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5章
9
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「君は――君もコスモポリタンなのじゃないかと、一瞬でも思った私が馬鹿だった」
小さな呟きを、しかしテオバルドは聞き逃さなかった。
珍しく押し黙ったかと思うと、探るような、期待するような、不思議な眼差しで質してくる。
「アポロンといい、あんたには俺が、そんな高尚なものに見えるのか」
「高尚でもないだろう、帰属意識のない根無し草の側面もある。現に私は……」
盲目的に母国を愛せない。
ほろ苦さとともに呑み込んだ言葉は、テオバルドの熱い宣言に吹き飛ばされた。
「いや、俺は今からコスモポリタンだ。志貴にはそう思われたい。それなら少なくとも俺たちは同胞だ」
「同胞はいるだろう、君にも」
勢い込むテオバルドを、穏やかに制する。
闘牛場にいた彼は、水を得た魚のように活き活きとしていた。いつもより楽に呼吸しているようにさえ見えた。
「今日は、君も誇りにしているものはあるとわかって安心した。――愛しているんだろう、君を育んだ土地を。そこに生きる人たち、その文化を」
笑顔の中に蹲る昏い影を目にした時、この活力に満ちた男は祖国に愛するものもなく、敗者を踏みにじりながら進む国の在り方に――その性急な変化に取り残された怒りに囚われたままのように思えた。
しかし、過去に闘牛士の光の衣装を身にまとっていたと知り、力強い光を従えていた彼がいたことを知った。その過去を誇りに思い、それにまつわる世界を今も愛していることを。
「それを守るために君は働いている。ここへ来て、君と一緒に闘牛を見て、私はそう思う」
テオバルドの愛するものに敬意を表するため、志貴はグラスを目の高さに掲げてみせた。
「でも闘牛士の君も見てみたかったな。あの光の衣装が映えて、さぞ観衆に愛されていたんだろうと想像がつくよ。私も君に白いハンカチを振りたかった」
言いながら、自然と志貴は微笑んでいた。
男にも女にも人気の高い、満場の観衆を一人残らず熱狂させる花形。それは誇張ではなかったのだろう。
せっかく褒めたのに、テオバルドはどこか痛いような厳しい顔付きになり、志貴の腕を掴むと強引に歩き出した。店の奥の扉を勝手に開いた男は、物置きのような小部屋に志貴を引き入れる。突然のことに体勢を整えられないまま突き飛ばされ、壁に押し付けられた。
抗議の声を上げようとした口は、熱い男の唇に覆われるように塞がれていた。
「んんっ……んうっ!」
驚愕で身を固くしたまま動けない志貴を手懐けるかのように、厚い舌が唇の隙間を割り、侵入してくる。普段は綺麗に消し去っている獣性を解き放ち、テオバルドは傍若無人に志貴の口腔を舐め回す。腕の間に捕らえた獲物を味わい尽くすような荒々しさだ。
口蓋を舌先で擽られ、ぞくりと肌が粟立つ。
妻を亡くして四年、久しく忘れていた官能に火を点けられ、志貴は狼狽えた。男に襲われ――この状況を「襲われる」以外にどう表現できるというのか――感じてしまったなど、断じて認めることはできない。
小さな呟きを、しかしテオバルドは聞き逃さなかった。
珍しく押し黙ったかと思うと、探るような、期待するような、不思議な眼差しで質してくる。
「アポロンといい、あんたには俺が、そんな高尚なものに見えるのか」
「高尚でもないだろう、帰属意識のない根無し草の側面もある。現に私は……」
盲目的に母国を愛せない。
ほろ苦さとともに呑み込んだ言葉は、テオバルドの熱い宣言に吹き飛ばされた。
「いや、俺は今からコスモポリタンだ。志貴にはそう思われたい。それなら少なくとも俺たちは同胞だ」
「同胞はいるだろう、君にも」
勢い込むテオバルドを、穏やかに制する。
闘牛場にいた彼は、水を得た魚のように活き活きとしていた。いつもより楽に呼吸しているようにさえ見えた。
「今日は、君も誇りにしているものはあるとわかって安心した。――愛しているんだろう、君を育んだ土地を。そこに生きる人たち、その文化を」
笑顔の中に蹲る昏い影を目にした時、この活力に満ちた男は祖国に愛するものもなく、敗者を踏みにじりながら進む国の在り方に――その性急な変化に取り残された怒りに囚われたままのように思えた。
しかし、過去に闘牛士の光の衣装を身にまとっていたと知り、力強い光を従えていた彼がいたことを知った。その過去を誇りに思い、それにまつわる世界を今も愛していることを。
「それを守るために君は働いている。ここへ来て、君と一緒に闘牛を見て、私はそう思う」
テオバルドの愛するものに敬意を表するため、志貴はグラスを目の高さに掲げてみせた。
「でも闘牛士の君も見てみたかったな。あの光の衣装が映えて、さぞ観衆に愛されていたんだろうと想像がつくよ。私も君に白いハンカチを振りたかった」
言いながら、自然と志貴は微笑んでいた。
男にも女にも人気の高い、満場の観衆を一人残らず熱狂させる花形。それは誇張ではなかったのだろう。
せっかく褒めたのに、テオバルドはどこか痛いような厳しい顔付きになり、志貴の腕を掴むと強引に歩き出した。店の奥の扉を勝手に開いた男は、物置きのような小部屋に志貴を引き入れる。突然のことに体勢を整えられないまま突き飛ばされ、壁に押し付けられた。
抗議の声を上げようとした口は、熱い男の唇に覆われるように塞がれていた。
「んんっ……んうっ!」
驚愕で身を固くしたまま動けない志貴を手懐けるかのように、厚い舌が唇の隙間を割り、侵入してくる。普段は綺麗に消し去っている獣性を解き放ち、テオバルドは傍若無人に志貴の口腔を舐め回す。腕の間に捕らえた獲物を味わい尽くすような荒々しさだ。
口蓋を舌先で擽られ、ぞくりと肌が粟立つ。
妻を亡くして四年、久しく忘れていた官能に火を点けられ、志貴は狼狽えた。男に襲われ――この状況を「襲われる」以外にどう表現できるというのか――感じてしまったなど、断じて認めることはできない。
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