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大切な君へ(上)
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「このxに、3を代入することで――」
眠気を催す数学教師の解説を背景に、春川さくらは頬杖をつき、窓の外に広がる青空を眺めていた。
開けられた窓から吹き込む風が、さくらの長い髪を揺らす。
図書室の前で倒れていたところを発見された日から、今日でちょうど三日になる。
あの日を境に、さくらは漠然とした喪失感をずっと感じ続けていた。
何か、大切なものが欠けてしまった。けれど、それがなんなのか、「誰」なのかが分からない。
自分だけが世界から取り残されてしまったかのような孤独感を覚え、気を抜けば今にも泣き出してしまいそうになる。
(情緒不安定にもほどがある、よね)
ふうと、風に吹かれ、雲が流れていくさまを呆然と眺めながら、さくらは溜息を吐いた。
この胸が求めている「誰か」がいなくとも、世界は変わらず回っていく。
それがさくらには、酷く悲しいことのように思えてならなかった。
その日の昼休み。
授業が終わると同時に、隣の席に腰掛けていた水瀬風夏が声を上げた。
さくらの机に弁当を手に近付いた彼女に、さくらは申し訳なさそうに首を横に振る。
「さーくら。お昼一緒に食べよ」
「あ、ごめんね。わたし、きょうは食堂なの」
鞄から財布を取り出し見せれば、風夏は一瞬目を見開いたあとで、歯を見せて笑った。
「じゃあ、私も一緒に行くよ」
「ごめんね。つき合わせちゃって」
「いいよいいよ、これくらい。ちょうど食堂のおばちゃんが作ってくれるチーズケーキ、食べたいと思ってたし。一石二鳥ってことで」
「なんだよ。お前らも食堂か?」
不意に、さくらの背後から声がかけられる。
椅子に座ったまま視線だけを背後に向ければ、長財布片手に悪そうに笑う祐樹の姿があった。
「うわ、出た」
「出たとはなんだ出たとは」
「いやー、べっつにー?」
意味深にさくらと祐樹を交互に見る風夏に、さくらは乾いた笑みを返す。
「もう。祐樹はそういうんじゃないから」
そうだ。祐樹とは、そういう関係じゃない。
(だって、わたしには……)
浮かんだ何度目になるか分からない考えを振り払うようにして、さくらは席を立つ。
祐樹と風夏は何か思うところがあるのか、互いに顔を見合わせ、しばしさくらに何か言おうか考えているようだった。
「ほら、食堂行くんでしょう? わたし、おなかすいちゃった」
腕を後ろで組み、にっこりと微笑んで見せれば、二人は黙ってさくらのあとに続く。
しかしながら、二人の前を先導して歩くさくらの足取りは重い。
見つかるはずがないと分かっていながらも、廊下を歩くさくらの目はぽっかりといなくなってしまった「誰か」を探し求め、忙しなく動いていた。
忘れてしまえば、楽になれるのかもしれない。
全部さくらの気のせいで、そんな「誰か」最初からいなかったと思えばいいのかもしれない。
だが、出来なかった。捨てられなかった。
胸を占める、窒息しそうなほどに重い感情を。
「さくら! 前!」
「え?」
急に背後から掛けられた声に、さくらは無理矢理に考えを中断させられた。
咄嗟に顔を上げたのと、体がバランスを崩したのはほぼ同時。
ああ、今自分は階段から落ちたのかと気付いたのは、血相を変えた二人が尻もちをついた自分に向かってくる姿を認識してからのことだった。
打ち所が悪かったのだろうか。右足首が、酷く痛む。
階段を踏み外した拍子にくじいたのかもしれない。
考え事をしていて足を踏み外すだなんて馬鹿みたいだと、さくらはうつむいたまま口の端を噛み締めた。
「ちょっと大丈夫!?」
「うん、なんとか――っ」
痛みのあまり、眉をしかめてしまう。
流石にごまかしきれなかったようで、祐樹は目ざとくさくらの異変に気が付いたようだった。
ああ、これだから幼馴染はめんどくさいと、内心さくらは溜息を吐く。
「足、痛むのか!? すぐ保健室に――」
「いや! 保健室だけは――!」
保健室は嫌だ。あの場所にだけは近付きたくなかった。
さくらの本能が、保健室を恐れていた。
あの場所は危険だ。考えるだけで悪寒がする。
どうしてそんなことを思うのか、理由は定かではなかったが、何か嫌な予感がしていた。
だが、祐樹はさくらの意見を一笑する。
「そんなわがまま言ってる場合じゃねえだろ!」
「そうだよ! ほら、肩貸すから!」
二人は無理矢理さくらをかつぎ込み、そのまま保健室へと連行していく。
必死に抵抗しようとしたが、少し足を動かすだけで痛みが走り、ろくに歩けそうにはなかった。
どのみち、何か手当はしなければまずいことになりそうだ。
(ヘマ、しちゃったな)
普段はこんなことをする性格ではないというのに。
それほどまでに、さくらは胸を満たす「誰か」に心を奪われていた。
小さく、溜息を零す。何もかも、全部悪い夢なら良かったのに。
二人に肩を支えられ歩きながら、さくらは漠然とそんなことを思った。
保健室が近付くたびに心拍数は上がり、言い知れぬ恐怖が足元からさくらを包み込んでくる。しかしながら、やがてその中にちらりと怒りが顔を覗かせていることに気が付く。
最初は蚊の羽音のように微かだったそれは、自覚した途端一気に膨れ上がり、さくらの中を支配していった。
「ほら、ついたぞ」
顔を上げれば、保健室と書かれた看板がさくらの視界に飛び込んできた。
そのまま止める暇もなく、風夏が保健室の戸を開ける。
「失礼しまーす」
扉が、開かれていく。
保健室の中央。そこに、一人の男が座っていた。
頬杖をつき、事務机に向き合いなんらかの書類を見ていた男は、さくらたちの存在に気が付くと、そっと座ったまま体をこちらへ向けた。
眼鏡の奥の黒い瞳を細め、男は人の良さそうな笑みを浮かべる。
「どうしたんだい?」
「実は、この子が足くじいちゃったみたいで。手当してもらえますか?」
「もちろん。どうぞ、座って」
事務机の横に置かれていた椅子を引き、男はさくらをそこへ座らせた。
「足、出してもらえる?」
椅子に座り、互いが向かい合った状態で、人の良さそうな笑顔がさくらを促す。
咄嗟に、嫌だと思った。この男に応急処置をされるくらいなら一生足が動かなくなった方がまだましだ。
どうも、そんな内心が顔に出てしまっていたらしい。
「……そんな露骨に嫌そうな顔しなくても、変なことはしないよ」
困ったように下げられた眉に、さくらは渋々右足を差し出した。
足元に置かれた小さな台座に足を乗せれば、男の指先が、伸ばされたさくらの足をなぞる。確かめるようにして触れられば、痛みから小さな声が漏れ出た。
見ないようにしようと、さくらは必死に目を瞑る。
「あぁ……。これはまた、ずいぶん派手に捻挫してるね」
「そ、そうですか」
目を閉じているので現状がよく分からないが、どうもそれなりに酷い状況になっているらしい。
「あれ?」
そんな時、不意に背後で様子を伺っていた風夏が声をあげた。
「梨本先生、結婚してましたっけ?」
何かとんでもないことを聞いた気がした。この男が、結婚?
それ自体は祝福されるべきもののはずなのに、ふつふつとどこからともなく怒りがわき上がってくる。
咄嗟に目を開け、身を乗り出し、さくらは誠一郎の左腕に視線を向けていた。
視線の先、さくらの足に触れる誠一郎の左手の薬指。そこに銀色に光る真新しい指輪を発見して、さくらはたまらず誠一郎を罵倒したい衝動に駆られた。
「ああ、これかい? 実はつい先日、ね」
さくらの足から左手を離し、誠一郎は見せつけるようにして自身の顔の前に左手を掲げて見せた。さくらの怒りなど知らないとばかりに、風夏は畳み掛けるようにして誠一郎に食いつく。そのさまを、祐樹はどこか気まずそうに黙って見守るだけだった。
「えぇ!? おめでとうございます!」
「ありがとう」
「ねえ先生! 奥さんはどんな方なんですか?」
「どんなって、そうだなぁ。かわいくてかわいくて仕方ない、かなぁ。かわいいし、性格もいいし、ダメなところなんてどこにもない。僕にはもったいないくらいに完璧な子で、……何年も何年も口説き続けて。それで、この前ようやく頷いてくれたんだ。感慨もひとしおだよ」
口説くのに何年もかかるなんて、本当は嫌われてるんじゃないですか?
めんどくさくなって結婚しただけかも。勿体無いくらい?
なら、とっとと別れた方が奥さんのためですよ。というか別れろ。そのまま死ね。
そんなことを口走りそうになったところで、誠一郎が再び患部に手を触れる。
鈍い痛みに、さくらは口をつぐまざるをえなかった。
「わぁ! 素敵ですねぇ! いいなぁ……。ね、先生。奥さんの写真ないんですか?」
「うーん、……あるにはあるけど」
「え~、いいじゃないですかぁ。見せてくださいよ! 美人の奥さん!」
「――わたしも見たいです」
顔を上げた誠一郎の目が、一瞬凶悪な光を帯びる。
「奥さん、綺麗な人なんでしょう?」
かと思えば。
確かめるように吐き出されたさくらの冷たい声に、誠一郎は元の人好きする笑顔を浮かべ、曖昧に濁すだけだった。
「見せると減る気がするから、やめておくよ。綺麗っていうのは、僕の主観かもしれないし」
あははと乾いた笑みをこぼし、誠一郎は事務机の隅に置かれていた救急箱に手を伸ばした。中をまさぐる誠一郎に、風夏はどこか不満げに口を尖らせていたが、やがては諦めがついたのか黙って誠一郎の動向を見守っていた。
「俺、腹減ったし、もう行くわ。席取りしねえと、座る場所なくなっちまうし」
祐樹がぼそりと、そんな呟きを零す。
「それもそっか。いってら~。食堂は任せたぞ、星野くん?」
「なに言ってんだ。ほら水瀬、お前も行くぞ」
「えぇ!? でもさくらを一人にするのは――」
「こいつならしぶといから、這ってでも戻ってくるだろうよ。大丈夫大丈夫。放っておいても生きていけるって」
酷い言われように、さくらはムッと眉をしかめる。
人をゴキブリのように言ってくれるではないか。
「祐樹の言うことはともかく。わたしのことは気にしないで。お弁当、食べる時間少なくなったら困るでしょ? わたしは大丈夫だから」
「さくらがそう言うなら、まぁ……」
「ほら、とっとと行くぞ」
名残惜しげな風夏を、祐樹が無理矢理引きずっていく。
どこかコミカルな光景に笑いをこぼせば、不意に保健室の戸を閉めようとしていた祐樹と視線がかち合った。
「なあ、さくら」
いつもよりワントーン下がり、妙に真剣みを帯びた声に、さくらは視線を逸らすことができなかった。
「言いたいことは、全部言っとけよ!」
にこりと歯を見せ、快活に笑う。
それはきっと、治療に対する言葉だったのだろう。
痛いところは正直に白状し、触られて嫌なら嫌と言え。
きっとそれだけの、医療行為に対する当たり前を言ってくれただけ。
けれど、何故だろう。
ぴしゃりと閉ざされた扉を見続けたまま、さくらは妙な違和感を感じていた。
それ以上などないはずなのに、何か、違う意味が含まれているような気がして。
「愛されてるね、春川さんは」
なんの宣言もなく、誠一郎はさくらの患部に氷水の入れられた袋を押し当てた。一体いつの間に用意していたのだろうか。急に肌を襲う気味の悪い冷たさに、さくらは抗議の意味を込めて、真剣に治療行為を行う誠一郎を睨みつけた。
「何かする前に、一言言ってもらえますか。びっくりするので」
自分でも思った以上に、冷たい声が口をついた。
どうも、誠一郎と対峙しているとひどく苛立ちを覚えてしまう。
「それはすまなかった。次からは気をつけるよ」
患部を冷やしながら、誠一郎は口調とは反対に軽そうに肩をすくめてみせる。
全く反省の色を見せない男に、さくらは口をつぐむしかなかった。
しばし、二人の間に沈黙が落ちる。
保健室の中は、不気味なほどに静かだった。
時計の秒針と、氷が溶けていく決壊音。それだけがさくらの耳を刺す。
「……愛されていても、意味がないと思います」
先に口を開いたのは、さくらの方だった。
最初、誠一郎はなにに対しての回答なのか分かっていなかったのか、しばし目を瞬かせていたが、すぐに合点がいったようで、促すようにして黙ってさくらの独白を聞き続けていた。
「不特定多数に愛されたって、気持ち悪いだけ。わたしが欲しかったのは、万人からの愛じゃない。……わたしは、代えのきかない「特別な誰か」の、「特別な存在」になりたかった」
自分でもなにを言っているのか、分かっていなかった。
理性よりももっと深いものが、さくらの口を勝手に開かせていく。
その間、さくらは誠一郎から一度も目をそらさなかった。
わたしは間違っていないのだと、訴えかけるようにして。
「……それは、きみを愛してくれた人に対する冒涜にならないかい? 僕からすれば、きみの言うことは単なるわがままにしか聞こえないけれど」
「あなたになら、分かってもらえると思っていたんですけど」
「残念ながら、僕にはさっぱり分からないよ。万人から愛されるなんて、僕には無縁なものだからね」
「ちがう」
強い眼差しが、誠一郎の瞳を射抜く。
「あなただって、愛されたかったんでしょう? 自分だけは高みの見物のつもりだったのかもしれないけど、そうじゃない。あなたは、受け入れて欲しかった。自分を見て欲しかった。褒めて欲しかった。でも、誰でもいいわけじゃない。好きになった人の、――自分が特別だと感じた人の、好きな人になりたかった。――違いますか?」
男の目が見開かれたのち、閉じられていく。
「……さあ、どうだろうね」
誠一郎は、さくらを否定しなかった。
ふと、さくらは思うのだ。
本質的に、自分たちは同類であると。
変わらないものが欲しかった。特別な「誰か」に、愛し愛されたかった。
そして、その「誰か」はさくらを選んではくれなかった。
過程はどうあれ、誠一郎はさくらに勝った。さくらが愛されたかった「誰か」に選ばれた。彼は、「誰か」の特別になった。だからこそ、こんなにも腹が立つ。
「梨本先生。最後に、一つだけ聞かせてください」
誠一郎のことは嫌いだ。今だって、素知らぬ顔をして微笑む顔を殴り飛ばしてやりたくなる。だって当然だろう、この男はさくらの欲していたものを手に入れたのだ。正直、殺してやりたい。
けれど――
「――先生の奥さんは、幸せですか?」
顔も声も名前すらも思い出せない、その「誰か」が幸せでいてくれるのなら、さくらはほんのすこしだけ、前を向いて歩んでいけるような気がした。
眠気を催す数学教師の解説を背景に、春川さくらは頬杖をつき、窓の外に広がる青空を眺めていた。
開けられた窓から吹き込む風が、さくらの長い髪を揺らす。
図書室の前で倒れていたところを発見された日から、今日でちょうど三日になる。
あの日を境に、さくらは漠然とした喪失感をずっと感じ続けていた。
何か、大切なものが欠けてしまった。けれど、それがなんなのか、「誰」なのかが分からない。
自分だけが世界から取り残されてしまったかのような孤独感を覚え、気を抜けば今にも泣き出してしまいそうになる。
(情緒不安定にもほどがある、よね)
ふうと、風に吹かれ、雲が流れていくさまを呆然と眺めながら、さくらは溜息を吐いた。
この胸が求めている「誰か」がいなくとも、世界は変わらず回っていく。
それがさくらには、酷く悲しいことのように思えてならなかった。
その日の昼休み。
授業が終わると同時に、隣の席に腰掛けていた水瀬風夏が声を上げた。
さくらの机に弁当を手に近付いた彼女に、さくらは申し訳なさそうに首を横に振る。
「さーくら。お昼一緒に食べよ」
「あ、ごめんね。わたし、きょうは食堂なの」
鞄から財布を取り出し見せれば、風夏は一瞬目を見開いたあとで、歯を見せて笑った。
「じゃあ、私も一緒に行くよ」
「ごめんね。つき合わせちゃって」
「いいよいいよ、これくらい。ちょうど食堂のおばちゃんが作ってくれるチーズケーキ、食べたいと思ってたし。一石二鳥ってことで」
「なんだよ。お前らも食堂か?」
不意に、さくらの背後から声がかけられる。
椅子に座ったまま視線だけを背後に向ければ、長財布片手に悪そうに笑う祐樹の姿があった。
「うわ、出た」
「出たとはなんだ出たとは」
「いやー、べっつにー?」
意味深にさくらと祐樹を交互に見る風夏に、さくらは乾いた笑みを返す。
「もう。祐樹はそういうんじゃないから」
そうだ。祐樹とは、そういう関係じゃない。
(だって、わたしには……)
浮かんだ何度目になるか分からない考えを振り払うようにして、さくらは席を立つ。
祐樹と風夏は何か思うところがあるのか、互いに顔を見合わせ、しばしさくらに何か言おうか考えているようだった。
「ほら、食堂行くんでしょう? わたし、おなかすいちゃった」
腕を後ろで組み、にっこりと微笑んで見せれば、二人は黙ってさくらのあとに続く。
しかしながら、二人の前を先導して歩くさくらの足取りは重い。
見つかるはずがないと分かっていながらも、廊下を歩くさくらの目はぽっかりといなくなってしまった「誰か」を探し求め、忙しなく動いていた。
忘れてしまえば、楽になれるのかもしれない。
全部さくらの気のせいで、そんな「誰か」最初からいなかったと思えばいいのかもしれない。
だが、出来なかった。捨てられなかった。
胸を占める、窒息しそうなほどに重い感情を。
「さくら! 前!」
「え?」
急に背後から掛けられた声に、さくらは無理矢理に考えを中断させられた。
咄嗟に顔を上げたのと、体がバランスを崩したのはほぼ同時。
ああ、今自分は階段から落ちたのかと気付いたのは、血相を変えた二人が尻もちをついた自分に向かってくる姿を認識してからのことだった。
打ち所が悪かったのだろうか。右足首が、酷く痛む。
階段を踏み外した拍子にくじいたのかもしれない。
考え事をしていて足を踏み外すだなんて馬鹿みたいだと、さくらはうつむいたまま口の端を噛み締めた。
「ちょっと大丈夫!?」
「うん、なんとか――っ」
痛みのあまり、眉をしかめてしまう。
流石にごまかしきれなかったようで、祐樹は目ざとくさくらの異変に気が付いたようだった。
ああ、これだから幼馴染はめんどくさいと、内心さくらは溜息を吐く。
「足、痛むのか!? すぐ保健室に――」
「いや! 保健室だけは――!」
保健室は嫌だ。あの場所にだけは近付きたくなかった。
さくらの本能が、保健室を恐れていた。
あの場所は危険だ。考えるだけで悪寒がする。
どうしてそんなことを思うのか、理由は定かではなかったが、何か嫌な予感がしていた。
だが、祐樹はさくらの意見を一笑する。
「そんなわがまま言ってる場合じゃねえだろ!」
「そうだよ! ほら、肩貸すから!」
二人は無理矢理さくらをかつぎ込み、そのまま保健室へと連行していく。
必死に抵抗しようとしたが、少し足を動かすだけで痛みが走り、ろくに歩けそうにはなかった。
どのみち、何か手当はしなければまずいことになりそうだ。
(ヘマ、しちゃったな)
普段はこんなことをする性格ではないというのに。
それほどまでに、さくらは胸を満たす「誰か」に心を奪われていた。
小さく、溜息を零す。何もかも、全部悪い夢なら良かったのに。
二人に肩を支えられ歩きながら、さくらは漠然とそんなことを思った。
保健室が近付くたびに心拍数は上がり、言い知れぬ恐怖が足元からさくらを包み込んでくる。しかしながら、やがてその中にちらりと怒りが顔を覗かせていることに気が付く。
最初は蚊の羽音のように微かだったそれは、自覚した途端一気に膨れ上がり、さくらの中を支配していった。
「ほら、ついたぞ」
顔を上げれば、保健室と書かれた看板がさくらの視界に飛び込んできた。
そのまま止める暇もなく、風夏が保健室の戸を開ける。
「失礼しまーす」
扉が、開かれていく。
保健室の中央。そこに、一人の男が座っていた。
頬杖をつき、事務机に向き合いなんらかの書類を見ていた男は、さくらたちの存在に気が付くと、そっと座ったまま体をこちらへ向けた。
眼鏡の奥の黒い瞳を細め、男は人の良さそうな笑みを浮かべる。
「どうしたんだい?」
「実は、この子が足くじいちゃったみたいで。手当してもらえますか?」
「もちろん。どうぞ、座って」
事務机の横に置かれていた椅子を引き、男はさくらをそこへ座らせた。
「足、出してもらえる?」
椅子に座り、互いが向かい合った状態で、人の良さそうな笑顔がさくらを促す。
咄嗟に、嫌だと思った。この男に応急処置をされるくらいなら一生足が動かなくなった方がまだましだ。
どうも、そんな内心が顔に出てしまっていたらしい。
「……そんな露骨に嫌そうな顔しなくても、変なことはしないよ」
困ったように下げられた眉に、さくらは渋々右足を差し出した。
足元に置かれた小さな台座に足を乗せれば、男の指先が、伸ばされたさくらの足をなぞる。確かめるようにして触れられば、痛みから小さな声が漏れ出た。
見ないようにしようと、さくらは必死に目を瞑る。
「あぁ……。これはまた、ずいぶん派手に捻挫してるね」
「そ、そうですか」
目を閉じているので現状がよく分からないが、どうもそれなりに酷い状況になっているらしい。
「あれ?」
そんな時、不意に背後で様子を伺っていた風夏が声をあげた。
「梨本先生、結婚してましたっけ?」
何かとんでもないことを聞いた気がした。この男が、結婚?
それ自体は祝福されるべきもののはずなのに、ふつふつとどこからともなく怒りがわき上がってくる。
咄嗟に目を開け、身を乗り出し、さくらは誠一郎の左腕に視線を向けていた。
視線の先、さくらの足に触れる誠一郎の左手の薬指。そこに銀色に光る真新しい指輪を発見して、さくらはたまらず誠一郎を罵倒したい衝動に駆られた。
「ああ、これかい? 実はつい先日、ね」
さくらの足から左手を離し、誠一郎は見せつけるようにして自身の顔の前に左手を掲げて見せた。さくらの怒りなど知らないとばかりに、風夏は畳み掛けるようにして誠一郎に食いつく。そのさまを、祐樹はどこか気まずそうに黙って見守るだけだった。
「えぇ!? おめでとうございます!」
「ありがとう」
「ねえ先生! 奥さんはどんな方なんですか?」
「どんなって、そうだなぁ。かわいくてかわいくて仕方ない、かなぁ。かわいいし、性格もいいし、ダメなところなんてどこにもない。僕にはもったいないくらいに完璧な子で、……何年も何年も口説き続けて。それで、この前ようやく頷いてくれたんだ。感慨もひとしおだよ」
口説くのに何年もかかるなんて、本当は嫌われてるんじゃないですか?
めんどくさくなって結婚しただけかも。勿体無いくらい?
なら、とっとと別れた方が奥さんのためですよ。というか別れろ。そのまま死ね。
そんなことを口走りそうになったところで、誠一郎が再び患部に手を触れる。
鈍い痛みに、さくらは口をつぐまざるをえなかった。
「わぁ! 素敵ですねぇ! いいなぁ……。ね、先生。奥さんの写真ないんですか?」
「うーん、……あるにはあるけど」
「え~、いいじゃないですかぁ。見せてくださいよ! 美人の奥さん!」
「――わたしも見たいです」
顔を上げた誠一郎の目が、一瞬凶悪な光を帯びる。
「奥さん、綺麗な人なんでしょう?」
かと思えば。
確かめるように吐き出されたさくらの冷たい声に、誠一郎は元の人好きする笑顔を浮かべ、曖昧に濁すだけだった。
「見せると減る気がするから、やめておくよ。綺麗っていうのは、僕の主観かもしれないし」
あははと乾いた笑みをこぼし、誠一郎は事務机の隅に置かれていた救急箱に手を伸ばした。中をまさぐる誠一郎に、風夏はどこか不満げに口を尖らせていたが、やがては諦めがついたのか黙って誠一郎の動向を見守っていた。
「俺、腹減ったし、もう行くわ。席取りしねえと、座る場所なくなっちまうし」
祐樹がぼそりと、そんな呟きを零す。
「それもそっか。いってら~。食堂は任せたぞ、星野くん?」
「なに言ってんだ。ほら水瀬、お前も行くぞ」
「えぇ!? でもさくらを一人にするのは――」
「こいつならしぶといから、這ってでも戻ってくるだろうよ。大丈夫大丈夫。放っておいても生きていけるって」
酷い言われように、さくらはムッと眉をしかめる。
人をゴキブリのように言ってくれるではないか。
「祐樹の言うことはともかく。わたしのことは気にしないで。お弁当、食べる時間少なくなったら困るでしょ? わたしは大丈夫だから」
「さくらがそう言うなら、まぁ……」
「ほら、とっとと行くぞ」
名残惜しげな風夏を、祐樹が無理矢理引きずっていく。
どこかコミカルな光景に笑いをこぼせば、不意に保健室の戸を閉めようとしていた祐樹と視線がかち合った。
「なあ、さくら」
いつもよりワントーン下がり、妙に真剣みを帯びた声に、さくらは視線を逸らすことができなかった。
「言いたいことは、全部言っとけよ!」
にこりと歯を見せ、快活に笑う。
それはきっと、治療に対する言葉だったのだろう。
痛いところは正直に白状し、触られて嫌なら嫌と言え。
きっとそれだけの、医療行為に対する当たり前を言ってくれただけ。
けれど、何故だろう。
ぴしゃりと閉ざされた扉を見続けたまま、さくらは妙な違和感を感じていた。
それ以上などないはずなのに、何か、違う意味が含まれているような気がして。
「愛されてるね、春川さんは」
なんの宣言もなく、誠一郎はさくらの患部に氷水の入れられた袋を押し当てた。一体いつの間に用意していたのだろうか。急に肌を襲う気味の悪い冷たさに、さくらは抗議の意味を込めて、真剣に治療行為を行う誠一郎を睨みつけた。
「何かする前に、一言言ってもらえますか。びっくりするので」
自分でも思った以上に、冷たい声が口をついた。
どうも、誠一郎と対峙しているとひどく苛立ちを覚えてしまう。
「それはすまなかった。次からは気をつけるよ」
患部を冷やしながら、誠一郎は口調とは反対に軽そうに肩をすくめてみせる。
全く反省の色を見せない男に、さくらは口をつぐむしかなかった。
しばし、二人の間に沈黙が落ちる。
保健室の中は、不気味なほどに静かだった。
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「……愛されていても、意味がないと思います」
先に口を開いたのは、さくらの方だった。
最初、誠一郎はなにに対しての回答なのか分かっていなかったのか、しばし目を瞬かせていたが、すぐに合点がいったようで、促すようにして黙ってさくらの独白を聞き続けていた。
「不特定多数に愛されたって、気持ち悪いだけ。わたしが欲しかったのは、万人からの愛じゃない。……わたしは、代えのきかない「特別な誰か」の、「特別な存在」になりたかった」
自分でもなにを言っているのか、分かっていなかった。
理性よりももっと深いものが、さくらの口を勝手に開かせていく。
その間、さくらは誠一郎から一度も目をそらさなかった。
わたしは間違っていないのだと、訴えかけるようにして。
「……それは、きみを愛してくれた人に対する冒涜にならないかい? 僕からすれば、きみの言うことは単なるわがままにしか聞こえないけれど」
「あなたになら、分かってもらえると思っていたんですけど」
「残念ながら、僕にはさっぱり分からないよ。万人から愛されるなんて、僕には無縁なものだからね」
「ちがう」
強い眼差しが、誠一郎の瞳を射抜く。
「あなただって、愛されたかったんでしょう? 自分だけは高みの見物のつもりだったのかもしれないけど、そうじゃない。あなたは、受け入れて欲しかった。自分を見て欲しかった。褒めて欲しかった。でも、誰でもいいわけじゃない。好きになった人の、――自分が特別だと感じた人の、好きな人になりたかった。――違いますか?」
男の目が見開かれたのち、閉じられていく。
「……さあ、どうだろうね」
誠一郎は、さくらを否定しなかった。
ふと、さくらは思うのだ。
本質的に、自分たちは同類であると。
変わらないものが欲しかった。特別な「誰か」に、愛し愛されたかった。
そして、その「誰か」はさくらを選んではくれなかった。
過程はどうあれ、誠一郎はさくらに勝った。さくらが愛されたかった「誰か」に選ばれた。彼は、「誰か」の特別になった。だからこそ、こんなにも腹が立つ。
「梨本先生。最後に、一つだけ聞かせてください」
誠一郎のことは嫌いだ。今だって、素知らぬ顔をして微笑む顔を殴り飛ばしてやりたくなる。だって当然だろう、この男はさくらの欲していたものを手に入れたのだ。正直、殺してやりたい。
けれど――
「――先生の奥さんは、幸せですか?」
顔も声も名前すらも思い出せない、その「誰か」が幸せでいてくれるのなら、さくらはほんのすこしだけ、前を向いて歩んでいけるような気がした。
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