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八十六、 会所の提案
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面番所も四郎兵衛会所も怪しい者は見ていないという。
「貸本屋とか道具屋とかの大きな箱を背負った者は出て行きませんでしたか」
お照の剣幕に怯えながらも、みな、否と答えた。
幕府の許可なくして女将とシャルルは大門の外に出られない。異人の子は目立つ。連れ出すには大きな荷物に隠すしかない。
「となると、まだ吉原の中かもしれんな」
鬼頭は番屋の同心に捕り方を手配しろと命じた。
「それは困りますねえ」
四郎兵衛会所はやれやれといった口調だ。
「阿芙蓉取り締まりのときとはわけが違います。ガキひとりがいなくなったくらいでお役人に大挙されては吉原が野暮ったくなっちまう。任せてくれ」
「でも、人さらいと一緒かもしれないんです」
ことなかれの会所に任せるのは不安だった。人さらいが吉原のどこかに身を隠しているかもしれないのだ。会所が下手な動きをすればシャルルの命が危うい。
「回覧板でも持って行くふりをして全部の家を当たろう」
「あたしも手伝おうか」「おれも」
振り返ると隣家の千代と亭主が立っていた。叫び声をあげて飛び出していった女将が気になってついてきたらしい。他にも見覚えのある近隣住人が集っている。なかには堕胎医までいた。
「吉原のなかで人さらいなど、許せぬ」
人さらい同様の女衒が吉原に子を売りに来るのはよくても、吉原の子をさらうのは勘弁ならんと息巻く。そこにはお照にはよくわからない線引きがあるようだった。
会所と有志の面々は京町一丁目、京町二丁目、揚屋町、角町、江戸町一丁目、江戸町二丁目と手分けをして各家を訪ねてくれるという。
「見つかったら半鐘を鳴らして合図を送ることにする」
「半鐘? 火事とまぎらわしいだろ」
「カンカン、ッカカンってさ、お囃子みたいに、思わず踊りたくなるように鳴らすよ」
あっけにとられるほど円滑な手順で捜索隊が出来上がった。
もちろんのこと、お照も加わるつもりであったが、「女将と耕地屋で待っていろ」と鬼頭は顎をしゃくった。除け者にされているようで気分が悪い。だが女将に視線を転じてみると、いつにも増して青白い顔をしていた。女将の後ろには体調を壊しているトラまでついている。
「万寿屋にも三浦屋にもいなかったわ。あとは心当たりがないの……」
闇夜で灯火をなくしたかのように女将は狼狽えていた。
お照は思わず手を握っていた。手を離したら天に昇ってしまうのではないかと不安にかられたのだ。
放っておくわけにはいかない。シャルルを探すのは女将を耕地屋に送り届けてからにしよう。
「女将さん、ひとまず耕地屋へ」
「おらがつきそう」
トラが女将の手を引いた。
「それはならん。おぬし、何者だ」
鬼頭がトラの行く手を阻む。トラは睨み返した。
「あらたに侍女になったトラというもんだ。あんた……鬼頭いうんだってな。あんたこそ何者なんだい」
鬼頭とトラの視線がぶつかり合う。お照の脳裏に鍔迫り合いの幻が浮かんだ。
これはまずい。トラにとっても鬼頭にとっても、互いに得体が知れない存在だ。ここで殺し合いが起こってもおかしくはない。止めようにも女将を支えているだけで精一杯だ。
「自分がふたりいたらいいのに」
シャルルを探しに行きたい。だが女将をトラに任せるわけにはいかない。シャルルは温操舵手に攫われたのかもしれないのだから。
かといって鬼頭も信用できない。温操舵手によれば鬼頭鮫衛門という毒味役は存在しないのだ。
それに、申し合わせたような絶妙な間で鬼頭が現れたのはなぜなのだ。
白蓮教ではなく、鬼頭の筋書きだとしてもおかしくはない。
なにもかもがもあやしい。だれも信用できない。
こんな重大なときに半兵衛がいない。わたしはどうしたら──
「おい、しっかりしろ」
狼狽した鬼頭の声で目が覚める。
鬼頭が呼びかけたのはトラにたいしてだった。蒼白な顔のトラがぐらぐらと揺れている。
「しっかりしてください、トラさん」
「おまえは女将を。トラはわしが……う、うぬぬ」
鬼頭は気絶寸前のトラを背負い、必死で踏ん張っている。
早く耕地屋に逃げ込まないとみんな死んでしまう気がした。
「貸本屋とか道具屋とかの大きな箱を背負った者は出て行きませんでしたか」
お照の剣幕に怯えながらも、みな、否と答えた。
幕府の許可なくして女将とシャルルは大門の外に出られない。異人の子は目立つ。連れ出すには大きな荷物に隠すしかない。
「となると、まだ吉原の中かもしれんな」
鬼頭は番屋の同心に捕り方を手配しろと命じた。
「それは困りますねえ」
四郎兵衛会所はやれやれといった口調だ。
「阿芙蓉取り締まりのときとはわけが違います。ガキひとりがいなくなったくらいでお役人に大挙されては吉原が野暮ったくなっちまう。任せてくれ」
「でも、人さらいと一緒かもしれないんです」
ことなかれの会所に任せるのは不安だった。人さらいが吉原のどこかに身を隠しているかもしれないのだ。会所が下手な動きをすればシャルルの命が危うい。
「回覧板でも持って行くふりをして全部の家を当たろう」
「あたしも手伝おうか」「おれも」
振り返ると隣家の千代と亭主が立っていた。叫び声をあげて飛び出していった女将が気になってついてきたらしい。他にも見覚えのある近隣住人が集っている。なかには堕胎医までいた。
「吉原のなかで人さらいなど、許せぬ」
人さらい同様の女衒が吉原に子を売りに来るのはよくても、吉原の子をさらうのは勘弁ならんと息巻く。そこにはお照にはよくわからない線引きがあるようだった。
会所と有志の面々は京町一丁目、京町二丁目、揚屋町、角町、江戸町一丁目、江戸町二丁目と手分けをして各家を訪ねてくれるという。
「見つかったら半鐘を鳴らして合図を送ることにする」
「半鐘? 火事とまぎらわしいだろ」
「カンカン、ッカカンってさ、お囃子みたいに、思わず踊りたくなるように鳴らすよ」
あっけにとられるほど円滑な手順で捜索隊が出来上がった。
もちろんのこと、お照も加わるつもりであったが、「女将と耕地屋で待っていろ」と鬼頭は顎をしゃくった。除け者にされているようで気分が悪い。だが女将に視線を転じてみると、いつにも増して青白い顔をしていた。女将の後ろには体調を壊しているトラまでついている。
「万寿屋にも三浦屋にもいなかったわ。あとは心当たりがないの……」
闇夜で灯火をなくしたかのように女将は狼狽えていた。
お照は思わず手を握っていた。手を離したら天に昇ってしまうのではないかと不安にかられたのだ。
放っておくわけにはいかない。シャルルを探すのは女将を耕地屋に送り届けてからにしよう。
「女将さん、ひとまず耕地屋へ」
「おらがつきそう」
トラが女将の手を引いた。
「それはならん。おぬし、何者だ」
鬼頭がトラの行く手を阻む。トラは睨み返した。
「あらたに侍女になったトラというもんだ。あんた……鬼頭いうんだってな。あんたこそ何者なんだい」
鬼頭とトラの視線がぶつかり合う。お照の脳裏に鍔迫り合いの幻が浮かんだ。
これはまずい。トラにとっても鬼頭にとっても、互いに得体が知れない存在だ。ここで殺し合いが起こってもおかしくはない。止めようにも女将を支えているだけで精一杯だ。
「自分がふたりいたらいいのに」
シャルルを探しに行きたい。だが女将をトラに任せるわけにはいかない。シャルルは温操舵手に攫われたのかもしれないのだから。
かといって鬼頭も信用できない。温操舵手によれば鬼頭鮫衛門という毒味役は存在しないのだ。
それに、申し合わせたような絶妙な間で鬼頭が現れたのはなぜなのだ。
白蓮教ではなく、鬼頭の筋書きだとしてもおかしくはない。
なにもかもがもあやしい。だれも信用できない。
こんな重大なときに半兵衛がいない。わたしはどうしたら──
「おい、しっかりしろ」
狼狽した鬼頭の声で目が覚める。
鬼頭が呼びかけたのはトラにたいしてだった。蒼白な顔のトラがぐらぐらと揺れている。
「しっかりしてください、トラさん」
「おまえは女将を。トラはわしが……う、うぬぬ」
鬼頭は気絶寸前のトラを背負い、必死で踏ん張っている。
早く耕地屋に逃げ込まないとみんな死んでしまう気がした。
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