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七十八、 蔦屋、捕まる
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翌日、女将は『フロマージュ』(チーズ)を作った。とはいっても本格的なフロマージュではない。
「本格的な材料は手に入らないのでありあわせを試してみたの」
イチジクの樹液、米酢、穀物酢、果実酢、ベニバナの種。
土間には酸っぱい匂いが充満している。
作業台の盥にはありあわせで作られたフロマージュが五つ入っていた。どれも見た目は変わらない。
「これがフロマージュというものですか」
ぶよぶよとした白い塊は崩れた豆腐のようだ。
「果実酢は弾力が弱いわね。どれもいまひとつかしら」
シャルルが味見をして舌を出した。
「へんな味がする」
「ホエーも酢を使うとサンミが残ってしまうわね。クレーム(クリーム)も美味しくないわ。やはりあれがないと上手くいかないのね」
「あれというのは……」
「母牛のお乳を吸っている、まだ小さい仔牛をね、こう」
女将は包丁を振って説明しようとした。
「いえ、けっこうです。はい、もう十分ですから。シャルル、昨日約束したお買い物に行きましょうか」
お照はシャルルの手を引いて立ちあがる。フロマージュを一生味わえなくてもかまわない。
玄関戸を開けたとたん、水飛沫が顔にかかった。雨の多い季節だ。
だが水飛沫は吹きこんできた雨ではなく、飛び込んできた人物がまき散らしたものだった。
とっさにシャルルを背にかばい、お照は心張り棒を振り上げた。
「曲者!」
「しゅ、秋馬、です」
ずぶ濡れの秋馬が地面にへたりこんだ。
「どうしたの秋馬さん、傘もささずに」
「とんでもないことになった」
「え」
「蔦屋が捕まった」秋馬はがっくりと肩を落とす。「終わった。おれの絵師人生」
「どういうこと。いったいなんで捕まったの。あ、抜け荷を持っていたから?」
秋馬は力なく首を振った。
「死人が出た。顔料屋だ」
お照は茫然となって秋馬を見下ろすしかなかった。
番所に駆け込んだが半兵衛は不在だった。となればこのまま奉行所までまっすぐに行き、直に話を聞くしかない。
だがそれは叶わなかった。番所に鬼頭がやってきたのだ。
「おまえら来ていたのか。都合がいい。ま、座れ」
「また嫌がらせですか」
「なんのことだ。毎度奉行所に乗り込まれては迷惑だからな。わざわざ、親切にも、わしが出向いて説明に来てやったのだぞ」
「耕地屋に行きましょう。話はそこで聞きます」
「どうぞ」
女将が鬼頭に出したのは白い汁ものだった。
「……これはなんだ。へんなにおいがするが……」
「フロマージュの汁ものですわ。ホエーにジューソーを入れて酢を中和したの。サンミはあまりないはずですわ。そこに米粉を入れてもったりさせて、フロマージュをちぎって散らしたのよ。どうぞ、エンリョなく召し上がって」
「味見はしたのだろうな」
「いいえ。あら、大丈夫よ、毒は入ってないわ」
「毒というのは……掛けあわせで生じることもあるのだが……」
女将とお照とシャルルと秋馬が鬼頭を取り囲み、毒見役が一匙口に含むまでを見守った。
鬼頭は居心地悪そうな表情で周囲を見回しながら咀嚼した。
「煮詰めた重湯のようだな……不味くはない」
「ではみなさん、どうぞ召し上がって」
女将はちゃっかりと鬼頭に毒見をさせてからみなに振る舞った。
「それで、蔦屋さんを捕らえたってのはどうしてなんです?」
「うむ、それはな」
鬼頭の話では、ある顔料屋の調合師が自宅で死んでいたらしい。その調合師は蔦屋が目をかけていた、健康な若者だった。ここしばらくのあいだ狭い一室にこもって蔦屋に頼まれた色だけを一心に研究していたという。部屋の中は緑色の顔料が散乱していた。
「どこかで見たおぼえのある鮮やかな緑色がな」
ここで鬼頭は秋馬をぎろりとにらんだ。
秋馬が抜け荷を鬼頭に渡さずに、蔦屋に売り渡したことはすでに調べがついているのだろう。
部屋にこもりきりの調合師を、摺師の友人は「さすがに根を詰めすぎだ」と注意するつもりで昨日訪ねた。ここぞというときには金を惜しまない蔦屋からの仕事だから熱中するのは摺師はよくわかっていたが、梅雨の長雨のせいでおっくうになり、ふと気づくと十日が過ぎていた。もっと早く訪ねていればよかったと摺師は悔やんだという。
「蔦屋はそのひとをどうやって殺したんです?」
お照はそう訊ねつつ、フロマージュ汁にパンを浸して食べると美味いことを発見した。ものを食べながら人死にの話ができる自分に他人事のように感心した。慣れとは怖いものだ。
「毒」
調合師にの体には外傷がなかった。だが顔色が悪く唇が紫色になっていた。明らかな毒死の顔貌だったという。
「なんの毒かはわかっているのですか?」
女将は落ち着いた声でたずねた。
「砒素。あの緑色の顔料には砒素が含まれていたのだ」
鬼頭の台詞に、一同の手が止まる。砒素の恐ろしさは知れ渡っていた。
「蔦屋は砒素を盛ったんですかい。顔料を飲ませたんで……?」
しかし調合師ともなれば、顔料の材料に鉱物が多いことも、鉱物に砒素を含むものがあることも、その毒性もよくわかっているはずだ。誤って飲むことはない。
「ホトケさんの口の中は緑色に染まってはいなかった。だから別に用意した毒だろう。もっとも蔦屋はなかなか素直に吐かねえが」
秋馬が激しく左右に首をふった。
「わからねえ。なぜ蔦屋が殺さなきゃならないんでしょう。本人も否定してるんでしょう。おかしな話じゃないですか」
「本格的な材料は手に入らないのでありあわせを試してみたの」
イチジクの樹液、米酢、穀物酢、果実酢、ベニバナの種。
土間には酸っぱい匂いが充満している。
作業台の盥にはありあわせで作られたフロマージュが五つ入っていた。どれも見た目は変わらない。
「これがフロマージュというものですか」
ぶよぶよとした白い塊は崩れた豆腐のようだ。
「果実酢は弾力が弱いわね。どれもいまひとつかしら」
シャルルが味見をして舌を出した。
「へんな味がする」
「ホエーも酢を使うとサンミが残ってしまうわね。クレーム(クリーム)も美味しくないわ。やはりあれがないと上手くいかないのね」
「あれというのは……」
「母牛のお乳を吸っている、まだ小さい仔牛をね、こう」
女将は包丁を振って説明しようとした。
「いえ、けっこうです。はい、もう十分ですから。シャルル、昨日約束したお買い物に行きましょうか」
お照はシャルルの手を引いて立ちあがる。フロマージュを一生味わえなくてもかまわない。
玄関戸を開けたとたん、水飛沫が顔にかかった。雨の多い季節だ。
だが水飛沫は吹きこんできた雨ではなく、飛び込んできた人物がまき散らしたものだった。
とっさにシャルルを背にかばい、お照は心張り棒を振り上げた。
「曲者!」
「しゅ、秋馬、です」
ずぶ濡れの秋馬が地面にへたりこんだ。
「どうしたの秋馬さん、傘もささずに」
「とんでもないことになった」
「え」
「蔦屋が捕まった」秋馬はがっくりと肩を落とす。「終わった。おれの絵師人生」
「どういうこと。いったいなんで捕まったの。あ、抜け荷を持っていたから?」
秋馬は力なく首を振った。
「死人が出た。顔料屋だ」
お照は茫然となって秋馬を見下ろすしかなかった。
番所に駆け込んだが半兵衛は不在だった。となればこのまま奉行所までまっすぐに行き、直に話を聞くしかない。
だがそれは叶わなかった。番所に鬼頭がやってきたのだ。
「おまえら来ていたのか。都合がいい。ま、座れ」
「また嫌がらせですか」
「なんのことだ。毎度奉行所に乗り込まれては迷惑だからな。わざわざ、親切にも、わしが出向いて説明に来てやったのだぞ」
「耕地屋に行きましょう。話はそこで聞きます」
「どうぞ」
女将が鬼頭に出したのは白い汁ものだった。
「……これはなんだ。へんなにおいがするが……」
「フロマージュの汁ものですわ。ホエーにジューソーを入れて酢を中和したの。サンミはあまりないはずですわ。そこに米粉を入れてもったりさせて、フロマージュをちぎって散らしたのよ。どうぞ、エンリョなく召し上がって」
「味見はしたのだろうな」
「いいえ。あら、大丈夫よ、毒は入ってないわ」
「毒というのは……掛けあわせで生じることもあるのだが……」
女将とお照とシャルルと秋馬が鬼頭を取り囲み、毒見役が一匙口に含むまでを見守った。
鬼頭は居心地悪そうな表情で周囲を見回しながら咀嚼した。
「煮詰めた重湯のようだな……不味くはない」
「ではみなさん、どうぞ召し上がって」
女将はちゃっかりと鬼頭に毒見をさせてからみなに振る舞った。
「それで、蔦屋さんを捕らえたってのはどうしてなんです?」
「うむ、それはな」
鬼頭の話では、ある顔料屋の調合師が自宅で死んでいたらしい。その調合師は蔦屋が目をかけていた、健康な若者だった。ここしばらくのあいだ狭い一室にこもって蔦屋に頼まれた色だけを一心に研究していたという。部屋の中は緑色の顔料が散乱していた。
「どこかで見たおぼえのある鮮やかな緑色がな」
ここで鬼頭は秋馬をぎろりとにらんだ。
秋馬が抜け荷を鬼頭に渡さずに、蔦屋に売り渡したことはすでに調べがついているのだろう。
部屋にこもりきりの調合師を、摺師の友人は「さすがに根を詰めすぎだ」と注意するつもりで昨日訪ねた。ここぞというときには金を惜しまない蔦屋からの仕事だから熱中するのは摺師はよくわかっていたが、梅雨の長雨のせいでおっくうになり、ふと気づくと十日が過ぎていた。もっと早く訪ねていればよかったと摺師は悔やんだという。
「蔦屋はそのひとをどうやって殺したんです?」
お照はそう訊ねつつ、フロマージュ汁にパンを浸して食べると美味いことを発見した。ものを食べながら人死にの話ができる自分に他人事のように感心した。慣れとは怖いものだ。
「毒」
調合師にの体には外傷がなかった。だが顔色が悪く唇が紫色になっていた。明らかな毒死の顔貌だったという。
「なんの毒かはわかっているのですか?」
女将は落ち着いた声でたずねた。
「砒素。あの緑色の顔料には砒素が含まれていたのだ」
鬼頭の台詞に、一同の手が止まる。砒素の恐ろしさは知れ渡っていた。
「蔦屋は砒素を盛ったんですかい。顔料を飲ませたんで……?」
しかし調合師ともなれば、顔料の材料に鉱物が多いことも、鉱物に砒素を含むものがあることも、その毒性もよくわかっているはずだ。誤って飲むことはない。
「ホトケさんの口の中は緑色に染まってはいなかった。だから別に用意した毒だろう。もっとも蔦屋はなかなか素直に吐かねえが」
秋馬が激しく左右に首をふった。
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