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第一章
震える影
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薄暗い実験棟の壁には、プロローグの異常事態を思わせるようなひび割れが僅かに走って
いた。だがそれに気づく者はいなかった。早朝の研究所〈セプテント・ノクス〉は、昨夜
の“成功”の余韻に浸り、控えめな熱狂に包まれていたからだ。
ヴァルネ・イストは、白衣を身にまとったまま、無人の廊下を歩いていた。徹夜の疲労
で足は重く、視界も霞む。だが、視界の端では――自分の影だけが、妙に輪郭を揺らして
いるのが見えた。蛍光灯の下、影は本来くっきりと伸びるはずだ。
だが今のそれは、薄い膜のように震えて見えた。
「……また、だ。」
昨夜の実験以降、ヴァルネの影はどこかおかしかった。脈打つように波紋が走ることも
あるし、歩く速度に微妙に遅れてついてくることもあった。睡眠不足による錯覚だと自分
に言い聞かせてはいたが、否定しきれない違和感が胸に残る。
研究棟奥の休憩室に入ると、すでに数名の研究員が集まっていた。
簡易テーブルにはパン、果物、そして祝杯の余韻を残すワインボトルの残骸。皆が浮か
れ気分を引きずっている。
「おはよう、ヴァルネ。昨夜の君のデータ――見事だったよ。」
主任研究員のロズィックが言った。彼の頬は興奮で赤く染まり、目はぎらついていた。
「……ありがとう。でも、本当に成功と言える段階なのかわからない。」
ヴァルネは曖昧に笑うしかなかった。
テーブルの近くに立つ別の研究員、ミルカがふと足元を見て青ざめた。
「……ねぇ、ちょっと。私の影、見て。」
皆が彼女の足元を見ると、ミルカの影が微かに“波打って”いた。
風はない。照明は一定。なのに影だけが、呼吸するように膨らんだり縮んだりしてい
る
。
「
うわ……俺も、昨日ちょっと似た感じがあったんだよな……」
若手研究員のダロフが自分の足元を見つめながら呟く。
ロズィック主任は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに笑って言った。
「ははは、徹夜続きなんだから、視覚異常くらい出るだろう?神経質になるな。」
だが、ヴァルネは黙っていた。
彼の影は――ミルカよりも、もっとはっきりと“脈打って”いる。
しかも、さっき廊下で見た時よりさらに明確に。
視線を落とすと、影の内部に、黒い水が逆流するような波紋。
その中心から、かすかな“声”が聞こえた気がした。 ――ヴァルネ。
「……ッ!」
ヴァルネは思わず身を固くした。
呼ばれた。たしかに。
しかし、その声は耳ではなく“胸の奥”に直接響いたような感覚だった。
「どうした?具合でも悪いのか?」
ミルカが声をかける。
ヴァルネは首を振り、なんでもないと答えた。
だが、内心では叫びたいほどの異様な恐怖が沸き立っていた。
(影が……声に反応した?)
思い出す。
今朝、廊下を歩いていたとき、彼は無意識に独り言を呟いた。
「……昨夜のデータの整合性、もう一度見直さないと……」
その瞬間だった。
“自分の言葉に合わせて、影がくねり動いた”のだ。
あれは疲労ではない。錯覚でもない。
影は――まるで何かを聞き取るように、反応していた。
ふと、休憩室のテレビモニターが切り替わり、ニュースが流れた。
〈北方地域におけるロシア連邦とクロアチア連盟間の紛争が拡大――〉
研究員たちの表情から笑いが消えた。
この国はその紛争の中立地帯にあるが、実験成果が“兵器応用”できる可能性は軍部に
も注目されており、彼らの研究は常に政治と隣り合わせだった。
「……面倒なことになりそうね。」
ミルカがため息をつく。
ロズィック主任は肩をすくめた。
「紛争が続けば続くほど、我々の研究は“必要とされる”。予算は増えるだろう。」
その言葉に、ヴァルネの影がぞわりと震えた。
まるで―― “戦争”という単語に共鳴したかのように。
(……いや、まさか。)
ヴァルネは逃げるように休憩室を出た。
廊下に立ち、深呼吸した。
しかし、足元の影は彼の呼吸とは異なるリズムで波打っている。
静寂の中で、再び囁き声がした。 ――ヴァルネ、見せろ。
「何を……見せろって言うんだ?」
影は応えるように形を変えた。
人の手。
いや、指のような影が、床に“這い出す”ように伸びた。
ブァルネは凍ついた。
理性が声を上げる。
(影が……影が三次元的に広がるはずがない!)
だが現実は否定できない。
影は、曖昧に、しかし確かに“生命のように動いた”。
すると―― 影の中に、ほんの一瞬、まったく知らない“顔”が映り込んだ。
古代の仮面のような、空洞の目。
口の中は闇しかなく、そこから黒い霧が溢れ出し…… ――ヴァル、ネ。
脳を直接叩くような声。
ヴァルネは反射的に後退った。
だが影は彼の足に絡みつこうと伸び―― 「やめろッ!!!」
叫んだ瞬間、影はぴたりと動きを止め、元の形に戻った。
ただの影に。
あまりにも静かだった。
さっきまでの怪異が嘘のように。
だがヴァルネは知っている。
“あれ”は現実だ。
影は脈動し、囁きに反応し、何かを伝えようとしている。
いや、もっと悪い。 ――“何かに使われようとしている”。
研究所の明るい照明さえ、今は不気味に見えた。
遠くで警報のような機械音が鳴り始めた。
誰かが叫ぶ声が聞こえる。
「観測室の被験体、反応が異常だ!早く来い!」
ヴァルネは顔を上げた。
胸騒ぎが全身を支配する。
“影の怪異”と“被験体の異常”―― それらは、きっと無関係ではない。
そう確信しながら、ヴァルネは研究棟の奥へと走った。
足元の影が、不気味な満足を湛えたように波紋を広げながら。
いた。だがそれに気づく者はいなかった。早朝の研究所〈セプテント・ノクス〉は、昨夜
の“成功”の余韻に浸り、控えめな熱狂に包まれていたからだ。
ヴァルネ・イストは、白衣を身にまとったまま、無人の廊下を歩いていた。徹夜の疲労
で足は重く、視界も霞む。だが、視界の端では――自分の影だけが、妙に輪郭を揺らして
いるのが見えた。蛍光灯の下、影は本来くっきりと伸びるはずだ。
だが今のそれは、薄い膜のように震えて見えた。
「……また、だ。」
昨夜の実験以降、ヴァルネの影はどこかおかしかった。脈打つように波紋が走ることも
あるし、歩く速度に微妙に遅れてついてくることもあった。睡眠不足による錯覚だと自分
に言い聞かせてはいたが、否定しきれない違和感が胸に残る。
研究棟奥の休憩室に入ると、すでに数名の研究員が集まっていた。
簡易テーブルにはパン、果物、そして祝杯の余韻を残すワインボトルの残骸。皆が浮か
れ気分を引きずっている。
「おはよう、ヴァルネ。昨夜の君のデータ――見事だったよ。」
主任研究員のロズィックが言った。彼の頬は興奮で赤く染まり、目はぎらついていた。
「……ありがとう。でも、本当に成功と言える段階なのかわからない。」
ヴァルネは曖昧に笑うしかなかった。
テーブルの近くに立つ別の研究員、ミルカがふと足元を見て青ざめた。
「……ねぇ、ちょっと。私の影、見て。」
皆が彼女の足元を見ると、ミルカの影が微かに“波打って”いた。
風はない。照明は一定。なのに影だけが、呼吸するように膨らんだり縮んだりしてい
る
。
「
うわ……俺も、昨日ちょっと似た感じがあったんだよな……」
若手研究員のダロフが自分の足元を見つめながら呟く。
ロズィック主任は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに笑って言った。
「ははは、徹夜続きなんだから、視覚異常くらい出るだろう?神経質になるな。」
だが、ヴァルネは黙っていた。
彼の影は――ミルカよりも、もっとはっきりと“脈打って”いる。
しかも、さっき廊下で見た時よりさらに明確に。
視線を落とすと、影の内部に、黒い水が逆流するような波紋。
その中心から、かすかな“声”が聞こえた気がした。 ――ヴァルネ。
「……ッ!」
ヴァルネは思わず身を固くした。
呼ばれた。たしかに。
しかし、その声は耳ではなく“胸の奥”に直接響いたような感覚だった。
「どうした?具合でも悪いのか?」
ミルカが声をかける。
ヴァルネは首を振り、なんでもないと答えた。
だが、内心では叫びたいほどの異様な恐怖が沸き立っていた。
(影が……声に反応した?)
思い出す。
今朝、廊下を歩いていたとき、彼は無意識に独り言を呟いた。
「……昨夜のデータの整合性、もう一度見直さないと……」
その瞬間だった。
“自分の言葉に合わせて、影がくねり動いた”のだ。
あれは疲労ではない。錯覚でもない。
影は――まるで何かを聞き取るように、反応していた。
ふと、休憩室のテレビモニターが切り替わり、ニュースが流れた。
〈北方地域におけるロシア連邦とクロアチア連盟間の紛争が拡大――〉
研究員たちの表情から笑いが消えた。
この国はその紛争の中立地帯にあるが、実験成果が“兵器応用”できる可能性は軍部に
も注目されており、彼らの研究は常に政治と隣り合わせだった。
「……面倒なことになりそうね。」
ミルカがため息をつく。
ロズィック主任は肩をすくめた。
「紛争が続けば続くほど、我々の研究は“必要とされる”。予算は増えるだろう。」
その言葉に、ヴァルネの影がぞわりと震えた。
まるで―― “戦争”という単語に共鳴したかのように。
(……いや、まさか。)
ヴァルネは逃げるように休憩室を出た。
廊下に立ち、深呼吸した。
しかし、足元の影は彼の呼吸とは異なるリズムで波打っている。
静寂の中で、再び囁き声がした。 ――ヴァルネ、見せろ。
「何を……見せろって言うんだ?」
影は応えるように形を変えた。
人の手。
いや、指のような影が、床に“這い出す”ように伸びた。
ブァルネは凍ついた。
理性が声を上げる。
(影が……影が三次元的に広がるはずがない!)
だが現実は否定できない。
影は、曖昧に、しかし確かに“生命のように動いた”。
すると―― 影の中に、ほんの一瞬、まったく知らない“顔”が映り込んだ。
古代の仮面のような、空洞の目。
口の中は闇しかなく、そこから黒い霧が溢れ出し…… ――ヴァル、ネ。
脳を直接叩くような声。
ヴァルネは反射的に後退った。
だが影は彼の足に絡みつこうと伸び―― 「やめろッ!!!」
叫んだ瞬間、影はぴたりと動きを止め、元の形に戻った。
ただの影に。
あまりにも静かだった。
さっきまでの怪異が嘘のように。
だがヴァルネは知っている。
“あれ”は現実だ。
影は脈動し、囁きに反応し、何かを伝えようとしている。
いや、もっと悪い。 ――“何かに使われようとしている”。
研究所の明るい照明さえ、今は不気味に見えた。
遠くで警報のような機械音が鳴り始めた。
誰かが叫ぶ声が聞こえる。
「観測室の被験体、反応が異常だ!早く来い!」
ヴァルネは顔を上げた。
胸騒ぎが全身を支配する。
“影の怪異”と“被験体の異常”―― それらは、きっと無関係ではない。
そう確信しながら、ヴァルネは研究棟の奥へと走った。
足元の影が、不気味な満足を湛えたように波紋を広げながら。
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