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七十七、 可哀想な女とは?
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女将と白蓮教徒は祖国で迫害されて日本に逃げてきた。
そう聞いたときにはどちらにも憐憫の情を抱いたものだが、いまは早とちりだったと思う。
『可哀想、だから助けなくちゃ』
自然と湧き上がる気持ちは、美味しいものを食べたとき幸せな気分になるのとなにがちがうのだろう。可哀想な人がいたら助けてあげたくなるものだ。
おのれが善人だとは思わない。
困ったときには助け合う。当然、おのれが困っていたら助けてほしいからだ。恩や義理ではなく竹のようにまっすぐな心情。強弱の差はあれど、みなが持ち合わせるものではないのか。
だが、わたしは見誤っていた。
女将とシャルルは弱くない。白蓮教徒たちも弱くない。どんな目にあってもたくましく生き抜いていく力がある。
彼らを可哀想だと思ってしまうわたしのほうこそ、彼らから見たら可哀想な人間にちがいない。
いつだったか鬼頭にぶつけた、おのれの言葉を思い出すと赤面しそうになる。
『今はなんの権力も身寄りもない、幼子を抱えてつましく生きる、祖国を追放された可哀想な女じゃありませんか』
いや、あのときは鬼頭が女将に異常な敵意をあらわにしていたからつい反発したくなったのだった。
鬼頭に罪悪感を抱かせてやりたかっただけで、女将が『つましく生きる』なんて微塵も思っちゃいなかった。
鬼頭への嫌悪が強すぎたせいで、あのような言葉となってしまったのだ。
だとしても、女将を可哀想な身の上と言ったのは撤回したくなった。おのれが父に虐げられた可哀想な身の上だとうっすら感じていたせいで、おのれより可哀想な母子を守ることを正しいと思い込んだ。可哀想な母子と思いたかった。おのれより下の存在を欲していたのかもしれない。
真の同情心ではなかったのかもしれない。優しさではなかったのかもしれない。
もしかしたら女将には見透かされていたのではないか。
そう考え出すと恥ずかしくて身もだえする。いや、あの女将だったら、わたしの心情を知った上で利用する。あのかたはとても……図太いのだ。
祖国で嫌われていたというのもわからないでもない。
それでも白蓮教徒から女将を守りたい。幕府から女将を守りたい。
なぜだかわからないけれど、けして嫌いにはなれないのだ。
女将とシャルルが無事に日本を離れるまで、ほんの数ヶ月。わたしが上手くやればいい。
雨雲が途切れた薄明りの夜空を見上げて、お照はぎゅっと拳を握った。
「お照、どこ行っていたの」
上がり框に腰かけてお照を待っていたのはシャルルだった。
「女将さんはもうお休みですか」
「ううん、上で芝居の筋を考えてる。国家転覆を謀る闇の組織を追って海を渡る場面を入れるんだってさ。へんてこな話になりそうだね」
そう言って笑うシャルルの袖はひどく汚れていた。
「あ、これ。ちょっと実験してたら煤がついちゃって。手は洗ったんだけど着物は落ちなくて」
「明日洗ってあげるね。実験ってなにをしてたの」
「お母さまの部屋に岩絵具いっぱいあるでしょ。いろんなのを混ぜたり焼いたり溶かしたり。あの緑色が作れないかなって思って」
「へえ、どうなったの」
シャルルは首を振った。
それはそうだろう。混ぜて作れる程度のものなら秋馬だって作れるだろうから。
秋馬が持っていた緑の顔料は全部蔦屋の元に行ってしまった。蔦屋は顔料屋に同じものを頼んでいるそうだがうまくいくかどうか。
「絵具じゃないけど面白いものは出来たよ。今度お照に見せてあげる。あ、でももっと材料を買って実験したいな」
「シャルル、聞いてちょうだい」お照ははしゃぐシャルルの手を取った。「これからは外出は必ずわたしと一緒よ。ひとりではダメよ」
「……今だってひとりでは出かけちゃいけないってお母さまに厳しく言われてるけど、お照、どうかしたの」
「ううん、わかっているならいいの。だってシャルルは国王さまでしょ。お供がいなきゃ、かっこ悪いわ。明日一緒に顔料を見に行きましょうね」
「うん!」
シャルルは嬉しそうに微笑んだ。
不安を与えてはいけない。ちりめんの風呂敷に優しく包んで守ってあげたい。できうることならシャルルには風呂敷の存在にさえ気づいてほしくない。
深夜に関わらず、近所から聞こえてくる三味線に合わせて木刀を振らずにはおれないお照だった。
そう聞いたときにはどちらにも憐憫の情を抱いたものだが、いまは早とちりだったと思う。
『可哀想、だから助けなくちゃ』
自然と湧き上がる気持ちは、美味しいものを食べたとき幸せな気分になるのとなにがちがうのだろう。可哀想な人がいたら助けてあげたくなるものだ。
おのれが善人だとは思わない。
困ったときには助け合う。当然、おのれが困っていたら助けてほしいからだ。恩や義理ではなく竹のようにまっすぐな心情。強弱の差はあれど、みなが持ち合わせるものではないのか。
だが、わたしは見誤っていた。
女将とシャルルは弱くない。白蓮教徒たちも弱くない。どんな目にあってもたくましく生き抜いていく力がある。
彼らを可哀想だと思ってしまうわたしのほうこそ、彼らから見たら可哀想な人間にちがいない。
いつだったか鬼頭にぶつけた、おのれの言葉を思い出すと赤面しそうになる。
『今はなんの権力も身寄りもない、幼子を抱えてつましく生きる、祖国を追放された可哀想な女じゃありませんか』
いや、あのときは鬼頭が女将に異常な敵意をあらわにしていたからつい反発したくなったのだった。
鬼頭に罪悪感を抱かせてやりたかっただけで、女将が『つましく生きる』なんて微塵も思っちゃいなかった。
鬼頭への嫌悪が強すぎたせいで、あのような言葉となってしまったのだ。
だとしても、女将を可哀想な身の上と言ったのは撤回したくなった。おのれが父に虐げられた可哀想な身の上だとうっすら感じていたせいで、おのれより可哀想な母子を守ることを正しいと思い込んだ。可哀想な母子と思いたかった。おのれより下の存在を欲していたのかもしれない。
真の同情心ではなかったのかもしれない。優しさではなかったのかもしれない。
もしかしたら女将には見透かされていたのではないか。
そう考え出すと恥ずかしくて身もだえする。いや、あの女将だったら、わたしの心情を知った上で利用する。あのかたはとても……図太いのだ。
祖国で嫌われていたというのもわからないでもない。
それでも白蓮教徒から女将を守りたい。幕府から女将を守りたい。
なぜだかわからないけれど、けして嫌いにはなれないのだ。
女将とシャルルが無事に日本を離れるまで、ほんの数ヶ月。わたしが上手くやればいい。
雨雲が途切れた薄明りの夜空を見上げて、お照はぎゅっと拳を握った。
「お照、どこ行っていたの」
上がり框に腰かけてお照を待っていたのはシャルルだった。
「女将さんはもうお休みですか」
「ううん、上で芝居の筋を考えてる。国家転覆を謀る闇の組織を追って海を渡る場面を入れるんだってさ。へんてこな話になりそうだね」
そう言って笑うシャルルの袖はひどく汚れていた。
「あ、これ。ちょっと実験してたら煤がついちゃって。手は洗ったんだけど着物は落ちなくて」
「明日洗ってあげるね。実験ってなにをしてたの」
「お母さまの部屋に岩絵具いっぱいあるでしょ。いろんなのを混ぜたり焼いたり溶かしたり。あの緑色が作れないかなって思って」
「へえ、どうなったの」
シャルルは首を振った。
それはそうだろう。混ぜて作れる程度のものなら秋馬だって作れるだろうから。
秋馬が持っていた緑の顔料は全部蔦屋の元に行ってしまった。蔦屋は顔料屋に同じものを頼んでいるそうだがうまくいくかどうか。
「絵具じゃないけど面白いものは出来たよ。今度お照に見せてあげる。あ、でももっと材料を買って実験したいな」
「シャルル、聞いてちょうだい」お照ははしゃぐシャルルの手を取った。「これからは外出は必ずわたしと一緒よ。ひとりではダメよ」
「……今だってひとりでは出かけちゃいけないってお母さまに厳しく言われてるけど、お照、どうかしたの」
「ううん、わかっているならいいの。だってシャルルは国王さまでしょ。お供がいなきゃ、かっこ悪いわ。明日一緒に顔料を見に行きましょうね」
「うん!」
シャルルは嬉しそうに微笑んだ。
不安を与えてはいけない。ちりめんの風呂敷に優しく包んで守ってあげたい。できうることならシャルルには風呂敷の存在にさえ気づいてほしくない。
深夜に関わらず、近所から聞こえてくる三味線に合わせて木刀を振らずにはおれないお照だった。
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