26 / 55
脱水対策
しおりを挟む
「そんな……侍女も?」
「当番の者だけが一日三回、盥に水を汲んでくるだけだ。みな恐れているのだ、未知の病を」
「それでは治るものも治らないわ。……そういえば南岩医師もお疲れですね」
つきっきりで看病しているのだろう。目の下にくまができ、頬がこけている。
小月は隣室に盥を発見した。「手伝います」
「手伝う?」
「小月様?」
訝しげな胡貴妃に小月は頭を下げた。「胡貴妃、ありがとうございました。自分の宮にお戻りください。私は今夜藩貴妃のそばにおります」
「危険ですよ」
「万が一私と藩貴妃が死ねば陛下は悲しまれるでしょう。ですから胡貴妃が罹ってはなりません。お戻りください。……陛下のために」
「わかりました。小月様も無理をなさいませんように。あ、忘れておりましたが、うちのところでは体調を崩した者は一人もいませんでしたわ」胡貴妃は名残惜しさと安堵がないまぜになった表情を見せたあと、踵を返した。
意識のない藩貴妃は人形めいていた。額に浮かぶ汗が人間の証だ。拭いても拭いてもじわりと滲む。首筋もじっとりと汗ばんでいる。
「着替えさせたほうがいいのでは?」
「侍女がいない」
「でもこんなに汗をかいて……衾も湿っています」
「汗を掻くのは体温を下げるための体の反応だ。下がる兆候だろう」
「でも震えてる。まるで真冬の小鳥のよう」
「……お前は病が怖くはないのかね」南岩が小月に茶を勧めた。医師自ら淹れた滋養強壮茶だという。「せめてこれを飲みなさい。私も飲むから」
「南岩さんは休んでください。私は体力には自信がありますから」
「宦官のほうは死んだそうだな。貴妃よりも前から具合が悪かったらしい」
「南岩医師が診察を?」
「いや、誰も診ていないようだ。ずっと一人で官舎に籠っていたらしいぞ。蚕室の雑用係で藩貴妃との接触は一切なかったそうだ」
「ということは、その人から伝染ったのではない。じゃあどこから……」
「藩貴妃には一応訊いた。動物に噛まれたとか、珍しい物を食べたとか、病気の者に触れたとか、そういった覚えは全くないそうだ。運悪く偶然空から降ってきた疫病に侵されたとしか思えん」
小月は南岩医師をしげしげと眺めた。「雨に悪いものが混じっていたとか?」
「なに、ただの例え話だ」南岩はくしゃと顔を歪めた。「考えると腹が減る。良かったらこれでも食べなさい」
南岩は懐から胡麻の菓子を出した。徹夜に備えた携帯食料らしい。
「私の好物なんだ。滋養豊富だ。しかも美味い」
「では遠慮なく」小月は半分だけ食べると残りを返した。「あとは南岩医師の分です。美味しいけど水分がほしくなりますね。あ、水分といえば、排泄はありますか?」
「は、排泄?」
「藩貴妃です。おしっこ出てますか? あれだけ汗をかけば体中の水分がなくならないかしら」
「熱が上がる前、昼頃に一杯の茶を召し上がったが」
「それだけでは足りないでしょう」
小月は飲みかけの茶を持って枕もとで話しかけた。「体を少し起こしますね」もちろん返事はない。
茶碗のふちを貴妃の口元にあてる。歯があたってカチリと音がした。茶は溢れ、貴妃の胸元を濡らす。
「ああ……」
「意識がないのだ。難しいだろう。だがようやく汗が引いてきたみたいだな」
「でも体は凄く熱い」
「それは……まずいな。脱水症状だ」
南岩は皺深い顔をくしゃりと歪めた。
「口をこじ開けて流し込んでみます?」
「私は貴妃に触れるわけにはいかないのだ。それに肺腑に入ったら大変だ」
南岩は首を振った。宮廷医とはいえ、後宮の女性に触れてはいけないらしい。許されているのは脈を取るとき、手首に人差し指と中指の二本を軽く載せるだけだという。
「緊急事態なのに何を言ってるんですか!?」
「いや、しかし……」
南岩は目に見えておろおろし始めた。
小月は貴妃の口に指を入れて隙間を作ろうとした。僅か指一本分のそこに椀をあてがう。
「あ、喉が動いた。少しだけ飲めたみたい」
だが殆どはこぼれてしまう。喉が動くのなら嚥下出来るはずだ。小月は椀の水を自分の口に含んで藩貴妃の口に被せた。
「ひー--」南岩が笛のような声を出した。
こくり。藩貴妃の喉が上下した。小月は二口目を含ませた。
「わ、私は何も見ておりませんよ」南岩が面を伏せた。
「お茶がなくなったわ。また作ってください。出来上がるまでは水を飲ませましょう」
小月は灯華宮を探索して水瓶を見つけた。幸い綺麗な水だった。瓶に蓋を被せようとしたとき、蚊が飛び込んだ。
「あ、もう!」小月は過たず手のひらで蚊を仕留めた。
寝室に戻ると、南岩は茶を煎じに行ったらしく、藩貴妃が静かに寝台に横たわっているだけだった。その額に蚊がとまっている。ぺしり。
「ごめんなさい。蚊を叩いたのよ」
「当番の者だけが一日三回、盥に水を汲んでくるだけだ。みな恐れているのだ、未知の病を」
「それでは治るものも治らないわ。……そういえば南岩医師もお疲れですね」
つきっきりで看病しているのだろう。目の下にくまができ、頬がこけている。
小月は隣室に盥を発見した。「手伝います」
「手伝う?」
「小月様?」
訝しげな胡貴妃に小月は頭を下げた。「胡貴妃、ありがとうございました。自分の宮にお戻りください。私は今夜藩貴妃のそばにおります」
「危険ですよ」
「万が一私と藩貴妃が死ねば陛下は悲しまれるでしょう。ですから胡貴妃が罹ってはなりません。お戻りください。……陛下のために」
「わかりました。小月様も無理をなさいませんように。あ、忘れておりましたが、うちのところでは体調を崩した者は一人もいませんでしたわ」胡貴妃は名残惜しさと安堵がないまぜになった表情を見せたあと、踵を返した。
意識のない藩貴妃は人形めいていた。額に浮かぶ汗が人間の証だ。拭いても拭いてもじわりと滲む。首筋もじっとりと汗ばんでいる。
「着替えさせたほうがいいのでは?」
「侍女がいない」
「でもこんなに汗をかいて……衾も湿っています」
「汗を掻くのは体温を下げるための体の反応だ。下がる兆候だろう」
「でも震えてる。まるで真冬の小鳥のよう」
「……お前は病が怖くはないのかね」南岩が小月に茶を勧めた。医師自ら淹れた滋養強壮茶だという。「せめてこれを飲みなさい。私も飲むから」
「南岩さんは休んでください。私は体力には自信がありますから」
「宦官のほうは死んだそうだな。貴妃よりも前から具合が悪かったらしい」
「南岩医師が診察を?」
「いや、誰も診ていないようだ。ずっと一人で官舎に籠っていたらしいぞ。蚕室の雑用係で藩貴妃との接触は一切なかったそうだ」
「ということは、その人から伝染ったのではない。じゃあどこから……」
「藩貴妃には一応訊いた。動物に噛まれたとか、珍しい物を食べたとか、病気の者に触れたとか、そういった覚えは全くないそうだ。運悪く偶然空から降ってきた疫病に侵されたとしか思えん」
小月は南岩医師をしげしげと眺めた。「雨に悪いものが混じっていたとか?」
「なに、ただの例え話だ」南岩はくしゃと顔を歪めた。「考えると腹が減る。良かったらこれでも食べなさい」
南岩は懐から胡麻の菓子を出した。徹夜に備えた携帯食料らしい。
「私の好物なんだ。滋養豊富だ。しかも美味い」
「では遠慮なく」小月は半分だけ食べると残りを返した。「あとは南岩医師の分です。美味しいけど水分がほしくなりますね。あ、水分といえば、排泄はありますか?」
「は、排泄?」
「藩貴妃です。おしっこ出てますか? あれだけ汗をかけば体中の水分がなくならないかしら」
「熱が上がる前、昼頃に一杯の茶を召し上がったが」
「それだけでは足りないでしょう」
小月は飲みかけの茶を持って枕もとで話しかけた。「体を少し起こしますね」もちろん返事はない。
茶碗のふちを貴妃の口元にあてる。歯があたってカチリと音がした。茶は溢れ、貴妃の胸元を濡らす。
「ああ……」
「意識がないのだ。難しいだろう。だがようやく汗が引いてきたみたいだな」
「でも体は凄く熱い」
「それは……まずいな。脱水症状だ」
南岩は皺深い顔をくしゃりと歪めた。
「口をこじ開けて流し込んでみます?」
「私は貴妃に触れるわけにはいかないのだ。それに肺腑に入ったら大変だ」
南岩は首を振った。宮廷医とはいえ、後宮の女性に触れてはいけないらしい。許されているのは脈を取るとき、手首に人差し指と中指の二本を軽く載せるだけだという。
「緊急事態なのに何を言ってるんですか!?」
「いや、しかし……」
南岩は目に見えておろおろし始めた。
小月は貴妃の口に指を入れて隙間を作ろうとした。僅か指一本分のそこに椀をあてがう。
「あ、喉が動いた。少しだけ飲めたみたい」
だが殆どはこぼれてしまう。喉が動くのなら嚥下出来るはずだ。小月は椀の水を自分の口に含んで藩貴妃の口に被せた。
「ひー--」南岩が笛のような声を出した。
こくり。藩貴妃の喉が上下した。小月は二口目を含ませた。
「わ、私は何も見ておりませんよ」南岩が面を伏せた。
「お茶がなくなったわ。また作ってください。出来上がるまでは水を飲ませましょう」
小月は灯華宮を探索して水瓶を見つけた。幸い綺麗な水だった。瓶に蓋を被せようとしたとき、蚊が飛び込んだ。
「あ、もう!」小月は過たず手のひらで蚊を仕留めた。
寝室に戻ると、南岩は茶を煎じに行ったらしく、藩貴妃が静かに寝台に横たわっているだけだった。その額に蚊がとまっている。ぺしり。
「ごめんなさい。蚊を叩いたのよ」
0
あなたにおすすめの小説
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
女性が少ない世界に転生した控えめ伯爵令嬢、なぜか五人の婚約候補に選ばれて少しずつ恋を知っていきます
ノッポ
恋愛
女性が極端に少ない異世界に転生した私は、気づけば伯爵令嬢になっていた。
前世は日本で普通に生きていたせいか、貴族令嬢らしい強気な振る舞いがどうしても苦手。
社交界デビューを迎えても、「どうして私が選ばれるの?」と戸惑うばかりだった。
けれど今年デビューする高位令嬢はわずか三人。
家同士の思惑も重なり、騎士団長家の息子、宰相子息、魔術師団長の息子、幼なじみの侯爵子息、そして英雄騎士――
五人の若きエリートとのお見合いが次々と始まってしまう。
遠慮がちで控えめな性格は、この世界では珍しく、気づけば少しずつ距離を縮めていく彼ら。
異世界での恋愛に戸惑う日々。けれど出会いを重ねるたびに、私は少しずつ変わっていく――。
女性希少世界で、自分の幸せを選べるようになるまでの逆ハーレム恋愛ファンタジー。
なんか、異世界行ったら愛重めの溺愛してくる奴らに囲われた
いに。
恋愛
"佐久良 麗"
これが私の名前。
名前の"麗"(れい)は綺麗に真っ直ぐ育ちますようになんて思いでつけられた、、、らしい。
両親は他界
好きなものも特にない
将来の夢なんてない
好きな人なんてもっといない
本当になにも持っていない。
0(れい)な人間。
これを見越してつけたの?なんてそんなことは言わないがそれ程になにもない人生。
そんな人生だったはずだ。
「ここ、、どこ?」
瞬きをしただけ、ただそれだけで世界が変わってしまった。
_______________....
「レイ、何をしている早くいくぞ」
「れーいちゃん!僕が抱っこしてあげよっか?」
「いや、れいちゃんは俺と手を繋ぐんだもんねー?」
「、、茶番か。あ、おいそこの段差気をつけろ」
えっと……?
なんか気づいたら周り囲まれてるんですけどなにが起こったんだろう?
※ただ主人公が愛でられる物語です
※シリアスたまにあり
※周りめちゃ愛重い溺愛ルート確です
※ど素人作品です、温かい目で見てください
どうぞよろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる