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05.
しおりを挟む家の中は静まり返っていた。
沙耶子は布団に入ってからずっと目を閉じていたが、
眠気は一向に訪れなかった。
頭を撫でられた時の感触が、まだ微かに残っている。
彰の手は、昔から大きくて温かかった。
子どもの頃は、それがただ安心できるものだった。
けれど今は違う。
「……寝れへん」
小さく呟き、沙耶子は布団を跳ね除けた。
こんな時は、煙草を吸うに限る。
部屋を出ると、真っ暗な廊下が広がっている。
足音を立てないように階段を降り、
そっと玄関の扉を開けた。
夜の空気は冷たい。
震えそうになりながら、
ポケットから煙草を取り出した。
──その時だった。
ふと、視界の隅に人影が映る。
床が軋んで、ライターの音がする。
「……なんや寝られへんのか」
聞き慣れた低い声。
彰は、すでに煙草に火をつけていた。
「寒い言うてんのに、外出てきよったんか」
「そっちこそ」
沙耶子は苦笑しながら、隣に立った。
ライターを取り出し、煙草の先に火を灯す。
夜の闇に、小さな火が揺れた。
二人の間に、ゆっくりと煙が広がる。
「寝れへんかった?」
「……あんまりな」
彰の返事は、どこか曖昧だった。
「お前こそ」
「まあね」
それ以上、どちらも何も言わなかった。
ただ、黙って煙草を吸う。
───こんな時間に、こんな風に並んでいるのが、
不思議な気がした。
幼い頃は、夜に家の外に出るなんて
考えもしなかった。
大学に行く前は、
夜更かししている沙耶子を見つけたら、
彰は決まって「早よ寝ろ」なんて言っていたのに、
でも今は、並んで煙草を吸っている。
「……変なの」
沙耶子がふと呟くと、彰がちらりと横目で見た。
「何がや」
「こんな時間に、こんなとこで、こんな風に」
沙耶子は、白い息を吐きながら笑った。
「まあ、お前が煙草吸うようになった時点で、
なんか変やったけどな」
「大学の時からやで」
「知っとる」
彰は、微かに口元を緩め、
沙耶子は目を瞬いた。
──そういえば。
大人になってからの彰の笑顔を、
まともに見たのは久しぶりかもしれない。
そのことに気づいた途端、胸の奥が妙にざわついた。
「……なんやねん」
「え?」
「じっと見んな」
彰は顔を背け、煙を吐き出した。
沙耶子は、煙越しに彼の横顔を見つめた。
若い頃から変わらない整った顔。
長めの髪が、無造作に揺れている。
「……やっぱり、あんまり変わらんね」
ぽつりと零すと、彰は「何がや」と眉を寄せた。
沙耶子は、笑って誤魔化した。
何も変わらないわけがない。
彰はもう48歳で、沙耶子は28歳で───
二人は、もう昔のままではいられない。
けれど、こうして並んでいると、
それを忘れそうになる。
───たぶん、今日は特別だから。
「……明日は?」
「ん?」
「いつ戻るんや」
「最後の新幹線」
「そうか」
彰は、それ以上何も言わなかった。
沙耶子も、言葉を足さなかった。
───でも、もう少しだけ。
こうして並んでいたかった。
そんなことを思いながら、沙耶子はゆっくりと
煙を吐き出した。
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