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第二章 破廉恥な関係
第08話 迷って進める関係(上)
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(えっと……あ、水筒の中身がもうないから、自分のお茶ぐらいは買っていくべき……だよね)
先週の雨の日と同じ金曜日。今日は休講にならなかったので、桃音は三時限の講義に出ていた。そしてそれが終わるとお手洗いに行き、キャンパスを出ようとゆりのき通りに向かう。
しかし、今日はまっすぐには帰らない。二時限だけ講義があるという謙志の家に行く約束なのだ。
(お菓子は要らない……かな。あれ、でも……人様のおうちに行くんだし、手土産として必要?)
肩に掛けたバッグを持ち直し、ゆっくりとした歩調で歩きながら桃音は考える。
二日前、話があるという謙志とカフェで待ち合わせた。そこで謙志は、「またうちに来てほしい」と言った。
正直桃音は、告白されるのかと期待していた。だが、謙志は「好き」の「す」の字も言わなかった。
(松浦先輩は私のこと、好きなわけじゃない……)
好きなわけではない。それなのに部屋に来てほしいとは、どういう意味だろう。
その答えは一つしかない。おそらく、また破廉恥な行為をしたい――してほしい、ということだ。
(私もしたい、から……いいけど……)
とても言いにくそうだった謙志に、桃音は頷いた。桃音のその肯定の頷きを見た謙志は満足したのか、カフェでの話はそれだけで終了した。
桃音も、できることなら謙志の部屋をまた訪れたいと思っていた。先週の雨の日のことは思い出すと恥ずかしくて、いたたまれなくて、我ながらなんてことをしてしまったのだろうと後悔にも似た気持ちになるのに、しかしあの日の謙志を思い出すとかわいくてかわいくて、もっともっとかわいがれたはずだ、とも思った。謙志と二人きりであの耽美な行為にふける時間を、もう一度過ごしたいと。
(これってつまり、松浦先輩とセックスフレンドになった……ってこと?)
厳密に言うと、謙志とは生殖器の挿入を行う性行為はしていない。今日も、その本番行為をするかどうかはわからない。
だが、互いの身体を使った性的なコミュニケーションはしたわけで、それは一種の性行為と言える。つまり、付き合っているわけではないのに破廉恥な行為をする自分たちの関係は、性行為が主目的の間柄――いわゆるえっちなお友達というものになるだろう。
(松浦先輩とそういう関係でいたいわけではない……んだけどな)
謙志のことがかわいく見える。ほかのどの異性よりも特別に見えて、一緒にいたくて、一緒にいられるととても嬉しい。そんなふうに自分のことも、特別に想ってほしい。謙志から特別に想われたい。
そう思うこの気持ち――これは恋心だ。自分は謙志のことが好きなのだ。
そう自覚はできているのに、しかし告白する勇気はどうにも出ない。結美から散々「告白しなよ」と言われて背中を押されたが、謙志に自分の気持ちを伝えたいと、桃音は前向きに思えない。告白したあとのことを、明るく考えられないからだ。
(松浦先輩は、私とはそういう関係でいいって……そう思ってるのかな)
告白されるのかと思った二日前。しかし謙志が告げたのは、また家に来てほしいという希望だけ。自分はそうではなくても、謙志のほうは「恋人じゃなくてセフレでいい」と思っているのかもしれない。
(それは……)
桃音はゆりのき通りを歩ききり、駅に向かう横断歩道の信号待ちをする。
謙志に「セフレでいい」と思われているのなら、それは悲しい。そう思っているかもしれない相手に「好きです」と伝えることなんて、ますますできる気がしない。
でも、セフレでもいいから謙志にとって何か特別な存在でいられるのなら、その存在でいたい。桃音の中の打算的で狡猾な「女」が、そう受け入れようとしている。
横断歩道が青になり、桃音は幹線道路を渡る。横長の駅舎の改札前を通って、反対側に向かう。道なりに進んで、途中のコンビニでお茶のペットボトルを買う。そして桃音は、先日謙志と共に歩いた住宅街の道を黙々と進んだ。
「ふぅ……」
マンションのエントランスホールに到着した桃音は、一度深呼吸をする。それから緊張した面持ちで、謙志の部屋番号と呼び出しボタンを押した。すぐに謙志の「いま開ける」という返事が聞こえて、ガラスドアが開錠される。
桃音はお茶のペットボトルが入ったコンビニ袋を揺らしながらエレベーターに向かい、一人で乗り込んだ。
(服……下着……あ、パンツ……替えたかった……)
このあと自分は――自分たちは、どこまで何をするのかはわからない。けれど、昨夜の入浴後から半日もはいているパンティは、新しいものに替えておきたかった気がする。大学に替えの下着を持っていくというのはおかしな話だが、替えの下着を持ってきて、大学のトイレではき替えてくればよかった。
しかし、そもそも下着だけを替えても意味がないかもしれない。身体は汗をかいているし、シャワーを浴びなければきれいな身体にはなれない。
(待って……こういうのって、毎回必ずシャワーをするものなの? シャワーをしなくても、えっちってしていいの?)
先週の謙志との破廉恥な時間以外にこうした行為の経験がない桃音は、いくつもの疑問符を浮かべた。
セックスマナーというものを、世の大人たちはどこまで明確に、共通認識として持っているのだろう。それはどうやって知り得て、身に付けるのだろう。性行為の経験がある大人は皆、そんな小さなことになど疑問は持たないものなのだろうか。
性行為における標準的なお作法がわからない自分がひどく子供に思え、桃音は気恥ずかしくなった。
(えっち……えっちする……のかな……松浦先輩と私……)
エレベーターが五階に止まる。それほど広くない外廊下に出て立ち止まり、桃音はしばし考える。
(私……松浦先輩になら……)
付き合っていないセフレのような関係だが、謙志のことは好きだ。ならば、自分の処女を彼に捧げてもいいと思う。謙志と円満に結ばれることはないとしても、相手が謙志なら後悔はしない気がする。
(松浦先輩に好かれていなくても……私は先輩のことが好きだから……)
桃音はそう覚悟すると、謙志の部屋に向かって歩きだした。
玄関ドアの呼び鈴を押すと、ピンポーンと甲高い電子音が小さく鳴る。返事はなかったが、すぐに玄関ドアの施錠が外れて、謙志がドアを開けて出迎えてくれた。
「どう、ぞ……」
「は、はい……」
謙志がぎこちなく招くので、桃音もぎこちなく玄関に入る。手洗いとうがいを終えると、桃音は居間の床に恐る恐るバッグを下ろし、ローテーブルの傍に座った。
「えっと……あ、お茶……飲むか?」
「あ、いえ……あの、今日は……自分で買ってきたので」
「そうか」
「はい……」
冷蔵庫を開けようとしていた謙志はその手を引っ込めて、桃音と九十度角の位置にある座椅子に座った。
「えっと……あ、今日は……時間は?」
「だ、大丈夫です……また、その……すごく、遅くならなければ……」
「バイトは……いつしてるんだ?」
「土日です。平日も一日くらいできるかな、って思ったんですけど……レポート作成とか、勉強とか……結構時間が必要で……」
「ああ……学費免除の資格を狙ってるんだよな」
天文研究会の新歓コンパで桃音がそんな話をしていたことを思い出し、謙志は深い息を吐いた。
「ごめん……」
「えっ?」
「いや、その……真面目に勉強したい……んだよな。それなのに、こんな……」
謙志はうなだれて頭を下げる。
家庭の事情で学費の負担が決して楽ではないこと、将来を見据えて学びたいと思って進学していること。桃音の抱えているその事情を考えれば、こんなふうに家に招くことは彼女の負担になるだけだろう。付き合っている間柄として「会いたい」と希うならまだしも、付き合ってもいない後輩の女子を家に呼び込むなど、誠実な行動ではない。しかも、こうして自宅に招いた理由は、邪な欲望を果たしたいという最低なものなのだから。
「だ、大丈夫ですっ……ほかの日に勉強してますし、それにっ……その……」
桃音はもじもじと、自分の手で自分の反対の手の甲をさすった。
「ま、松浦先輩と一緒にいられて……嬉しい、です……から」
ありったけの勇気をかき集めて、桃音は告げた。しかし自分でも驚くほど小さな声だったので、謙志に聞こえたかどうかはわからない。
桃音はびくびくしながら、謙志の表情をちらっと見る。ローテーブルの上にぼんやりと視線を向けている謙志のその頬や耳は、心なしか赤くなっているように見えた。
「えっと……」
謙志が黙ったまま動かないので、桃音はどうしたものかと思った。
また家に来てほしいという謙志の要望は、また破廉恥な行為をしたいという要望であると思っていたが、前回のようにまた謙志を好きにしてもいいのだろうか。
「あの……くっ付いても……いいですか」
前回の始まりと同じように、桃音は尋ねた。すると謙志は無言で頷き、両膝を立ててスペースを作る。桃音は謙志のその足の間に移動し、ちょこんと横座りをした。
「先輩、もしかして……シャワー、浴びましたか」
桃音は謙志の胸付近に顔を近付けて、鼻で深呼吸をする。
すると、ボディーソープのようなほのかな石鹸の匂いがしたのだが、それが前回とまったく同じであることに気付く。おそらく謙志は、桃音を待っている間にシャワーを浴びたのだろう。
「あ……ああ……」
謙志は小さな声で頷いた。
先週の雨の日と同じ金曜日。今日は休講にならなかったので、桃音は三時限の講義に出ていた。そしてそれが終わるとお手洗いに行き、キャンパスを出ようとゆりのき通りに向かう。
しかし、今日はまっすぐには帰らない。二時限だけ講義があるという謙志の家に行く約束なのだ。
(お菓子は要らない……かな。あれ、でも……人様のおうちに行くんだし、手土産として必要?)
肩に掛けたバッグを持ち直し、ゆっくりとした歩調で歩きながら桃音は考える。
二日前、話があるという謙志とカフェで待ち合わせた。そこで謙志は、「またうちに来てほしい」と言った。
正直桃音は、告白されるのかと期待していた。だが、謙志は「好き」の「す」の字も言わなかった。
(松浦先輩は私のこと、好きなわけじゃない……)
好きなわけではない。それなのに部屋に来てほしいとは、どういう意味だろう。
その答えは一つしかない。おそらく、また破廉恥な行為をしたい――してほしい、ということだ。
(私もしたい、から……いいけど……)
とても言いにくそうだった謙志に、桃音は頷いた。桃音のその肯定の頷きを見た謙志は満足したのか、カフェでの話はそれだけで終了した。
桃音も、できることなら謙志の部屋をまた訪れたいと思っていた。先週の雨の日のことは思い出すと恥ずかしくて、いたたまれなくて、我ながらなんてことをしてしまったのだろうと後悔にも似た気持ちになるのに、しかしあの日の謙志を思い出すとかわいくてかわいくて、もっともっとかわいがれたはずだ、とも思った。謙志と二人きりであの耽美な行為にふける時間を、もう一度過ごしたいと。
(これってつまり、松浦先輩とセックスフレンドになった……ってこと?)
厳密に言うと、謙志とは生殖器の挿入を行う性行為はしていない。今日も、その本番行為をするかどうかはわからない。
だが、互いの身体を使った性的なコミュニケーションはしたわけで、それは一種の性行為と言える。つまり、付き合っているわけではないのに破廉恥な行為をする自分たちの関係は、性行為が主目的の間柄――いわゆるえっちなお友達というものになるだろう。
(松浦先輩とそういう関係でいたいわけではない……んだけどな)
謙志のことがかわいく見える。ほかのどの異性よりも特別に見えて、一緒にいたくて、一緒にいられるととても嬉しい。そんなふうに自分のことも、特別に想ってほしい。謙志から特別に想われたい。
そう思うこの気持ち――これは恋心だ。自分は謙志のことが好きなのだ。
そう自覚はできているのに、しかし告白する勇気はどうにも出ない。結美から散々「告白しなよ」と言われて背中を押されたが、謙志に自分の気持ちを伝えたいと、桃音は前向きに思えない。告白したあとのことを、明るく考えられないからだ。
(松浦先輩は、私とはそういう関係でいいって……そう思ってるのかな)
告白されるのかと思った二日前。しかし謙志が告げたのは、また家に来てほしいという希望だけ。自分はそうではなくても、謙志のほうは「恋人じゃなくてセフレでいい」と思っているのかもしれない。
(それは……)
桃音はゆりのき通りを歩ききり、駅に向かう横断歩道の信号待ちをする。
謙志に「セフレでいい」と思われているのなら、それは悲しい。そう思っているかもしれない相手に「好きです」と伝えることなんて、ますますできる気がしない。
でも、セフレでもいいから謙志にとって何か特別な存在でいられるのなら、その存在でいたい。桃音の中の打算的で狡猾な「女」が、そう受け入れようとしている。
横断歩道が青になり、桃音は幹線道路を渡る。横長の駅舎の改札前を通って、反対側に向かう。道なりに進んで、途中のコンビニでお茶のペットボトルを買う。そして桃音は、先日謙志と共に歩いた住宅街の道を黙々と進んだ。
「ふぅ……」
マンションのエントランスホールに到着した桃音は、一度深呼吸をする。それから緊張した面持ちで、謙志の部屋番号と呼び出しボタンを押した。すぐに謙志の「いま開ける」という返事が聞こえて、ガラスドアが開錠される。
桃音はお茶のペットボトルが入ったコンビニ袋を揺らしながらエレベーターに向かい、一人で乗り込んだ。
(服……下着……あ、パンツ……替えたかった……)
このあと自分は――自分たちは、どこまで何をするのかはわからない。けれど、昨夜の入浴後から半日もはいているパンティは、新しいものに替えておきたかった気がする。大学に替えの下着を持っていくというのはおかしな話だが、替えの下着を持ってきて、大学のトイレではき替えてくればよかった。
しかし、そもそも下着だけを替えても意味がないかもしれない。身体は汗をかいているし、シャワーを浴びなければきれいな身体にはなれない。
(待って……こういうのって、毎回必ずシャワーをするものなの? シャワーをしなくても、えっちってしていいの?)
先週の謙志との破廉恥な時間以外にこうした行為の経験がない桃音は、いくつもの疑問符を浮かべた。
セックスマナーというものを、世の大人たちはどこまで明確に、共通認識として持っているのだろう。それはどうやって知り得て、身に付けるのだろう。性行為の経験がある大人は皆、そんな小さなことになど疑問は持たないものなのだろうか。
性行為における標準的なお作法がわからない自分がひどく子供に思え、桃音は気恥ずかしくなった。
(えっち……えっちする……のかな……松浦先輩と私……)
エレベーターが五階に止まる。それほど広くない外廊下に出て立ち止まり、桃音はしばし考える。
(私……松浦先輩になら……)
付き合っていないセフレのような関係だが、謙志のことは好きだ。ならば、自分の処女を彼に捧げてもいいと思う。謙志と円満に結ばれることはないとしても、相手が謙志なら後悔はしない気がする。
(松浦先輩に好かれていなくても……私は先輩のことが好きだから……)
桃音はそう覚悟すると、謙志の部屋に向かって歩きだした。
玄関ドアの呼び鈴を押すと、ピンポーンと甲高い電子音が小さく鳴る。返事はなかったが、すぐに玄関ドアの施錠が外れて、謙志がドアを開けて出迎えてくれた。
「どう、ぞ……」
「は、はい……」
謙志がぎこちなく招くので、桃音もぎこちなく玄関に入る。手洗いとうがいを終えると、桃音は居間の床に恐る恐るバッグを下ろし、ローテーブルの傍に座った。
「えっと……あ、お茶……飲むか?」
「あ、いえ……あの、今日は……自分で買ってきたので」
「そうか」
「はい……」
冷蔵庫を開けようとしていた謙志はその手を引っ込めて、桃音と九十度角の位置にある座椅子に座った。
「えっと……あ、今日は……時間は?」
「だ、大丈夫です……また、その……すごく、遅くならなければ……」
「バイトは……いつしてるんだ?」
「土日です。平日も一日くらいできるかな、って思ったんですけど……レポート作成とか、勉強とか……結構時間が必要で……」
「ああ……学費免除の資格を狙ってるんだよな」
天文研究会の新歓コンパで桃音がそんな話をしていたことを思い出し、謙志は深い息を吐いた。
「ごめん……」
「えっ?」
「いや、その……真面目に勉強したい……んだよな。それなのに、こんな……」
謙志はうなだれて頭を下げる。
家庭の事情で学費の負担が決して楽ではないこと、将来を見据えて学びたいと思って進学していること。桃音の抱えているその事情を考えれば、こんなふうに家に招くことは彼女の負担になるだけだろう。付き合っている間柄として「会いたい」と希うならまだしも、付き合ってもいない後輩の女子を家に呼び込むなど、誠実な行動ではない。しかも、こうして自宅に招いた理由は、邪な欲望を果たしたいという最低なものなのだから。
「だ、大丈夫ですっ……ほかの日に勉強してますし、それにっ……その……」
桃音はもじもじと、自分の手で自分の反対の手の甲をさすった。
「ま、松浦先輩と一緒にいられて……嬉しい、です……から」
ありったけの勇気をかき集めて、桃音は告げた。しかし自分でも驚くほど小さな声だったので、謙志に聞こえたかどうかはわからない。
桃音はびくびくしながら、謙志の表情をちらっと見る。ローテーブルの上にぼんやりと視線を向けている謙志のその頬や耳は、心なしか赤くなっているように見えた。
「えっと……」
謙志が黙ったまま動かないので、桃音はどうしたものかと思った。
また家に来てほしいという謙志の要望は、また破廉恥な行為をしたいという要望であると思っていたが、前回のようにまた謙志を好きにしてもいいのだろうか。
「あの……くっ付いても……いいですか」
前回の始まりと同じように、桃音は尋ねた。すると謙志は無言で頷き、両膝を立ててスペースを作る。桃音は謙志のその足の間に移動し、ちょこんと横座りをした。
「先輩、もしかして……シャワー、浴びましたか」
桃音は謙志の胸付近に顔を近付けて、鼻で深呼吸をする。
すると、ボディーソープのようなほのかな石鹸の匂いがしたのだが、それが前回とまったく同じであることに気付く。おそらく謙志は、桃音を待っている間にシャワーを浴びたのだろう。
「あ……ああ……」
謙志は小さな声で頷いた。
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