インパール 勇者たちのガンダーラの道

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第二章

山河の試練

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夜明け前の霧は、山の谷間を乳白色に覆っていた。
鬱蒼と茂る木々の合間から冷たい湿気が流れ込み、兵たちの軍服をじっとりと濡らす。
夜を明かした廃村の残骸から、再び隊列は立ち上がった。
乾いた飯盒の底を舐めるようにして朝を済ませ、黙々と銃を肩に担ぎ直す。
「進め!」
伍長の号令がかかる。
彼らの前に待ち受けるのは、ビルマの奥深き山岳地帯だった。
道と呼べるものはほとんどなく、濡れた岩肌をよじ登り、ぬかるみに足を取られながら進
む。
足を踏み外せば、濁流渦巻く谷底へと真っ逆さまだ。
アキラは背嚢の重みで肩が焼けつくように痛むのを感じながら、息を殺して前へ進んだ。
湿った靴の中では、すでに皮膚が爛れ始めている。歩を進めるたびに針で刺されるような
痛みが走るが、止まれば列が乱れる。
「まだか……。この峠を越えりゃ、村があるって言ってなかったか」
後ろから山口の愚痴が漏れる。
「そんな話、誰が信じるかよ」
別の兵が吐き捨てるように返す。
声には疲労と苛立ちが滲み、もはや冗談にする余裕さえ失われていた。
昼頃になると、太陽は頭上から容赦なく熱を降り注ぎ、霧は蒸気となって肌を焼いた。
息を吸い込むだけで肺が重く、喉は乾き、唾さえ出ない。
水筒の底を覗けば、残りはわずか。誰もが口を開くことを避け、ただ黙々と足を動かす。
やがて列の前方で声が上がった。
「滑ったぞ!」
岩肌に手をかけていた兵が、ずるりと体を落とした。
悲鳴が谷間に響き、次の瞬間、濁流の音にかき消される。
誰も助けに行けない。
ただ立ちすくみ、己の足場を確かめるだけだった。
アキラは歯を食いしばった。
(昨日まで隣にいた仲間が……一瞬でいなくなる。これが戦だというのか……)
伍長の低い声が響いた。
「止まるな!進め!」
その背中は岩壁に張り付きながらも、決して揺るがなかった。
兵たちはその姿に縋るようにして、一歩、また一歩と体を押し上げた。
夕刻、ようやく峠を越えたとき、眼下には果てしなく続く密林が広がっていた。

誰もが言葉を失った。
(これを、越えていくのか……)
希望の代わりに絶望が胸を満たし、疲労は骨の奥にまで染み込んでいた。
夜営の火を囲んだとき、アキラは黙って手紙を取り出した。
母の文字が闇に浮かぶ。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。」
その一文を指でなぞるたび、胸が締めつけられる。 ――しかし今は、帰り道などどこにも見えなかった。
翌朝、まだ空が薄灰色に沈む時間、列は再び動き出した。
夜の間に降った霧が、岩肌や倒木を濡らして滑りやすくしている。
泥と汗で重くなった靴を引きずりながら、兵たちは互いに小さく声を掛け合い、励まし合
いながら進んでいく。
アキラの心もまた、前日の少年との出会いのことで揺れていた。
「俺は戦士として、仲間として進むべきなのか……それとも、人として、この子を守るべ
きなのか……」
思考が渦のように絡み合い、足の感覚すら遠くなっていく。
列の中では、早くも不満の声が漏れ始めた。
「こんな山道、いつまで続くんだ」
「水も食料も足りないぞ」
疲労と飢えが、言葉を尖らせる。
山口は顔をしかめ、言葉を荒げた。
「一ノ瀬、お前も思わないか?俺たち、このままじゃ全員倒れるんじゃ……」
伍長は列の先頭で歩みを止めず、振り返ることもなく低い声で告げた。
「止まるな。命を賭けるのは戦場であって、言い訳のためじゃない」
その言葉は冷たく、兵たちの心に突き刺さる。
しかし同時に、誰もが背を丸め、列を乱さぬよう前に進むしかなかった。
やがて、足元の泥が厚くなり、滑りやすい岩場に差し掛かる。
一歩間違えれば、谷底に落ちる危険があった。
その緊張感は列全体を覆い、仲間の息遣いひとつ、手を伸ばす動作ひとつにも敏感になら
ざるを得なかった。
前方で、同期の兵が滑り、谷へ手を伸ばすも岩に手を打ちつけて声を上げた。
「大丈夫か!」
山口が駆け寄るが、アキラは止められずに歩を進めた。
心の奥で、命がどれほど脆いものか、痛烈に理解していた。
伍長は列の後方で、倒れそうになる兵たちを時折叱責した。
「文句を言う暇があるなら足を動かせ!」

その叱責は苛烈で、耐えきれずに涙を浮かべる者もいた。
しかし同時に、それは生き残るための厳しさでもあった。
兵たちは疲労と恐怖の中で、命の重さを学びながら歩き続ける。
アキラはふと、前日の少年のことを思い出す。
あの子を救うことで自分は何を失ったのか。
戦友の命を守るために何を犠牲にしているのか。
彼の胸には後悔と罪悪感、そして使命感が複雑に絡み合っていた。
列の中で、仲間たちの間には微妙な分裂が生じていた。
疲労と飢え、恐怖により意見の対立が増え、足並みが乱れる瞬間もある。
「俺はもう無理だ」
「何を言ってる、止まったら死ぬぞ!」
声はぶつかり合い、しかし伍長の存在がその裂け目をぎりぎりで繋いでいた。
アキラはその光景を見ながら、戦争の現実を痛感する。
忠誠も希望も、大義も、すべては脆く、命はあまりにも簡単に消えてしまう。
しかしそれでも、彼は一歩ずつ足を前に出すしかなかった。
夕刻、ようやく小さな川に辿り着いた。
水を補給する者、泥まみれの体を休める者、倒れた仲間を看取る者。
列は一瞬だけ緩んだが、その静寂の中で、アキラはまた新たな決意を胸に刻む。
「俺は……進む。誰のためでもなく、自分のために、そして仲間のために」
川面に映る自分の顔は、昨日よりも痩せ、瞳は深く疲れていた。
だがその奥には、まだ揺れる炎のように、戦う意志が残っていた。
数日が過ぎた。
山道はますます険しく、行軍はもはや進撃というより“這い進み”に近かった。
背嚢の中の乾パンはとうに底を突き、米も塩も、残るは僅か。
兵たちは、泥水をすすり、木の根を噛み、腹の虫の音で夜を明かした。
密林の湿気は骨まで染み込み、マラリアの熱に倒れる者が続出した。
咳をする音、うめき声、蚊の羽音。
それらが夜の静寂の中で重なり合い、まるでこの世の終わりを告げる合唱のようだっ



ノ瀬アキラもまた、熱にうなされていた。
頭の中で、母の声と伍長の号令が交互に響く。
「アキラ……帰っておいで……」
「前へ進め!止まるな!」
どちらが現実か分からぬまま、彼はうつ伏せになって泥の中を這った。
隣では山口が倒れ、痩せ細った腕で懸命に支えようとしている。
「アキラ……腹が……減った……もう、歩けねえ…」

山口の唇は紫色に変わり、瞳は焦点を失っていた。
アキラは背嚢を探り、包んでいた乾いた草の束を取り出した。
「……これでも噛め。少しは気がまぎれる」
山口は微笑を浮かべたが、すぐに息を荒げて倒れた。
その夜、伍長は焚き火の傍で、黙って煙草を吸っていた。
火の明かりが顔を照らし、深い皺の影がさらに濃く刻まれる。
「……伍長、山口が……もう……」
アキラが報告すると、伍長は短く頷いた。
「わかっている。今夜、埋めよう」
それだけを言い残し、煙を吐いた。
翌朝、夜明けの霧の中で、山口の亡骸を埋めた。
土は湿り、スコップはすぐに泥を噛んだ。
「……すまねぇな、アキラ。置いてく……」
伍長の声は震えていた。
アキラは震える手で土を掴み、仲間の胸にかけた。
「帰ろう、一緒に……桜の咲くころ、村でまた……」
その言葉は途中で途切れ、涙と汗が頬を伝った。
行軍はなお続く。
兵たちはもはや人の形を保つのがやっとだった。
顔は痩せこけ、骨ばった腕が銃を支えることすら難しい。
飢餓の中で、幻を見る者が増えていった。
ある夜、アキラは夢を見た。
春の村の光景。
母が台所で米を研ぎ、妹が縁側で歌を口ずさんでいる。
「お帰りなさい、アキラ」
柔らかな声。
差し出された椀には、白い飯が盛られていた。
手を伸ばそうとした瞬間、母の姿は霧に溶け、代わりに蛭が這い寄る。
アキラは悲鳴を上げて飛び起きた。
「……夢か」
胸の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
あたりを見回すと、伍長が背を向けたまま、倒れて動かない兵の肩を撫でていた。
「もう十人目だ……」
その声は掠れていた。
「伍長……俺たちは、何のために……」
アキラの問いに、伍長は答えなかった。

ただ、雨に打たれながら立ち上がり、列の前へと歩みでた。
「前進――!」
その声は、もはや誰のための命令でもなく、虚空に響く叫びのようだった。
兵たちは立ち上がり、再び泥の中を進んだ。
倒れる者を踏み越えながら、それでも歩く。
「なぜ……なぜ歩くんだ……」
アキラは胸の奥で呟いた。
答えは風の中に溶け、誰にも届かない。
空には黒雲が広がり、雨が再び降り始めた。
それは血を洗うように激しく、山々を濁流で満たしていった。
川は増水し、渡河の途中で数人が流された。
助ける余裕もない。助けに行けば、共に死ぬだけだ。
夜、アキラは焚き火のそばで、伍長の肩に手を置いた。
「伍長……俺たちは、いつまで……」
伍長は沈黙したまま、濡れた手で火をかき混ぜた。
「……お前は、故郷に何がある」
「母と……妹が」
「なら、生きろ。それだけでいい。命令も、大義も、もうどうでもいい」
伍長の声には、もはや軍人の響きはなかった。
ただ、一人の人間としての疲労と、祈りがあった。
その夜、伍長はアキラの隣で眠りについた。
翌朝、彼は冷たくなっていた。
雨の音だけが、静かに彼の頬を濡らしていた。
アキラは立ち上がり、伍長の遺品――錆びついた懐中時計を胸に収めた。
針は止まっている。だが、その静寂こそが、確かに時間を刻んでいるように思えた。
「……俺が、歩く。伍長のぶんまで」
列の残りは、わずか数十人。
もはや誰も、声を上げることもできなかった。
それでも、足音だけが山にこだまし、薄明の空へと消えていった。

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