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八十、 うるさい雨
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鬼頭は茶を啜りながら女将に先を促す。
「フランスでも砒素の毒はユーメイですからね。あれは少しずつ少しずつ、与えるものですわ。やがて吐き気やハライタ、下痢などで体が弱っていって、病でスイジャク死したように見えますもの」
女将はちらりと鬼頭の茶を見やった。
鬼頭はこめかみをひくつかせ、怯えたように茶碗から手を離した。
「調合師が研究で籠もっていたのは十日だけなのでしょう。となると毎日それなりの量を口にしていたことになりますわ。もしや、朝餉や夕餉の米粒に毒砂が混ざっていたのではありませんか」
毒砂はねずみ取りに使われる。保管が杜撰だと米に混ざることも考えられた。
「そう、きっとそうですよ!」
お照は膝を打った。調合師は蔦屋に殺されたのではなく、みずからの手違いで死んだのだ。蔦屋は無実である。
「女将、余計な口出しは控えてもらいたい」
「あら、余計な口出しだなんてひどいわ。わたくしの輝きわたる知性がそんなに恐ろしいのかしら」
びゅうと風が吹いた。風とともに雨も吹き込んでくる。お照は慌てて玄関を閉めた。
「毎日毎日、雨でうんざりしますわね」女将は嘆息した。「部屋がカビだらけになってしまうわ」
「そういえば」ふいになにかを思い出したのか、鬼頭は首を傾げた。「調合師の部屋は黴臭かったな……」
「わかりましたわ」女将はパンとひとつ手を叩いた。「カビのせいよ」
「どういうことです?」
お照は眉を寄せた。
「調合師はこもりきりで研究していた。部屋のなかは顔料とカビだらけ。だからきっとカビが悪さをしたのだわ。『毒というのは掛けあわせで生じることもある』って言っていたでしょう」
女将の汁物を前にした鬼頭がうっかりこぼした台詞である。
「そんな都合の良い掛けあわせがあるものか」
「試してみればいいのよ。たとえば、そうね。半兵衛さんのように若くて元気な殿方を十日間その部屋に閉じ込めてみたらどうかしら」
邪気の欠片もなさそうな女将の笑顔と真逆の言葉。だれもが押し黙った。
「あら、わたくしヘンなことを申し上げましたかしら」
「試すまでもない。ありえぬことだ」
「ありえないと断定されるのでしたらあなたにぜひとも試していただきたいわ。わたくしは嫌よ。死にたくないもの」
「むむ」
鬼頭は女将の視線を避け、秋馬に目をとめた。
「おまえが試してみよ。部屋に籠もってずっと絵を描いていればよいぞ」
「……なんでだよ。おれは女将さんの説を信じる。だからやらねーよ」
「人で試す要はないかと思います。ねずみとかじゃ駄目なんですか」
シャルルの意見は至極真っ当だった。鬼頭は唐突に席を立った。
「帰るとしよう」
ねずみで納得したのかな、とお照は良いほうに考えた。
鬼頭が蔦屋を疑っているのは間違いなさそうだ。
だが鬼頭がわざわざやってきて女将の耳に入れたのは、嫌がらせだと思っている。
秋馬のときは抜け荷と関係があったけれど、蔦屋については関係がないと鬼頭自身が明言したのだ。でっちあげで蔦屋を捕らえ、女将を困らせたかったのだとしたら、鬼頭は性根が腐っているとしか思えない。
どうして女将の邪魔ばかりするのか。
鬼頭のあとを追って玄関を出た。
とっさに手に取った傘は秋馬のものだったらしく、船宿の名前が入っていた。礫のように降りかかる雨雫は傘を激しく叩く。
「お忙しいのではありませんか、鬼頭さま。抜け荷の件もあるでしょうに」
「ああ、忙しい。本来は蔦屋にかまっている暇はないのだ」
一瞬だけ振り返った鬼頭は、お照を邪険に手で払おうとした。
「それはわざわざご苦労さまでございます。大門まで一緒に行きましょう。話もあるので」
「わしはない。雨がうるさい。話は無理だ」
傘にあたる雨粒はたしかにうるさい。お照は傘を畳んだ。
「……なにをしている。濡れるぞ」
「鬼頭さまは抜け荷の主犯を追っているのではないのですか。主犯と女将さんは連んでいると思っているのでしょうか」
「いや、女将と繋がっているとも思っておらぬ。だが監視は必要だ。あれは火薬のような女だからな」
「阿芙蓉の煙草草を売っていたものはどうなりましたでしょうか。あ、いえ、あの……俄芝居仲間の間夫がそのうちのひとりのようで、仲間がひどく心配していたものですから」
「ああ」鬼頭は一歩二歩、お照に近づいた。「残念だが諦めてもらわねば。もう二度と会えぬだろう」
気づくとお照は鬼頭の傘の下にいた。傘を叩く喧しい雨音を避けようとすると、ふたりの顔は余計に近づく。
「どういうことでしょうか」
「我が日の本から叩き出す」
「島送り、ですか」
「一部はな」
「一部。では残りは?」
鬼頭は喋りすぎたと思ったのか、面相を険しくした。
「おまえには関係のないことだ」
「鬼頭さま、賭けませんか」
「賭ける、何をだ」
「有耶無耶になっていたではありませんか、お歯黒どぶの下手人の件。秋馬さんが無実ならお腰のものをいただくことになっていたのに。ですから新しい賭けです。蔦屋が下手人なのか、黴が悪さをしたのか。もし黴だったら……」
「わかったわかった。おまえが負けたらどうするのだ。どうせ女将に不利に動くことはしないんだろう。わしが損をするだけではないか」
「公方さま御下賜の大小はいかがですか」
「不敬なやつめ」
鬼頭は不機嫌そうな表情を隠さずに、そのまま踵を返した。
雨粒がお照の体を冷やす。
結句、賭けは成立したのか、賽子は壺のなかに入ったのか。髪や頬を伝い落ちる生暖かい雨のようにいつのまにかどこかに消えてしまう。
初めて会ったときの、眉を下げた優しそうな顔は作り物だったことがいまではよくわかる。
とはいえ恐ろしげな顔には慣れてきたと思うお照であった。
「フランスでも砒素の毒はユーメイですからね。あれは少しずつ少しずつ、与えるものですわ。やがて吐き気やハライタ、下痢などで体が弱っていって、病でスイジャク死したように見えますもの」
女将はちらりと鬼頭の茶を見やった。
鬼頭はこめかみをひくつかせ、怯えたように茶碗から手を離した。
「調合師が研究で籠もっていたのは十日だけなのでしょう。となると毎日それなりの量を口にしていたことになりますわ。もしや、朝餉や夕餉の米粒に毒砂が混ざっていたのではありませんか」
毒砂はねずみ取りに使われる。保管が杜撰だと米に混ざることも考えられた。
「そう、きっとそうですよ!」
お照は膝を打った。調合師は蔦屋に殺されたのではなく、みずからの手違いで死んだのだ。蔦屋は無実である。
「女将、余計な口出しは控えてもらいたい」
「あら、余計な口出しだなんてひどいわ。わたくしの輝きわたる知性がそんなに恐ろしいのかしら」
びゅうと風が吹いた。風とともに雨も吹き込んでくる。お照は慌てて玄関を閉めた。
「毎日毎日、雨でうんざりしますわね」女将は嘆息した。「部屋がカビだらけになってしまうわ」
「そういえば」ふいになにかを思い出したのか、鬼頭は首を傾げた。「調合師の部屋は黴臭かったな……」
「わかりましたわ」女将はパンとひとつ手を叩いた。「カビのせいよ」
「どういうことです?」
お照は眉を寄せた。
「調合師はこもりきりで研究していた。部屋のなかは顔料とカビだらけ。だからきっとカビが悪さをしたのだわ。『毒というのは掛けあわせで生じることもある』って言っていたでしょう」
女将の汁物を前にした鬼頭がうっかりこぼした台詞である。
「そんな都合の良い掛けあわせがあるものか」
「試してみればいいのよ。たとえば、そうね。半兵衛さんのように若くて元気な殿方を十日間その部屋に閉じ込めてみたらどうかしら」
邪気の欠片もなさそうな女将の笑顔と真逆の言葉。だれもが押し黙った。
「あら、わたくしヘンなことを申し上げましたかしら」
「試すまでもない。ありえぬことだ」
「ありえないと断定されるのでしたらあなたにぜひとも試していただきたいわ。わたくしは嫌よ。死にたくないもの」
「むむ」
鬼頭は女将の視線を避け、秋馬に目をとめた。
「おまえが試してみよ。部屋に籠もってずっと絵を描いていればよいぞ」
「……なんでだよ。おれは女将さんの説を信じる。だからやらねーよ」
「人で試す要はないかと思います。ねずみとかじゃ駄目なんですか」
シャルルの意見は至極真っ当だった。鬼頭は唐突に席を立った。
「帰るとしよう」
ねずみで納得したのかな、とお照は良いほうに考えた。
鬼頭が蔦屋を疑っているのは間違いなさそうだ。
だが鬼頭がわざわざやってきて女将の耳に入れたのは、嫌がらせだと思っている。
秋馬のときは抜け荷と関係があったけれど、蔦屋については関係がないと鬼頭自身が明言したのだ。でっちあげで蔦屋を捕らえ、女将を困らせたかったのだとしたら、鬼頭は性根が腐っているとしか思えない。
どうして女将の邪魔ばかりするのか。
鬼頭のあとを追って玄関を出た。
とっさに手に取った傘は秋馬のものだったらしく、船宿の名前が入っていた。礫のように降りかかる雨雫は傘を激しく叩く。
「お忙しいのではありませんか、鬼頭さま。抜け荷の件もあるでしょうに」
「ああ、忙しい。本来は蔦屋にかまっている暇はないのだ」
一瞬だけ振り返った鬼頭は、お照を邪険に手で払おうとした。
「それはわざわざご苦労さまでございます。大門まで一緒に行きましょう。話もあるので」
「わしはない。雨がうるさい。話は無理だ」
傘にあたる雨粒はたしかにうるさい。お照は傘を畳んだ。
「……なにをしている。濡れるぞ」
「鬼頭さまは抜け荷の主犯を追っているのではないのですか。主犯と女将さんは連んでいると思っているのでしょうか」
「いや、女将と繋がっているとも思っておらぬ。だが監視は必要だ。あれは火薬のような女だからな」
「阿芙蓉の煙草草を売っていたものはどうなりましたでしょうか。あ、いえ、あの……俄芝居仲間の間夫がそのうちのひとりのようで、仲間がひどく心配していたものですから」
「ああ」鬼頭は一歩二歩、お照に近づいた。「残念だが諦めてもらわねば。もう二度と会えぬだろう」
気づくとお照は鬼頭の傘の下にいた。傘を叩く喧しい雨音を避けようとすると、ふたりの顔は余計に近づく。
「どういうことでしょうか」
「我が日の本から叩き出す」
「島送り、ですか」
「一部はな」
「一部。では残りは?」
鬼頭は喋りすぎたと思ったのか、面相を険しくした。
「おまえには関係のないことだ」
「鬼頭さま、賭けませんか」
「賭ける、何をだ」
「有耶無耶になっていたではありませんか、お歯黒どぶの下手人の件。秋馬さんが無実ならお腰のものをいただくことになっていたのに。ですから新しい賭けです。蔦屋が下手人なのか、黴が悪さをしたのか。もし黴だったら……」
「わかったわかった。おまえが負けたらどうするのだ。どうせ女将に不利に動くことはしないんだろう。わしが損をするだけではないか」
「公方さま御下賜の大小はいかがですか」
「不敬なやつめ」
鬼頭は不機嫌そうな表情を隠さずに、そのまま踵を返した。
雨粒がお照の体を冷やす。
結句、賭けは成立したのか、賽子は壺のなかに入ったのか。髪や頬を伝い落ちる生暖かい雨のようにいつのまにかどこかに消えてしまう。
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とはいえ恐ろしげな顔には慣れてきたと思うお照であった。
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