江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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八十二、 深まる疑惑

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 いまから奉行所に行ったところで門前払いになるだけだろう。
 などと仲之町を行ったり来たりして頭を悩ませていたところ、背後からぽんと肩を叩かれた。
 振り返ると、大女のトラがいた。

「トラ……さん」

「温操舵手がお呼びだ」

 トラのあとに続いて大門を抜け、五十間道の小ぶりな茶屋の二階に温操舵手が待っていた。
 白蓮教徒を頼れという、天のお告げだろうか。
 だがお照の期待は温操舵手の第一声によって見事に砕かれた。

「よくも騙してくれたな。鬼頭鮫衛門などという毒味役は存在しない」

「は……?」

 お照は幾度も目を瞬いた。

「そんなはずありません。わたしは何度も会っています」

 昨日だってあの男はわざわざ耕地屋にやって来たのだ。

「毒味役は数名いたが、すべて別の名だった」

「ご冗談を」

 笑い飛ばしたかったが喉が引きつった。

「もし矢立と紙があったらお借りできませんか」

 不愉快そうに眉をしかめた温操舵手は、それでもお照に紙と矢立を貸してくれた。

「こんな顔です」

「……まったく役に立たぬな」

 お照がさらさらと描いて見せた鬼頭の顔は、勝川派の役者絵を踏んづけて団子にして煮付けにしたような出来だった。秋馬という絵の師匠がいるのにまったく上達していないのが口惜しい。
 おまけにどこか半兵衛に似た姿を描いてしまうのが、ますます気に入らない。

「我らに嘘を言ったのであろう」

「違います。鬼頭鮫衛門はいるのです」

「将軍の毒見役と言っていたが、かたりであろう」

「いいえ、鬼頭の手引きで千代田城に入れましたし、謁見の間で将軍さまとも会えました。毒味役でなかったとしても無役とは思えません。もしや小姓衆のひとりだったのかしら」

 千代田城のできごとを思い出すのは少々胸苦しい。
 そう言われれば、家斉公は鬼頭のことを『鬼役』とは言ったが『鬼頭』とは呼ばなかった。まさか、別の名前があるのだろうか。

「おまえが会ったのは本物の将軍なのか」

「え」

 まさか家斉が偽物だとは露も疑いはしなかった。もしそうであるなら、家斉公と面識のある女将やシャルルまでが壮大な悪戯をしたことになる。
 なんのために。
 ただお照を驚かせることを目的にした茶番劇?

「それはないです。ありえません」

 きっぱりと断言できる。
 まず御役の詐称で通り抜けられるほど千代田城の門番は甘くない。
 それに東半兵衛がいる。彼に証言してもらえば。と思い至ったところで、不在を思い出す。

 半兵衛さんの役立たず!

 お照は胸中で八つ当たりを叫んだ。

「鬼頭はよく西方弥勒のところに来るようだな。いいことを思いついた。トラ、お前に任務を与える」

 温操舵主はトラを睨み据えた。

「耕地屋に潜り込み、西方弥勒の従者になれ」

「な、なんですって」

 女将の意向も訊ねず、勝手なことを決められてたまるものか。

「わたしは首席侍女として、受け入れを拒否します。余っている部屋なんかないんですから」

「鬼頭の件でおまえの情報は信じられないとわかったのだ。トラは土間で寝ればいい」

 まずい、言い負かされそうだ。

「土間で寝ろだなんて」

「それぐらいの覚悟はできている、そうだなトラ」

 温操舵手がトラに目を向けると、トラは困ったようすでうつむいた。

「トラ……?」

「土間はかまわない、でも……吉原は……穢れてる」

「吉原に居を移すのはいやか」

 温操舵手が問うと、トラは下を向いたまま小さくうなずいた。

 あまりの衝撃に、お照は額をおさえる。
 吉原者を蔑む人間は多い。吉原の女郎だけでなく、遊郭にぶらさがって生きる者も遊郭の内外に住まう者も、むろんお照も女将も、トラから見たら同じ吉原者なのだ。

「イヤなら帰ってください。こちらも歓迎なんてしないんだから」

 お照は席を立ち、外に出た。

「なにやってるんだろう……」

 蔦屋の件を相談して、あわよくば助けもらおうなどと虫のいいことを考えていた自分が恥ずかしい。
 鬼頭鮫衛門が存在しないとは、いったいどういうことなのだろう。不可解だ。

「なんでこんなときに半兵衛がいないのよ」

 いますぐ半兵衛を問い詰めたい。鬼頭鮫衛門は何者なのかと。
 もしや半兵衛も知らないのだろうか。それとも、半兵衛も鬼頭とぐるだったのだろうか。

「やはり鬼頭はお庭番なのでは……」とお照が呟いたとき、背後から肩を叩かれた。

「お照さん、よろしくお願いします」

 ふり向くとトラが立っていた。

「トラさん……」

「温操舵手の命令は絶対です」

 死を決したような蒼白な顔である。

「温操舵手に死ねと言われたら死ぬの?」

「……はい」

「そう、わかった。でも女将……西方弥勒の許可がおりるかどうかわからないのよ」

 女将は結社を利用したいだけだ。トラを歓迎しないだろう。すげなく追い返すにちがいない。
 同時に、お照が勝手に温操舵手と会っていたこともバレる。憂鬱だ。

「この木戸を通って一軒目が総菜屋、小芋の煮っ転がしが名物。そこは代筆屋。字の書けない遊女の代わりに気の利いた文を書いたりしてくれるのよ」

 耕地屋までの短い帰路、お照は丁寧に吉原の町並みを紹介した。
 少しばかりトラに対して意地悪な気持ちがあったことは否定できない。

「ちゃんと覚えてね。とても親切でいい人たちなの。あの店の団子は絶品よ。隣の小間物屋は品揃えは少ないけど質はいいの。金物修理もしてくれるのよ。その隣は堕胎医……」

 ふいに堕胎医の歪んだ顔が脳裏によみがえる。

「ああ、吉原らしいね」

 悔しいがそのとおりだ。トラが蔑む吉原者の堕胎医、その堕胎医が蔑む南蛮人の女将。その女将の侍女である自分。

 隣家の世話好き女、千代を忘れずに覚えておいてと念押しして、お照は耕地屋の玄関戸に手をかけた。
 どうせすぐに追い出されるのだから、親切に教えてあげてもなんの意味もないのだけど。
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