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第三章
散華
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雨が降っていた。
それは、密林の上空から絶え間なく落ちてくる、終わりのない雨だった。
大地はぬかるみ、泥は膝まで兵士の脚を呑み込む。銃は錆び、飯盒にはもう何も残って
いない。
空腹と疲労で倒れた者は、そのまま置いていくしかなかった。誰ももう、立ち止まって
祈る力さえ持たなかった。
一ノ瀬アキラは、雨に濡れた顔を上げた。頬の皮膚は痩せこけ、唇は血が滲んでいた。
肩に掛けた銃は軽くなっている。中身を抜いた弾倉と、役立たぬ希望だけがぶら下がっ
ていた。
山城伍長は、前方の木の根を杖代わりに掴み、振り返らずに言った。
「……立て、アキラ。足を動かせ。止まったら終わりだ」
声にはかすかな震えがあった。
その背中は以前よりもずっと小さく見えた。
古参兵の誇りも、命令も、もはや何の支えにもならない。彼もまた、ただの一人の人間
として、地獄の中を生き延びようとしているのだった。
列の後方では、二人の兵が口論していた。
「もう無理だ!ここで休ませてくれ!」
「休めば死ぬ。わからんのか!」
「だったら死んだっていいさ……!」
次の瞬間、怒号とともに銃床が打ちつけられた。
泥の中で男が倒れ、動かなくなった。
誰も近づかなかった。誰も止めなかった。
ただ、伍長の背がわずかに震え、アキラの胸に何かが崩れ落ちる音がした。
(もう、俺たちは兵じゃない……人間ですらなくなっていく)
夜。雨音の隙間から、呻き声が聞こえた。
病に倒れた者、傷口が膿んだ者、餓死しかけの者。
その中に、昨日まで冗談を言っていた仲間の顔もあった。
「アキラ……水を、くれ……」
差し出すものは何もなかった。
手のひらを伸ばすしかなかった。
その手が握り返されることは、もうなかった。
夜明け前、アキラは夢を見た。
故郷の山、母の笑顔、妹の声。
桜の花びらが風に舞い、柔らかな陽光が丘を照らしている。
母が言う。
―「無理はしないで」
その声が途切れた瞬間、彼は泥の上で目を覚ました。
冷たい雨が顔に落ちている。夢は、ただの幻に過ぎなかった。
その日、山城伍長が倒れた。
急な斜面を登る途中、足がもつれ、岩に頭を打った。
「伍長!」
アキラは駆け寄り、肩を抱き起こした。伍長の額には血が流れ、呼吸は浅かった。
「……アキラ。俺は、もうここまでだ」
「何言ってるんです、まだ――」
「いいか、よく聞け。……お前は、生きろ。俺たちの分まで」
アキラは首を振った。
「生きる?どうやって?誰も、どこへも帰れない!」
伍長は微かに笑った。
「それでも……人は、死ぬためじゃなく、生まれてくるんだ……」
その言葉は、雨に紛れて消えた。
伍長の眼がゆっくりと閉じる。
アキラはしばらくその場を動けず、ただ冷たい体を抱きしめていた。
泣くことさえ、もうできなかった。
その夜、アキラは小さな焚き火を起こした。濡れた枝が白い煙を上げ、かすかな火が伍
長の顔を照らす。
「伍長……俺は、どうすればよかったんだろう」
焚き火の光が、涙に濡れた頬を照らした。
彼は背嚢から母の手紙を取り出し、泥に汚れた封を指でなぞった。
“無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。”
震える手でそれを火にくべる。
火は手紙をゆっくりと飲み込み、やがて灰になった。
その灰が風に乗り、闇の中へと舞い上がっていく。
まるで魂が昇るように。
翌朝、アキラは一人で歩き出した。
銃は捨てた。弾もない。
背嚢には水筒ひとつと、干からびたサツマイモの欠片。
仲間の姿はどこにもなかった。
ただ、自分の足跡だけが泥の上に続いていく。
山の彼方にかすかな光が見えた。
それが太陽なのか、それとも死の幻なのか、もう区別はできなかった。
歩きながら、アキラは心の中で母に語りかけた。
や」
風が吹いた。
遠くで鳥の声がした。
空は灰色に濁り、やがて白く滲んでいった。 ――その後、一ノ瀬アキラの姿を見た者はいない。
密林の中に小さな骨の山が見つかったのは、戦が終わって何年も経ってからのことだっ
た
。
兵
の名札には、かすれた文字でこう刻まれていた。
「一ノ瀬アキラ 二十歳」
雨季の終わり、ビルマの山に桜のような花が咲いたという。
誰もそれを見たわけではない。
だが、その花はきっと――彼が最後に見た故郷の夢の続きだったのかもしれない。
雨が降っていた。
それは天の底から絶え間なく落ちてくる、重く、鈍く、世界を押し潰すような雨だっ
た
。
音があるのに、音がない。
滝のような轟音が密林の上を覆い尽くし、しかしその中で、誰の声も、誰の息遣いも聞
こえなかった。
アキラは濡れた葉を払いながら進んでいた。
視界はすぐに白く煙る。
泥が靴を飲み込み、脚を引き剥がすたびに、ずるり、と音がした。
肩に背負った銃は錆びつき、手の中で冷たい塊と化している。
弾薬も乏しい。食料は三日前に尽きた。
それでも歩く。歩かねばならない。
それが「命令」だからではなく、歩くことしか残されていないからだ。
湿った空気の中で、血と腐臭が混じる。
鼻の奥に鉄のような匂いがこびりつき、息をするたびに吐き気がこみ上げる。
前を行く兵が、泥に足を取られて倒れた。
誰も助けない。声もかけない。
伍長が一瞥をくれるだけで、列はそのまま進んだ。
倒れた男の体の上を、次の兵がまたいでいく。
その足音が泥に沈み、やがて静寂に溶けていった。
昼も夜もない。
太陽はとうに姿を消し、空は雨と雲と煙に覆われている。
行軍は、もはや「前進」ではなく、「生存のもがき」でしかなかった。
ある晩、雨脚が少し弱まったころ、アキラは木の根元に腰を下ろした。
パンはカビにまみれ、軍服には白い斑
点が浮かぶ。
近くの兵が、呻き声を上げていた。
「……喉が、焼ける……水を……」
アキラは水筒を握りしめた。中には一口分の雨水しか残っていない。
迷った。
だが、隣の男の唇は既に乾ききり、血が滲んでいる。
アキラはため息をつき、水筒を差し出した。
男は震える手で受け取り、喉を鳴らして飲み干す。
そのまま、静かに息を引き取った。
アキラは何も言えなかった。
ただ、残った空の水筒を見つめていた。
翌朝、山城伍長が列の先頭で叫んだ。
「立て!雨が上がるぞ!太陽が出たら、気温が上がる!今のうちに進むんだ!」
声はまだ強かったが、かすかに掠れていた。
その背中を見つめながら、アキラはふと気づく。 ――伍長の脚も、もう震えている。
伍長は疲労を隠すように、いつもの口調で言った。
「いいか、止まるな。歩くことをやめた瞬間、蛭が足に取りつく。奴らは血を吸いなが
ら眠らせる。眠れば、もう立てない」
誰も返事をしなかった。
ただ、息の音だけが続いた。
濃密な湿気の中、汗と雨の境界がわからない。
アキラは歩きながら、ふと思う。
(俺たちは、いつから“戦って”いるんだろうか……)
敵の姿を見たのは、もう何日も前のことだった。
いまや「敵」は目の前にいない。
代わりに彼らを蝕んでいるのは、見えない「何か」――飢え、病、絶望、そして自分自
身の心だった。
昼ごろ、一人の兵が突然笑い出した。
「なあ、みんな聞けよ!家から手紙が届いたんだ!」
彼は泥の中から何かを取り出す。
それは、ただの破れた新聞紙だった。
「ほら、母ちゃんの字だ!見ろよ、ちゃんと書いてある――“お帰り”って……!」
周囲は黙って見ていた。
伍長が近づき、低い声で言った。
やめろ。その紙はもう、読めない」
「違う!本当なんだ!母ちゃんが迎えに――」
次の瞬間、男は叫びながら森の奥へ走り出した。
誰も追わなかった。
銃声も、足音も、もう聞こえなかった。
ただ、雨がその痕跡をすべて洗い流していった。
その夜、伍長は焚き火のそばで煙草を吸っていた。
「……アキラ。お前、まだ信じてるか?」
「何をです?」
「勝つことだ。祖国が、俺たちを誇りに思うことを」
アキラは少し考えてから、静かに首を振った。
「もう……よくわかりません」
伍長はうなずいた。
「俺もだ」
煙が、雨の中で細く消えた。
「だがな……信じなくなったら、人間はすぐに獣になる」
その言葉は、どこか遠く、痛いほど人間的だった。
夜が明けた。
だが、その光は、もはや希望ではなかった。
木々の隙間から差し込む陽射しは、まるで刃のように鋭く、濡れた肌を刺した。
地面には、夜の間に息絶えた兵たちが転がっている。誰がどこで倒れたのか、もう誰も
数えてはいなかった。
虫が、死者の目に群がる。
生者と死者の境界は、すでに曖昧になっていた。
アキラは、朝の霧の中をふらつきながら歩いた。
靴底は破れ、裸足のように泥を掻いている。
血が滲み、蛭がまとわりつく。だが、痛みは感じなかった。
身体は軽いのに、心が重い。 ――なぜ、まだ歩いているのだろう。
そんな問いが、何度も胸の奥で反響した。
伍長は、かすれた声で命じた。
「丘を越えるぞ。向こうに村があるはずだ。……米か、芋が手に入る」
誰も返事をしなかった。
ただ、うなだれた顔のまま、列は動き出す。
山の斜面はぬかるみ、登るたびに滑り落ちた。
背嚢を放り捨てる者が増えた。銃を投げ捨てる者もいた。
もう、いいだろ。撃つあいてもいねぇ……」
その声に、伍長が振り返る。
だが怒鳴ることもできず、ただ視線を落とした。
アキラはその背を見ていた。
(伍長も……もう、限界なんだ)
歩くたびに、伍長の背中は少しずつ小さくなっていった。
午後、丘を越えた先に、確かに村があった。
だが、それは廃村だった。
竹の屋根は崩れ、地面には白い骨が散らばっていた。
人の骨か、獣の骨か、もう分からない。
風が吹くと、どこかで扉が軋み、子供の笑い声のように響いた。
アキラは夢を見ているのかと思った。
井戸のそばにしゃがみ込み、水を覗く。
だが、底は黒く濁り、蛆が浮いていた。
それでも喉が鳴った。
水筒を沈め、濁った水をすすった。
鉄と腐敗の味が、舌に残る。
吐き出したが、喉が焼けつくように渇いていた。
伍長は、村の広場に立ち尽くしていた。
空を見上げて、静かに言う。
「……地獄ってのは、こういう場所のことだな」
その目は、何かを越えたような、乾いた光をしていた。
アキラは答えず、ただ傍に立った。
遠くで誰かが歌っている。
母親が子守唄を歌うような、優しい声。
アキラは思わず耳を澄ました。 ――いや、それは幻だった。
歌声は風に溶け、やがて消えた。
夜、雨が再び降り出した。
伍長は小さな火を起こし、濡れた煙草をくわえる。
火がほとんどつかず、何度も吹きかける。
アキラが木の枝を拾い、火を囲んだ。
「伍長……もう、俺たちだけなんですね」
「……ああ」
焚き火の光に照らされる伍長の顔は、まるで土偶のように硬く、動かなかった。
「お前、名前なんだったな」
「一ノ瀬です」
「そうか……いい名だ」
短い沈黙のあと、伍長が言った。
「お前、帰ったら何がしたい」
アキラは、少し笑って答えた。
「母さんの味噌汁が、もう一度食べたいです」
伍長はうなずいた。
「俺は……酒だな。熱燗でいい」
火の粉が上がる。
その光景を見つめながら、二人はしばらく何も言わなかった。
外では雨が木々を打ち、闇が彼らを包んでいた。
その夜、アキラは夢を見た。
故郷の山道。
桜が満開で、妹が手を振っている。
母が家の前に立ち、微笑んでいる。
「アキラ、帰っておいで」
声が優しく響く。
アキラは走る。だが、足が動かない。
地面がぬかるみ、泥が膝を掴む。
母の姿が遠ざかる。
「待って、母さん!」
叫んだ瞬間、目が覚めた。
夜明けの光が、薄く差し込んでいる。
伍長がいない。
焦って辺りを見渡すと、丘の向こうに影が見えた。
アキラは立ち上がり、ふらつく体で駆け寄った。
伍長は、座ったまま空を見ていた。
口元がわずかに動き、何かを呟いている。
「……見えるか、一ノ瀬。あれが……太陽だ」
アキラは空を見た。
雲の切れ間から、金色の光が差している。
その光の中で、伍長の顔が静かに緩んだ。
「……やっと、終わったな」
そのまま、目を閉じた。
アキラは声を出そうとしたが、喉が詰まり、何も言えなかった。
手を伸ばすと、伍長の手はもう冷たかった。
彼の胸から、古びた写真がこぼれ落ちた。
若い妻と、小さな子供。
笑顔のまま、遠い昔の春の光の中にいる。
アキラはそれを拾い、胸に抱いた。
「……伍長、あんたの分まで、歩きます」
声は震え、涙が頬を伝った。
それから何日が経ったか、もう分からない。
アキラは、ひとりで歩いていた。
空腹も、痛みも、恐怖も、すべてが遠のいていく。
足は勝手に動き、心だけが別の場所を漂っていた。
ある日、開けた丘に出た。
そこには、一面の白い花が咲いていた。
密林のど真ん中に、なぜ花があるのか分からない。
アキラは笑った。
「……桜だ」
もちろん、それは幻だった。
だが、彼の目には確かに桜が見えていた。
満開の花びらが風に舞い、故郷の空を思い出させた。
母の声が聞こえる。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう」
アキラは背嚢を降ろし、手紙を取り出した。
文字は汗と雨で滲み、ほとんど読めない。
それでも彼は静かに呟いた。
「ただいま……母さん」
その声が、風に溶けた。
アキラは銃を傍らに置き、空を仰いだ。
青く、透き通るような空。
太陽の光が、頬を優しく撫でた。
まぶたを閉じると、花びらが舞う音がした。
それが現か夢か、もう区別はなかった。
彼は静かに、息を吐いた。
その呼吸が、まるで春の風のように柔らかく消えていった。
遠く、鳥の声が聞こえた。
誰もいない密林に、命の気配が戻り始めていた。
風が吹く。花が揺れる。
その上を、金色の光がゆっくりと流れていった。
アキラの身体の上に、一枚の花びらが舞い落ちる。
それは確かに、桜の花びらのように見えた。
その日、朝の霧はひときわ濃かった。
密林の奥に白い靄が立ちこめ、人の影も木々の形も、すべてが水の底に沈んだようにぼ
やけていた。
行軍の列は、すでに列という形を失いかけていた。
隊列を組む力も、統率を保つ気力も、皆の中から少しずつ抜け落ちていた。
アキラの靴底は、もはや泥の塊と化している。
歩くたびにずるりと滑り、立て直すたびに膝が笑った。
昨日まで隣を歩いていた伍長の姿は見えない。
誰もが自分の呼吸の音しか聞いていないようだった。
腹はとうに空っぽだった。
携帯食糧は尽き、残るはわずかな乾パンの欠片と、雨水を貯めた錆びた飯盒だけ。
夜ごと咳をしながら血を吐く者が増え、朝になると動かないままの兵が増えた。
「……水をくれ……」
低い声が、地面から聞こえた。
アキラが顔を向けると、地面に倒れた若い兵が這うように手を伸ばしていた。
頬は骨ばり、唇は裂け、眼窩の奥で光が消えかけている。
アキラは飯盒を取り出した。だが、中には一滴の水も残っていなかった。
「……すまない」
その言葉を聞いた兵は、笑うような、泣くような顔をして目を閉じた。
風が吹き抜け、枯れ葉がひらりと彼の胸の上に落ちた。
「また……ひとりか」
アキラは呟いた。
だが、その声は霧に吸い込まれて誰にも届かない。
彼は空を見上げた。
霧の切れ間に一瞬だけ陽光が差し込んだ。
光はまるで天から落ちる糸のようで、アキラにはそれが、母の手紙の文字の輝きに見え
た 。 ― ―「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。」
彼の胸の奥で、かすかな声が響いた。
それは風の音でも、鳥の声でもなく、確かに母の声だった。
「アキラ……もう、いいのよ」
「母さん……?」
彼は声を漏らした。
しかし次の瞬間、声は遠くで銃声のように弾け、幻は消えた。
現実は冷たく、容赦がなかった。
伍長が戻ってきたのは、その日の夕刻だった。
肩には泥まみれの兵を背負っていた。
「動けなくなったやつを置いてきた。……だが、もう担ぐ力も残っちゃいねぇ」
山城伍長の声は、かつての威厳を失っていた。
その目には、戦場の規律よりも深い悔恨が宿っていた。
夜になると、焚き火の代わりに湿った枝を燃やした。
煙が涙のように目に沁みる。
アキラは仲間たちと輪になって腰を下ろしたが、誰も口を開かなかった。
ただ、虫の音と遠くの猿の鳴き声が虚ろに響いていた。
「……なあ、伍長」
静寂を破ったのは、若い兵の声だった。
「俺たちは、いったい何のために歩いてるんですかね」
伍長は答えなかった。
火の明かりに浮かぶその横顔は、石像のように動かない。
「インドを解放するって、本気で思ってた。でも……もう、そんな力、誰にも残っちゃ
いない」
「……うるせぇ」
伍長の声が低く響いた。
「考えるな。考えたら負けだ」
だが、その言葉の裏に、揺らぎが見えた。
伍長自身、わかっていたのだ。
この戦いに、もはや勝利も大義も存在しないことを。
翌朝、霧が晴れたとき、ひとりの兵が息絶えていた。
アキラの隣にいた木下という若者だった。
夜の間に静かに息を引き取り、今はただ穏やかな顔で眠っている。
アキラはそっと自分の水筒を開け、底に残った一滴を木下の唇に落とした。
「……おまえの分の桜を、俺が見てくる」
言葉が風に消えた。
しかしその瞬間、頭の奥で、再び幻がよみがえった。
母が縁側で、妹と一緒に桜餅を作っている。
笑い声。春の風。 ――それはあまりにも鮮やかで、残酷だった。
現実に戻ると、伍長が立っていた。
「アキラ、おまえは先に進め。俺はここで、もう少し休む」
「そんな、伍長……」
いいんだ。俺はもう十分だ。
。おまえは若い。生きて帰れ」
伍長の声は静かで、どこか安らぎすらあった。
その手に握られていたのは、使い古した手帳。
中には、これまで戦場で倒れた部下の名前がびっしりと書かれていた。
アキラは深く頭を下げた。
そして振り返らずに歩き出した。
足元の泥は重く、息は途切れ、視界の端が白く霞む。
それでも歩いた。 ――もう、誰もいない。
だが、風の中で確かに声がした。
「アキラ、帰るんだよ」
母の声だった。
幻影と知りながら、その声に導かれるように、アキラは密林の闇を抜けていった。
木々の隙間から、光が差していた。
それはまるで、遠い故郷の春の陽光のようだった。
だが次の瞬間、銃声が響いた。
敵か、幻かもわからない。
アキラの身体がよろめき、膝をついた。
地に倒れながら、彼は微笑んだ。
目の前に、桜が咲いていた。
幻の桜――。
その花びらが風に散る中、アキラの唇が静かに動いた。
「母さん……もうすぐ、帰るよ」
雨が止まなかった。
山を渡る雲が低く垂れこめ、天と地の境が消えていた。
道なき道を進む兵たちは、もはや「軍」と呼ぶにはあまりにも惨めな姿だった。
銃は錆び、靴底は剥がれ、軍服は破れて血と泥に染まっている。
列は途切れ途切れに伸び、誰が指揮官で、誰が命令を下すのかすら分からない。
ビルマからインドへと進撃した「夢」は、今や悪夢のような撤退戦へと姿を変えてい
た
。
飢
え、病、そして絶望――。
かつて進軍の鼓動を合わせた兵たちの足音は、今では風と雨に溶け、静かな呻き声とと
もに消えていく。
アキラは、もう数え切れぬほどの死を見た。
昨日まで話していた仲間が、翌朝には冷たい土の中に横たわる。
その顔に泥をかけるとき、涙はもう出なかった。
泣く力さえ、とうに失われていた。
背嚢は軽くなっていた。
食糧も弾薬も、すでに捨てた。
今、背中にあるのは母の手紙と、伍長の形見の手帳だけだった。 ――「生きて帰れ」
最後に伍長が残した言葉が、耳の奥で何度も響く。
しかし“帰る”とは何を意味するのか、アキラにはもう分からなかった。
この密林のどこを歩いても、方角も距離も、もはや意味を失っていた。
ただ、一歩進む。それだけが生きている証だった。
夜、焚き火も灯せない暗闇の中で、アキラは空を見上げた。
雨雲の隙間から、かすかに星が見えた。
その光は遠く、冷たく、しかし確かに輝いていた。 ――あの星の下に、母と妹がいる。
そう思うだけで、胸の奥に微かな熱が戻った。
「……母さん、今、どこを歩いているのかな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
風が答えるように木の葉を揺らした。
その音が、まるで遠い村の竹林のざわめきのように思えた。
翌朝、アキラは崩れた橋を渡ろうとしていた。
足元には濁流。
増水した川が唸りをあげて流れている。
向こう岸には、かろうじて生き残った仲間が数人、手を振っていた。
「アキラ!早く来い!」
叫ぶ声。
だが、その瞬間、橋の板が裂けた。
アキラの身体が宙を舞い、冷たい水が全身を包んだ。
流れに呑まれながら、彼はただ空を見た。
雲間から一筋の光が差し込んでいる。
その光の中に、母の姿があった。 ――「アキラ、もういいのよ。帰っておいで。」
その声に導かれるように、彼は腕を伸ばした。
だが、水流は無情だった。
岩に打たれ、身体の感覚が遠のいていく。
意識が薄れゆく中で、アキラは土手に流れ着いた。
ぼんやりと見上げると、倒木の下に数羽の蝶が群れている。
白い翅がひらひらと舞い、彼の頬に触れた。
桜の花びら。
そう錯覚するほどに、その光景は美しかった。
アキラは震える手で、胸のポケットから手紙を取り出した。
泥と汗でくしゃくしゃになった封筒。
それでも、文字は読めた。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。」
唇がかすかに動く。
「母さん、俺……もうすぐ、桜が見えるよ。」
視界が白く滲んでいく。
遠くで、銃声が響いた。
それはもう、彼には届かない音だった。
アキラの手が、静かに地に落ちた。
手紙は風に舞い、蝶たちの間をすり抜け、空へと昇っていった。
その風は、山を越え、谷を渡り、やがて海へと抜けていく。
その先にあるのは、日本の空――。
その日、日本では、遅い春が訪れていた。
長崎の山村では、桜が満開を迎えていた。
母は縁側に座り、手に一通の封筒を握っていた。
軍から届いた公文書。
封を切る手が震える。
「戦死」――その二文字が、母の目に滲んだ。
だが、涙は出なかった。
ただ、空を仰いだ。
庭の桜の枝が風に揺れ、ひとひらの花びらが頬に落ちた。
「アキラ……おかえり」
母は静かに微笑んだ。
その瞬間、風が吹いた。
遠いビルマの山々から吹き抜けるような、温かい風だった。
空には、一羽の蝶が舞っていた。
白く、透きとおった翅が、春の光を受けて輝いていた。
桜の花が散るたびに、母は空に語りかける。
「来年も、一緒に見ようね」
アキラの魂は、春の風となって、その村を包んでいた。
それは、密林の上空から絶え間なく落ちてくる、終わりのない雨だった。
大地はぬかるみ、泥は膝まで兵士の脚を呑み込む。銃は錆び、飯盒にはもう何も残って
いない。
空腹と疲労で倒れた者は、そのまま置いていくしかなかった。誰ももう、立ち止まって
祈る力さえ持たなかった。
一ノ瀬アキラは、雨に濡れた顔を上げた。頬の皮膚は痩せこけ、唇は血が滲んでいた。
肩に掛けた銃は軽くなっている。中身を抜いた弾倉と、役立たぬ希望だけがぶら下がっ
ていた。
山城伍長は、前方の木の根を杖代わりに掴み、振り返らずに言った。
「……立て、アキラ。足を動かせ。止まったら終わりだ」
声にはかすかな震えがあった。
その背中は以前よりもずっと小さく見えた。
古参兵の誇りも、命令も、もはや何の支えにもならない。彼もまた、ただの一人の人間
として、地獄の中を生き延びようとしているのだった。
列の後方では、二人の兵が口論していた。
「もう無理だ!ここで休ませてくれ!」
「休めば死ぬ。わからんのか!」
「だったら死んだっていいさ……!」
次の瞬間、怒号とともに銃床が打ちつけられた。
泥の中で男が倒れ、動かなくなった。
誰も近づかなかった。誰も止めなかった。
ただ、伍長の背がわずかに震え、アキラの胸に何かが崩れ落ちる音がした。
(もう、俺たちは兵じゃない……人間ですらなくなっていく)
夜。雨音の隙間から、呻き声が聞こえた。
病に倒れた者、傷口が膿んだ者、餓死しかけの者。
その中に、昨日まで冗談を言っていた仲間の顔もあった。
「アキラ……水を、くれ……」
差し出すものは何もなかった。
手のひらを伸ばすしかなかった。
その手が握り返されることは、もうなかった。
夜明け前、アキラは夢を見た。
故郷の山、母の笑顔、妹の声。
桜の花びらが風に舞い、柔らかな陽光が丘を照らしている。
母が言う。
―「無理はしないで」
その声が途切れた瞬間、彼は泥の上で目を覚ました。
冷たい雨が顔に落ちている。夢は、ただの幻に過ぎなかった。
その日、山城伍長が倒れた。
急な斜面を登る途中、足がもつれ、岩に頭を打った。
「伍長!」
アキラは駆け寄り、肩を抱き起こした。伍長の額には血が流れ、呼吸は浅かった。
「……アキラ。俺は、もうここまでだ」
「何言ってるんです、まだ――」
「いいか、よく聞け。……お前は、生きろ。俺たちの分まで」
アキラは首を振った。
「生きる?どうやって?誰も、どこへも帰れない!」
伍長は微かに笑った。
「それでも……人は、死ぬためじゃなく、生まれてくるんだ……」
その言葉は、雨に紛れて消えた。
伍長の眼がゆっくりと閉じる。
アキラはしばらくその場を動けず、ただ冷たい体を抱きしめていた。
泣くことさえ、もうできなかった。
その夜、アキラは小さな焚き火を起こした。濡れた枝が白い煙を上げ、かすかな火が伍
長の顔を照らす。
「伍長……俺は、どうすればよかったんだろう」
焚き火の光が、涙に濡れた頬を照らした。
彼は背嚢から母の手紙を取り出し、泥に汚れた封を指でなぞった。
“無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。”
震える手でそれを火にくべる。
火は手紙をゆっくりと飲み込み、やがて灰になった。
その灰が風に乗り、闇の中へと舞い上がっていく。
まるで魂が昇るように。
翌朝、アキラは一人で歩き出した。
銃は捨てた。弾もない。
背嚢には水筒ひとつと、干からびたサツマイモの欠片。
仲間の姿はどこにもなかった。
ただ、自分の足跡だけが泥の上に続いていく。
山の彼方にかすかな光が見えた。
それが太陽なのか、それとも死の幻なのか、もう区別はできなかった。
歩きながら、アキラは心の中で母に語りかけた。
や」
風が吹いた。
遠くで鳥の声がした。
空は灰色に濁り、やがて白く滲んでいった。 ――その後、一ノ瀬アキラの姿を見た者はいない。
密林の中に小さな骨の山が見つかったのは、戦が終わって何年も経ってからのことだっ
た
。
兵
の名札には、かすれた文字でこう刻まれていた。
「一ノ瀬アキラ 二十歳」
雨季の終わり、ビルマの山に桜のような花が咲いたという。
誰もそれを見たわけではない。
だが、その花はきっと――彼が最後に見た故郷の夢の続きだったのかもしれない。
雨が降っていた。
それは天の底から絶え間なく落ちてくる、重く、鈍く、世界を押し潰すような雨だっ
た
。
音があるのに、音がない。
滝のような轟音が密林の上を覆い尽くし、しかしその中で、誰の声も、誰の息遣いも聞
こえなかった。
アキラは濡れた葉を払いながら進んでいた。
視界はすぐに白く煙る。
泥が靴を飲み込み、脚を引き剥がすたびに、ずるり、と音がした。
肩に背負った銃は錆びつき、手の中で冷たい塊と化している。
弾薬も乏しい。食料は三日前に尽きた。
それでも歩く。歩かねばならない。
それが「命令」だからではなく、歩くことしか残されていないからだ。
湿った空気の中で、血と腐臭が混じる。
鼻の奥に鉄のような匂いがこびりつき、息をするたびに吐き気がこみ上げる。
前を行く兵が、泥に足を取られて倒れた。
誰も助けない。声もかけない。
伍長が一瞥をくれるだけで、列はそのまま進んだ。
倒れた男の体の上を、次の兵がまたいでいく。
その足音が泥に沈み、やがて静寂に溶けていった。
昼も夜もない。
太陽はとうに姿を消し、空は雨と雲と煙に覆われている。
行軍は、もはや「前進」ではなく、「生存のもがき」でしかなかった。
ある晩、雨脚が少し弱まったころ、アキラは木の根元に腰を下ろした。
パンはカビにまみれ、軍服には白い斑
点が浮かぶ。
近くの兵が、呻き声を上げていた。
「……喉が、焼ける……水を……」
アキラは水筒を握りしめた。中には一口分の雨水しか残っていない。
迷った。
だが、隣の男の唇は既に乾ききり、血が滲んでいる。
アキラはため息をつき、水筒を差し出した。
男は震える手で受け取り、喉を鳴らして飲み干す。
そのまま、静かに息を引き取った。
アキラは何も言えなかった。
ただ、残った空の水筒を見つめていた。
翌朝、山城伍長が列の先頭で叫んだ。
「立て!雨が上がるぞ!太陽が出たら、気温が上がる!今のうちに進むんだ!」
声はまだ強かったが、かすかに掠れていた。
その背中を見つめながら、アキラはふと気づく。 ――伍長の脚も、もう震えている。
伍長は疲労を隠すように、いつもの口調で言った。
「いいか、止まるな。歩くことをやめた瞬間、蛭が足に取りつく。奴らは血を吸いなが
ら眠らせる。眠れば、もう立てない」
誰も返事をしなかった。
ただ、息の音だけが続いた。
濃密な湿気の中、汗と雨の境界がわからない。
アキラは歩きながら、ふと思う。
(俺たちは、いつから“戦って”いるんだろうか……)
敵の姿を見たのは、もう何日も前のことだった。
いまや「敵」は目の前にいない。
代わりに彼らを蝕んでいるのは、見えない「何か」――飢え、病、絶望、そして自分自
身の心だった。
昼ごろ、一人の兵が突然笑い出した。
「なあ、みんな聞けよ!家から手紙が届いたんだ!」
彼は泥の中から何かを取り出す。
それは、ただの破れた新聞紙だった。
「ほら、母ちゃんの字だ!見ろよ、ちゃんと書いてある――“お帰り”って……!」
周囲は黙って見ていた。
伍長が近づき、低い声で言った。
やめろ。その紙はもう、読めない」
「違う!本当なんだ!母ちゃんが迎えに――」
次の瞬間、男は叫びながら森の奥へ走り出した。
誰も追わなかった。
銃声も、足音も、もう聞こえなかった。
ただ、雨がその痕跡をすべて洗い流していった。
その夜、伍長は焚き火のそばで煙草を吸っていた。
「……アキラ。お前、まだ信じてるか?」
「何をです?」
「勝つことだ。祖国が、俺たちを誇りに思うことを」
アキラは少し考えてから、静かに首を振った。
「もう……よくわかりません」
伍長はうなずいた。
「俺もだ」
煙が、雨の中で細く消えた。
「だがな……信じなくなったら、人間はすぐに獣になる」
その言葉は、どこか遠く、痛いほど人間的だった。
夜が明けた。
だが、その光は、もはや希望ではなかった。
木々の隙間から差し込む陽射しは、まるで刃のように鋭く、濡れた肌を刺した。
地面には、夜の間に息絶えた兵たちが転がっている。誰がどこで倒れたのか、もう誰も
数えてはいなかった。
虫が、死者の目に群がる。
生者と死者の境界は、すでに曖昧になっていた。
アキラは、朝の霧の中をふらつきながら歩いた。
靴底は破れ、裸足のように泥を掻いている。
血が滲み、蛭がまとわりつく。だが、痛みは感じなかった。
身体は軽いのに、心が重い。 ――なぜ、まだ歩いているのだろう。
そんな問いが、何度も胸の奥で反響した。
伍長は、かすれた声で命じた。
「丘を越えるぞ。向こうに村があるはずだ。……米か、芋が手に入る」
誰も返事をしなかった。
ただ、うなだれた顔のまま、列は動き出す。
山の斜面はぬかるみ、登るたびに滑り落ちた。
背嚢を放り捨てる者が増えた。銃を投げ捨てる者もいた。
もう、いいだろ。撃つあいてもいねぇ……」
その声に、伍長が振り返る。
だが怒鳴ることもできず、ただ視線を落とした。
アキラはその背を見ていた。
(伍長も……もう、限界なんだ)
歩くたびに、伍長の背中は少しずつ小さくなっていった。
午後、丘を越えた先に、確かに村があった。
だが、それは廃村だった。
竹の屋根は崩れ、地面には白い骨が散らばっていた。
人の骨か、獣の骨か、もう分からない。
風が吹くと、どこかで扉が軋み、子供の笑い声のように響いた。
アキラは夢を見ているのかと思った。
井戸のそばにしゃがみ込み、水を覗く。
だが、底は黒く濁り、蛆が浮いていた。
それでも喉が鳴った。
水筒を沈め、濁った水をすすった。
鉄と腐敗の味が、舌に残る。
吐き出したが、喉が焼けつくように渇いていた。
伍長は、村の広場に立ち尽くしていた。
空を見上げて、静かに言う。
「……地獄ってのは、こういう場所のことだな」
その目は、何かを越えたような、乾いた光をしていた。
アキラは答えず、ただ傍に立った。
遠くで誰かが歌っている。
母親が子守唄を歌うような、優しい声。
アキラは思わず耳を澄ました。 ――いや、それは幻だった。
歌声は風に溶け、やがて消えた。
夜、雨が再び降り出した。
伍長は小さな火を起こし、濡れた煙草をくわえる。
火がほとんどつかず、何度も吹きかける。
アキラが木の枝を拾い、火を囲んだ。
「伍長……もう、俺たちだけなんですね」
「……ああ」
焚き火の光に照らされる伍長の顔は、まるで土偶のように硬く、動かなかった。
「お前、名前なんだったな」
「一ノ瀬です」
「そうか……いい名だ」
短い沈黙のあと、伍長が言った。
「お前、帰ったら何がしたい」
アキラは、少し笑って答えた。
「母さんの味噌汁が、もう一度食べたいです」
伍長はうなずいた。
「俺は……酒だな。熱燗でいい」
火の粉が上がる。
その光景を見つめながら、二人はしばらく何も言わなかった。
外では雨が木々を打ち、闇が彼らを包んでいた。
その夜、アキラは夢を見た。
故郷の山道。
桜が満開で、妹が手を振っている。
母が家の前に立ち、微笑んでいる。
「アキラ、帰っておいで」
声が優しく響く。
アキラは走る。だが、足が動かない。
地面がぬかるみ、泥が膝を掴む。
母の姿が遠ざかる。
「待って、母さん!」
叫んだ瞬間、目が覚めた。
夜明けの光が、薄く差し込んでいる。
伍長がいない。
焦って辺りを見渡すと、丘の向こうに影が見えた。
アキラは立ち上がり、ふらつく体で駆け寄った。
伍長は、座ったまま空を見ていた。
口元がわずかに動き、何かを呟いている。
「……見えるか、一ノ瀬。あれが……太陽だ」
アキラは空を見た。
雲の切れ間から、金色の光が差している。
その光の中で、伍長の顔が静かに緩んだ。
「……やっと、終わったな」
そのまま、目を閉じた。
アキラは声を出そうとしたが、喉が詰まり、何も言えなかった。
手を伸ばすと、伍長の手はもう冷たかった。
彼の胸から、古びた写真がこぼれ落ちた。
若い妻と、小さな子供。
笑顔のまま、遠い昔の春の光の中にいる。
アキラはそれを拾い、胸に抱いた。
「……伍長、あんたの分まで、歩きます」
声は震え、涙が頬を伝った。
それから何日が経ったか、もう分からない。
アキラは、ひとりで歩いていた。
空腹も、痛みも、恐怖も、すべてが遠のいていく。
足は勝手に動き、心だけが別の場所を漂っていた。
ある日、開けた丘に出た。
そこには、一面の白い花が咲いていた。
密林のど真ん中に、なぜ花があるのか分からない。
アキラは笑った。
「……桜だ」
もちろん、それは幻だった。
だが、彼の目には確かに桜が見えていた。
満開の花びらが風に舞い、故郷の空を思い出させた。
母の声が聞こえる。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう」
アキラは背嚢を降ろし、手紙を取り出した。
文字は汗と雨で滲み、ほとんど読めない。
それでも彼は静かに呟いた。
「ただいま……母さん」
その声が、風に溶けた。
アキラは銃を傍らに置き、空を仰いだ。
青く、透き通るような空。
太陽の光が、頬を優しく撫でた。
まぶたを閉じると、花びらが舞う音がした。
それが現か夢か、もう区別はなかった。
彼は静かに、息を吐いた。
その呼吸が、まるで春の風のように柔らかく消えていった。
遠く、鳥の声が聞こえた。
誰もいない密林に、命の気配が戻り始めていた。
風が吹く。花が揺れる。
その上を、金色の光がゆっくりと流れていった。
アキラの身体の上に、一枚の花びらが舞い落ちる。
それは確かに、桜の花びらのように見えた。
その日、朝の霧はひときわ濃かった。
密林の奥に白い靄が立ちこめ、人の影も木々の形も、すべてが水の底に沈んだようにぼ
やけていた。
行軍の列は、すでに列という形を失いかけていた。
隊列を組む力も、統率を保つ気力も、皆の中から少しずつ抜け落ちていた。
アキラの靴底は、もはや泥の塊と化している。
歩くたびにずるりと滑り、立て直すたびに膝が笑った。
昨日まで隣を歩いていた伍長の姿は見えない。
誰もが自分の呼吸の音しか聞いていないようだった。
腹はとうに空っぽだった。
携帯食糧は尽き、残るはわずかな乾パンの欠片と、雨水を貯めた錆びた飯盒だけ。
夜ごと咳をしながら血を吐く者が増え、朝になると動かないままの兵が増えた。
「……水をくれ……」
低い声が、地面から聞こえた。
アキラが顔を向けると、地面に倒れた若い兵が這うように手を伸ばしていた。
頬は骨ばり、唇は裂け、眼窩の奥で光が消えかけている。
アキラは飯盒を取り出した。だが、中には一滴の水も残っていなかった。
「……すまない」
その言葉を聞いた兵は、笑うような、泣くような顔をして目を閉じた。
風が吹き抜け、枯れ葉がひらりと彼の胸の上に落ちた。
「また……ひとりか」
アキラは呟いた。
だが、その声は霧に吸い込まれて誰にも届かない。
彼は空を見上げた。
霧の切れ間に一瞬だけ陽光が差し込んだ。
光はまるで天から落ちる糸のようで、アキラにはそれが、母の手紙の文字の輝きに見え
た 。 ― ―「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。」
彼の胸の奥で、かすかな声が響いた。
それは風の音でも、鳥の声でもなく、確かに母の声だった。
「アキラ……もう、いいのよ」
「母さん……?」
彼は声を漏らした。
しかし次の瞬間、声は遠くで銃声のように弾け、幻は消えた。
現実は冷たく、容赦がなかった。
伍長が戻ってきたのは、その日の夕刻だった。
肩には泥まみれの兵を背負っていた。
「動けなくなったやつを置いてきた。……だが、もう担ぐ力も残っちゃいねぇ」
山城伍長の声は、かつての威厳を失っていた。
その目には、戦場の規律よりも深い悔恨が宿っていた。
夜になると、焚き火の代わりに湿った枝を燃やした。
煙が涙のように目に沁みる。
アキラは仲間たちと輪になって腰を下ろしたが、誰も口を開かなかった。
ただ、虫の音と遠くの猿の鳴き声が虚ろに響いていた。
「……なあ、伍長」
静寂を破ったのは、若い兵の声だった。
「俺たちは、いったい何のために歩いてるんですかね」
伍長は答えなかった。
火の明かりに浮かぶその横顔は、石像のように動かない。
「インドを解放するって、本気で思ってた。でも……もう、そんな力、誰にも残っちゃ
いない」
「……うるせぇ」
伍長の声が低く響いた。
「考えるな。考えたら負けだ」
だが、その言葉の裏に、揺らぎが見えた。
伍長自身、わかっていたのだ。
この戦いに、もはや勝利も大義も存在しないことを。
翌朝、霧が晴れたとき、ひとりの兵が息絶えていた。
アキラの隣にいた木下という若者だった。
夜の間に静かに息を引き取り、今はただ穏やかな顔で眠っている。
アキラはそっと自分の水筒を開け、底に残った一滴を木下の唇に落とした。
「……おまえの分の桜を、俺が見てくる」
言葉が風に消えた。
しかしその瞬間、頭の奥で、再び幻がよみがえった。
母が縁側で、妹と一緒に桜餅を作っている。
笑い声。春の風。 ――それはあまりにも鮮やかで、残酷だった。
現実に戻ると、伍長が立っていた。
「アキラ、おまえは先に進め。俺はここで、もう少し休む」
「そんな、伍長……」
いいんだ。俺はもう十分だ。
。おまえは若い。生きて帰れ」
伍長の声は静かで、どこか安らぎすらあった。
その手に握られていたのは、使い古した手帳。
中には、これまで戦場で倒れた部下の名前がびっしりと書かれていた。
アキラは深く頭を下げた。
そして振り返らずに歩き出した。
足元の泥は重く、息は途切れ、視界の端が白く霞む。
それでも歩いた。 ――もう、誰もいない。
だが、風の中で確かに声がした。
「アキラ、帰るんだよ」
母の声だった。
幻影と知りながら、その声に導かれるように、アキラは密林の闇を抜けていった。
木々の隙間から、光が差していた。
それはまるで、遠い故郷の春の陽光のようだった。
だが次の瞬間、銃声が響いた。
敵か、幻かもわからない。
アキラの身体がよろめき、膝をついた。
地に倒れながら、彼は微笑んだ。
目の前に、桜が咲いていた。
幻の桜――。
その花びらが風に散る中、アキラの唇が静かに動いた。
「母さん……もうすぐ、帰るよ」
雨が止まなかった。
山を渡る雲が低く垂れこめ、天と地の境が消えていた。
道なき道を進む兵たちは、もはや「軍」と呼ぶにはあまりにも惨めな姿だった。
銃は錆び、靴底は剥がれ、軍服は破れて血と泥に染まっている。
列は途切れ途切れに伸び、誰が指揮官で、誰が命令を下すのかすら分からない。
ビルマからインドへと進撃した「夢」は、今や悪夢のような撤退戦へと姿を変えてい
た
。
飢
え、病、そして絶望――。
かつて進軍の鼓動を合わせた兵たちの足音は、今では風と雨に溶け、静かな呻き声とと
もに消えていく。
アキラは、もう数え切れぬほどの死を見た。
昨日まで話していた仲間が、翌朝には冷たい土の中に横たわる。
その顔に泥をかけるとき、涙はもう出なかった。
泣く力さえ、とうに失われていた。
背嚢は軽くなっていた。
食糧も弾薬も、すでに捨てた。
今、背中にあるのは母の手紙と、伍長の形見の手帳だけだった。 ――「生きて帰れ」
最後に伍長が残した言葉が、耳の奥で何度も響く。
しかし“帰る”とは何を意味するのか、アキラにはもう分からなかった。
この密林のどこを歩いても、方角も距離も、もはや意味を失っていた。
ただ、一歩進む。それだけが生きている証だった。
夜、焚き火も灯せない暗闇の中で、アキラは空を見上げた。
雨雲の隙間から、かすかに星が見えた。
その光は遠く、冷たく、しかし確かに輝いていた。 ――あの星の下に、母と妹がいる。
そう思うだけで、胸の奥に微かな熱が戻った。
「……母さん、今、どこを歩いているのかな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
風が答えるように木の葉を揺らした。
その音が、まるで遠い村の竹林のざわめきのように思えた。
翌朝、アキラは崩れた橋を渡ろうとしていた。
足元には濁流。
増水した川が唸りをあげて流れている。
向こう岸には、かろうじて生き残った仲間が数人、手を振っていた。
「アキラ!早く来い!」
叫ぶ声。
だが、その瞬間、橋の板が裂けた。
アキラの身体が宙を舞い、冷たい水が全身を包んだ。
流れに呑まれながら、彼はただ空を見た。
雲間から一筋の光が差し込んでいる。
その光の中に、母の姿があった。 ――「アキラ、もういいのよ。帰っておいで。」
その声に導かれるように、彼は腕を伸ばした。
だが、水流は無情だった。
岩に打たれ、身体の感覚が遠のいていく。
意識が薄れゆく中で、アキラは土手に流れ着いた。
ぼんやりと見上げると、倒木の下に数羽の蝶が群れている。
白い翅がひらひらと舞い、彼の頬に触れた。
桜の花びら。
そう錯覚するほどに、その光景は美しかった。
アキラは震える手で、胸のポケットから手紙を取り出した。
泥と汗でくしゃくしゃになった封筒。
それでも、文字は読めた。
「無事に帰れ。桜の咲くころ、また村で会おう。」
唇がかすかに動く。
「母さん、俺……もうすぐ、桜が見えるよ。」
視界が白く滲んでいく。
遠くで、銃声が響いた。
それはもう、彼には届かない音だった。
アキラの手が、静かに地に落ちた。
手紙は風に舞い、蝶たちの間をすり抜け、空へと昇っていった。
その風は、山を越え、谷を渡り、やがて海へと抜けていく。
その先にあるのは、日本の空――。
その日、日本では、遅い春が訪れていた。
長崎の山村では、桜が満開を迎えていた。
母は縁側に座り、手に一通の封筒を握っていた。
軍から届いた公文書。
封を切る手が震える。
「戦死」――その二文字が、母の目に滲んだ。
だが、涙は出なかった。
ただ、空を仰いだ。
庭の桜の枝が風に揺れ、ひとひらの花びらが頬に落ちた。
「アキラ……おかえり」
母は静かに微笑んだ。
その瞬間、風が吹いた。
遠いビルマの山々から吹き抜けるような、温かい風だった。
空には、一羽の蝶が舞っていた。
白く、透きとおった翅が、春の光を受けて輝いていた。
桜の花が散るたびに、母は空に語りかける。
「来年も、一緒に見ようね」
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0
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