羽柴弁護士の愛はいろいろと重すぎるので返品したい。

泉野あおい

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6章:突然訪れた夜

6-3


 次の金曜。会社を出る時、私はなぜかドキドキした。
 羽柴先輩がいそうな、そんな予感がしたから。

 エレベータで1階まで降りると、エントランスを出たところに、やっぱり先輩はいた。



「みゆ」
「……なんでいるんですか」

 低い声で聞いてみたけど、最後はちょっと笑ってしまった。
 するとそれを見た先輩は楽しそうに笑う。

「ふふ。そうだ、ちょうど今日日本酒をいただいたんだけど、いらない?」
「え……」

 先輩は手に持っている紙袋を見せる。

「獺祭の磨きその先へ、って言うらしいんだ」
「……へ」
「変な名前だよね」
 
 私は固まる。それ、私が飲んでみたかったやつ!
 基本贈答品で、ちょっと高いから普通には買えない日本酒だ。

 そんなものいただくなんて、先輩さすがだ。


「みゆ、知ってる?」
「はい、もちろん」
「でも俺は日本酒そんなに飲まないからね。みゆ、持って帰る?」
「え、そんな……高価なものいただけませんよ」

 私は手を横に振った。
 すると先輩は少し考えた後、
「じゃ、うちで少し飲んでいかない?」
と言う。その提案に胸がドキリと音を立てた。


「……そ、それは結構です」
「あ、俺がみゆに何かすると思ったの?」
「それに対しては、否定も肯定でもできません」

 って、前に、キスしたのも先輩んちだったじゃん!
 私が先輩を睨むと、

「あはは、ごめんごめん。からかっただけ。大丈夫。一応俺も弁護士だし。高校の時みたいに、無理矢理、なんて考えないよ」
 そう言われて思わず口を噤んだ。


「そうだ。一杯だけ付き合って。俺も一杯だけ飲んでみるし。それから、残ったもので申し訳ないけど、持って帰ってくれたら嬉しいな」
「でも」
「ね、俺を助けると思って」

 先輩は私にぱちりと手を合わせる。

「……本当になにもしませんよね」
「みゆが嫌だっていうなら絶対何もしない」

 先輩がまっすぐ私を見てそう言って、私は小さく頷いた。

 そういえば、先輩の家のカードキーも預かったままだ。先輩に直接返すとまたどこかしらに入れられそうなので、先輩の部屋にそっと置いていこう。
 そう決意して、私は先輩に続いた。


 先輩の家は玄関までしか入ったことはなかったけど、室内も想像以上に広かった。
 ソファの前のローテーブルに日本酒とグラスを出してくれて、私はそれを注ぐ。

 ふたりで乾杯をして一口飲むと、
「おいしい!」
私は叫んだ。

 あぁ、やっぱりそれだけの品質なんだよね。おいしい。

「ウン。確かに飲みやすいね。俺は日本酒あまり飲まないけど、これなら飲めるな」

 先輩も笑って、少し目が合う。それだけで私の心臓は限界までドキドキと鳴った。

 どうしよう、キスとか、されるだろうか。
 覚悟して黙り込むと、先輩はその場を立ち上がりキッチンの方へ行く。

 私は拍子抜けして先輩を見上げた。


「なにかつまみでも作るね」
「作れるんですか?」
「食べたら、これから俺のことを羽柴シェフと呼ぶことになるよ」
「なにそれ」

 私がくすくすと笑うと、先輩も楽しそうに笑う。
 なんだかこの空間がとても心地よかった。


 先輩が出してくれたのは、目にも鮮やかなおつまみたち。アンチョビまであるけど、普通の家にこれ常備されてる? それにこの人、私より確実に料理上手だ。

「簡単なものだよ」
「すごい……! 羽柴シェフ!」
「はは」

 先輩は笑って、私も笑って、それから、日本酒を飲みながら、最近の仕事のこととか、途中でママの話もしたと思う。
 先輩のご両親は離婚していて、一緒に住んでいた先輩のお母さんももう亡くなっていることもその時知った。だからもう、今はうちの先にある、先輩の住んでいた家ももう他の人の家らしい。




 先輩のことも新しく知って、おつまみもおいしくて、ついついお酒が進んでしまった。瓶にあった日本酒は、もう半分くらい減っていたのだ。
 っていうか、高級と言いながら結局こんなに飲んでしまって申し訳なさしか残ってない。


「ご、ごめんなさい! 結局半分くらい飲んじゃって……」
「ふふ、むしろありがたいって言ったでしょう?」

 先輩は楽しそうに笑う。その顔を見てしまうと、目が離せなくなった。
 先輩の手がそっと私の頬に触れる。

「みゆ、頬が赤いよ?」
「す、少し飲みすぎましたかね」
「かわいい」

 熱い先輩の指先が妙に自分の身体も熱くする。
 ちょ、待って。これ、今、ちょっとやばい……?



 困って先輩を見上げると、

「ごめん。キス、したい」

 先輩は急にそんなことを言い出す。

「な、なにもしないって言ったじゃないですか……!」
「『みゆが嫌だって言うなら』って前置きしたはずだよ」

 先輩の熱っぽい目が私を捉える。「イヤ?」

「ま、またそれ」
「うん。だって、みゆは俺のこと、自分から好きって言わないでしょ。とにかく『嫌じゃない』ってとこで妥協しようとしてるの」
「なにそれ……」

 泣きそうになって呟くと、先輩は意地悪そうに目を細める。
 また心臓の音が大きくなって、次は鳴りやまなくなる。


「い、いま、酔ってるから正常な判断力ないです」
「そう?」
「こういうの心神耗弱状態っていうんですよね」
「あはは、良く知ってるね」
「司法試験は受けてないけど、一応、法学部出身ですから」
「そういえばそうだよね。履歴書見て驚いた」

 先輩は少し考えると、「なんで? みゆ、弁護士志望だったの?」

と言う。私は思わず押し黙った。


―――あの頃の私は……。

 先輩はいたずらっぽく笑って、
「……もしかして、俺が法学部に進路を変えたから? なんて……」
と言って、私はその言葉に息をのんだ。

「……っ」


 私は無意識にそんなふうに進路を選んだのかもしれない。

 あの頃、先輩が第一志望ではない大学、しかも違う学部に行ったと知って。
 しかもそれが法学部だと知って……。

 私には同じ大学は無理だったけど、自分に行ける大学の中で、ギリギリ行けそうな大学の法学部を選択した。

(もしかして、私って変なストーカー……⁉)


 そんなことに急に気づくと妙に恥ずかしくなって、私は自分の顔を両手で覆った。
 先輩はそんな私を見て困ったように笑うと、

「みゆ、それ反則だよ」
と、そのまま顔を近づけてくる。

 私が、ぎゅう、と目を瞑ると、唇に軽く触れる感触がして、すぐ離れた。
 あまりにも軽いキスに目を開けると、先輩が私をまっすぐ見ている。

 そんなキスじゃ物足りない、と思って、泣きそうになった。

 破廉恥だ。思考が破廉恥だ。
 どうしたの、私!



 先輩は優しく私の髪をなでると、

「みゆは、あれから誰かとつきあったりした?」
と言い出した。私の心臓の音はまた大きくなる。

「できるはず……ないでしょう」
 私は続ける。「好きになれそうな人はいたけど、あれから恋愛すらまともにできなかったですから。あの事故の後悔のせいで」

 そう言うと、先輩は嬉しそうに笑う。

「そう、良かった」
「なにが」
「みゆのハジメテは俺がもらえるってことでしょう」

(なにを急に言いだしたーーーー⁉)


「だれがあげるって言いましたかぁああああああ⁉」

 叫んでも、先輩は心底不思議そうな顔で、

「え? なんで?」
と問うてくる。


「むしろその質問がなんでなんですか」
「だって、みゆは、俺が忘れられなくて恋愛できなかったんでしょう」
「そうですけど、ちょっとニュアンスが違う気がします」
「なら、恋愛するなら俺でないと無理ってことだよね」

「……せ、先輩とだって」

 無理です、と言うより先、

「俺もみゆしか無理だよ。みゆにしか反応しないって言ったでしょう?」

 思わず先輩の顔を見た。

(どうしよう……)

 初めて聞いたときは、悪夢だと思った。
 でも今は……同じそのセリフで、こんなにキュンときてしまっている!


 泣きそうになると先輩は私の唇を撫でる。
 先ほどの中途半端なキスも相まって、私の身体はなんだかおかしいほど熱くなっていた。


「ここにいるのは俺とみゆだけだよ。誰も見てない」
「……誰もって……」
「みゆ、ごめん」

 その時、ぎゅう、と強く抱きしめられる。
 そして耳元で、「やっぱみゆの匂い、予想以上に……くるな」
 そう言われて耳朶を甘噛みされた。



「ひゃぁっ……!」

 自分から聞いたこともない、変に甘い声が出て、またそれにも泣きそうになる。
 先輩はそんな私の頬を困ったように撫でると、

「ごめん、これ以上すると、止まれないかもしれない」
と言った。


 その意味は、私にもわかる。
 初めてだし怖い、どうしたらいいかわからない。

 でも……。



 私が固まっていると、先輩は私の髪をなで、私の額に自分の額を合わせた。
そのしぐさに安心している自分がいる。

「……みゆ? ほんとにいいの?」

 そのまま口づけられる。
 それがまた軽いキスで、まだもっと、と思ったところで先輩の唇は離れた。

「先輩っ……もっと……」

 そうつぶやいてしまって、激しく動揺する。「い、今のは……!」


 なのに先輩は楽しそうに笑うと、また私に口づけ、そして唇を離すと、まっすぐな目で私の目を捉えた。


「絶対に優しくする。だからね、みゆのハジメテの相手が俺だってこと、ちゃんと見てて。覚えてない、なんて言わせないから」

 どういう意味、と問おうとしたところで先輩の唇が首筋に埋まる。

 太ももを撫でる手に、あの時のことを思い出して一瞬身体を固くしたけど、あの時のような嫌悪感もなく、ただ、触れられる部分が全部熱を持ったみたいに、もっと触ってほしい、と不埒なことが頭をよぎった。

「私……」
「みゆ、どうしても無理なら言って」

 先輩が自分のネクタイを少し乱暴に引き抜く。そしてまっすぐ私を見つめると、

「逃げるなら、今だよ」

と低い、切羽詰まった声で言った。

 私はどうしていいのかわからずに一瞬固まったのに、私の手だけは勝手に動いて、先輩の背中のシャツを掴んでいた。


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