江戸のアントワネット

あかいかかぽ

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八十五、 消えたシャルル

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 老人と童女を急かして目的地についたときには三人とも息があがっていた。
 額に滲んだ汗を手の甲で拭う。
 お照が吉原に来たとき、空を埋め尽くしていた桜花はとうにない。季節はすでに夏だ。

「なんの用だ」

 勝手に玄関を開けて乗り込んできたお照に、堕胎医は渋い顔だ。案の定、堕胎医のそばにトラがいた。

「トラさんに話があるんです」

 トラは奥に逃げ込む。
 お照は追いかける。

「なにをするんだ、乱暴者め。わしの患者だぞ」

 堕胎医はお照の肩を掴んで引き剥がそうとした。そのあいだにトラは部屋の端にあった衝立の後ろに隠れた。

「トラさん、そこで聞いてください。まずはお義父さんの言葉を」

 老人は、お照と揉みあっている堕胎医を押しのけて部屋に入り、畳に正座をして背筋を伸ばすと、衝立に向かって土下座をした。

「すまん、トラ、このとおりだ」

 老人の姿は衝立が邪魔をしてトラには見えない。だがなにかを感じたのだろう、衝立の向こうで息を飲む音が聞こえた。

「いたらぬ義父を許してくれ」

「……あなたとはもう赤の他人なので……」

「酷いことを言ってすまんかった。わしは赤の他人だとは思ってないが、おまえさんがわしをそう思いたい気持ちはわかる。だがな、ミヨはおまえの大事な娘でわしの大事な孫娘だ」

「いまさらそんなこと言われても。おらのような虚弱な嫁が生んだ娘なんて義父さんには不満なはず。息子ならまだしも……」

「憎まれ口を言って悪かった。もう二度と言わないと約束する。だから堕ろすのはやめてくれんか」

「次は男の子かもしれないからか? おらは嫌だ。またがっかりされるのは」

 トラの声が震えている。

「おらは見かけ倒しだ。ミヨんときも倒れたり食えなくなったり、うっかり死にかけた。情けねえ」

 トラはこどものように泣きじゃくった。
 お照は衝立を少しだけ横にずらした。背を向けるようにして座るトラの横顔が見える。

「トラさんはどうして白蓮……いえ、道場に入ったの?」

 鼻を啜り、切れ切れにトラは答える。

「温操舵手は、拳法の達人だ。兄弟子には棒手裏剣、の名手もいる。憧れた、んだ。仲間思いの熱い、情にも心打たれた」

「本当は、体が丈夫になると、そう思ったからじゃないの?」

 刀槍不入の頑健な体になれると、当初は無邪気に信じていたのではないか。
義父がはっとなって顔をあげた。

「わしが心ない言葉を投げたせいで」

「違う。義父さんのせいじゃない」

 トラが衝立の影から出てくると、畳に額を擦りつけた。

「おらは貧乏小作の生まれだ。ほんとは名主の家に嫁に入れる身分じゃなかった。それを許してくれた義父さんには感謝してる。なのにろくに恩返しも出来ず不甲斐なくて、辛かった」

 義父とトラのふたりは土下座し合っている。

「……なんだこりゃ。もうみんな帰ってくれ」

 堕胎医が困り顔で頭を搔いている。

「これをやるから煎じて飲め」

 堕胎医が差し出した薬をお照は思わずはたき落とした。

「おい、なにすんだ。高直なんだぞ。ははあ、誤解したな。この薬は堕胎薬ではない」

「堕胎医が寄越す薬なんて信用できません」

 堕胎医は大きな溜息を吐いた。

「腐っても医者だ。堕ろせる時期が過ぎたら無事に産ませるのも仕事の内だ」

「あ、すみません……」

 眼前の堕胎医が、安産を願う医者でもあるのだと知って、お照は動揺した。

「いろんな女を診てきた。病のせいで子を宿せない女郎も多い。幾度か堕ろしたせいで一生産めなくなる女もいる。おまえさんのように安易に堕胎させろと飛び込んでこられても、こっちは迷惑なんだよ」

「……す、すみません」

 堕胎させろと言ってるのはトラだけであるが、堕胎医の家で主人そっちのけで大騒ぎしていたことは事実である。頭を下げざるを得ない。
 はたき落とした薬を急いで拾いあげる。

「ああいった症状は薬で和らげることはできる。無くなったらまた取りにきなさい。ただし次はちゃんと薬代をもらうぞ」

 トラを連れて茶屋に戻り、煎じ薬を飲ませた。
 疲れたのだろう、やがてトラはうとうとし始めた。穢れた吉原にいることも、温操舵主の命令を守ることも、妊娠していることも、トラの心と体に負荷をかけているのだ。

 老爺とミヨはトラが目を覚ますまでそばにいたいというので看病をまかせることにして、いったん耕地屋に戻ろうとお照が仲之町に出たときだった。

「お照さん、探しましたわ」

 ぶつかるように女将が駆け寄った。

「どうしたのですか。女将さんが走るところなんて初めて見ましたよ」

 女将は周囲を見回してあたりを警戒している。もともと透けるような女将の肌に青い影がまといついている。

「だれかに追われているのですか?」

 お照はいま出たばかりの茶屋に戻り、女将を内所に引き入れて玄関戸を閉めた。
 女将はもどかしそうに口を開いた。

「いなくなったのです、あの子が」

 女将の言う『あの子』とは、シャルルしかいない。

「女将、いるか」

 玄関戸が乱暴に開かれた。

「三浦屋に行ってみたがいなかったぞ。あと小僧が行きそうな場所はどこだ」

 現れたのは鬼頭だった。

「鬼頭鮫衛門!」

「なんだウニ頭か。おまえもシャルルを探すのを手伝え」

「あなたがなんで……」

「ちょっと目を離したすきにいなくなったらしい。気ままに遊びに出たのか、あるいは……」

 鬼頭が不快そうに舌打ちをした。

「シャルルは女将の言いつけを守る子です。無断で出かけたりしません。となると……」

「あの子はただのこどもではないわ。ルイ十七世陛下ですのよ!」

 女将は色を失って、よろめいた。
 鬼頭ががっしりとした腕で女将を抱き留める。

「母親であるあんたがしっかりしないでどうする。おい、気付けの酒はないか」

 人の気配で起きてしまったのか、トラが顔をのぞかせた。

「こどもが行方知れずになったって聞こえたけど、ほんとかい」

「トラさんは養生なさっていてくださ……あ……!」

 胸裡に膨れあがった疑念は、トラを視線で刺さずにはいられなかった。
 トラはなんのことかわからないようすでお照を見返したが急に怯えたようすで首を振る。

「ち、違うよ。あのかたはそんなこと、絶対……」

 温操舵主が結社の信徒を使ってシャルルを拉致したのではないか。
 お照の思考を察したらしいトラは、必死で『家族』をかばう。

 お照は外に駆け出した。

「どこへ行く、お照」

 鬼頭が後を追う。

「大門!」

 答える暇も惜しい。仲之町をゆったりと散策している遊客が邪魔だ。

「どいてどいて! どかないと蹴っ飛ばすよ!」
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