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七十五、 温操舵手と会う夜
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約束の夜、お照は九郎助稲荷で温操舵手を待つ。
ただ待つのも手持無沙汰なので稲荷社に手を合わせてすべてがうまくいきますようにと祈った。
ちょっと強欲かなと思ったとき、小雨がぱらつき、お照の頬に落ちた。
「待たせたな」
振り返ると傘を差した温操舵主が立っていた。いや、傘を捧げ持つのは大女だ。温操舵主の斜め後ろから、自分が濡れるのもかまわず傘を差しかけている。
「おや、おぬしだけか」
温操舵主は女将の不在に気づいて目を細めた。
「来客があって出てこれませんでした」
嘘ではない。万寿屋の頼みで追加分のクレームキャラメルを作らなくてはいけなくて大わらわだったのだ。もっとも大わらわだったのはお照だけで、女将は「お照さん、頼みますよ」と一言だけ残して二階に上がってしまったのだが。
とはいえ、予定外の製作を女将が受けるのは珍しいことだった。たまたま万寿屋を手伝っていた秋馬が床に落とす粗相をしたと聞いたからだろうか。女将は『身内』には優しいのだ。
「なにか掴んだのか。わざわざ我らを呼び出したのだ、情報があるのだろう」
声に焦りがあった。
仲間がどうなったか心配なのだろう。申し訳なく思った。
「その前に伺いたいことがあります。囚われているのは何人で、どこにいるか見当はつきますか? 奉行所なら顔見知りもいますのでなにか聞きだせるかと思います」
「五人。おそらくは千代田の城のどこか」
どこかと気軽に言われても、千代田城は広大すぎる。
「……となるとやはり公方さまのご指示なのですね」
「あるいは松平定信の屋敷のどこか」
「……松平定信公は近頃公方さまに疎んじられていると耳にしましたが」
老中の松平定信。お照は直接会ったことはないが、まったく伝手がないわけでもない。
鬼頭は松平定信を見知っている。それどころか、お照が松平定信を酷評したときに必死で擁護していたようすから、敬慕の念がうかがわれた。
直截関わりがなくても鬼頭の耳にもなにか入っているかもしれない。
「ほう。屋敷に引きこもっておるのかな。ようすを探れるか」
「探ってみましょう。ですが、もし屋敷に囚われていたとしても……まさか襲撃などしないでしょうね」
お照は口からでまかせを言った。松平定信の屋敷を探るなどできるわけがない。
「おまえには『家族』がいないのか。信仰の絆で結ばれた我らは家族も同然。家族を取り戻したいと願うのはおかしなことか」
温操舵主は九郎助稲荷の神使であるきつねの像を撫でながら口の端を引き上げ皮肉な笑みを作った。
家族や身内には甘くなるのは人の性だ。
「……わかりました」
「待て、それだけか。ほかに情報はないのか」
温操舵主はじろりとお照を睨んだ。
「我らが仲間のことでなくてよい。おぬしらしか知らぬ秘密を教えろ。西方弥勒さまを信用してもよいものか、測りかねているのだ」
温操舵手の意図は明瞭だった。信用してほしければ武器を開示せよ。
信用してもらわねばならない、いましばらくのあいだは。
お照だって『家族』を守らねばならないのだ。
だが残念なことに、手持ちにろくな武器はない。
「松平定信公の指令かどうかはわかりませんが、彼に近しいものが抜け荷を追っています。もしやお仲間は抜け荷を扱っていたのではありませんか」
「抜け荷……。どういったものだ」
「阿芙蓉」
「ああ……」
温操舵主は肺を押しつぶすように息を吐いた。
「阿芙蓉、ご存じですか」
「祖国に蔓延する悪しき流行だ。わたしが阿芙蓉を扱うわけがない」
吐き捨てるような口ぶりだった。
そこでこれまで黙っていた大女が口を開いた。
「しかし捕縛されたのは援助者です。彼らが援助してくれた資金はもしや……出どころは聞かぬ約束をしておりませんでしたか」
「…………たとえ阿芙蓉に手を出していたとしても、我らを援助するためだ。仕方あるまい。目を瞑ろう。援助者は同じ白蓮教徒、家族である。助け出さねばならない」
「阿芙蓉ですよ」
そのせいで廃人になるものがいるというのに。お照は腹が立った。
「我々には大義があるのだ。東夷の民には気の毒ではある。我らも胸が痛い。だがしかし大義の前には些細な犠牲にすぎない」
温操舵主は刹那、大女を見据えた。
大女はひとつうなずき、お照に向かってこう言った。
「しばし待ちなさい。温操舵手をはじめとした白蓮教信徒は近いうちに清国に戻る。そして満州族を倒し、漢族の王朝を打ち建てるのだ。そうなれば日本とも親交を結んでくださる。けして悪いようにはなさらないのだから」
「あなたは清国から逃げてきた……んじゃないのね」
「おらは江戸の生まれだ。温操舵手という素晴らしい指導者に出会えて幸運だと思っている」
「いや、それは天の導きであろう。夫君も武道場や土地を奉じるなどしてくれた。夫婦ともに尽くしてくれてたいへん助かっている」
「おら、役に立ってるんですね、嬉しいなあ」
武道場や土地を奉じたと耳にしたお照は思わず身を乗り出した。
「もしや芝居町に住むお爺さんに娘さんを預けていませんか」
「なんでそんなこと知って……」
「あの、なんとなくそのような……西方弥勒さまのお告げのようなものがいま唐突に降ってきまして……」
大女はばつが悪そうにもじもじとした。
ただ待つのも手持無沙汰なので稲荷社に手を合わせてすべてがうまくいきますようにと祈った。
ちょっと強欲かなと思ったとき、小雨がぱらつき、お照の頬に落ちた。
「待たせたな」
振り返ると傘を差した温操舵主が立っていた。いや、傘を捧げ持つのは大女だ。温操舵主の斜め後ろから、自分が濡れるのもかまわず傘を差しかけている。
「おや、おぬしだけか」
温操舵主は女将の不在に気づいて目を細めた。
「来客があって出てこれませんでした」
嘘ではない。万寿屋の頼みで追加分のクレームキャラメルを作らなくてはいけなくて大わらわだったのだ。もっとも大わらわだったのはお照だけで、女将は「お照さん、頼みますよ」と一言だけ残して二階に上がってしまったのだが。
とはいえ、予定外の製作を女将が受けるのは珍しいことだった。たまたま万寿屋を手伝っていた秋馬が床に落とす粗相をしたと聞いたからだろうか。女将は『身内』には優しいのだ。
「なにか掴んだのか。わざわざ我らを呼び出したのだ、情報があるのだろう」
声に焦りがあった。
仲間がどうなったか心配なのだろう。申し訳なく思った。
「その前に伺いたいことがあります。囚われているのは何人で、どこにいるか見当はつきますか? 奉行所なら顔見知りもいますのでなにか聞きだせるかと思います」
「五人。おそらくは千代田の城のどこか」
どこかと気軽に言われても、千代田城は広大すぎる。
「……となるとやはり公方さまのご指示なのですね」
「あるいは松平定信の屋敷のどこか」
「……松平定信公は近頃公方さまに疎んじられていると耳にしましたが」
老中の松平定信。お照は直接会ったことはないが、まったく伝手がないわけでもない。
鬼頭は松平定信を見知っている。それどころか、お照が松平定信を酷評したときに必死で擁護していたようすから、敬慕の念がうかがわれた。
直截関わりがなくても鬼頭の耳にもなにか入っているかもしれない。
「ほう。屋敷に引きこもっておるのかな。ようすを探れるか」
「探ってみましょう。ですが、もし屋敷に囚われていたとしても……まさか襲撃などしないでしょうね」
お照は口からでまかせを言った。松平定信の屋敷を探るなどできるわけがない。
「おまえには『家族』がいないのか。信仰の絆で結ばれた我らは家族も同然。家族を取り戻したいと願うのはおかしなことか」
温操舵主は九郎助稲荷の神使であるきつねの像を撫でながら口の端を引き上げ皮肉な笑みを作った。
家族や身内には甘くなるのは人の性だ。
「……わかりました」
「待て、それだけか。ほかに情報はないのか」
温操舵主はじろりとお照を睨んだ。
「我らが仲間のことでなくてよい。おぬしらしか知らぬ秘密を教えろ。西方弥勒さまを信用してもよいものか、測りかねているのだ」
温操舵手の意図は明瞭だった。信用してほしければ武器を開示せよ。
信用してもらわねばならない、いましばらくのあいだは。
お照だって『家族』を守らねばならないのだ。
だが残念なことに、手持ちにろくな武器はない。
「松平定信公の指令かどうかはわかりませんが、彼に近しいものが抜け荷を追っています。もしやお仲間は抜け荷を扱っていたのではありませんか」
「抜け荷……。どういったものだ」
「阿芙蓉」
「ああ……」
温操舵主は肺を押しつぶすように息を吐いた。
「阿芙蓉、ご存じですか」
「祖国に蔓延する悪しき流行だ。わたしが阿芙蓉を扱うわけがない」
吐き捨てるような口ぶりだった。
そこでこれまで黙っていた大女が口を開いた。
「しかし捕縛されたのは援助者です。彼らが援助してくれた資金はもしや……出どころは聞かぬ約束をしておりませんでしたか」
「…………たとえ阿芙蓉に手を出していたとしても、我らを援助するためだ。仕方あるまい。目を瞑ろう。援助者は同じ白蓮教徒、家族である。助け出さねばならない」
「阿芙蓉ですよ」
そのせいで廃人になるものがいるというのに。お照は腹が立った。
「我々には大義があるのだ。東夷の民には気の毒ではある。我らも胸が痛い。だがしかし大義の前には些細な犠牲にすぎない」
温操舵主は刹那、大女を見据えた。
大女はひとつうなずき、お照に向かってこう言った。
「しばし待ちなさい。温操舵手をはじめとした白蓮教信徒は近いうちに清国に戻る。そして満州族を倒し、漢族の王朝を打ち建てるのだ。そうなれば日本とも親交を結んでくださる。けして悪いようにはなさらないのだから」
「あなたは清国から逃げてきた……んじゃないのね」
「おらは江戸の生まれだ。温操舵手という素晴らしい指導者に出会えて幸運だと思っている」
「いや、それは天の導きであろう。夫君も武道場や土地を奉じるなどしてくれた。夫婦ともに尽くしてくれてたいへん助かっている」
「おら、役に立ってるんですね、嬉しいなあ」
武道場や土地を奉じたと耳にしたお照は思わず身を乗り出した。
「もしや芝居町に住むお爺さんに娘さんを預けていませんか」
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大女はばつが悪そうにもじもじとした。
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