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第一章
進軍の鼓動
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ビルマの赤土の大地を踏みしめるたび、靴底にまとわりつく湿った泥が兵士たちの歩みを重くした。
泥は単なる土ではない。昼夜を問わず降り続く雨が地を溶かし、ぬかるみとなって兵たちの体力を奪う。乾けばひび割れ、歩けば粉塵となって肺を焼く。大地そのものが進軍を阻
む敵であるかのようだった。
三月の空は雲ひとつなく青く澄み渡っている。だがその美しさは、兵たちにとって慰めではなく、むしろ残酷な現実を突きつける。
陽光は容赦なく頭上から照りつけ、背中に担ぐ鉄帽や銃を熱した。肌を焼き、体力を奪
い、喉の渇きを際限なくあおった。はるか遠くに見える山並みは青白く霞み、蜃気楼のように揺れている。
だが一歩一歩近づくにつれ、その山々は濃緑の壁となり、まるで兵士たちの行く手を拒む
ように立ちはだかった。
山の向こうに入れば、そこは鬱蒼と茂る密林である。
木々は空を覆い隠し、昼であっても夕闇のように薄暗い。葉から滴り落ちる雫は兵士たちの軍服を濡らし、足元の地面は絶え間なく湿り気を放っている。湿気はまるで獣の吐息の
ようにまとわりつき、衣服も銃も、そして心までもじっとりと重くさせた。
葉の裏には数えきれぬほどの虫が潜んでいる。小さな羽音が耳をかすめ、気づけば汗ばんだ首筋に止まり、針のような口を突き刺した。血の匂いを嗅ぎつけた蚊は群れをなし、兵士たちの皮膚を容赦なく刺した。
さらに足元からは蛭が這い出す。見えぬ泥の中から忍び寄り、足首やふくらはぎに吸いついて離れない。靴下を通して血を吸うその感触に、兵士たちはうめき声を上げ、しかし止まることなく歩き続けねばならなかった。
行軍は一歩ごとに苦痛を強いる。
肩に背負った三八式歩兵銃は鉛のように重く、背嚢は汗を吸ってずっしりと肉に食い込む。中には飯盒、衣服、弾薬、そしてわずかな乾パン。どれひとつ欠かせない。だが、そのすべてが兵士の肩を苛んだ。
それでも彼らは歩みを止めることを許されない。隊列は鼓動のように規則正しく進み、前へ、さらに前へと進撃を続ける。止まることは死を意味するのだ。
その列の中に、一ノ瀬アキラがいた。まだ二十歳。
山あいの寒村で育った彼にとって、この熱帯の光景は夢の中の幻のようで、時に現実感を失わせた。生まれてから見慣れた故郷の山々は四季の彩りをまとい、春は桜、夏は深緑、秋は黄金の稲穂、冬は雪に閉ざされた。だがここには季節の移ろいはなく、ただ濃緑と湿気が永遠に続いていた。
故郷には、年老いた母と妹が暮らしている。父は幼いころに病で亡くなり、家を支えてきたのは、母の働きと、アキラ自身の農作業だった。
朝は鶏の声で目を覚まし、畑を耕し、薪を割り、川で洗濯を手伝う。妹はまだ十二歳。明るく笑い、近所の子供たちと走り回っていた。
徴兵検査で「甲種合格」の赤紙を受け取った日の母の顔を、アキラは忘れることができない。
「立派に務めておいで。だけど……無理はしないで」
涙をこらえて微笑んだ母。その手は硬く、農具でできた無数の傷跡が刻まれていた。あの手が、今も彼の肩を支えているような気がした。
入営の日、母は一通の手紙を背嚢に忍ばせてくれた。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。」
たったそれだけの文面。しかし、その言葉はアキラの胸を焼きつけ、行軍のたびに重みを増した。
密林の蒸気に包まれるたび、遠い故郷の山桜の淡い花びらが幻のように目の前に漂う。汗で濡れた瞼を閉じれば、母と妹が手を振る姿が浮かび上がった。
列の先頭を歩くのは山城伍長だった。
古参の兵であり、眉間には深い皺が刻まれ、日焼けした顔には疲労の影が色濃く浮かんでいた。それでもその背中は部隊の誰よりも大きく、頼もしく映った。
山城伍長は言葉少なで、決して感情を表に出さない。だが、一度口を開けば誰もが耳を傾けるほどの重みがあった。
「足を止めるな。道がある限り、我らは進む」
低く抑えたその声は、列の最後尾にまで届く。
声量ではなく、確信に裏打ちされた響きが人を動かした。伍長の一言は、兵たちの脚をも
う一歩前に押し出す力となった。
伍長は常に前を見据え、決して後ろを振り返らなかった。
しかし、仲間たちは知っている。伍長こそが誰よりも隊のことを気にかけているのだと。
行軍の合間、足を引きずる兵に肩を貸し、飯盒の底を分け合い、弾薬の数を確認する姿を、皆が目にしていた。
「伍長がいる限り、自分たちは歩ける」
誰もがそう信じていた。
歩くたびに、足音が山道に重なり合い、まるで巨大な心臓の鼓動のように響いた。
それは進軍そのものの象徴だった。
兵たちは皆、胸に同じ夢を抱いている。 ――インパールへ。
それは作戦の目標であると同時に、彼らにとって唯一の希望でもあった。
インドを解放し、大義を果たす。祖国へ栄光を持ち帰り、戦友とともに凱旋する。
その夢がなければ、この過酷な行軍を続ける理由はなかった。
兵たちはそれを信じることで、汗と血と涙を糧にしていた。
だが、密林のざわめきは別の真実を告げているかのようだった。
鳥の鳴き声は不気味に響き、時折、枝が折れる音が隊列を緊張させる。見えぬ敵は弾丸よりも恐ろしい存在として、兵士たちの足元に潜んでいた。
飢え、病、そして果てしなき道のり。
未来の栄光よりも、すぐ目の前の一歩一歩の方がはるかに重く、恐ろしく思えた。
アキラの額からは汗が絶えず滴り落ち、顎を伝って泥と混じった。
軍服はすでに体に張り付き、汗と湿気で重さを増している。歩くたびに靴の中で水が跳ね、足の皮膚はふやけて靴擦れで裂けた。
それでも歩みは止められない。止まれば列から外れ、取り残され、密林に飲み込まれる。
彼はただ前を見た。伍長の背中を見失わぬように。
そして思う。
(自分はなぜここにいるのか)
母と妹の顔が脳裏をよぎる。
「帰ってこいよ」
その声が耳に蘇り、胸を締め付けた。
歩みの合間、兵士たちは互いに声をかけ合うこともあった。
「インパールに着けば、飯が食えるんだろう?」
「いや、インドの人々が解放を喜んで迎えてくれるさ」
笑う者もいたが、その笑いはどこか乾いていた。誰も本気では信じ切れずにいる。
それでも口にしなければやっていられなかった。
やがて、密林の奥から風が吹いた。
熱を帯びた空気が葉を揺らし、ざわざわと不気味な囁きが広がる。
それはまるで森そのものが彼らを試しているかのようだった。
それでも兵たちは歩みを止めない。
その歩みは、遠く離れた家族への祈りであり、祖国への忠誠であり、そして何より、自らの命を賭して証明しようとする“存在の証”であった。
こうして彼らの進軍は続いた。
足音は山中に木霊し、やがて密林の奥深くへと吸い込まれていった。
青空は次第に見えなくなり、頭上を覆うのは無数の葉と枝、そして終わりの見えぬ影だけだった。
進軍が始まってから数日が経った。
日中は灼熱、夜は湿った冷気が骨身に染みた。昼も夜も休む間もなく歩き続け、兵たちの顔には疲労の影が濃く刻まれていく。
夜営に入るころには誰も口をきかず、倒れ込むように地面に身を投げた。
火を焚くことすら憚られる密林の奥、闇は完全に支配していた。頭上には星空が広がっているはずだったが、樹木がそれを遮り、夜は一層濃く、深く、息苦しかった。
兵士たちは背嚢を枕代わりにして横たわり、虫の羽音と仲間の荒い呼吸に耳を塞ぎながら、ただ疲れを忘れるように目を閉じた。
アキラも例外ではなかった。
背嚢に忍ばせた母の手紙をそっと取り出し、闇の中で指先でなぞる。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう」
墨の跡が汗で少し滲んでいた。だが、その滲みこそが母の存在を、故郷を、そして生きる
理由を確かに示していた。
「一ノ瀬、寝たか?」
低い声が耳元に落ちてきた。伍長だった。
アキラは慌てて手紙を仕舞い、上体を起こした。
「いえ、まだ……」
伍長は腰を下ろし、煙草を一本取り出した。火を点けることはできない。だが、唇に挟み、指で弄るだけで心が落ち着くのかもしれなかった。
「お前さん、まだ若いな」
「はい……二十です」
「二十か。俺が兵になったのは十九のときだ。もう十年以上も前になるな」
伍長はぼんやりと闇を見つめながら言葉を続けた。
「この行軍は容易くはない。だがな……俺たちがやらねば誰もやらん。インドの独立も、大東亜の未来も」
その声は低く、揺るぎがなかった。だがアキラは、その奥にかすかな迷いの影を読み取った。
「伍長は……怖くはないんですか」
思わず漏らした問いに、伍長は口元を歪めた。
「怖くない兵なんざいないさ。だが、怖がって立ち止まったら、そこで終わりだ」
短くそう言い切ると、伍長は立ち上がり、再び闇に溶けていった。
アキラはしばらくその背を目で追った。
頼もしい背中。しかし同時に、その背が抱えている孤独と重荷を、言葉にできぬほど強く感じた。
翌朝。
再び行軍が始まった。
陽はまだ昇り切らぬうちから列は動き出し、兵士たちは眠気と疲労を引きずりながら歩を進める。
朝露に濡れた密林は冷たく、だがすぐに太陽が頭上に上がれば蒸気のような熱気に包まれる。衣服は瞬く間に汗で濡れ、息をするだけで肺が焼けるようだった。
「水、、」
た。
川を見つけるたびに兵士たちは群がり、水筒を満たし、濁った水をそのまま口にした。浄
水の錠剤など数に限りがある。病を恐れる余裕はなく、渇きの方が何倍も恐ろしかった。
アキラも冷たい流れに顔を浸けた。
喉を潤すよりも先に、ただ「生きている」と実感するために。
水面に揺れる自分の顔は、すでに出征前の青年の面影を失い、やつれた兵士のそれに変わりつつあった。
行軍は続く。
その一歩ごとに、兵たちの夢と現実の境は薄れ、ただ「歩く」という行為だけが全てを支配していった。
昼を過ぎると、太陽の光は容赦なく頭上から降り注ぎ、兵士たちの体力をじわじわと奪っ
ていった。
汗は目に入り、銃の木銃床は掌の皮を擦りむき、背嚢の紐は肩に食い込んで血がにじむ。
「おい、一ノ瀬、大丈夫か?」
隣を歩いていた同期の山口が、息を切らしながら声をかけた。
「……大丈夫だ」
アキラはそう答えたが、視界の端が揺れていた。頭の奥が熱にうなされるように重い。
道なき道を進む一行は、時折ぬかるみに足を取られた。泥に膝まで沈み込む者も出て、そのたびに仲間が手を差し伸べる。
だが、誰もが内心では「もう一歩でも無駄に動きたくない」と思っていた。
やがて、後方から呻き声があがった。
振り返ると、一人の兵が倒れ込んでいた。
軍医が駆け寄り、額に手を当てる。
「高熱だ。マラリアかもしれん」
その一言で列の空気が凍りついた。
倒れた兵は担架に乗せられたが、担ぐ者たちの足取りも重い。
「明日は我が身だ」
そう思いながらも、誰も言葉にはしなかった。
夕刻、ようやく小さな集落跡に辿り着いた。
人の気配はなく、焼け落ちた家々が黙して兵を迎える。
廃墟の中に身を寄せ、兵たちはようやく背嚢を下ろした。
アキラは壁に背を預け、息を吐いた。
全身が鉛のように重く、指先さえ動かすのが億劫だった。
だが、ふと耳を澄ますと、どこかから小さな声が聞こえてきた。
「……うう……」
かすかな呻き。
声のするほうへ歩みよると、壊れた戸口の
奥で、小さな影がうずくまっていた。
た。
痩せ細った少年だった。裸足で、衣服は泥にまみれ、瞳だけが異様に大きく輝いている。
アキラは息を呑んだ。
この村にも確かに人が暮らしていた。だが戦火がそれを奪い、残されたのは飢えた子供ひとり。
「おい、一ノ瀬、何してる!」
伍長の声が飛ぶ。
アキラは振り返りかけて、言葉を飲み込んだ。
少年は怯えたように身を縮め、口に何かを運んでいた。木の実か、あるいは硬い芋の皮か。
その必死の仕草に、アキラの胸は締め付けられた。
伍長は近づいてきて、一瞥すると言った。
「構うな。行軍の邪魔になる」
そして踵を返した。
だがアキラは、その場に立ち尽くした。
歩兵としての規律と、人間としての心。その間に、言葉にならぬ葛藤が広がっていった。
アキラはしばらく少年を見つめていた。
やせ細った肩が小刻みに震えている。握った手の中には硬い芋の皮が一片。泥にまみれた
それを、必死に口へと押し込もうとしていた。
「……おい」
アキラはそっと声をかけた。
少年はびくりと肩を跳ね上げ、怯えた目でこちらを見た。その瞳は闇に光る小動物のよう
で、恐怖と飢えと、ほんのわずかな希望が入り混じっていた。
アキラは懐から乾パンをひとつ取り出した。母からの手紙と並んで、いつも肌身離さず持
っていたわずかな携行糧食だ。
「食べるか?」
彼が差し出すと、少年の目はさらに大きく見開かれた。だが同時に後ずさり、恐怖と警戒が勝っている。
「大丈夫だ。ほら……」
アキラは乾パンを自ら一口かじって見せ、ゆっくりと少年の前に差し出した。
少年は数秒ためらったのち、震える指でそれをつかみ取った。次の瞬間、野獣のようにがつがつと食べ始める。歯が割れるのも構わぬ勢いだった。
その様子にアキラは胸を詰まらせた。
(これが戦争なんだ……俺たちが進むことで、この子の村も焼け、食うものも奪われたんだ)
背後で声がした。
「……何をしている、一ノ瀬」
山城伍長だった。低い声に、アキラは思わず背筋を伸ばした。
「申し訳ありません。飢えていたので、少し食べ物を……」
「軍の糧食は兵の命だ。分け与える余裕などない」
伍長の声音は冷たかった。しかしその眼差しの奥に、わずかに揺れる光があったのをアキ
ラは見逃さなかった。
そこへ別の兵が口を挟んだ。
「伍長、俺は一ノ瀬に賛成です。こんなガキ一人見殺しにして、俺たちが“解放のための
戦”を名乗れますかね」
それは山口だった。
彼の言葉に数人が頷いた。だが、別の古参兵が顔をしかめる。
「甘いことを言うな。敵はどこに潜んでいるか分からん。このガキだって、夜には俺たちの首を狙うやもしれんぞ」
その場に重苦しい沈黙が広がった。
アキラは少年の怯えた眼差しを見つめながら、心の中で問い続けた。
(俺たちは何のために進んでいる?祖国の栄光のためか。それとも、この子を救うため
の戦じゃないのか?)
伍長はやがて深い溜息をついた。
「……いいだろう。だが、これを最後にしろ。一ノ瀬」
彼は背を向けて去っていった。
アキラは乾パンの欠片を少年の手に握らせ、微笑もうとした。しかし唇は震えて、笑みに
はならなかった。
少年はただ無言で、残りを口に詰め込んでいた。
その夜、廃墟の闇の中でアキラは眠れなかった。耳の奥には少年の咀嚼音がこびりつき、
脳裏には母と妹の顔が浮かんだ。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう」
母の手紙の言葉が、胸の奥で痛烈に響いていた。
泥は単なる土ではない。昼夜を問わず降り続く雨が地を溶かし、ぬかるみとなって兵たちの体力を奪う。乾けばひび割れ、歩けば粉塵となって肺を焼く。大地そのものが進軍を阻
む敵であるかのようだった。
三月の空は雲ひとつなく青く澄み渡っている。だがその美しさは、兵たちにとって慰めではなく、むしろ残酷な現実を突きつける。
陽光は容赦なく頭上から照りつけ、背中に担ぐ鉄帽や銃を熱した。肌を焼き、体力を奪
い、喉の渇きを際限なくあおった。はるか遠くに見える山並みは青白く霞み、蜃気楼のように揺れている。
だが一歩一歩近づくにつれ、その山々は濃緑の壁となり、まるで兵士たちの行く手を拒む
ように立ちはだかった。
山の向こうに入れば、そこは鬱蒼と茂る密林である。
木々は空を覆い隠し、昼であっても夕闇のように薄暗い。葉から滴り落ちる雫は兵士たちの軍服を濡らし、足元の地面は絶え間なく湿り気を放っている。湿気はまるで獣の吐息の
ようにまとわりつき、衣服も銃も、そして心までもじっとりと重くさせた。
葉の裏には数えきれぬほどの虫が潜んでいる。小さな羽音が耳をかすめ、気づけば汗ばんだ首筋に止まり、針のような口を突き刺した。血の匂いを嗅ぎつけた蚊は群れをなし、兵士たちの皮膚を容赦なく刺した。
さらに足元からは蛭が這い出す。見えぬ泥の中から忍び寄り、足首やふくらはぎに吸いついて離れない。靴下を通して血を吸うその感触に、兵士たちはうめき声を上げ、しかし止まることなく歩き続けねばならなかった。
行軍は一歩ごとに苦痛を強いる。
肩に背負った三八式歩兵銃は鉛のように重く、背嚢は汗を吸ってずっしりと肉に食い込む。中には飯盒、衣服、弾薬、そしてわずかな乾パン。どれひとつ欠かせない。だが、そのすべてが兵士の肩を苛んだ。
それでも彼らは歩みを止めることを許されない。隊列は鼓動のように規則正しく進み、前へ、さらに前へと進撃を続ける。止まることは死を意味するのだ。
その列の中に、一ノ瀬アキラがいた。まだ二十歳。
山あいの寒村で育った彼にとって、この熱帯の光景は夢の中の幻のようで、時に現実感を失わせた。生まれてから見慣れた故郷の山々は四季の彩りをまとい、春は桜、夏は深緑、秋は黄金の稲穂、冬は雪に閉ざされた。だがここには季節の移ろいはなく、ただ濃緑と湿気が永遠に続いていた。
故郷には、年老いた母と妹が暮らしている。父は幼いころに病で亡くなり、家を支えてきたのは、母の働きと、アキラ自身の農作業だった。
朝は鶏の声で目を覚まし、畑を耕し、薪を割り、川で洗濯を手伝う。妹はまだ十二歳。明るく笑い、近所の子供たちと走り回っていた。
徴兵検査で「甲種合格」の赤紙を受け取った日の母の顔を、アキラは忘れることができない。
「立派に務めておいで。だけど……無理はしないで」
涙をこらえて微笑んだ母。その手は硬く、農具でできた無数の傷跡が刻まれていた。あの手が、今も彼の肩を支えているような気がした。
入営の日、母は一通の手紙を背嚢に忍ばせてくれた。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。」
たったそれだけの文面。しかし、その言葉はアキラの胸を焼きつけ、行軍のたびに重みを増した。
密林の蒸気に包まれるたび、遠い故郷の山桜の淡い花びらが幻のように目の前に漂う。汗で濡れた瞼を閉じれば、母と妹が手を振る姿が浮かび上がった。
列の先頭を歩くのは山城伍長だった。
古参の兵であり、眉間には深い皺が刻まれ、日焼けした顔には疲労の影が色濃く浮かんでいた。それでもその背中は部隊の誰よりも大きく、頼もしく映った。
山城伍長は言葉少なで、決して感情を表に出さない。だが、一度口を開けば誰もが耳を傾けるほどの重みがあった。
「足を止めるな。道がある限り、我らは進む」
低く抑えたその声は、列の最後尾にまで届く。
声量ではなく、確信に裏打ちされた響きが人を動かした。伍長の一言は、兵たちの脚をも
う一歩前に押し出す力となった。
伍長は常に前を見据え、決して後ろを振り返らなかった。
しかし、仲間たちは知っている。伍長こそが誰よりも隊のことを気にかけているのだと。
行軍の合間、足を引きずる兵に肩を貸し、飯盒の底を分け合い、弾薬の数を確認する姿を、皆が目にしていた。
「伍長がいる限り、自分たちは歩ける」
誰もがそう信じていた。
歩くたびに、足音が山道に重なり合い、まるで巨大な心臓の鼓動のように響いた。
それは進軍そのものの象徴だった。
兵たちは皆、胸に同じ夢を抱いている。 ――インパールへ。
それは作戦の目標であると同時に、彼らにとって唯一の希望でもあった。
インドを解放し、大義を果たす。祖国へ栄光を持ち帰り、戦友とともに凱旋する。
その夢がなければ、この過酷な行軍を続ける理由はなかった。
兵たちはそれを信じることで、汗と血と涙を糧にしていた。
だが、密林のざわめきは別の真実を告げているかのようだった。
鳥の鳴き声は不気味に響き、時折、枝が折れる音が隊列を緊張させる。見えぬ敵は弾丸よりも恐ろしい存在として、兵士たちの足元に潜んでいた。
飢え、病、そして果てしなき道のり。
未来の栄光よりも、すぐ目の前の一歩一歩の方がはるかに重く、恐ろしく思えた。
アキラの額からは汗が絶えず滴り落ち、顎を伝って泥と混じった。
軍服はすでに体に張り付き、汗と湿気で重さを増している。歩くたびに靴の中で水が跳ね、足の皮膚はふやけて靴擦れで裂けた。
それでも歩みは止められない。止まれば列から外れ、取り残され、密林に飲み込まれる。
彼はただ前を見た。伍長の背中を見失わぬように。
そして思う。
(自分はなぜここにいるのか)
母と妹の顔が脳裏をよぎる。
「帰ってこいよ」
その声が耳に蘇り、胸を締め付けた。
歩みの合間、兵士たちは互いに声をかけ合うこともあった。
「インパールに着けば、飯が食えるんだろう?」
「いや、インドの人々が解放を喜んで迎えてくれるさ」
笑う者もいたが、その笑いはどこか乾いていた。誰も本気では信じ切れずにいる。
それでも口にしなければやっていられなかった。
やがて、密林の奥から風が吹いた。
熱を帯びた空気が葉を揺らし、ざわざわと不気味な囁きが広がる。
それはまるで森そのものが彼らを試しているかのようだった。
それでも兵たちは歩みを止めない。
その歩みは、遠く離れた家族への祈りであり、祖国への忠誠であり、そして何より、自らの命を賭して証明しようとする“存在の証”であった。
こうして彼らの進軍は続いた。
足音は山中に木霊し、やがて密林の奥深くへと吸い込まれていった。
青空は次第に見えなくなり、頭上を覆うのは無数の葉と枝、そして終わりの見えぬ影だけだった。
進軍が始まってから数日が経った。
日中は灼熱、夜は湿った冷気が骨身に染みた。昼も夜も休む間もなく歩き続け、兵たちの顔には疲労の影が濃く刻まれていく。
夜営に入るころには誰も口をきかず、倒れ込むように地面に身を投げた。
火を焚くことすら憚られる密林の奥、闇は完全に支配していた。頭上には星空が広がっているはずだったが、樹木がそれを遮り、夜は一層濃く、深く、息苦しかった。
兵士たちは背嚢を枕代わりにして横たわり、虫の羽音と仲間の荒い呼吸に耳を塞ぎながら、ただ疲れを忘れるように目を閉じた。
アキラも例外ではなかった。
背嚢に忍ばせた母の手紙をそっと取り出し、闇の中で指先でなぞる。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう」
墨の跡が汗で少し滲んでいた。だが、その滲みこそが母の存在を、故郷を、そして生きる
理由を確かに示していた。
「一ノ瀬、寝たか?」
低い声が耳元に落ちてきた。伍長だった。
アキラは慌てて手紙を仕舞い、上体を起こした。
「いえ、まだ……」
伍長は腰を下ろし、煙草を一本取り出した。火を点けることはできない。だが、唇に挟み、指で弄るだけで心が落ち着くのかもしれなかった。
「お前さん、まだ若いな」
「はい……二十です」
「二十か。俺が兵になったのは十九のときだ。もう十年以上も前になるな」
伍長はぼんやりと闇を見つめながら言葉を続けた。
「この行軍は容易くはない。だがな……俺たちがやらねば誰もやらん。インドの独立も、大東亜の未来も」
その声は低く、揺るぎがなかった。だがアキラは、その奥にかすかな迷いの影を読み取った。
「伍長は……怖くはないんですか」
思わず漏らした問いに、伍長は口元を歪めた。
「怖くない兵なんざいないさ。だが、怖がって立ち止まったら、そこで終わりだ」
短くそう言い切ると、伍長は立ち上がり、再び闇に溶けていった。
アキラはしばらくその背を目で追った。
頼もしい背中。しかし同時に、その背が抱えている孤独と重荷を、言葉にできぬほど強く感じた。
翌朝。
再び行軍が始まった。
陽はまだ昇り切らぬうちから列は動き出し、兵士たちは眠気と疲労を引きずりながら歩を進める。
朝露に濡れた密林は冷たく、だがすぐに太陽が頭上に上がれば蒸気のような熱気に包まれる。衣服は瞬く間に汗で濡れ、息をするだけで肺が焼けるようだった。
「水、、」
た。
川を見つけるたびに兵士たちは群がり、水筒を満たし、濁った水をそのまま口にした。浄
水の錠剤など数に限りがある。病を恐れる余裕はなく、渇きの方が何倍も恐ろしかった。
アキラも冷たい流れに顔を浸けた。
喉を潤すよりも先に、ただ「生きている」と実感するために。
水面に揺れる自分の顔は、すでに出征前の青年の面影を失い、やつれた兵士のそれに変わりつつあった。
行軍は続く。
その一歩ごとに、兵たちの夢と現実の境は薄れ、ただ「歩く」という行為だけが全てを支配していった。
昼を過ぎると、太陽の光は容赦なく頭上から降り注ぎ、兵士たちの体力をじわじわと奪っ
ていった。
汗は目に入り、銃の木銃床は掌の皮を擦りむき、背嚢の紐は肩に食い込んで血がにじむ。
「おい、一ノ瀬、大丈夫か?」
隣を歩いていた同期の山口が、息を切らしながら声をかけた。
「……大丈夫だ」
アキラはそう答えたが、視界の端が揺れていた。頭の奥が熱にうなされるように重い。
道なき道を進む一行は、時折ぬかるみに足を取られた。泥に膝まで沈み込む者も出て、そのたびに仲間が手を差し伸べる。
だが、誰もが内心では「もう一歩でも無駄に動きたくない」と思っていた。
やがて、後方から呻き声があがった。
振り返ると、一人の兵が倒れ込んでいた。
軍医が駆け寄り、額に手を当てる。
「高熱だ。マラリアかもしれん」
その一言で列の空気が凍りついた。
倒れた兵は担架に乗せられたが、担ぐ者たちの足取りも重い。
「明日は我が身だ」
そう思いながらも、誰も言葉にはしなかった。
夕刻、ようやく小さな集落跡に辿り着いた。
人の気配はなく、焼け落ちた家々が黙して兵を迎える。
廃墟の中に身を寄せ、兵たちはようやく背嚢を下ろした。
アキラは壁に背を預け、息を吐いた。
全身が鉛のように重く、指先さえ動かすのが億劫だった。
だが、ふと耳を澄ますと、どこかから小さな声が聞こえてきた。
「……うう……」
かすかな呻き。
声のするほうへ歩みよると、壊れた戸口の
奥で、小さな影がうずくまっていた。
た。
痩せ細った少年だった。裸足で、衣服は泥にまみれ、瞳だけが異様に大きく輝いている。
アキラは息を呑んだ。
この村にも確かに人が暮らしていた。だが戦火がそれを奪い、残されたのは飢えた子供ひとり。
「おい、一ノ瀬、何してる!」
伍長の声が飛ぶ。
アキラは振り返りかけて、言葉を飲み込んだ。
少年は怯えたように身を縮め、口に何かを運んでいた。木の実か、あるいは硬い芋の皮か。
その必死の仕草に、アキラの胸は締め付けられた。
伍長は近づいてきて、一瞥すると言った。
「構うな。行軍の邪魔になる」
そして踵を返した。
だがアキラは、その場に立ち尽くした。
歩兵としての規律と、人間としての心。その間に、言葉にならぬ葛藤が広がっていった。
アキラはしばらく少年を見つめていた。
やせ細った肩が小刻みに震えている。握った手の中には硬い芋の皮が一片。泥にまみれた
それを、必死に口へと押し込もうとしていた。
「……おい」
アキラはそっと声をかけた。
少年はびくりと肩を跳ね上げ、怯えた目でこちらを見た。その瞳は闇に光る小動物のよう
で、恐怖と飢えと、ほんのわずかな希望が入り混じっていた。
アキラは懐から乾パンをひとつ取り出した。母からの手紙と並んで、いつも肌身離さず持
っていたわずかな携行糧食だ。
「食べるか?」
彼が差し出すと、少年の目はさらに大きく見開かれた。だが同時に後ずさり、恐怖と警戒が勝っている。
「大丈夫だ。ほら……」
アキラは乾パンを自ら一口かじって見せ、ゆっくりと少年の前に差し出した。
少年は数秒ためらったのち、震える指でそれをつかみ取った。次の瞬間、野獣のようにがつがつと食べ始める。歯が割れるのも構わぬ勢いだった。
その様子にアキラは胸を詰まらせた。
(これが戦争なんだ……俺たちが進むことで、この子の村も焼け、食うものも奪われたんだ)
背後で声がした。
「……何をしている、一ノ瀬」
山城伍長だった。低い声に、アキラは思わず背筋を伸ばした。
「申し訳ありません。飢えていたので、少し食べ物を……」
「軍の糧食は兵の命だ。分け与える余裕などない」
伍長の声音は冷たかった。しかしその眼差しの奥に、わずかに揺れる光があったのをアキ
ラは見逃さなかった。
そこへ別の兵が口を挟んだ。
「伍長、俺は一ノ瀬に賛成です。こんなガキ一人見殺しにして、俺たちが“解放のための
戦”を名乗れますかね」
それは山口だった。
彼の言葉に数人が頷いた。だが、別の古参兵が顔をしかめる。
「甘いことを言うな。敵はどこに潜んでいるか分からん。このガキだって、夜には俺たちの首を狙うやもしれんぞ」
その場に重苦しい沈黙が広がった。
アキラは少年の怯えた眼差しを見つめながら、心の中で問い続けた。
(俺たちは何のために進んでいる?祖国の栄光のためか。それとも、この子を救うため
の戦じゃないのか?)
伍長はやがて深い溜息をついた。
「……いいだろう。だが、これを最後にしろ。一ノ瀬」
彼は背を向けて去っていった。
アキラは乾パンの欠片を少年の手に握らせ、微笑もうとした。しかし唇は震えて、笑みに
はならなかった。
少年はただ無言で、残りを口に詰め込んでいた。
その夜、廃墟の闇の中でアキラは眠れなかった。耳の奥には少年の咀嚼音がこびりつき、
脳裏には母と妹の顔が浮かんだ。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう」
母の手紙の言葉が、胸の奥で痛烈に響いていた。
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