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24.
しおりを挟むあれから三日が過ぎた。
四十九日も終わり、年が明けたことで、
家の中は普段の静けさを取り戻しつつあった。
香代子たちも、これまで慌ただしかった反動で
疲れが出たのか、朝から炬燵に座って
ぼんやりしている時間が増えた。
彰も、長く休んでいた仕事に戻り、
通常運転の生活へと戻りつつあった。
夜勤明けで帰宅し、コンビニで買った弁当を
適当に口に押し込み、煙草を咥えながら
無造作にPCを開く。
プログラムのコードを睨みつけ、
思考を巡らせる時間は、
余計なことを考えなくて済むからちょうどよかった。
けれど。
それでもふとした瞬間に、
あの夜のことを思い出してしまう。
───いや、違う。あの夜「だけ」ではない。
炬燵でうたた寝をする祖母を見たとき、
仕事帰りのコンビニで缶ビールを手に取ったとき、
家の中でふわりと沙耶子の使っていた
シャンプーの香りを感じたとき。
そのどれもが、彼女の姿を思い出させる。
思い返せば、沙耶子は昔からこの家の中で、
当たり前のように傍にいた。
小さかった頃は、母親の背中に隠れて
こちらを覗いていた。
姉の香代子の真似をして、呼び捨てで呼んできて、
生意気だと思ったが、
娘のようで可愛くて仕方なかった。
高校生の頃は、夜遅くに受験勉強をしているのを
見かけたこともあった。
大学に進学し、東京で暮らすようになってからは、
年に数回帰省する程度になったが、
それでも顔を合わせれば、変わらず「彰」と呼んで、
どこか甘えるように笑った。
───それがどうして、あんなことになったのか。
「……はぁ」
溜め息が、煙草の煙とともに
白く空気へと溶けていく。
後悔しているわけではない。
ただ、これまで築いてきた関係を
壊してしまったことへの罪悪感が、
じわじわと沁みついて離れないのだ。
電話をすれば、きっと沙耶子は出るだろう。
「やっぱり、好き」とすがるような目で
訴えてきた彼女の顔を思い出す。
もし、あのとき拒まずに受け入れていたら───
そんな仮定が、一瞬、頭をよぎる。
「……あほか」
口にした言葉は、自分自身に向けたものだった。
過去を振り返るのは性に合わない。
もう、答えは出したはずだった。
沙耶子は、前を向くと決めたのだから、
自分もそうすべきなのだ。
PCの画面に視線を戻し、
再びコードの世界へと意識を沈める。
けれど、心の奥底でざわつき続ける何かを
完全に拭い去ることができないままでいた。
日々の仕事に没頭していれば、
そのうち気持ちも落ち着くと思っていた。
いや、落ち着かせようとした。
だが、そう簡単にはいかないらしい。
沙耶子を見送ってから一週間。
仕事と家の往復を繰り返しながら、
何事もなかったかのように日常を過ごしていた。
職場ではいつも通り後輩の尻拭いをし、
上司の愚痴を聞き流し、淡々とコードを書き続ける。
それなのに───
ふとした瞬間に、沙耶子の姿が浮かぶ。
携帯の着信音が鳴るたびに、
一瞬だけ期待する自分がいる。
煙草に火をつけると、あの夜のことが頭をよぎる。
夜、布団に入ると、
ほんのわずかに彼女の体温を思い出す。
「……くそ」
独り言のように呟いて、煙を深く吸い込んだ。
どうかしている。
こんな気持ちは、久しく忘れていた。
別れた元妻とも
うまくいかなくなった時期があったが、
そのときですら、ここまで
誰かを求めるような感情にはならなかった。
この気持ちがただの執着なのか
何なのかはわからない。
だが、沙耶子のことを考えるたびに、
胸の奥に波紋が広がる。
それだけは確かだった。
その日の夜、酒を飲もうかと冷蔵庫を開けたとき、
不意に携帯が振動した。
画面を見て、息が詰まる。
沙耶子───。
一瞬、出るのをためらった。だが、すぐに指が動く。
「……もしもし」
『……彰?』
久しぶりに聞く沙耶子の声は、
少しだけ緊張しているように感じた。
『今、大丈夫?』
「ああ、なんや」
『……今どこ?』
「家や」
『そっか……』
沙耶子は、少しだけ息をついたようだった。
沈黙が落ちる。
お互い、何を言えばいいのかわからず、
言葉を探しているのが伝わる。
俺は何か話さなければと口を開いた。
「……なんかあったん」
彰も何か落ち着かないと言った様子で
徐に煙草を咥えながらライターに手を伸ばす。
『……会えへん?』
静かな夜に、その言葉は妙に鮮明に響いた。
「なんや、また来てたんか」
『今駅着いた、最終』
予想していなかったわけじゃない。
けれど、いざ沙耶子の口からそれを聞くと、
心臓が大きく跳ねた。
「……ええけど」
気づけば、そう答えていた。
『ほんまに?……そっか』
小さく笑うような声がした。
『迎えきて』
「…まだ俺が酒飲む前で良かったな」
沙耶子のほうからそう言ってくれたことが、
どこか少しだけ嬉しかった。
「……今から行くわ」
『うん』
これでええんか?
頭のどこかで、そう問いかける声がする。
これ以上、深入りすれば後戻りできない。
わかっているのに、俺はもう、
彼女を拒むことができなかった。
煙草に火をつけて車に乗り込み、
ゆっくりと息を吐く。
会えば、きっと、もう終わりだ。
そう思いながらも、
彰は沙耶子を迎えに行くことを選んだ。
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