江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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八十三、 トラ、倒れる

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「あら、それならトラさん、あなたはただの侍女でよろしいかしら。首席侍女であるお照さんを敬ってね」

 耕地屋につくなり、トラは先攻で泣きついた。
 道場から叩き出されてどこも行くところがない、とおいおい泣き出したトラを、女将はあっさりと受け入れた。温操舵手に言い含められた作戦だったのだろう。
 しまったと思ったときには、もう遅かった。

「よかったわねお照さん、これで『首席』がイツワリではなくなったわ」

「お、女将さん、だめですよ、そんな安易に……」

 そんな安易に人を信じてはいけませんよ、と言うつもりだったのに、なにかが引っかかった。
 女将は他人を安易に信じる人だっただろうか。
 玄関戸はいつもしっかりと心張り棒をしていた。人付き合いも極狭い範囲に限っていた。奉公人を受け入れたのもお照が最初だと聞いた。

 気づいたのはごく最近だ。耕地屋の窓は格子窓になっている。格子窓以外はねずみが通れる程度の小窓しかない。この家を用意した幕府の意向なのだろう。女将とシャルルは幕府の賓客であると同時に人質でもあるからだ。緩やかな牢獄である。

 女将が牢獄を受け入れた理由はおそらく革命派を恐れてだろう。一年が無事に過ぎ、お照を奉公人として迎え入れるようになって、女将は変わってきたのだろうか。

 お照を雇う前から万寿屋や半兵衛などとは関わりはあったが必要最小限にすぎない。お照が紹介した人物を女将が受け入れるようになったのは大きな変化だ。だがそれはお照の影響なのだろうか。

 きっと違う。故国フランスでは、女将は人と親しく交わることを好んでいたのだ。友人もたくさんいたと聞く。
 本来は人を疑ったりする性格ではないのだ。菩薩にも似た善性を持つ。
 すばらしいことだ。
 でもいまは疑ってほしい。お照は女将に目線で念を送る。
 トラは温操舵手に死ねと言われたら死ぬ。命じられれば女将を殺すこともいとわないだろう。白蓮教が寄越した凶器のようなものだ。

 だがお照の懸念を女将には伝わらなかった。

「お照さん、わたくしたちはか弱いわ。いまは人手が必要よ」

「それはそうです。ですが……」

「ではトラさん、さっそくですけど働いてもらうわね。わたくしたち、水道尻のあたりに芝居の舞台を作っているところなの。お照さんのお父上が指揮をとってるからお手伝いをしてちょうだい。材木を運んだり切ったり磨いたり、仕事はたくさんあるわ。よろしくね」

 女将を監視する役目だったトラは、予想もしていなかった仕事を割り振られて呆然となった。

「ハイギョーした茶屋を改造して舞台にしているの。あちらの部屋に寝泊まりすればいいわ。ここの土間なんてとんでもない。ねずみにかじられたらいけないわ」

「あの……西方弥勒さまのお側で監視せよという温操舵手の……あ、ちがった。西方弥勒さまのお力になるようにと……」

 焦ったトラはしどろもどろになっている。

「ええ、ですから、お手伝いをよろしくね。せっかくですから、お芝居にも出てもらいましょうか。ふふふ、トラさんにふさわしい新しい仇役を脚本にねじ込みますわ。やはり大きな敵を倒してこそ盛り上がるのですわ」

 女将は創作意欲が湧いてきたと言い残して二階にあがってしまった。
 いまだ唖然としているトラを、お照は労るように声をかけた。

「案内しますよ、舞台」




 俄芝居の舞台なんて、祭りの牽き舞台くらいの大きさだろうとたかをくくっていたのだが、父が作ったのは千代田城の能舞台と同じくらいに立派だった。水道尻は仲之町の最奥である。往来を考慮しなくていい分、道を塞ぐように張りだしている。

「おお、助かるな。手が増えるなら屋根もつけようかな。いや、それより花道を付け足すか」

 絵図面を広げて、父は嬉しそうに検討をはじめる。生き生きと働いている姿は眩しかった。
 舞台だけでなく後背の茶屋にまで手を入れたようだ。
 経営難で廃業した茶屋は維持費もケチっていたらしく、前に見たときは障子にシミが浮いていた。壁も薄汚れていてどの座敷も暗かった。

「茶屋まで改修したの?」

 屋根の修繕、畳の張替え、鴨居の拵え、障子唐紙まで新しくなっている。父の器用さに改めて驚く。うらぶれた雰囲気が一変していた。

「ここに寝泊りするうちに気になったのさ。さすが吉原、仲之町に面した見世だけあって作りはしっかりしているし部屋数もある。このままじゃもったいないと思ってな。さっき張り替えたあの襖、松と鷹の絵でもあると豪華だと思わないか。と言ってもなあ、名のある絵師は金がかかるからなあ」

 呆れた。茶屋を自由に使えるのは俄芝居が終わるまでなのだ。その後は忘八組合にお返しする。ぴかぴかに磨き上げたところで全部無駄なのだ。
 とはいえ、久しぶりに父とゆっくりと話ができたことに安堵を覚えた。トラの紹介にかこつけて自然に話が出来たのはありがたかった。

 まさか女将はそこまで考えて……いや、それはないだろう。

 金槌やのこなどの大工道具を物珍しげに見ていたトラに父はかんなの使い方を教える。
 そのようすを見守りながら頭の片隅では鬼頭鮫衛門のことがずっと気になっていた。
 千代田城に確かめに行ったところで門前払いになるだけだろう。松平定信の上屋敷に行くのはどうだろうか。
 松平の上屋敷がどこにあるか実はお照は知らない。武家屋敷は防犯のために表札は出さないのだ。町人が用もなく武家地をうろつくことも禁じられている。

「おい、どうした」

 父の声にお照ははっと顔を上げた。
 目線の先に、腹をおさえたトラが九の字になって倒れていた。



 茶屋の一室に敷かれた布団にトラが横になっている。

「すんません、もう大丈夫です」

「だめですよ」

 体を起こそうとするトラをお照はとめた。

「父が医者を呼びに行ってますから、まだ横になっていてください」

「病気ではないんで……へーきです」

「いきなり倒れたんですよ。自覚のない、重い病かもしれません」

 よく見れば、顔色は悪いし足も浮腫んでいる。

「呼ぶならあの医者にしてくんせ」

「あの医者?」

 お照が聞き返すとトラはなんの抑揚もない声で「堕胎医」と答えた。
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