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春風小路二番町胡桃堂こぼれ話
童女と夫婦
しおりを挟むおきろおきろと、せかされた気がして目が覚めた。
畳の部屋には誰もいない。だから、せかす相手なんかいはしないのだけれど、冷たくて気持ち悪くて、さよは慌てて飛び起きた。小さな手で上掛けをめくり、固まる。
布団も浴衣を着た自分の尻も、もろともに濡れていた。
おねしょだ。
ああ、またやってしまった。
すうっと血が引いていく。
叔父のうちで暮らしていたとき、敷いていたのはちくちくする藁布団だった。それでも寝小便すれば怒られたものだ。それを、自分は奉公人なのに、こんな立派な布団へ一度ならず二度も三度も―――。
さよは痩せた身を縮める。
さよの寝る部屋と襖をへだてた向こうは、旦那様と奥様の部屋だ。奉公人たちは違う場所で寝ている。
本当なら、さよはそちらで寝るべきだ。けれど、奉公人たちが夜中にはばかりへ行くときは、下駄をつっかけ、裏長屋と共同で使う便所に行くらしい。
店主夫婦の寝室の近くには、夫婦や来客のための便所がある。幼いさよには、こちらの棟の方がいいだろう、との心遣いなのだった。
「夜中にあっちまで行くのは怖いだろう? 部屋がないわけじゃないんだ、こちらで寝るといい。こっちの便所も怖いんなら、俺を起こしたって構わないんだよ」
そう言ってもらったけれど、旦那様をわざわざ起こして便所へ付き合わすなんて、できる気がしない。
しかも、一度寝たら起きられないから、布団がびしょ濡れなわけで……。
ふと顔をあげる。
雨戸はすでに開かれていて、障子の向こうからほんのりと、日の出の光がさしている。うかうかしてはいられない。さよは、きゅっ、と口を引き結び布団から出る。
このうちに来てから、とっても優しくしてもらっているのに、自分はこのありさまだ。
昨日も「ああ、そんなに濡れちゃ気持ち悪いだろう、早く着替えてしまいなさい」と旦那様は気の毒がってくれたし、奥様は着替えを出して手伝ってくれたけれど、こう連日では優しい旦那様たちも呆れるに違いない。
こんな寝小便垂れに金を出したのか、金を返せ、さっさと帰れ、なんて言われたらどうしよう。
もう叔父のうちへ戻ることなどできはしない。もう、さよの居場所はどこにもない。
やってしまったことは言わなければならない。
早い方がいい。怒られようと正直に言って始末をして、今日こそは朝から働くのだ、このうちの役に立つのだ。さよは、金と引き換えにここに来たのだから。
さよはこのうちの旦那様に、買われたのだから。
そっと襖を開ける。
「さあ、できたよくるみ。今日もすこぶるきれいだねえ。本当にお前さんは天女さまみたいだよ。羽衣をまとったら、天に帰っちまうんじゃないのかい? ねえ、その時は、俺も一緒に連れて行ってくれなきゃ困るよ」
旦那様は奥様の後ろに座り、鏡越しに話しかけながら、妻の結い上げた髪を整えていた。旦那様の冗談に、お腹の大きな奥様が幸せそうにくすくす笑う。
髪を結うのが苦手な奥様のために、旦那様はこうやって毎朝手伝うらしい。この夫婦は本当に仲が良くて、さよは、ふたりを見ながら思うのだ。
(とうちゃんとかあちゃんも、こんなだったのかな……)
さよは流行病で死んだ両親の顔を知らない。覚えていない。物心ついたときにはもう、叔父の家で暮らしていた。
なにやら、旦那様と奥様を見ていると、幼いいとこが母親の膝に甘える姿を見て、つきりと胸が痛んだときと似た心持ちがする。
「おや、おさよ。おはよう、よく眠れた……って、濡れてるね?」
こちらを向いてにこやかに挨拶をした、旦那様の目が見開かれた。視線を感じ、尻を濡らしたままの姿でぶるぶる震えながら、さよが謝る。
「ご、ご、ごめ、ごめんなさい……!」
「いいよいいよ、気にしちゃいけない。くるみ、着替えを出してやっておくれ」
言い残し、旦那様はさっと立ち上がり出ていった。言葉が出ないという奥様は、箪笥から着物を出すと、さよに向かっておいでおいでをする。慌ててそばへ駆け寄る。
「またあたし、おふとんぬらしてっ、おふとん、あんな、きょうも、びしゃびしゃでっ、ごめんなさいっ」
早く謝らなくちゃ、と気ばかりせいて、どう話したらいいのかわからない。そんなさよへきれいな手が延べられた。びくっ、と身を震わせてきつく目を閉じたさよの頭を、暖かい手がなでる。
よしよし、よしよし。
何度も、何度も、ゆっくりとなでられる。いいこ、いいこ、と言われているようだ。体から力が抜ける。こっそり見上げると、奥様は優しい顔でこちらを見ていた。
旦那様がこのひとを、大好きなのがわかる気がする。
ふと足音を聞きそちらを見れば、旦那様が手桶を持って戻ってくるところだった。
「さ、おさよ。水を汲んできたよ。きれいに拭いて着替えるといい。布団もね、干してくるから心配いらないよ。気にするこたぁない、世の中のひとで、寝小便したことないひとなんかいないんだからねえ」
明るい言葉にあるいたわりが、さよにはわかった。それが辛かった。優しい旦那様も奥様も、役に立てない自分もおねしょも、何もかもが辛かった。
奥様に頭をなでられ止まっていた震えが、また起こる。
「ごめんなさい……っ!」
ぶるぶる震えながら、さよは言う。
「ごめん、なさい。しょんべんたれで、ごめんなさい。や、やくに、たたなくって、ごめんなさい。いっぱいの、おかねと、あたしを、かえたのに……!」
ぎゅうっと抱きしめられた。奥様はあったかくていい匂いがした。動けず固まっていると、今度は大きな手がさよの頭をなでる。旦那様だ。
「そんなこといいんだよ、お前さんが幼いのは当たり前のことなんだよ。おねしょだって、なんだって、子どもなんだからいっぱいすりゃあいいのさ」
それは困る。大きなお腹の奥様の腕の中で、さよはいやいやをする。
おねしょはやっぱり嫌なのだ。申し訳ないし冷たいし、気持ち悪いし恥ずかしい。布団だってぐしょぐしょだ。
「それにね、最初っから何でもできるひとなんかいやしない。今は、うちに慣れるのがお前さんの仕事だよ。俺もくるみも、お前さんには気持ちよく過ごしてほしいと思ってる。長くうちにいてほしいからね。おさよ、お金のことなんか、お前さんが気にすることじゃないんだよ」
いてほしい。
旦那様の言葉が、さよの胸にことん、と落ちた。
そんなこと、さよは今まで言われたことがない。
抱きしめられながら、さよは顔をあげた。旦那様と奥様が、心配そうにこちらをのぞき込んでいる。
ああ。
あたしはここにいていいんだ。
いてもいいんだ。
しょんべんたれでも、まだやくにたてなくても、おいだされないんだ……!
「う、ううっ」
嬉しくて、耐えられなくてべそをかく。
べそがどんどんひどくなる。
さよはわんわんと泣いた。
奥様にしがみついて泣いた。
奥様はさよを抱いたまま、とんとん背中を叩いてあやしてくれた。さよにそんなことをしてくれるひとは、今までいたためしがない。
ありがたくてやっぱり泣いた。
泣いて泣いて、声が枯れるくらい泣いてから、さよは泣くのはとても久しぶりだと気付いた。前に泣いたのはいつだったのか思い出せない。
もう、ずいぶんと前だということだけは、確かだった。
◇
さよが小さな胸に決心したのは、もうこの頃だったという。
早く大きくなろう。
このうちの役に立てるようになろう。優しい旦那様と、優しい奥様と、その子どもを今度は自分が守るのだ。
そう。
きっとこの身をかけてでも―――。
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