ヒロインにはなりたくない

ぬえもと

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いちにい

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 学校から国道を走ること20分。
 車は閑静な住宅街の真ん中に立ちすくむ一棟のビルの前で、ゆっくりとその動きを止めた。学校から少し距離はあるが、ここなら近くに住むのと同じ家賃で少しだけ大きな家に住めるからと、今から約5年前、就職が決まってすぐの誠一郎が嬉しそうに言っていたっけ。
 この家に来るのは随分久しぶりだった。中学の頃はまだ時折この家にお邪魔させてもらっており、夜通し映画を見たりゲームをしたりして泊まらせてもらったこともある。
 しかし、誠一郎の勤める高校に通い始めてからは、自然と距離を置くようになっていた。
 学校で話をすることはあっても、プライベートで関わる回数は自然と減り、今では保健室以外で会う回数は皆無である。
 月に一度は誠一郎の部屋に上がり込んでいたのも今や遠い過去の話。
 久方ぶりに見る誠一郎のマンションに、雪乃はごくりと息を飲んだ。
 本当に、これでよかったのだろうか。
 ハンドルを握りしめ、雪乃の座る座席に腕を回しながら、背後を見、車を止める男は確かに長年一緒に過ごしてきた幼馴染ではあるが、紛れもない強姦魔なのだ。
 胸元に散らされた赤い華を白衣の隙間から見ても、未だ実感はない。
 それどころか学校での出来事はすべて夢だったのではないだろうかと、こうなってなお能天気なことを考えている。
 無防備な横顔を晒す誠一郎は、こうしていると普段と何も変わらない。
 白衣を雪乃に預け、白いシャツにネクタイ姿の誠一郎は、端から見ればやり手の会社員のようにも見える。不覚にも街灯に照らされるその横顔を、かっこいいと思ってしまう自分がいた。
 子供の時からずっと憧れていて、その背中を追いかけ続けていた。
 誰より信頼していた。この人だけはずっと味方だと、そう盲目的なまでに思い込んでいた。

 雪乃の胸の中はもうぐちゃぐちゃだ。
 嫌悪感と恐怖、信頼と尊敬がどろどろに溶け合い雪乃の心を侵食し、粉々に砕いていく。
 しばし胸元でぎゅっと白衣を握りしめ固まっていると、ばたんと車のドアが開く音がした。

「着いたよ」

 身をかがめ雪乃と視線を合わせ微笑む誠一郎に、どう反応していいのか分からない。
 車を、降りたくなかった。

「言っただろう? 雪乃が嫌がることは何もしないよ」

 頑なに拒む雪乃の頭を、誠一郎は自然な動作で数度撫でた。
 そんな些細な所作に、目頭がかっと熱くなる。バッと無言で誠一郎の腕を払いのけ、雪乃は男の腕の中をすり抜けるようにして素早く車を降りた。

 そのまま数歩あとずさり、誠一郎と距離をとる。
 ぎっと睨み付ければ、誠一郎は肩をすくめ、寂しそうに眼鏡の奥の黒い瞳を歪め笑った。

「警戒されちゃってる、か」

「当たり前でしょう」

「でも、逃げないんだね」

「……無駄なことは、しない主義なだけ」

「賢明な判断だと思うよ」

 主人公ですら逆らえないシステムを管理する立場にある誠一郎から、どう抗ったところで雪乃が逃げられるとは思えない。
 嫌がることはしないと公言している通り、誠一郎は本気でいますぐ雪乃をどうこうしようと思っているわけではないようだし、下手に逃げて「犯されて頭の中をぐちゃぐちゃにされる」くらいなら大人しくついていったほうがよほどマシだ。
 逃げられないのなら、出来るだけ穏便に済ませたかった。
 ここで無謀な逃走劇を繰り広げるほど、雪乃は馬鹿じゃない。

「おいで。いつまでもそんな格好でいたくはないだろう?」

 雪乃に背を向け、誠一郎はマイペースに足を進める。
 逃げようと思えば逃げられる。後ろから刺されてもおかしくないことを強いておきながらなお、それでも雪乃に背を向けるのだ。

(……この人には、逆らわないほうがいい) 

 渋々、誠一郎のあとに続く。
 雪乃とて、いつまでも誠一郎の白衣を羽織ったままなのは癪だった。

 簡易的なオートロックのエントランスをくぐり抜け、エレベーターに乗り込めば狭い密室に二人きりになってしまう。鼻歌でも口ずさみそうに上機嫌な誠一郎の背を睨みつけているうちに、エレベーターは目的のフロアで静かに静止した。
 最上階にあたる十階の角部屋。そこに、梨本誠一郎の家はあった。
 
「さあ、どうぞ」

 ごくり、と息を飲む。
 扉は開かれ、誠一郎は雪乃が自分の足で部屋に入り込むのを今か今かと待っている。
 かつては訪れるのを楽しみにしていたこの部屋が、今の雪乃にとっては恐怖の対象でしかなかった。
 けれど、もう他に道はない。冷や汗が背を伝うのを感じながら、雪乃は平静を装ってゆっくりと足を踏み出した。
 雪乃が部屋に入り込むと同時に、背後で戸が閉まる音がする。がちゃりと誠一郎が鍵を掛ける音に、もう逃げ場はどこにもないのだと痛感させられた。
 
「ゆっくりしてて。すぐにお湯入れるから」

 そう言って風呂場を指差し、誠一郎は雪乃を玄関に置き去りにすると我が物顔で家の中を闊歩していく。しばらくすると、風呂を洗っているのだろう、ジャーという水音が家の中に響き渡った。

「……おじゃまします」

 このままここに立っているわけにもいかず、雪乃は丁寧に靴を揃えると、自分を鼓舞するようにそんなことを呟いた。
 悲しいかな、何度も訪れているので家の構造は把握している。
 玄関を開けてすぐ右手が風呂、その奥がトイレ、左手にある部屋が寝室、廊下の突き当たりに当たる場所がリビングだ。
 ずかずかと歩みを進め、雪乃は一直線にリビングの戸を開けた。
 誠一郎の家は、雪乃の記憶に残っている姿と寸分違わなかった。
 綺麗に片付けられ、廊下にもいましがた足を踏み入れたリビングにも埃一つ落ちていない。
 シンプルにモノトーンでまとめられた部屋は相変わらずモデルルームのようで、部屋の中央には二人掛けのソファーと大きな薄型テレビが置かれている。間に置かれたガラステーブルの上にはテレビのリモコンと、最新型のゲーム機のコントローラーが無造作に置き去りにされていた。
 ここに座ってよく一緒にゲームしたっけなと、無性に懐かしい気持ちが雪乃の胸を覆い尽くした。けれど、いまにして思えばゲームの中でゲームをしていたわけか。
 そう思うと無性に滑稽で、口からは乾いた笑みが漏れでた。
 立っているのも億劫で、雪乃は力なくソファーに腰掛ける。
 耳をさすのは時計の秒針と、鳴り止むことのない水音。
 ああ。どうして、こんなことになっているのだろう。
 膝を抱え、ソファーの上で縮こまり、腕の中に頭を埋めた。
 
 これから、どうすればいいのだろうか。
 いくら全部なかったことにしたいと願っても、現実は非情だ。
 なかったことになどならないし、この世界がゲームであるという現実は変わらない。
 さくらも誠一郎も、もちろん雪乃だってシステム上に形作られたデータでしかない。
 うっすらと意識していたこととはいえ、実感はない。だって、現にこうしていると自分の心臓の鼓動が聞こえる。作り物などではない、血肉の通ったはっきりとした人間の音が。
 
(……明日から、どうしよう)

 到底昨日の今日で明日学校に行く気にはなれず、かといってずっと誠一郎の家に居座るつもりもない。いまはただ、ひたすらにどこか遠くへ逃げ出してしまいたい気分だった。
 誠一郎にもさくらにも手の届かない場所で、静かに余生を送りたい。

(そんな場所、ないか)

 盤上における最強の駒である主人公と、システムの管理者。
 二人に本気を出されてしまえば、雪乃の抵抗など何の意味もないことは今日一日で痛いほどよくわかった。
 深く長い、ため息をつく。そのまま顔を上げ、雪乃はローテーブルの上に置かれていたテレビのリモコンを手に取った。特に見たかった番組があるわけじゃない。ただ、この静けさを紛らわせたかった。
 画面の中で壮年のニュースキャスターが原稿を読み上げる。
 それからしばらく呆然とテレビの画面を眺めていると、誠一郎がリビングの戸を開け戻ってきた。

「すぐに沸くと思うから、ちょっと待っててね。着替えは残念ながら男物しかないんだけど、……構わない?」

 あえて返事を返さず、雪乃はじっと膝を抱え、食い入るようにテレビの画面を見続けていた。内容が微塵も頭に入ってこない。理解するより早く、言葉が頭の中を滑っていく。

「お腹すいただろう? 何食べたい? なんでも雪乃の好きなもの作ってあげる」

「……いらない」

 こんな状況で、食欲があるほうがどうかしている。
 このまま素っ気なくしていれば、しばらくはそっとしておいてもらえるのではないだろうか。そう思いじっと身を硬くしていると、背後に誠一郎の気配を感じた。
 そのまま振り返り「一人にして」と言うより、誠一郎が雪乃の体に腕を回すほうが早かった。
 
「……怒ってる?」

 怒っているのかと聞かれれば、当然怒っている。
 だがそれ以上に混乱している。悲しんでいる。信じていたのに、その信頼を裏切られた。ああ、そうだ。怒っている。これ以上ないほどに、激怒している。

「――雪乃」

「っ……! うるさい!!」

 心底愛おしげに名を呼ぶ誠一郎に、雪乃の中で限界まで張り詰めていた何かがブチっと、無残に引き千切れる音がした。
 立ち上がり、誠一郎の腕を振り払う。今回も、誠一郎は呆気ないほどにあっさり腕を引いた。ソファーを挟んで対峙する誠一郎は一瞬軽く瞳を見開いていたが、すぐにいつもの人好きのする笑みを浮かべ、わがままを言う小さな子供でも見るかのような眼差しで雪乃の言動を見守る。ああ、ムカつく。
 変わらない態度を貫く誠一郎に、心底イライラした。これでは雪乃が聞き分けのないことをしているようではないか。悪いのは全部誠一郎なのに。
 そもそも、誠一郎が雪乃に無粋を強いていなければ、さくらとて強硬手段にでることはなかったのではないだろうか。考えれば考えるほどにはらわたが煮えくりかえる。
 
「いい加減にして! 私の頭をいじって、知らない間に好き勝手にして、勝手に言質をとってそれで? 無理やり手篭めにして満足した? それとも単に性欲のはけ口にしてただけ?」

 一度吐き出してしまえば止まらない。
 胸の中に渦巻くドス黒いものを、雪乃は躊躇うことなく吐き捨てていく。

「あなたもさくらもおかしいのよ! 私に何の価値があるのかはしらないし、理解しようとも思わない。この世界がゲームだろうが、さくらが私にこだわろうが、あなたがシステムの管理者だろうがそんなことどうでもいい! 全部、……どうでも、いいのよ……っ! 返してよ……!! 私の日常を、返して……っ! あなたなんて知らない!! 消えてよ……っ、しらない、あんたなんて、あんたなんて……っ!!」

 目の前にいるのは誠一郎であって、誠一郎ではない。
 少なくとも、雪乃が信頼し、胸を預けていた男ではない。
 そんな人物どこにもいない。そう思い込まなければ、心が壊れてしまいそうだった。

「……もう、いや。……や、だ、よ……ぅ、っ」

 しゃがみ込み、こぼれ落ちる涙を必死に拭う。
 こんな男の前で、無残な姿をさらしたくない。
 けれど止まらない。
 
(ああ、そっか)

 誠一郎が、好きだった。
 危機感など微塵も湧かないあの気の抜けた笑顔も、雪乃のわがままをすべて受け止めてくれる懐の広さも、「僕のお姫様」と呼びかけ、小さい子供にするように頭を撫でる腕も、こっそり雪乃だけを贔屓してくれる横暴さも、一直線に向けられる愛情もなにもかも、好きだった。
 今頃になって、やっと気付かされる。
 信じていた。懐いていた。大好きだった。この世界がゲームだと気付くよりもずっとずっと昔から、誰より好きだったのだ。

 一人の、男として。

 だからこそ、こんなにも胸が痛い。憎みきれないでいる自分が許せない。
 死んでしまいたい。世界から、消えてなくなりたい。
 背後では、誰も見ていないのに明日の天気を告げるテレビの音声が流れていた。

「ねえ、雪乃はどうしたい?」

 こんな状況になってなお、雪乃に優しくしようとする誠一郎の神経が理解出来なかった。やろうと思えば、雪乃の頭を弄って従順にさせることも出来るだろうに、誠一郎はそれをしない。
 あれほど勝手なことをしておきながら、あくまでも残酷なまでに雪乃の意思を尊重しようとする。
 自身も雪乃のそばに跪き、誠一郎は雪乃の体をそっと抱きしめる。その場に崩れ落ちた雪乃は這い進むようにして、誠一郎の胸に拳を打ち付けた。
 どん、どん、と無遠慮に叩いてやっても誠一郎に応えた様子はない。

「かえ、して」

 腹立たしかった。憎らしかった。許せなかった。

「私の、いちにいを、返して」

 ずるずると、誠一郎の腕の中でうなだれながら無謀なことを口走る。
 目の前の誠一郎と、雪乃が好きだった誠一郎は同一人物だ。そんなこと、誰に言われるまでもなく雪乃自身が一番よく分かっている。
 だが、誠一郎は雪乃の額に口付けを落とし、心底愛しいとばかりに髪を梳く。
 
「いいよ」

 思いもよらぬ答えに、とっさに顔を上げる。

「雪乃の望み通り振る舞ってあげる」

 見上げた先の笑みはぞっとするほどに艶やかで、雪乃は無意識に息を飲む。
 どういう意味?
 恐る恐る問おうとした声は、風呂が沸いたことを知らせる機械音に無残に阻まれることとなった。
 
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