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第三話 婚約者の女に下に見られました。
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ローディア領主館で過ごす初日の夜は、静かだった。
静か――というより、
私に話しかけてくる人間が、ほとんどいなかった。
用意された客室は広く、調度も上質だ。
けれど、どこかよそよそしい。
必要最低限の世話だけをする使用人たちの動きが、そう感じさせた。
(……気を遣わせている、のかしら)
そう思った直後、自嘲気味に考え直す。
(違うわね。
“扱いに困っている”、が正しい)
無表情で、何を考えているか分からない女。
アルベルトの一言で、館の中では私はすでにそういう存在になっているのだろう。
翌日。
朝食の席にも、アルベルトの姿はなかった。
「坊ちゃまは、街の方へ……」
使用人が歯切れ悪く答える。
(……街、ね)
何をしに行っているのか。
聞かなくても、想像はついた。
食後、館の庭を少し散歩することにした。
部屋に籠もっているより、その方が気が紛れる。
庭の奥、噴水の近くで、数人の使用人が小声で話しているのが聞こえた。
『……昨日の方が、婚約者様?』
『ええ、そうらしいわ』
『思ったより……冷たい感じだったわね』
『だから、ほら……』
言葉が途切れる。
足を止めるべきか、一瞬迷った。
でも、聞こえてしまった以上、知らないふりもできない。
「……冷徹女」
口にしたら、胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
(……使用人からも、そう呼ばれているのね)
怒りよりも先に、疲労感が来る。
一度貼られたラベルは、簡単には剥がれない。
私は何も言わず、その場を離れた。
昼過ぎ。
館の門の方が、にわかに騒がしくなる。
馬車が一台、止まったらしい。
軽やかな笑い声が、風に乗って聞こえてきた。
念のため、一階に降りて屋敷の廊下から窓を開けて様子をうかがう。
「アルベルト様ぁ、そんなに急がなくてもいいじゃない」
聞き覚えのない、甘ったるい声が響く。
視線を向けると、アルベルトが一人の女性を伴って庭を横切っていくところだった。
栗色の髪に、華やかなドレス。
年頃は、私とそう変わらないだろう。
整った顔立ちで、はっきり言って――美人だ。
彼女は、アルベルトの腕に絡みつくようにして歩いている。
(……そういうこと、ね)
納得と同時に、胸の奥が冷える。
そんな私の気持ちとは反対に、陽気な会話が聞こえてくる。
「ねえ、早くお部屋に戻りましょう」
「ったく、慌てんなってミレイア」
どうやら女性の名前はミレイアというらしい。
(それにしても――)
"戻りましょう"。
まるで、ここが自分の家かのような言い方に違和感を覚える。
アルベルトも、訂正しない。
「あらぁ?」
ふと、ミレイアの視線がこちらに向いた。
一瞬だけ、私と目が合う。
次の瞬間、彼女はにっこりと笑った。
――勝ち誇った笑み。
(……ああ)
理解してしまった。
彼女は、私の存在を知っている。
その上で、ここに来ている。
「ねえ、アルベルト様。
あの人が、例の婚約者?」
わざとだろう。
よく聞こえるように。
さっきまでよりも大きな声で、ミレイアは問いかける。
彼は、面倒くさそうに答える。
「ん? ああ、そうだよ」
「ふぅん……」
ミレイアは私から視線を外し、アルベルトの腕をとって館の入口へと消えていった。
「はあ……」
小さく息を吐くと、今度は本当に、胃の奥がきりりと痛んだ。
鉛のような重たい何かが、確実に積もっている。
一度感じてしまうと、無視できない不快感。
(父上は、どうして私をこんな場所へ……)
冬のひやりとした風が、窓の隙間から流れ込み、頬を撫でた。
その冷たさに、少しだけ力を借りて背筋を伸ばす。
「いいえ、腐ってはダメよ。父上を疑うような真似はすべきではないわ」
踵を返し、私は自室へと戻った。
その夜。
部屋で休んでいると、エレナ夫人が訪ねてきた。
「リュシアさん、申し訳ありません。
あの子のことで、不快な思いをさせてしまって……」
夫人は、はっきりと"何が"、とは言わなかった。
どこか疲弊しているように見える。
その様子に、日頃のアルベルトとの関係性が見て取れるようだった。
「いえ……」
私は首を振った。
こんな時はどんな言葉を掛けたら良いのか。
私自身、余裕がないので余計に思考が回らず、ただ時間だけが静かに過ぎる。
そんな沈黙を破ったのは夫人だった。
「近いうちに、
領民に向けた正式な婚約発表の場を設けます」
「婚約発表……ですか」
夫人は小さく頷き、私の手を取った。
「その時までには、
きちんと話をつけますから」
“話をつける”。
それが、何を意味するのか。
私は、あえて考えないことにした。
ただ一つ、確信していたことがある。
(……穏やかには、終わらないわよね)
婚約発表の日は、
確実に近づいていた。
静か――というより、
私に話しかけてくる人間が、ほとんどいなかった。
用意された客室は広く、調度も上質だ。
けれど、どこかよそよそしい。
必要最低限の世話だけをする使用人たちの動きが、そう感じさせた。
(……気を遣わせている、のかしら)
そう思った直後、自嘲気味に考え直す。
(違うわね。
“扱いに困っている”、が正しい)
無表情で、何を考えているか分からない女。
アルベルトの一言で、館の中では私はすでにそういう存在になっているのだろう。
翌日。
朝食の席にも、アルベルトの姿はなかった。
「坊ちゃまは、街の方へ……」
使用人が歯切れ悪く答える。
(……街、ね)
何をしに行っているのか。
聞かなくても、想像はついた。
食後、館の庭を少し散歩することにした。
部屋に籠もっているより、その方が気が紛れる。
庭の奥、噴水の近くで、数人の使用人が小声で話しているのが聞こえた。
『……昨日の方が、婚約者様?』
『ええ、そうらしいわ』
『思ったより……冷たい感じだったわね』
『だから、ほら……』
言葉が途切れる。
足を止めるべきか、一瞬迷った。
でも、聞こえてしまった以上、知らないふりもできない。
「……冷徹女」
口にしたら、胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
(……使用人からも、そう呼ばれているのね)
怒りよりも先に、疲労感が来る。
一度貼られたラベルは、簡単には剥がれない。
私は何も言わず、その場を離れた。
昼過ぎ。
館の門の方が、にわかに騒がしくなる。
馬車が一台、止まったらしい。
軽やかな笑い声が、風に乗って聞こえてきた。
念のため、一階に降りて屋敷の廊下から窓を開けて様子をうかがう。
「アルベルト様ぁ、そんなに急がなくてもいいじゃない」
聞き覚えのない、甘ったるい声が響く。
視線を向けると、アルベルトが一人の女性を伴って庭を横切っていくところだった。
栗色の髪に、華やかなドレス。
年頃は、私とそう変わらないだろう。
整った顔立ちで、はっきり言って――美人だ。
彼女は、アルベルトの腕に絡みつくようにして歩いている。
(……そういうこと、ね)
納得と同時に、胸の奥が冷える。
そんな私の気持ちとは反対に、陽気な会話が聞こえてくる。
「ねえ、早くお部屋に戻りましょう」
「ったく、慌てんなってミレイア」
どうやら女性の名前はミレイアというらしい。
(それにしても――)
"戻りましょう"。
まるで、ここが自分の家かのような言い方に違和感を覚える。
アルベルトも、訂正しない。
「あらぁ?」
ふと、ミレイアの視線がこちらに向いた。
一瞬だけ、私と目が合う。
次の瞬間、彼女はにっこりと笑った。
――勝ち誇った笑み。
(……ああ)
理解してしまった。
彼女は、私の存在を知っている。
その上で、ここに来ている。
「ねえ、アルベルト様。
あの人が、例の婚約者?」
わざとだろう。
よく聞こえるように。
さっきまでよりも大きな声で、ミレイアは問いかける。
彼は、面倒くさそうに答える。
「ん? ああ、そうだよ」
「ふぅん……」
ミレイアは私から視線を外し、アルベルトの腕をとって館の入口へと消えていった。
「はあ……」
小さく息を吐くと、今度は本当に、胃の奥がきりりと痛んだ。
鉛のような重たい何かが、確実に積もっている。
一度感じてしまうと、無視できない不快感。
(父上は、どうして私をこんな場所へ……)
冬のひやりとした風が、窓の隙間から流れ込み、頬を撫でた。
その冷たさに、少しだけ力を借りて背筋を伸ばす。
「いいえ、腐ってはダメよ。父上を疑うような真似はすべきではないわ」
踵を返し、私は自室へと戻った。
その夜。
部屋で休んでいると、エレナ夫人が訪ねてきた。
「リュシアさん、申し訳ありません。
あの子のことで、不快な思いをさせてしまって……」
夫人は、はっきりと"何が"、とは言わなかった。
どこか疲弊しているように見える。
その様子に、日頃のアルベルトとの関係性が見て取れるようだった。
「いえ……」
私は首を振った。
こんな時はどんな言葉を掛けたら良いのか。
私自身、余裕がないので余計に思考が回らず、ただ時間だけが静かに過ぎる。
そんな沈黙を破ったのは夫人だった。
「近いうちに、
領民に向けた正式な婚約発表の場を設けます」
「婚約発表……ですか」
夫人は小さく頷き、私の手を取った。
「その時までには、
きちんと話をつけますから」
“話をつける”。
それが、何を意味するのか。
私は、あえて考えないことにした。
ただ一つ、確信していたことがある。
(……穏やかには、終わらないわよね)
婚約発表の日は、
確実に近づいていた。
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