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第五章 聖女の来訪
第18話 嫉妬心(中)
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「武器は互いに木刀だけだ」
「はい」
ティルフィーユがスベーク城を歩き回っている頃、キアンは訓練場でグントバハロンの一兵卒と向かい合っていた。父との手合わせや部下たちとの鍛錬でそうして木刀を手にすることは日常茶飯事だったが、グントバハロンの兵士と向き合うのはこれが初めてのことだった。
「手加減はしないでください。それと、俺が勝ったら、俺をスベーク城警備の精鋭部隊に推薦してください」
「……わかった」
突如なんの前振りもなく勝負を挑んできたその青年の名は、グントバハロンの一兵卒ウェスライ・トラトニク。バイロンほどではないが男性の中でも背は高い方で、肩幅もなかなかに広い。さすがはグントバハロンの軍事教育を受けた者、という雰囲気ではあるが、しかしその青い瞳がキアンに向ける眼差しには、やけに子供じみた炎が宿っている。なぜ彼からそんな視線を向けられるのか理由はさっぱりわからないが、喧嘩を売られたということははっきりとわかったので、キアンは言葉少なにウェスライとの勝負、そして勝利時の報酬を受け入れたのだった。
「…………」
「…………」
木刀を構えた二人は、互いの一挙手一投足を見逃すまいと無言で睨み合う。
「グントバハロンのあの兵士、怖いもの知らずかよ。ストーラー騎士団長に勝負を挑むなんて」
「ミリ族の強さを知らないんじゃないのか」
日頃キアンに容赦なく打ちのめされて――ではなく、鍛えられている騎士団の兵士たちが、訓練場の端に寄って二人の睨み合いを見守っている。
「なんでウェスライが騎士団長さんと勝負してるんだ?」
「さあ? でも、見るだけなら面白そうだな」
経緯はわからないが、エヴァエロン共和国の騎士団長と自国の兵士が勝負をすると聞きつけたグントバハロンの武人たちもちらほら、エヴァエロンの兵士や騎士たちに交じって見物に来ている。
ひそひそとした野次馬のその声が聞こえなくもないが、キアンは徐々に集中力を高めてその声をシャットアウトした。
――ダッ。
踏み込んで先に仕掛けたのはウェスライだった。まずはキアンの出方をうかがうためか、あえてキアンが受けやすいように真正面から木刀を打ち込む。当然キアンはそれを木刀で受け止めてから、軽く腕を振ってウェスライをいなした。
「はっ!」
単純な腕力ならそれほど差はないと判断したウェスライは、スピード重視で木刀を打ち込んでいく。そうして一瞬でもキアンがひるめばそこに力強い一撃を加えようと目論見るが、しかしキアンはじっとウェスライの動きを見つめながら、どんな角度からの攻撃もすべて受け止め、きっちりと弾き返す。
「っ……このっ!」
予想以上にしぶとく、少しも体勢を崩さないキアンにウェスライは焦る。それなのに、キアンから積極的に攻撃をしてくることはない。まるで子供の攻撃を受け流すかのように、ただウェスライをあしらうだけだ。
(舐めやがって……!)
キアンに馬鹿にされていると感じたウェスライの頭に血が上る。
(こんな……こんな奴に……っ!)
キアンは不細工ではないが、とても整った顔立ちをしているわけではない。体格には恵まれており騎士としての実力はあるのだろうが、だからといってそれがティルフィーユを幸せにするわけではない。きっと家でもティルフィーユには無口で無表情で、気の利いた会話のひとつもできやしないんだろう。
宗家の子女ならば政略結婚は定められた運命かもしれないが、それでも、可憐で優しいティルフィーユにはもっとふさわしい相手がいたはずだ。こんなガタイのいいことぐらいしか取り柄がなさそうな威圧的な男なんかより、もっとほかに――。
(――俺が……っ)
――ガンッ!
ウェスライが思考を散らしたほんの一瞬だった。キアンが無音でウェスライに踏み込み、激しく木刀を振る。そのとてつもないスピードと力が、ウェスライが握っていた木刀を弾き飛ばす。そして体勢を崩して尻もちをついたウェスライの喉元に、キアンは木刀の切っ先を突き付けた。
「…………」
キアンは黙ったままウェスライを見下ろす。弱った獲物が次にどんな挙動に出るのか、一切気を抜かずに注意深く見張っているようでもあった。
「くっ……」
「勝負あり……で、いいな」
悔しそうに喉を鳴らすウェスライに、キアンは低い声で呟いた。外周にいる観客たちからは歓声の声が飛んできているが、キアンはそんな声など意に介さない。ただじっと、ウェスライを見下ろしている。
「お前個人から恨みを買った覚えはないんだが」
木刀をウェスライから遠ざけて、姿勢を正しながらキアンは問うた。
このウェスライというグントバハロンの若い兵士が勝負を挑んできた理由に、キアンは一切心当たりがない。けれども、互いの実力を測りたいだとか、強い相手と勝負をしてみたいだとか、そういった武力への純粋な熱意ゆえにというよりも、何か別の理由で挑まれたような気がしていた。実際、打ち合っている最中のウェスライの目的は、キアンに勝つことというよりも何かほかのことをわからせたい――そんな思惑があるように見えた。
「あ、んた……なんかに……っ」
ウェスライは腰を上げながら下唇を噛む。
「ティルフィーユ姫は……ふさわしくないっ!」
ウェスライに睨まれたキアンはその視線を受け止めた。しかしすぐにため息をつき、視線を斜め下にそらしてぼそりと呟く。
「十分承知している」
「このっ……!」
自覚があるのか。やはりティルフィーユのことは大事になどしていないのか。
ウェスライは怒りに目を見開きキアンに殴りかかろうと拳を振り上げた。
――ぐいっ、どごぉっ!
「ぐふっ……」
しかし、ウェスライは背後から近付いてきた大男に振り向かされると、強烈なパンチを腹部にくらい、地面に膝を突いた。
「キアン団長、すみません、うちの若いのが」
ウェスライの腹にパンチを入れて物理的におとなしくさせたのは、バイロン・マンダールだった。
「ウェスライ、キアン団長に喧嘩を売れという任務を与えた覚えはないんだが?」
「ぐっ……すみません、でもっ……」
――どごっ!
ウェスライは腹部をおさえながらも立ち上がる。しかし、立ち上がったウェスライのそれ以上の言葉を許さず、バイロンは再びウェスライの腹にパンチを入れた。
「く、ふっ……」
「反論を聞きたいんじゃない。規律違反の自覚はあるのかと問うているんだ。どうやら自分に与えられた任務を理解していないようだな。俺たちは仕事でこの任務地に来ている。聖女を招聘するエヴァエロン共和国に、国内の治安維持や聖女護衛のための手を貸すことがここでの俺たちの仕事だ。お前の私情なんか、この任務には砂粒ほども関係がない。そんなものを挟み込んでくるな。もう一度教練場に戻って、軍での団体行動のなんたるかを一から学ぶか? ティルフィーユ姫のいない教練場でな」
「っ……」
バイロンはウェスライの気持ちを理解している。そのうえで釘を刺されてしまい、ウェスライは黙るしかなかった。
「マンダール殿、彼は異国の騎士に学びたいとの思いで勝負を申し出た……今の手合わせはそれだけのこと。どうかそこまでで」
「はあ……キアン団長がそうおっしゃってくださるなら。間違ってもこいつはスベーク城に近付けさせないので、どうかご容赦を」
「承知した」
頭を下げるバイロンに頷くと、キアンはマントをひるがえして訓練場に背を向ける。ウェスライは二発殴られた腹部に手を当てながら、その背中を忌々しく見送った。
「ハンデをもらっておいてよかったな」
「は? 俺はハンデなんか」
「はあ……」
バイロンはウェスライの背中をたたいて訓練場を去りつつ、深くため息をついた。
「ひよっこにはまだわかんねぇか。キアン団長のあの体幹の強さ、身体の軸のブレなささ……あの人はおそらく、体術が最も得意……つまり、素手で戦う時が一番強い。木刀での勝負なんか、あの人からハンデをもらってるようなもんだ」
「なっ……」
そんなこと、ウェスライは少しもわからなかった。しかし長らくハリーン家に仕えている武人の家系のバイロンが言うのなら、それは真実なのだろう。
「ティルフィーユ姫に気があるのはお前だけじゃない。ほかにも大勢いる。けどな、ティルフィーユ姫はもうこの国の騎士団長と結婚したんだ。逆立ちしたってお前ら小粒の兵士にチャンスなんかない。相手のことをよく知らないでへたに勘繰って嫉妬するより、お前はお前の幸せを見つけろ。それができないというのなら、この国で生きることになったティルフィーユ姫がいつまでも母国を誇りに思えるように、グントバハロンの武人としてきっちり働け。ティルフィーユ姫がこの地で幸せに生きていることを願いながらな」
バイロンの容赦のない言葉は、グサグサとウェスライの心に刺さる。
チャンスなんかない――そんなことはわかっている。もし今もまだティルフィーユが独身だったとしても、彼女はれっきとした宗家の姫だ。嫁ぐにしても、相手は名のある家の男に違いない。それに、キアンとの夫婦関係が実際のところどうなのか、ウェスライには何もわからない。バイロンの言うとおり、自分はへたに勘繰って一方的に嫉妬して勝負をしかけただけ。それなのにキアンはまったく意に介していなかったし、そんなウェスライをかばう発言まで残した。
(勝負にすら……なっていないのか)
男として、ウェスライは何ひとつキアンに勝てていない。ティルフィーユを想う気持ちなら誰にも負けないと、ずっと心の中に秘めていたのに。その気持ちの深さで勝負できる土俵自体、そもそもどこにもないのだ。
(くそ……っ)
わかっている。誰かを想う気持ちで他人と競おうとすること自体が間違っている。けれども、男からしたらそれはれっきとした勝負だ。ティルフィーユからの愛を得られるのは、数多くいる男の中からたった一人なのだから。だがその勝負に参加することもできずに、ウェスライの敗北は決まっている。そして勝者はキアンなのだ。
(くそ……っ!)
バイロンに二回殴られた腹が痛む。しかしそれ以上に、情けない自分に怒りが湧く。ウェスライの表情は悔しさでゆがんでいた。
そんなウェスライの様子を見て「こりゃまだしばらくは反省しないな」と思い、バイロンはさらにため息をついたのだった。
◆◇◆◇◆
「はい」
ティルフィーユがスベーク城を歩き回っている頃、キアンは訓練場でグントバハロンの一兵卒と向かい合っていた。父との手合わせや部下たちとの鍛錬でそうして木刀を手にすることは日常茶飯事だったが、グントバハロンの兵士と向き合うのはこれが初めてのことだった。
「手加減はしないでください。それと、俺が勝ったら、俺をスベーク城警備の精鋭部隊に推薦してください」
「……わかった」
突如なんの前振りもなく勝負を挑んできたその青年の名は、グントバハロンの一兵卒ウェスライ・トラトニク。バイロンほどではないが男性の中でも背は高い方で、肩幅もなかなかに広い。さすがはグントバハロンの軍事教育を受けた者、という雰囲気ではあるが、しかしその青い瞳がキアンに向ける眼差しには、やけに子供じみた炎が宿っている。なぜ彼からそんな視線を向けられるのか理由はさっぱりわからないが、喧嘩を売られたということははっきりとわかったので、キアンは言葉少なにウェスライとの勝負、そして勝利時の報酬を受け入れたのだった。
「…………」
「…………」
木刀を構えた二人は、互いの一挙手一投足を見逃すまいと無言で睨み合う。
「グントバハロンのあの兵士、怖いもの知らずかよ。ストーラー騎士団長に勝負を挑むなんて」
「ミリ族の強さを知らないんじゃないのか」
日頃キアンに容赦なく打ちのめされて――ではなく、鍛えられている騎士団の兵士たちが、訓練場の端に寄って二人の睨み合いを見守っている。
「なんでウェスライが騎士団長さんと勝負してるんだ?」
「さあ? でも、見るだけなら面白そうだな」
経緯はわからないが、エヴァエロン共和国の騎士団長と自国の兵士が勝負をすると聞きつけたグントバハロンの武人たちもちらほら、エヴァエロンの兵士や騎士たちに交じって見物に来ている。
ひそひそとした野次馬のその声が聞こえなくもないが、キアンは徐々に集中力を高めてその声をシャットアウトした。
――ダッ。
踏み込んで先に仕掛けたのはウェスライだった。まずはキアンの出方をうかがうためか、あえてキアンが受けやすいように真正面から木刀を打ち込む。当然キアンはそれを木刀で受け止めてから、軽く腕を振ってウェスライをいなした。
「はっ!」
単純な腕力ならそれほど差はないと判断したウェスライは、スピード重視で木刀を打ち込んでいく。そうして一瞬でもキアンがひるめばそこに力強い一撃を加えようと目論見るが、しかしキアンはじっとウェスライの動きを見つめながら、どんな角度からの攻撃もすべて受け止め、きっちりと弾き返す。
「っ……このっ!」
予想以上にしぶとく、少しも体勢を崩さないキアンにウェスライは焦る。それなのに、キアンから積極的に攻撃をしてくることはない。まるで子供の攻撃を受け流すかのように、ただウェスライをあしらうだけだ。
(舐めやがって……!)
キアンに馬鹿にされていると感じたウェスライの頭に血が上る。
(こんな……こんな奴に……っ!)
キアンは不細工ではないが、とても整った顔立ちをしているわけではない。体格には恵まれており騎士としての実力はあるのだろうが、だからといってそれがティルフィーユを幸せにするわけではない。きっと家でもティルフィーユには無口で無表情で、気の利いた会話のひとつもできやしないんだろう。
宗家の子女ならば政略結婚は定められた運命かもしれないが、それでも、可憐で優しいティルフィーユにはもっとふさわしい相手がいたはずだ。こんなガタイのいいことぐらいしか取り柄がなさそうな威圧的な男なんかより、もっとほかに――。
(――俺が……っ)
――ガンッ!
ウェスライが思考を散らしたほんの一瞬だった。キアンが無音でウェスライに踏み込み、激しく木刀を振る。そのとてつもないスピードと力が、ウェスライが握っていた木刀を弾き飛ばす。そして体勢を崩して尻もちをついたウェスライの喉元に、キアンは木刀の切っ先を突き付けた。
「…………」
キアンは黙ったままウェスライを見下ろす。弱った獲物が次にどんな挙動に出るのか、一切気を抜かずに注意深く見張っているようでもあった。
「くっ……」
「勝負あり……で、いいな」
悔しそうに喉を鳴らすウェスライに、キアンは低い声で呟いた。外周にいる観客たちからは歓声の声が飛んできているが、キアンはそんな声など意に介さない。ただじっと、ウェスライを見下ろしている。
「お前個人から恨みを買った覚えはないんだが」
木刀をウェスライから遠ざけて、姿勢を正しながらキアンは問うた。
このウェスライというグントバハロンの若い兵士が勝負を挑んできた理由に、キアンは一切心当たりがない。けれども、互いの実力を測りたいだとか、強い相手と勝負をしてみたいだとか、そういった武力への純粋な熱意ゆえにというよりも、何か別の理由で挑まれたような気がしていた。実際、打ち合っている最中のウェスライの目的は、キアンに勝つことというよりも何かほかのことをわからせたい――そんな思惑があるように見えた。
「あ、んた……なんかに……っ」
ウェスライは腰を上げながら下唇を噛む。
「ティルフィーユ姫は……ふさわしくないっ!」
ウェスライに睨まれたキアンはその視線を受け止めた。しかしすぐにため息をつき、視線を斜め下にそらしてぼそりと呟く。
「十分承知している」
「このっ……!」
自覚があるのか。やはりティルフィーユのことは大事になどしていないのか。
ウェスライは怒りに目を見開きキアンに殴りかかろうと拳を振り上げた。
――ぐいっ、どごぉっ!
「ぐふっ……」
しかし、ウェスライは背後から近付いてきた大男に振り向かされると、強烈なパンチを腹部にくらい、地面に膝を突いた。
「キアン団長、すみません、うちの若いのが」
ウェスライの腹にパンチを入れて物理的におとなしくさせたのは、バイロン・マンダールだった。
「ウェスライ、キアン団長に喧嘩を売れという任務を与えた覚えはないんだが?」
「ぐっ……すみません、でもっ……」
――どごっ!
ウェスライは腹部をおさえながらも立ち上がる。しかし、立ち上がったウェスライのそれ以上の言葉を許さず、バイロンは再びウェスライの腹にパンチを入れた。
「く、ふっ……」
「反論を聞きたいんじゃない。規律違反の自覚はあるのかと問うているんだ。どうやら自分に与えられた任務を理解していないようだな。俺たちは仕事でこの任務地に来ている。聖女を招聘するエヴァエロン共和国に、国内の治安維持や聖女護衛のための手を貸すことがここでの俺たちの仕事だ。お前の私情なんか、この任務には砂粒ほども関係がない。そんなものを挟み込んでくるな。もう一度教練場に戻って、軍での団体行動のなんたるかを一から学ぶか? ティルフィーユ姫のいない教練場でな」
「っ……」
バイロンはウェスライの気持ちを理解している。そのうえで釘を刺されてしまい、ウェスライは黙るしかなかった。
「マンダール殿、彼は異国の騎士に学びたいとの思いで勝負を申し出た……今の手合わせはそれだけのこと。どうかそこまでで」
「はあ……キアン団長がそうおっしゃってくださるなら。間違ってもこいつはスベーク城に近付けさせないので、どうかご容赦を」
「承知した」
頭を下げるバイロンに頷くと、キアンはマントをひるがえして訓練場に背を向ける。ウェスライは二発殴られた腹部に手を当てながら、その背中を忌々しく見送った。
「ハンデをもらっておいてよかったな」
「は? 俺はハンデなんか」
「はあ……」
バイロンはウェスライの背中をたたいて訓練場を去りつつ、深くため息をついた。
「ひよっこにはまだわかんねぇか。キアン団長のあの体幹の強さ、身体の軸のブレなささ……あの人はおそらく、体術が最も得意……つまり、素手で戦う時が一番強い。木刀での勝負なんか、あの人からハンデをもらってるようなもんだ」
「なっ……」
そんなこと、ウェスライは少しもわからなかった。しかし長らくハリーン家に仕えている武人の家系のバイロンが言うのなら、それは真実なのだろう。
「ティルフィーユ姫に気があるのはお前だけじゃない。ほかにも大勢いる。けどな、ティルフィーユ姫はもうこの国の騎士団長と結婚したんだ。逆立ちしたってお前ら小粒の兵士にチャンスなんかない。相手のことをよく知らないでへたに勘繰って嫉妬するより、お前はお前の幸せを見つけろ。それができないというのなら、この国で生きることになったティルフィーユ姫がいつまでも母国を誇りに思えるように、グントバハロンの武人としてきっちり働け。ティルフィーユ姫がこの地で幸せに生きていることを願いながらな」
バイロンの容赦のない言葉は、グサグサとウェスライの心に刺さる。
チャンスなんかない――そんなことはわかっている。もし今もまだティルフィーユが独身だったとしても、彼女はれっきとした宗家の姫だ。嫁ぐにしても、相手は名のある家の男に違いない。それに、キアンとの夫婦関係が実際のところどうなのか、ウェスライには何もわからない。バイロンの言うとおり、自分はへたに勘繰って一方的に嫉妬して勝負をしかけただけ。それなのにキアンはまったく意に介していなかったし、そんなウェスライをかばう発言まで残した。
(勝負にすら……なっていないのか)
男として、ウェスライは何ひとつキアンに勝てていない。ティルフィーユを想う気持ちなら誰にも負けないと、ずっと心の中に秘めていたのに。その気持ちの深さで勝負できる土俵自体、そもそもどこにもないのだ。
(くそ……っ)
わかっている。誰かを想う気持ちで他人と競おうとすること自体が間違っている。けれども、男からしたらそれはれっきとした勝負だ。ティルフィーユからの愛を得られるのは、数多くいる男の中からたった一人なのだから。だがその勝負に参加することもできずに、ウェスライの敗北は決まっている。そして勝者はキアンなのだ。
(くそ……っ!)
バイロンに二回殴られた腹が痛む。しかしそれ以上に、情けない自分に怒りが湧く。ウェスライの表情は悔しさでゆがんでいた。
そんなウェスライの様子を見て「こりゃまだしばらくは反省しないな」と思い、バイロンはさらにため息をついたのだった。
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