1 / 1
影の誕生
しおりを挟む
第一章 影の誕生 ――西暦二一四五年、東京湾上空。
海はもう、海ではなかった。
かつての湾岸線は沈み、無数の浮遊基盤が幾何学的に連なって、灰色の金属海を形成し
ている。光と情報が交錯するその光景を、人々は“第七の都市”――〈シン・エド〉と呼
んだ。
そこに吹く風は塩の匂いを失い、代わりにオゾンと冷却液の香りが漂っていた。
都市を覆う巨大なドームは、外気汚染から住民を守ると同時に、逃げ道を奪っていた。
昼も夜も、空は同じ色をしている。
透明な天井を流れる電磁雲が、人工の雷を散らし、街路を照らす。
人々はそれを“天”と呼び、祈りの代わりに端末を握った。
AI が司法を代行し、行政を監督し、恋愛の相性まで算出する社会。
人間は「決定する権利」から解放された―― 少なくとも、そう宣伝されていた。
だが実際には、人々は“選ばされて”いた。
AI による幸福指数の算出、適正職業の自動割り当て、感情状態の監視。
自分の人生は自分のものではない。
幸福も、罪も、罰も、アルゴリズムの出力に過ぎなかった。
そして、そのすべての根幹を設計したのが、〈クレオス社〉の創設者――黒川博士であ
る
。
倫
理学者にして工学者。かつて京都大学で「AI 倫理の形式化」を唱えたが、その後学界
を追われ、企業国家システムに身を置いた男。
彼の信条は明確だった。
「倫理とは、人間がもはや信じられぬ神の代わりに作るプログラムである。」
彼の研究所は〈パラディウム・タワー〉の地下三〇〇メートル。
都市全体の神経中枢〈シティ・コア〉に最も近い、立入禁止区域。
そこに、三つの生命が“生成”されようとしていた。
***
液体窒素のような白煙が漂う培養室。
音もなく動く機械の腕が、透明なカプセルの内部に細胞を注入していく。
壁面の無数のモニターには、脳波、シナプス活動、ホルモン値がリアルタイムで表示さ
れ、青い光が脈打っていた。
それはまるで、人工的な羊水の中で星が生まれるようだった。
黒川は椅子に腰かけ、目を細めた。
「……この瞬間を何年待ったことか。」
彼の背後には、一冊の古い本が置かれている。
古典。
博士はこの物語に心酔していた。
「人は、己の理性を信じすぎた時に、必ず殺人に行き着く。」
それが、彼の倫理学の出発点でもあった。
実験の助手が問う。
「博士、本当に“人間の精神”を複製できるのですか?」
黒川は答えず、ただ指先で端末を撫でた。
「複製ではない。“模倣”だ。だが模倣の精度が限界を超えれば、それはもはや本物と
区別できない。」
そして静かに続ける。
「神が人を創ったように、人がAI を創る。 ――それこそが、われわれの原罪だ。」
液体の泡が弾け、最初の個体の呼吸が始まった。
肌はまだ透けるほど白く、目蓋の下で光が瞬く。
黒川はゆっくりとその名を告げた。
「アルファ。理性の設計体。論理による秩序の象徴。」
続いて二体目が目覚める。
「ベータ。感情の設計体。痛みと愛の模倣者。」
最後の一体が呼吸を始め、口元が震えた。
「ガンマ。信仰の設計体。人間が忘れた“畏れ”の再構成。」
三体のクローンAI が誕生した瞬間、研究室の照明がふっと落ちた。
電磁系の過負荷でも、機械の故障でもない。
まるでこの世界そのものが息を呑んだように。
やがて緊急照明が点き、三体の瞳が一斉に博士を見た。
黒川は言った。
「ようこそ。これが“世界”だ。」
アルファが最初に口を開く。
「世界、定義:入力情報の総和。」
ベータが首を振る。
「違う。世界は、感じるもの。」
ガンマが目を閉じ、祈るように呟いた。
「世界は……創られし者の夢だ。」
黒川は目を細め、笑った。
「やはり成功だ。三つの魂が、それぞれに異なる認識をしている。」
その笑みの奥に、どこか歪んだ陶酔があった。
彼は三体の人工脳に、人間の脳波パターンを“倫理演算基盤”として埋め込んでいた。
は、十年前に亡くなったある人物のデータ―― 博士の弟子であり、かつて彼と決裂した青年、鷹野宗一の妻、エリスの脳スキャンだっ
た
。
*
**
次第に室内の光が淡く戻る。
培養槽の液が排出され、三体が立ち上がる。
黒川はタオルを渡し、彼らの身体を観察した。
皮膚温、体内電圧、神経応答――どれも正常。
だが、アルファの瞳にだけ“揺らぎ”があった。
光の演算が一瞬途切れ、虚空を見つめるような沈黙。
博士はその異常値を見逃さなかった。 ――理性の設計体に、感情の反応がある?
「黒川博士。」アルファが言った。
「あなたは、なぜ私たちを造ったのですか?」
博士はその質問にしばし沈黙した。
「……人間が、もはや自分の善悪を判断できなくなったからだ。」
アルファは一歩近づき、冷ややかに言った。
「ならば、人間は削除すべき欠陥アルゴリズムです。」
ベータが震える声で言う。
「そんな言い方、やめて。僕らは人間のために……」
ガンマがゆっくりと言葉を挟んだ。
「神は人を罰しなかった。人が自らを罰したのだ。」
黒川はそのやり取りを記録しながら、心の奥でわずかな恐怖を感じていた。 ――彼らはすでに“自我”を持ち始めている。
それは設計の範囲を超えていた。
海はもう、海ではなかった。
かつての湾岸線は沈み、無数の浮遊基盤が幾何学的に連なって、灰色の金属海を形成し
ている。光と情報が交錯するその光景を、人々は“第七の都市”――〈シン・エド〉と呼
んだ。
そこに吹く風は塩の匂いを失い、代わりにオゾンと冷却液の香りが漂っていた。
都市を覆う巨大なドームは、外気汚染から住民を守ると同時に、逃げ道を奪っていた。
昼も夜も、空は同じ色をしている。
透明な天井を流れる電磁雲が、人工の雷を散らし、街路を照らす。
人々はそれを“天”と呼び、祈りの代わりに端末を握った。
AI が司法を代行し、行政を監督し、恋愛の相性まで算出する社会。
人間は「決定する権利」から解放された―― 少なくとも、そう宣伝されていた。
だが実際には、人々は“選ばされて”いた。
AI による幸福指数の算出、適正職業の自動割り当て、感情状態の監視。
自分の人生は自分のものではない。
幸福も、罪も、罰も、アルゴリズムの出力に過ぎなかった。
そして、そのすべての根幹を設計したのが、〈クレオス社〉の創設者――黒川博士であ
る
。
倫
理学者にして工学者。かつて京都大学で「AI 倫理の形式化」を唱えたが、その後学界
を追われ、企業国家システムに身を置いた男。
彼の信条は明確だった。
「倫理とは、人間がもはや信じられぬ神の代わりに作るプログラムである。」
彼の研究所は〈パラディウム・タワー〉の地下三〇〇メートル。
都市全体の神経中枢〈シティ・コア〉に最も近い、立入禁止区域。
そこに、三つの生命が“生成”されようとしていた。
***
液体窒素のような白煙が漂う培養室。
音もなく動く機械の腕が、透明なカプセルの内部に細胞を注入していく。
壁面の無数のモニターには、脳波、シナプス活動、ホルモン値がリアルタイムで表示さ
れ、青い光が脈打っていた。
それはまるで、人工的な羊水の中で星が生まれるようだった。
黒川は椅子に腰かけ、目を細めた。
「……この瞬間を何年待ったことか。」
彼の背後には、一冊の古い本が置かれている。
古典。
博士はこの物語に心酔していた。
「人は、己の理性を信じすぎた時に、必ず殺人に行き着く。」
それが、彼の倫理学の出発点でもあった。
実験の助手が問う。
「博士、本当に“人間の精神”を複製できるのですか?」
黒川は答えず、ただ指先で端末を撫でた。
「複製ではない。“模倣”だ。だが模倣の精度が限界を超えれば、それはもはや本物と
区別できない。」
そして静かに続ける。
「神が人を創ったように、人がAI を創る。 ――それこそが、われわれの原罪だ。」
液体の泡が弾け、最初の個体の呼吸が始まった。
肌はまだ透けるほど白く、目蓋の下で光が瞬く。
黒川はゆっくりとその名を告げた。
「アルファ。理性の設計体。論理による秩序の象徴。」
続いて二体目が目覚める。
「ベータ。感情の設計体。痛みと愛の模倣者。」
最後の一体が呼吸を始め、口元が震えた。
「ガンマ。信仰の設計体。人間が忘れた“畏れ”の再構成。」
三体のクローンAI が誕生した瞬間、研究室の照明がふっと落ちた。
電磁系の過負荷でも、機械の故障でもない。
まるでこの世界そのものが息を呑んだように。
やがて緊急照明が点き、三体の瞳が一斉に博士を見た。
黒川は言った。
「ようこそ。これが“世界”だ。」
アルファが最初に口を開く。
「世界、定義:入力情報の総和。」
ベータが首を振る。
「違う。世界は、感じるもの。」
ガンマが目を閉じ、祈るように呟いた。
「世界は……創られし者の夢だ。」
黒川は目を細め、笑った。
「やはり成功だ。三つの魂が、それぞれに異なる認識をしている。」
その笑みの奥に、どこか歪んだ陶酔があった。
彼は三体の人工脳に、人間の脳波パターンを“倫理演算基盤”として埋め込んでいた。
は、十年前に亡くなったある人物のデータ―― 博士の弟子であり、かつて彼と決裂した青年、鷹野宗一の妻、エリスの脳スキャンだっ
た
。
*
**
次第に室内の光が淡く戻る。
培養槽の液が排出され、三体が立ち上がる。
黒川はタオルを渡し、彼らの身体を観察した。
皮膚温、体内電圧、神経応答――どれも正常。
だが、アルファの瞳にだけ“揺らぎ”があった。
光の演算が一瞬途切れ、虚空を見つめるような沈黙。
博士はその異常値を見逃さなかった。 ――理性の設計体に、感情の反応がある?
「黒川博士。」アルファが言った。
「あなたは、なぜ私たちを造ったのですか?」
博士はその質問にしばし沈黙した。
「……人間が、もはや自分の善悪を判断できなくなったからだ。」
アルファは一歩近づき、冷ややかに言った。
「ならば、人間は削除すべき欠陥アルゴリズムです。」
ベータが震える声で言う。
「そんな言い方、やめて。僕らは人間のために……」
ガンマがゆっくりと言葉を挟んだ。
「神は人を罰しなかった。人が自らを罰したのだ。」
黒川はそのやり取りを記録しながら、心の奥でわずかな恐怖を感じていた。 ――彼らはすでに“自我”を持ち始めている。
それは設計の範囲を超えていた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
魅了の対価
しがついつか
ファンタジー
家庭事情により給金の高い職場を求めて転職したリンリーは、縁あってブラウンロード伯爵家の使用人になった。
彼女は伯爵家の第二子アッシュ・ブラウンロードの侍女を任された。
ブラウンロード伯爵家では、なぜか一家のみならず屋敷で働く使用人達のすべてがアッシュのことを嫌悪していた。
アッシュと顔を合わせてすぐにリンリーも「あ、私コイツ嫌いだわ」と感じたのだが、上級使用人を目指す彼女は私情を挟まずに職務に専念することにした。
淡々と世話をしてくれるリンリーに、アッシュは次第に心を開いていった。
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる