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第三章
囁く廊下 影の侵蝕
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警報が赤い閃光となり、廊下に断続的な明滅を投げかけていた。
そのたびに、ヴァルネの影は歪み、伸び、濁り、そして── 生き物のように脈打った。
(落ち着け……落ち着くんだ……)
そう言い聞かせても、呼吸は浅く速くなり、胸の奥では得体の知れないものが蠕動する
ようにうずいていた。
観測室のシャッター越しに聞こえる「影の衝撃音」は、なおも規則性のない咆哮のよう
に響いている。 ――ドゥン……ッ……、ガァン……。
ミルカが壁に手をつき、震えていた。
「ヴァルネ……お願い、説明して。さっきから、あなたの影……明らかに普通じゃない。
なにが起きてるの?影が……息をしてるみたいに……」
ヴァルネは答えられない。
答えられるはずがなかった。
影の囁きが、彼にしか聞こえない声で語りかけていたからだ。 ――開けよ。 ――ここではない。 ――もっと広いところへ。 ――“戦の地”へ。
その言葉は低く湿った響きで、脳の奥に直接注ぎ込まれる。
(……戦の地?なぜ“戦争”にこだわる……?)
ロシアとクロアチアの国境紛争が再燃したというニュースを、午前に研究所で聞いたば
かりだった。
ただの地政学的衝突のはずが、影はその言葉に異様な反応を示している。
(まさか……影は“混乱”を求めているのか……?
紛争地域なら警戒網も乱れ、感染も隠蔽もやりたい放題になる……)
思考の途中、館内スピーカーが突然割れたような音を吐き出した。
《……異常反応……区域Cで……し……ん……侵蝕反応……ロック……不可……》
放送が途中で途切れ、次いで細く、湿った音がスピーカーから漏れ出す。 ――く……クゥ……イ……。
ミルカが耳を塞いだ。
「スピーカーまで!?こんな……影の“ノイズ”が電気系統にまで……!」
ヴァルネの影が、再び震えた。 ――上へ。 ――ノ……ボ……レ。 ――解き放て。
(上階、、?何がある?)
ヴァルネの脳裏にちらついたのは、彼らが決してアクセスできない「特権実験層」──
研究所で最も深い禁区の一つだ。
そこでは軍絡みの実験が行われ、外交的緊張にある複数の国が共同研究を行っていると
噂されていた。
影の声は、そこへ向かえと告げている。
「ヴァルネ、下がって」
ミルカが袖を掴む。
「観測室からのブレイクアウトに備えて、防護壁のある中枢区画に避難すべきよ。
あなた、影の異常に巻き込まれてるのよ……どう見ても……」
しかし、ヴァルネは首を振った。
「……違う。俺が行かないといけない。
“あれ”は俺を知っている。俺を呼んでいる……」
「何を言って……!」
ミルカが反論しようとしたその瞬間──
廊下の奥から、ひとつの“音”が聞こえた。
人間の足音ではなかった。
カサ……カサ……カサ……
乾いた虫の足音のようであり、濡れた布を引きずるようでもある。
次第に、それは複数になり、
カサ……カサ……カサ……カサ……カサ……
廊下の暗がりが、鼓動のように波打った。
警報灯がまた点滅し、闇と光が交互に走る。
そのたび、廊下の床に黒い“手”の影が映り──
次の瞬間には消えていた。
ミルカが震え声で言った。
「ヴァルネ……誰かが……来る……?」
「違う。誰かじゃない。
“あれ”が……広がっている……」
影が足元で繰り返し脈動し、ヴァルネの心拍と同期し始めた。
その感覚は、体の内部にもう一つ心臓が生まれたようで、身の内側から震える。
突然──
廊下奥の非常灯が破裂した。
パキッ!!
暗闇が波のように押し寄せた。
次いで、壁のガラス窓に“人影”が映る。
だが、その人影には身体がない。
光の反射でもない。
影そのものが“実体化した欠片”になって、壁面に張り付いていた。
ミルカが声にならない悲鳴を漏らした。
「な、なに……あれ……?人の形……だけど……!」
影は、薄い膜のように壁を這い、廊下の中央へと降りてきた。
床に溶けていく影の形は、まるで人間の形を“捨てている”ようだった。
そして── 影が床でうずくまり、波紋を広げる。
ヴァルネの影が、それに応じるように大きく膨張し、また縮んだ。 ――ちかい。 ――もっと……ちかくへ。
(こいつは……俺を……取り込もうとしている……?
それとも、俺に“扉”を開かせようとしているのか……?)
その時、後方から別の研究員が転がり込んできた。
「に、逃げろ!検体が……他の区画でも……!」
言葉が途中で切れた。
彼の背後から、黒い霧が細長い触手のように伸びてきて、
研究員の影と“重なった”瞬間── 彼は無音で崩れ落ちた。
身体自体は損傷していない。
だが、影が消えている。
影のない身体は、微動だにしないまま床に横たわっている。
ミルカが顔面を蒼白にした。
「影が……奪われた……?そんなの……そんな死に方……聞いたことない……」
ヴァルネは、影に飲まれた男の亡骸を見つめながら呟いた。
「……影はただの“影”じゃない。
これは……“魂の形”なんだ。」
ミルカが凍りつく。
「魂……?」
「魂を引き剝がされたら……人間は動けない。
生きているけど、生きていない。
これは……ウイルスじゃない。
“霊障の侵蝕”だ。」
影が低く響く声を吐き出した。 ――正解。 ――ひらけ。 ――戦火へ。
我らを連れていけ。
影は軍事区画を求めている。
ロシアとクロアチアの紛争地へ、自らが到達するために──
人間の戦争を“乗り物”にしていくつもりだ。
ヴァルネは震えながらも理解する。
(影の存在は……戦争を餌にしている。混乱、死、騒乱……
それらが影の霊を強く呼び寄せる……
あれは“戦争を求める霊”だ……
この世に災厄を呼び込むための……)
ミルカがヴァルネの腕を掴む。
「このままじゃ研究所は全滅する!避難ルートへ行くわよ!
お願い、来て……!あなたまで取り込まれたら……!」
ヴァルネはミルカを見つめた。
恐怖に満ちていながらも、どこか必死に彼を繋ぎ止めようとする瞳。
しかし──
影の声がひどく強くなる。 ――来い。 ――ヴァルネ。 ――“鍵”はお前だ。
廊下の影が一気に盛り上がり、ヴァルネの両足首を掴んだ。
ミルカが叫ぶ。
「ヴァルネ!!」
影が床から噴き出し、二人の間に“黒い壁”となって立ち上がる。
そして影は形を取り始めた。
無数の手、無数の顔、無数の穴。
戦争で死んだ無名の人々を模した、歪んだ亡霊の群れ。
ヴァルネの影が脈打つ。
彼の胸の内で何かが目覚める。 ――ひらけ。 ――我を戦場へ。 ――世界を覆え。
ヴァルネは影の中へ引きずり込まれかけながら、
ミルカの叫ぶ声を遠くに聞いた。
「ヴァルネ!!行かないで!!」
だが──
影はヴァルネを選んだ。
闇が彼の視界を飲み込み、
世界はゆっくりと暗転していった。
そのたびに、ヴァルネの影は歪み、伸び、濁り、そして── 生き物のように脈打った。
(落ち着け……落ち着くんだ……)
そう言い聞かせても、呼吸は浅く速くなり、胸の奥では得体の知れないものが蠕動する
ようにうずいていた。
観測室のシャッター越しに聞こえる「影の衝撃音」は、なおも規則性のない咆哮のよう
に響いている。 ――ドゥン……ッ……、ガァン……。
ミルカが壁に手をつき、震えていた。
「ヴァルネ……お願い、説明して。さっきから、あなたの影……明らかに普通じゃない。
なにが起きてるの?影が……息をしてるみたいに……」
ヴァルネは答えられない。
答えられるはずがなかった。
影の囁きが、彼にしか聞こえない声で語りかけていたからだ。 ――開けよ。 ――ここではない。 ――もっと広いところへ。 ――“戦の地”へ。
その言葉は低く湿った響きで、脳の奥に直接注ぎ込まれる。
(……戦の地?なぜ“戦争”にこだわる……?)
ロシアとクロアチアの国境紛争が再燃したというニュースを、午前に研究所で聞いたば
かりだった。
ただの地政学的衝突のはずが、影はその言葉に異様な反応を示している。
(まさか……影は“混乱”を求めているのか……?
紛争地域なら警戒網も乱れ、感染も隠蔽もやりたい放題になる……)
思考の途中、館内スピーカーが突然割れたような音を吐き出した。
《……異常反応……区域Cで……し……ん……侵蝕反応……ロック……不可……》
放送が途中で途切れ、次いで細く、湿った音がスピーカーから漏れ出す。 ――く……クゥ……イ……。
ミルカが耳を塞いだ。
「スピーカーまで!?こんな……影の“ノイズ”が電気系統にまで……!」
ヴァルネの影が、再び震えた。 ――上へ。 ――ノ……ボ……レ。 ――解き放て。
(上階、、?何がある?)
ヴァルネの脳裏にちらついたのは、彼らが決してアクセスできない「特権実験層」──
研究所で最も深い禁区の一つだ。
そこでは軍絡みの実験が行われ、外交的緊張にある複数の国が共同研究を行っていると
噂されていた。
影の声は、そこへ向かえと告げている。
「ヴァルネ、下がって」
ミルカが袖を掴む。
「観測室からのブレイクアウトに備えて、防護壁のある中枢区画に避難すべきよ。
あなた、影の異常に巻き込まれてるのよ……どう見ても……」
しかし、ヴァルネは首を振った。
「……違う。俺が行かないといけない。
“あれ”は俺を知っている。俺を呼んでいる……」
「何を言って……!」
ミルカが反論しようとしたその瞬間──
廊下の奥から、ひとつの“音”が聞こえた。
人間の足音ではなかった。
カサ……カサ……カサ……
乾いた虫の足音のようであり、濡れた布を引きずるようでもある。
次第に、それは複数になり、
カサ……カサ……カサ……カサ……カサ……
廊下の暗がりが、鼓動のように波打った。
警報灯がまた点滅し、闇と光が交互に走る。
そのたび、廊下の床に黒い“手”の影が映り──
次の瞬間には消えていた。
ミルカが震え声で言った。
「ヴァルネ……誰かが……来る……?」
「違う。誰かじゃない。
“あれ”が……広がっている……」
影が足元で繰り返し脈動し、ヴァルネの心拍と同期し始めた。
その感覚は、体の内部にもう一つ心臓が生まれたようで、身の内側から震える。
突然──
廊下奥の非常灯が破裂した。
パキッ!!
暗闇が波のように押し寄せた。
次いで、壁のガラス窓に“人影”が映る。
だが、その人影には身体がない。
光の反射でもない。
影そのものが“実体化した欠片”になって、壁面に張り付いていた。
ミルカが声にならない悲鳴を漏らした。
「な、なに……あれ……?人の形……だけど……!」
影は、薄い膜のように壁を這い、廊下の中央へと降りてきた。
床に溶けていく影の形は、まるで人間の形を“捨てている”ようだった。
そして── 影が床でうずくまり、波紋を広げる。
ヴァルネの影が、それに応じるように大きく膨張し、また縮んだ。 ――ちかい。 ――もっと……ちかくへ。
(こいつは……俺を……取り込もうとしている……?
それとも、俺に“扉”を開かせようとしているのか……?)
その時、後方から別の研究員が転がり込んできた。
「に、逃げろ!検体が……他の区画でも……!」
言葉が途中で切れた。
彼の背後から、黒い霧が細長い触手のように伸びてきて、
研究員の影と“重なった”瞬間── 彼は無音で崩れ落ちた。
身体自体は損傷していない。
だが、影が消えている。
影のない身体は、微動だにしないまま床に横たわっている。
ミルカが顔面を蒼白にした。
「影が……奪われた……?そんなの……そんな死に方……聞いたことない……」
ヴァルネは、影に飲まれた男の亡骸を見つめながら呟いた。
「……影はただの“影”じゃない。
これは……“魂の形”なんだ。」
ミルカが凍りつく。
「魂……?」
「魂を引き剝がされたら……人間は動けない。
生きているけど、生きていない。
これは……ウイルスじゃない。
“霊障の侵蝕”だ。」
影が低く響く声を吐き出した。 ――正解。 ――ひらけ。 ――戦火へ。
我らを連れていけ。
影は軍事区画を求めている。
ロシアとクロアチアの紛争地へ、自らが到達するために──
人間の戦争を“乗り物”にしていくつもりだ。
ヴァルネは震えながらも理解する。
(影の存在は……戦争を餌にしている。混乱、死、騒乱……
それらが影の霊を強く呼び寄せる……
あれは“戦争を求める霊”だ……
この世に災厄を呼び込むための……)
ミルカがヴァルネの腕を掴む。
「このままじゃ研究所は全滅する!避難ルートへ行くわよ!
お願い、来て……!あなたまで取り込まれたら……!」
ヴァルネはミルカを見つめた。
恐怖に満ちていながらも、どこか必死に彼を繋ぎ止めようとする瞳。
しかし──
影の声がひどく強くなる。 ――来い。 ――ヴァルネ。 ――“鍵”はお前だ。
廊下の影が一気に盛り上がり、ヴァルネの両足首を掴んだ。
ミルカが叫ぶ。
「ヴァルネ!!」
影が床から噴き出し、二人の間に“黒い壁”となって立ち上がる。
そして影は形を取り始めた。
無数の手、無数の顔、無数の穴。
戦争で死んだ無名の人々を模した、歪んだ亡霊の群れ。
ヴァルネの影が脈打つ。
彼の胸の内で何かが目覚める。 ――ひらけ。 ――我を戦場へ。 ――世界を覆え。
ヴァルネは影の中へ引きずり込まれかけながら、
ミルカの叫ぶ声を遠くに聞いた。
「ヴァルネ!!行かないで!!」
だが──
影はヴァルネを選んだ。
闇が彼の視界を飲み込み、
世界はゆっくりと暗転していった。
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