江戸のアントワネット

あかいかかぽ

文字の大きさ
78 / 127

七十八、 蔦屋、捕まる

しおりを挟む
 翌日、女将は『フロマージュ』(チーズ)を作った。とはいっても本格的なフロマージュではない。

「本格的な材料は手に入らないのでありあわせを試してみたの」

 イチジクの樹液、米酢、穀物酢、果実酢、ベニバナの種。
 土間には酸っぱい匂いが充満している。
 作業台の盥にはありあわせで作られたフロマージュが五つ入っていた。どれも見た目は変わらない。

「これがフロマージュというものですか」

 ぶよぶよとした白い塊は崩れた豆腐のようだ。

「果実酢は弾力が弱いわね。どれもいまひとつかしら」

 シャルルが味見をして舌を出した。

「へんな味がする」

「ホエーも酢を使うとサンミが残ってしまうわね。クレーム(クリーム)も美味しくないわ。やはりあれがないと上手くいかないのね」

「あれというのは……」

「母牛のお乳を吸っている、まだ小さい仔牛をね、こう」

 女将は包丁を振って説明しようとした。

「いえ、けっこうです。はい、もう十分ですから。シャルル、昨日約束したお買い物に行きましょうか」

 お照はシャルルの手を引いて立ちあがる。フロマージュを一生味わえなくてもかまわない。

 玄関戸を開けたとたん、水飛沫が顔にかかった。雨の多い季節だ。
 だが水飛沫は吹きこんできた雨ではなく、飛び込んできた人物がまき散らしたものだった。
 とっさにシャルルを背にかばい、お照は心張り棒を振り上げた。

曲者くせもの!」

「しゅ、秋馬、です」

 ずぶ濡れの秋馬が地面にへたりこんだ。

「どうしたの秋馬さん、傘もささずに」

「とんでもないことになった」

「え」

「蔦屋が捕まった」秋馬はがっくりと肩を落とす。「終わった。おれの絵師人生」

「どういうこと。いったいなんで捕まったの。あ、抜け荷を持っていたから?」

 秋馬は力なく首を振った。

「死人が出た。顔料屋だ」

 お照は茫然となって秋馬を見下ろすしかなかった。


 番所に駆け込んだが半兵衛は不在だった。となればこのまま奉行所までまっすぐに行き、直に話を聞くしかない。
 だがそれは叶わなかった。番所に鬼頭がやってきたのだ。

「おまえら来ていたのか。都合がいい。ま、座れ」

「また嫌がらせですか」

「なんのことだ。毎度奉行所に乗り込まれては迷惑だからな。わざわざ、親切にも、わしが出向いて説明に来てやったのだぞ」

「耕地屋に行きましょう。話はそこで聞きます」


「どうぞ」

 女将が鬼頭に出したのは白い汁ものだった。

「……これはなんだ。へんなにおいがするが……」

「フロマージュの汁ものですわ。ホエーにジューソーを入れて酢を中和したの。サンミはあまりないはずですわ。そこに米粉を入れてもったりさせて、フロマージュをちぎって散らしたのよ。どうぞ、エンリョなく召し上がって」

「味見はしたのだろうな」

「いいえ。あら、大丈夫よ、毒は入ってないわ」

「毒というのは……掛けあわせで生じることもあるのだが……」

 女将とお照とシャルルと秋馬が鬼頭を取り囲み、毒見役が一匙口に含むまでを見守った。
 鬼頭は居心地悪そうな表情で周囲を見回しながら咀嚼した。

「煮詰めた重湯のようだな……不味くはない」

「ではみなさん、どうぞ召し上がって」

 女将はちゃっかりと鬼頭に毒見をさせてからみなに振る舞った。

「それで、蔦屋さんを捕らえたってのはどうしてなんです?」

「うむ、それはな」

 鬼頭の話では、ある顔料屋の調合師が自宅で死んでいたらしい。その調合師は蔦屋が目をかけていた、健康な若者だった。ここしばらくのあいだ狭い一室にこもって蔦屋に頼まれた色だけを一心に研究していたという。部屋の中は緑色の顔料が散乱していた。

「どこかで見たおぼえのある鮮やかな緑色がな」

 ここで鬼頭は秋馬をぎろりとにらんだ。
 秋馬が抜け荷を鬼頭に渡さずに、蔦屋に売り渡したことはすでに調べがついているのだろう。
 部屋にこもりきりの調合師を、摺師の友人は「さすがに根を詰めすぎだ」と注意するつもりで昨日訪ねた。ここぞというときには金を惜しまない蔦屋からの仕事だから熱中するのは摺師はよくわかっていたが、梅雨の長雨のせいでおっくうになり、ふと気づくと十日が過ぎていた。もっと早く訪ねていればよかったと摺師は悔やんだという。

「蔦屋はそのひとをどうやって殺したんです?」

 お照はそう訊ねつつ、フロマージュ汁にパンを浸して食べると美味いことを発見した。ものを食べながら人死にの話ができる自分に他人事のように感心した。慣れとは怖いものだ。

「毒」

 調合師にの体には外傷がなかった。だが顔色が悪く唇が紫色になっていた。明らかな毒死の顔貌だったという。

「なんの毒かはわかっているのですか?」

 女将は落ち着いた声でたずねた。

砒素ひそ。あの緑色の顔料には砒素が含まれていたのだ」

 鬼頭の台詞に、一同の手が止まる。砒素の恐ろしさは知れ渡っていた。

「蔦屋は砒素を盛ったんですかい。顔料を飲ませたんで……?」

 しかし調合師ともなれば、顔料の材料に鉱物が多いことも、鉱物に砒素を含むものがあることも、その毒性もよくわかっているはずだ。誤って飲むことはない。

「ホトケさんの口の中は緑色に染まってはいなかった。だから別に用意した毒だろう。もっとも蔦屋はなかなか素直に吐かねえが」

 秋馬が激しく左右に首をふった。

「わからねえ。なぜ蔦屋が殺さなきゃならないんでしょう。本人も否定してるんでしょう。おかしな話じゃないですか」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...