密談に使うという、城下の外れにある高級料亭黒月庵の存在を突き止めた。そこは、墨爪組による最も厳重な警備が敷かれた、まさに敵の中枢であった。
環は、料亭の周辺の地形、警備の交代時間、人の流れなどを、冷静に、そして徹底的に調べ上げた。今宵、藩の重臣たちによる重要な会合が開かれるという情報を掴んだ彼は、その夜、料亭への潜入を決行することを決意した。それは、あまりにも無謀な試みであったが、彼にはもう残された時間は少なかった。小夜の身に迫る危機、そして故郷の運命。その全てが、彼の双肩にかかっている。環は、墨染津の冷たい夜の闇を見つめながら、静かに固い決意をその瞳に宿すのだった。
清澄ヶ原が、白凪川の豊かな水に育まれた、華やかでどこか雅な気品を漂わせているのに対し、墨染津は、黒々とした巨大な城郭を中心に、武骨で機能的な建物が隙間なくひしめき合っている。町全体が、一つの巨大な牢獄であるかのような、威圧的で殺伐とした雰囲気を放っていた。環は、薪を運ぶ炭焼き職人に身をやつし、他の行商人の群れに紛れて、固く閉ざされた城門をくぐった。
城下町の中は、外から見た印象以上に、重苦しい空気に満ちていた。人々の顔には笑みがなく、その目は虚ろで、互いに視線を合わせることも少ない。武具を誇示するように闊歩する兵士と、壁際に身を寄せるように歩く町人の姿が、この町の歪な支配構造を物語っている。路地裏では、子供たちが墨爪組の真似をして密偵ごっこに興じているが、その遊びには子供らしい明るさがなく、誰かを密告し追い詰めるという乾いた内容であった。それを見た環は、彩凪の子供たちの屈託のない笑顔を思い出し、胸が締め付けられた。鍛冶場からは、昼夜を問わず刀や槍を鍛える甲高い槌の音が響き渡り、兵士たちの怒声や武具が擦れ合う音が、町のざわめきに混じっている。鉄と石炭の匂いに混じって、貧しさからくる淀んだ匂いが鼻をついた。そこには、人々の穏やかな暮らしの営みではなく、戦争へ向けて突き進む巨大な国家の、不気味な脈動だけがそこにあった。そして何よりも、町の至る所に、鋭い眼光を放つ墨爪組の者たちが二人一組で立ち、道行く人々を監視していた。彼らの存在が、この町の空気をさらに冷たく、息苦しいものにしているのは明らかだった。
環は、墨染津の裏通りにある安宿に身を落ち着けると、慎重に情報収集を開始した。彼は、ある時は荷を運ぶ人足として城壁の修復作業に紛れ込み、兵士たちの会話に耳をそばだて、またある時は腕の良い指物師として武家屋敷に出入りし、内部の構造を探った。その屋敷の主が、新しい槍の柄を注文しながら、「松平様からの情報によれば、彩凪の守りは手薄らしい。今度の戦、大手柄を立てる好機よ」と下卑た笑いを浮かべるのを、環は無表情の仮面の下で、燃えるような怒りと共に話を聞いていた。
夜になれば、彼は労働者たちが集まる安酒場へ向かった。そこは、墨爪組の監視も比較的緩く、人々の本音が漏れやすい場所であった。環は、巧みに酔ったふりをして隣の席の傭兵らしき男に酒を勧め、話を促した。
「へっ、兄さんも物好きだな。こんな町に何の用で来たんだい」
「仕事を探しに、でさあ。どこかで、腕の立つ者を大勢集めてるって噂を聞いたもんでね」
「ああ、それなら本当だぜ。近々、隣の彩凪って国に攻め込むんだと。そのための兵を、今、湯水のように集めてる。なんでも、かの国の天啓の巫女とやらを捕らえれば、褒美は思いのままだそうだ。俺みてえな流れ者でも、一攫千金の好機よ」
傭兵の言葉は、小夜の身の危険が、敵地の末端まで浸透しているという、残酷な事実を環に突きつけた。
情報収集を続ける中、環は市場の一角で、ある異様な光景を目の当たりにした。彩凪藩の誇るべき特産品であるはずの綾錦織が、粗末な露店で安値で売られているのだ。環は、その織物を手に取ってみた。一見すると、本物と見紛うほど精巧な意匠であったが、その手触りは硬く、色合いもどこか下品で深みがない。そして、その織り方には、清澄ヶ原で代々綾錦織を扱ってきた、ある老舗の職人だけが使う独特の癖が見て取れた。その職人の技術が、何らかの形で盗まれたのだ。
「旦那、良い品だろう。こいつは彩凪の逸品だぜ」
店の主人が、にやにやしながら声をかけてくる。
「これが、彩凪のものだと?」
「へへっ、そうよ。だが、彩凪なんてもうじき終わりでさあ。これからはこいつが本物になるんで。今のうちに買っときな。お前さんのような浪人には、高嶺の花だろうがな」
主人の嘲笑が、環の胸に突き刺さる。さらに、別の店では、仙泉酒と偽った質の悪い酒が、本物の徳利に詰められて高値で売られていた。それを買った男が、一口飲んで「なんだこりゃ、本物とは似ても似つかぬ代物だ!」と文句を言うが、近くにいた墨爪組の者に睨まれ、慌てて口をつぐんで立ち去っていった。
環の全身に、冷ややかな怒りが込み上げてきた。これらは、彩凪の優れた技術や情報が、墨染藩へ不正に流出している、動かぬ証拠であった。そして、その裏で糸を引いているのが、松平義明であることは、もはや疑う余地もなかった。義明は、藩の富と誇りを敵国に売り渡し、自らの野望の糧としていたのだ。環は、改めて義明の裏切りへの憎悪と彩凪藩の危機が、自らの想像以上に深刻であることを痛感した。
断片的な情報だけでは、右京に託された密命を果たすことはできない。このままでは、小夜に約束された、義明との縁談の儀の日までに、何も成し遂げられぬまま終わってしまう。その焦りが環の心を駆り立てた。
「父上なら、この状況をどう切り抜けるだろうか。ただ闇雲に突撃するのは愚の骨頂。敵の呼吸を読み、一瞬の隙を突け」
父の教えを胸に、彼はより大きな危険を冒すことを決意した。
「たとえここで命を落とすことになろうとも、奴らの企みだけは暴き出す。それが、彼女にできる唯一の償いかもしれぬ」
環は、数日かけて町を調べ上げ、墨染藩の重臣や、黒曜頼胤の側近たちが密談に使うという、城下の外れにある高級料亭黒月庵の存在を突き止めた。そこは、墨爪組による最も厳重な警備が敷かれた、まさに敵の中枢であった。
環は、料亭の周辺の地形、警備の交代時間、人の流れなどを、冷静に、そして徹底的に調べ上げた。今宵、藩の重臣たちによる重要な会合が開かれるという情報を掴んだ彼は、その夜、料亭への潜入を決行することを決意した。それは、あまりにも無謀な試みであったが、彼にはもう残された時間は少なかった。小夜の身に迫る危機、そして故郷の運命。その全てが、彼の双肩にかかっている。環は、墨染津の冷たい夜の闇を見つめながら、静かに固い決意をその瞳に宿すのだった。
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