後宮の虫籠で月は微睡む ~幼馴染みは皇帝陛下~

あかいかかぽ

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盥を抱えて

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 小月が聞きたかったことは、すでに南岩医師から聞いていた。
 病気の原因に心当たりはない。動物に噛まれていない、病者に触れていない、怪しげな物も食べてない。心当たりがないということは、後宮入りしてから一月半のあいだ、生活に変化はないのだろう。
 後宮に入る前はどんな暮らしだったのだろう。おそらくあまり変化はない。深窓の令嬢として、多くの雇い人に手厚く世話をされていたはずだ。邸第から出たことも、ましてや街区を走り回ったことなどないだろう。それに、春先にはまだ病の兆しはなかったろう。
 やはり彼女が後宮に入ってからだ。本人が気づかないほど些細なことが原因に違いない。亡くなった宦官に話を聞けなかったのは残念だ。

 小月は灯華宮の中を見渡した。平寧宮と異なることはないか。
 静寂の中に藩貴妃と南岩の寝息だけが聞こえる。風に揺られた草の囁きのよう。

「……ん?」

 寝息だけではない、不快な音が混じる。蚊の翅音だ。

「ここはずいぶん蚊が多いわね。そうだ」

 小月は急いで平寧宮に駆け戻った。除虫草の鉢を抱えたら安梅に目ざとく見咎められ「私が運びます!」と鉢を奪われた。

 灯華宮につくや、安梅は全部の部屋を勝手に覗いて水瓶を確認した。水が汚れていたら庭に捨てた。ぼうふらの温床になるからだ。小月は除虫草を揉んで、青い汁を絞り、藩貴妃と南岩の肌にぺたぺたと塗布する。

「小月様、庭に大きな防火桶があるんですが」

「防火桶?」

「火事に備えた貯水桶です。雨水が溜まるようになってるんです。灯りを掲げて覗いてみたら、けっこうウヨウヨしています」

「発生源はそこね。でも水の入替えは無理でしょう?」

 小月が両手を伸ばした長さより、一辺が長い。大の男が数人いなければ桶を傾けるのは難しそうだ。さりとて汲み上げて捨てていたら朝を迎えてしまうだろう。

「虫除けの絞り汁を入れてみたらどうでしょう?」

「花苑の除虫草全部絞っても足りないんじゃないかしら。あ、そうだ、石鹸はどうかしら。塩とか」

 小月の提案も絞り汁と大差ない。かなりの量が必要になるだろう。

「藩貴妃の肌を刺す蚊は万死に値します、なんて言ってる割にはうかつですよね、ここの女官は。他の宮にも飛んできちゃうし、全く迷惑ですよ」

「そうねえ、あ、いいこと思いついた。蓋をしたらどう? 例えば今私が着ている絹のように織り目が細かい布を被せるの。桶の縁を布の上から紐で縛っておけば羽化した蚊は外には出られないわ。消火に使う時には紐を解けばいいし」

「名案です! ただし……」安梅はきょろきょろと見回した。「そんなに幅のある布はなさそうですね。縫い合わせなきゃいけませんし。それに絹布は高価です。勝手に拝借するわけにはいきませんねえ」

「うーん、そうかあ、あ、そうだ!」

「小月様、どこへ?」

「すぐ戻る。安梅は藩貴妃を看病しながらここで待ってて!」

 盥を抱えて、小月は正悟殿に向けてまっすぐに走った。皇帝が政務を執る場所だ。

「誰か開けてー!」

 日中と異なり、扉の左右に衛士がいない。押しても引いても扉は動かない。閂がかかっているようだ。拳で叩くが、扉がぶ厚すぎるのか全く音が出ない。小月は盥を持ち上げて、金属の補強板めがけて思い切りぶつけた。

「うるせー!」

 扉が少しだけ開き、中から衛士が顔を覗かせた。

「お願いがあるのですが!」

「あ、お前は……な、何の用だ!?」

 以前、張包ともみ合ったときの衛士が夜番をしていた。彼が唖然としているのを幸い、隙間に盥を突っ込んだ。

「なんだなんだ!?」

「ちょっと開けてください。池に用があるだけなのよ」

「池!? 後宮の外じゃないか。通すわけないだろう!」

「では、私の代わりに池に行ってきてくれませんか」

「はあ?」

「小月、こんなところで何をしている!」秀英の怒声に衛士が首を縮めた。「うるさくて気が散る。平寧宮から出るなと命じたのに、張包は伝えてなかったのか」

「いえ、私は伝えましたが……」奥から張包まで現れた。

「二人ともいいところに。ちょっと外に行きたいの。ここを通らせてくれない」

「な、何をわけのわからんことを……」

「陛下はお忙しいのです。邪魔せずお帰りなさい」張包が盥ごと小月を押し返そうとした。「だいたいなんですか、これは」

「公務の邪魔をする気はないの。さっと行って、さささっと戻ってくるだけだから。あ、こんな時間だから公務じゃないのかしら。差し飲みの邪魔をしたならごめんなさい」

 秀英は大きな溜息をついて、

「小月、中に来い。お前の意見があれば聞こう」小月を一室に誘った。
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